第8話「消えた停車駅」
第8話 消えた停車駅
――2013年11月17日 午後4時35分
日本国・青森県青森市 CLIB日本支部・青森臨時調査室
窓の外では、11月の冷たい雨が降り始めていた。
灰色の雲に覆われた青森市街は、まだ夕方だというのに薄暗い。濡れた道路を自動車が走り、街路樹の枝が北風に揺れている。
青森市内の古い事務所ビル。その2階に設けられたCLIBの臨時調査室では、3人の少女が机を囲んでいた。
十河雪乃、エレノア・アシュフォード、ソフィア・ベネット。
3人の前には、寝台特急カシオペアの編成図と事件現場の写真が広げられている。
英国から到着した2人は、上野から東北新幹線で新青森へ向かい、そこから自動車で調査室へ移動してきたばかりだった。
移動中にも事件資料には目を通していたが、実際の捜査に参加する前に、確認しておかなければならないことがあった。
「まず、現在の状況を整理します」
雪乃が口を開いた。
「被害者は高宮俊一さん、54歳。鉄道史研究家です。昨日、上野駅から寝台特急カシオペアに乗車し、今朝5時40分頃、個室内で倒れているところを発見されました」
エレノアは写真を手に取った。
室内の床に倒れた男性。その胸元には血が広がっている。
「胸部に刺し傷があるのね」
「はい。警察によると、鋭利な刃物で刺された可能性が高いそうです。ただし、正式な鑑定結果はまだ出ていません」
「凶器は?」
ソフィアが尋ねた。
「発見されていません。警察が客室や周辺設備を調べていますが、今のところ該当する刃物は見つかっていないそうです」
エレノアは写真を机に戻した。
「それで、問題の密室は?」
雪乃は編成図の一部分を指さした。
「被害者が利用していたのは、カシオペアスイートです。発見時、客室の扉には鍵がかかっていました」
「窓からの出入りは?」
「構造上、通常の方法では困難です」
「つまり、出入口は基本的に廊下側の扉だけ」
「はい。ただし、乗務員が非常時に解錠できる仕組みがあります」
エレノアは腕を組んだ。
「なら、鍵がかかっていたことだけで密室とは呼べないわね」
「私もそう考えています」
雪乃は頷いた。
「問題は、誰が、いつ、どのような方法で客室へ出入りしたのかです」
ソフィアは乗客名簿を見つめた。
「でも、列車の中なら、乗客全員が容疑者になる可能性もあるんだよね?」
「理屈の上ではそうです。ただし、客室への接近が確認できる人物は限られています」
雪乃は別の資料を取り出した。
「現在、警察が重点的に事情を聞いている人物は3人です」
机の上に、3枚の写真が並べられた。
1枚目は、30代ほどの女性。
2枚目は、20代半ばの男性。
そして3枚目は、乗務員の制服を着た中年男性だった。
「水城香織さん、34歳。高宮さんの知人です」
雪乃は最初の写真を指さした。
「次に、藤原健一さん、26歳。鉄道関係の資料を扱う出版社に勤めています。高宮さんとは仕事上の関係があったようです」
「昨日、あなたが口論を目撃した男性?」
エレノアが尋ねた。
「はい」
雪乃は頷いた。
「そして最後が、車掌の田辺正彦さん、48歳です。高宮さんの客室がある車両を担当していました」
ソフィアは写真を見比べた。
「みんな、被害者と接点があるんだね」
「ええ。ただし、現時点では誰も犯人と断定できません」
雪乃は3枚の写真を重ねた。
「警察から現場確認の許可が出ています。これから三上警部と合流して、客室を調べる予定です」
エレノアは立ち上がった。
「ようやく実物を見られるのね」
「ええ。ただし、証拠には触れないでください。現場は警察が管理しています」
「分かっているわ」
ソフィアも鞄を持った。
「私は乗客の話を聞いてみたいな。特に、停車したって言っている人の」
雪乃は頷いた。
「その方にも、改めて話を聞けるようお願いしてあります」
エレノアは窓の外を見た。
雨は少しずつ強くなっていた。
「密室と、存在しない停車駅……」
彼女は小さく呟いた。
「どちらかが嘘なのか。それとも、私たちが何かを見落としているのか」
雪乃は時刻表を閉じた。
「それを確かめに行きましょう」
――同日 午後5時10分
青森県内・臨時留置中の寝台特急「カシオペア」
冷たい雨が、銀色の車体を濡らしていた。
事件の発覚後、カシオペアの編成は警察と鉄道関係者の管理下に置かれていた。乗客の移動や事情聴取は段階的に進められ、事件現場となった車両への立ち入りは厳しく制限されている。
ホームには数人の警察官が立ち、車両の出入口には規制線が張られていた。
「来たか」
3人を迎えたのは、青森県警の三上修一警部だった。
50代の男性で、短く整えた髪と鋭い目つきが印象的だった。
「三上警部。お待たせしました」
雪乃が頭を下げた。
「英国からの協力者も一緒か」
「はい。エレノア・アシュフォードさんと、ソフィア・ベネットさんです」
「よろしくお願いします」
ソフィアは丁寧に頭を下げた。
エレノアも軽く会釈した。
三上警部は2人を見つめた。
「君たちも16歳だと聞いているが……」
「ええ」
エレノアが答えた。
「年齢より、観察した内容で判断していただけると助かるわ」
三上警部は一瞬だけ目を丸くした。
そして、苦笑した。
「なかなか強気だな」
「本人はいつもこうなんです」
ソフィアが小声で言った。
「聞こえているわよ、ソフィア」
雪乃は2人のやり取りを見て、わずかに表情を緩めた。
三上警部は咳払いをした。
「さて、現場だが、鑑識の初動作業は終わっている。写真撮影と主要な証拠の採取も済んだ。ただし、現場を荒らさないようにしてくれ」
「承知しました」
雪乃が答えた。
「それと、遺体はすでに搬送してある。室内の状態は発見時の写真と照らし合わせて確認してほしい」
3人は警部に続いて車内へ入った。
狭い廊下には、独特の静けさが漂っていた。
昨日まで乗客たちの笑い声が響いていた豪華寝台列車は、今や事件現場となっている。
ソフィアは窓の外を見た。
雨粒がガラスを伝い、ゆっくりと流れ落ちていく。
「……昨日の夜、ここで誰かが殺されたんだね」
雪乃は小さく頷いた。
「はい。だからこそ、残されたものを正確に調べなければなりません」
三上警部が立ち止まった。
「ここだ」
目の前には、木目調の扉があった。
高宮俊一が最後の夜を過ごした客室。
その扉が、静かに開かれた。
――同日 午後5時20分
寝台特急「カシオペア」・事件現場の個室
客室の中には、わずかに消毒薬の匂いが残っていた。
大きな窓の向こうには、雨に濡れたホームが見える。室内にはソファと小さなテーブルがあり、壁際には旅行鞄を置くための空間が設けられていた。
床には、遺体が発見された位置を示す目印が残されている。
エレノアは入口で足を止めた。
「……思っていたより狭いわね」
「列車の個室ですから」
雪乃が答えた。
「ですが、通常の寝台車と比べれば十分に広い部類です」
エレノアは室内を見渡した。
扉、窓、テーブル、寝台設備。
それぞれの位置を、頭の中で組み立てていく。
「高宮さんは、どこで倒れていたの?」
三上警部は床の目印を指さした。
「ここだ。胸部に刺し傷があり、仰向けに近い姿勢で倒れていた」
「争った形跡は?」
「大きなものはない。家具が倒れた様子もなかった。ただし、テーブルの上に置かれていた紙類の一部が床に落ちていた」
エレノアはしゃがみ込み、床を見つめた。
「……傷が1か所だけなら、相手に警戒していなかった可能性もあるわね」
「そうだな」
三上警部が答えた。
「ただし、断定はできん。突然襲われた可能性もある」
ソフィアは室内を見渡した。
「この部屋に、犯人が隠れられる場所はあるんですか?」
「大人が長時間隠れられる場所は、ほとんどない」
三上警部が答えた。
エレノアは扉の前へ戻った。
「施錠装置を見せていただける?」
三上警部は頷いた。
「触らずに確認するだけなら構わん」
エレノアは扉を注意深く観察した。
金属製の部品。取っ手の周辺に残る細かな擦り傷。扉と枠のわずかな隙間。
「この傷は、いつできたもの?」
「まだ分からん。鑑識も確認しているが、使用による傷の可能性がある」
「そう」
エレノアは少し考えた。
「この客室は、乗客が中から鍵をかけられる。そして、乗務員は非常時に外から開けられる」
「そのとおりだ」
雪乃が答えた。
「でも、発見時には施錠されていたのよね?」
「はい」
「乗務員が鍵を使った記録は?」
三上警部が資料を開いた。
「事件発覚時の解錠については確認している。それ以前に非常解錠が行われたという報告はない」
エレノアは扉を見つめた。
「報告がないことと、使われていないことは同じではないわ」
三上警部は頷いた。
「その点は警察でも調べている」
雪乃は手帳を開いた。
「乗務員の鍵の管理状況について、田辺車掌に確認したいと思います」
「分かった」
その時、ソフィアがテーブルを見つめていた。
「ねえ、エレノア」
「何?」
「このテーブル、時計が置いてあったんだよね?」
「ええ」
ソフィアは写真を指さした。
「でも、時計の位置が少し不自然じゃない?」
エレノアは写真を受け取った。
銀色の懐中時計は、テーブルの端に置かれていた。
そのすぐ横には、古い時刻表が広げられている。
「……どうしてそう思うの?」
「もし倒れる直前まで時計を見ていたなら、もっと手の届きやすいところに置きそうだなって」
エレノアは写真を見つめた。
「確かに、考える価値はあるわね」
雪乃が尋ねた。
「犯人が置いた可能性ですか?」
「それもある。でも、今は決めつけない方がいいわ」
エレノアは時計の写真を拡大した。
針は午前2時17分を指している。
文字盤の下には、小さな秒針があった。
「……秒針は、何秒の位置で止まっているの?」
三上警部は鑑識資料を確認した。
「12秒付近だそうだ」
「時計の内部は調べた?」
「鑑識へ回してある。結果はまだだ」
エレノアは写真を机に戻した。
「なら、時計については結論を急げないわね」
雪乃は頷いた。
「はい」
エレノアは再び室内を見渡した。
扉には鍵がかかっていた。
窓からの出入りは困難。
そして、凶器は消えている。
しかし、彼女の関心は、密室そのものとは別の場所へ向かい始めていた。
「……雪乃」
「はい?」
「この部屋で人を刺した場合、犯人の衣服には血が付く可能性が高いわよね」
「状況によりますが、その可能性はあります」
「そう。なら、凶器だけでなく、犯人がどこで衣服を処理できたのかも調べるべきね」
三上警部が腕を組んだ。
「洗面設備や共用部分は確認中だ」
エレノアは頷いた。
「もう1つ。被害者が犯人を自分から部屋へ入れた可能性もある」
ソフィアが顔を上げた。
「知り合いだったってこと?」
「ええ。もしそうなら、鍵の問題は殺害後に発生したことになるわ」
雪乃は手帳に書き込んだ。
『密室の成立時刻と、殺害時刻を区別する』
その言葉を見たエレノアは、小さく微笑んだ。
「それよ」
「何でしょう?」
「私たちが最初に調べるべきこと」
エレノアは扉を見つめた。
「犯人がどうやって密室から出たかを考える前に、いつ密室になったのかを確かめる必要があるわ」
――同日 午後6時05分
寝台特急「カシオペア」・乗務員控室
田辺正彦車掌は、疲れた表情で椅子に座っていた。
48歳。長年、寝台列車の乗務を担当してきたという男性だった。
机の上には、乗務記録と運行関係の書類が置かれている。
三上警部の立ち会いのもと、雪乃が質問を始めた。
「田辺さん。昨夜、高宮さんとお話しされましたか?」
「はい。何度か」
「どのような内容でしたか?」
「最初は客室設備についてでした。その後、古い鉄道資料のことで少し質問を受けました」
雪乃は顔を上げた。
「古い鉄道資料?」
「ええ。昔の駅について尋ねられたんです」
「駅名を覚えていますか?」
田辺は少し考えた。
「……申し訳ありません。はっきりとは」
雪乃は頷いた。
「では、昨夜の午前2時頃について教えてください」
「午前2時……」
田辺は眉をひそめた。
「その頃は、乗務員の控室にいました」
「列車が停車した記憶はありますか?」
「ありません」
「本当に、一度も?」
「少なくとも、私が把握している限りでは」
雪乃は時刻表を開いた。
「運行記録でも、その時間帯に臨時停車した記録はありません」
「そうでしょう。私も確認しました」
エレノアが口を開いた。
「でも、乗客の中には停車したと証言している人がいるそうね」
田辺は少し困った表情になった。
「ええ。私も聞きました」
「どう思う?」
「夜行列車ですから、眠気で勘違いされた可能性はあると思います」
ソフィアが尋ねた。
「停車していなくても、止まったように感じることはあるんですか?」
「速度が落ちた時や、周囲の景色が見えない時には、そう感じる方もいらっしゃいます」
雪乃は頷いた。
「では、午前2時17分頃に減速した記録はありますか?」
「それについては、運転関係の記録を確認する必要があります」
田辺は答えた。
「私が管理しているのは、主に車内の乗務記録ですから」
雪乃は手帳に書き込んだ。
「分かりました。もう1つ、確認させてください」
「はい」
「昨夜、乗務員用の解錠手段が使われたことはありますか?」
田辺の表情がわずかに変わった。
「……非常時のものですか?」
「はい」
「少なくとも、私が把握している範囲ではありません」
「管理状況は?」
「所定の手順に従って管理しています」
雪乃は静かに尋ねた。
「その記録を確認させていただけますか?」
田辺は三上警部を見た。
三上警部は頷いた。
「警察で確認している。必要な範囲で共有しよう」
田辺は小さく息を吐いた。
「……分かりました」
ソフィアは、田辺の手元を見つめていた。
彼は質問に答えるたび、右手の指で机の端を軽く叩いていた。
緊張しているようにも見える。
しかし、事件が起きた列車の車掌なのだから、それ自体は不自然ではない。
ソフィアは少し迷った後、尋ねた。
「田辺さん」
「はい?」
「高宮さんは、どんな様子でしたか?」
「……どんな、とは?」
「昨日、話した時です。怒っていたとか、怖がっていたとか」
田辺はしばらく考えた。
「そうですね……」
そして、小さく答えた。
「何かを急いでいるようでした」
「急いでいる?」
「ええ。北海道に着く前に、どうしても確かめたいことがある、と」
雪乃は顔を上げた。
「何を確かめたいと?」
「そこまでは聞いていません」
田辺は首を振った。
「ただ、古い駅の名前を何度も確認していました」
雪乃は時刻表を見つめた。
古い駅。
存在しない停車駅。
そして、午前2時17分。
3つの言葉が、彼女の頭の中で結びつき始めていた。
――同日 午後6時50分
青森県内・警察臨時事情聴取室
次に3人が会ったのは、水城香織だった。
34歳。落ち着いた服装の女性で、昨日の食堂車では雪乃と会話を交わしている。
しかし、今の彼女に、あの時の穏やかな表情はなかった。
顔色は悪く、両手を膝の上で固く握りしめている。
「水城さん。お疲れのところ、申し訳ありません」
雪乃が声をかけた。
「……十河さん」
水城は顔を上げた。
「昨日の女の子ね」
「はい。こちらは調査に協力しているエレノアさんとソフィアさんです」
2人は軽く頭を下げた。
水城も小さく会釈した。
「高宮さんのことで、いくつかお聞きしたいことがあります」
雪乃が言った。
「……分かりました」
水城は答えた。
ソフィアは、できるだけ柔らかな声で尋ねた。
「高宮さんとは、長いお付き合いだったんですか?」
「……5年ほど前からです」
「お仕事で?」
「ええ。私は資料整理の仕事をしていて、高宮先生の研究を手伝っていました」
ソフィアは頷いた。
「どんな研究だったんですか?」
「日本の鉄道史です。特に、廃止された路線や駅について調べていました」
雪乃が顔を上げた。
「廃止された駅?」
「はい」
水城は頷いた。
「昔の地図や時刻表、鉄道会社の内部資料を集めていたんです」
エレノアが尋ねた。
「その研究には、何か問題があったの?」
水城は視線を落とした。
「……ありました」
室内に沈黙が落ちた。
「先生は、ある資料を見つけたんです」
「どのような?」
「古い鉄道時刻表です」
雪乃は静かに尋ねた。
「その時刻表には、何が書かれていたのですか?」
水城は唇を噛んだ。
「……存在しない駅の名前です」
ソフィアが息を呑んだ。
「存在しない駅?」
「ええ。現在の路線図にも、正式な鉄道史の記録にも載っていない駅です」
エレノアは腕を組んだ。
「廃駅ではなく、記録そのものが見つからない?」
「そうです」
水城は答えた。
「先生は、その駅が実在した証拠を探していました」
雪乃は机の上に写真を置いた。
古い時刻表の一部分。
赤いインクで囲まれた駅名。
「……この駅ですか?」
水城の顔色が変わった。
「……それ」
彼女は写真を見つめた。
「先生が持っていたものです」
雪乃は静かに頷いた。
「駅名について、何かご存じですか?」
水城は少し迷った。
そして、首を振った。
「……詳しくは」
ソフィアは、その反応を見逃さなかった。
水城は駅名を見た瞬間、驚いたのではない。
何かを恐れるような表情を浮かべていた。
「水城さん」
ソフィアは優しく声をかけた。
「無理に全部話さなくても大丈夫です。でも、もし高宮さんが何かを心配していたなら、教えていただけませんか?」
水城はゆっくりと顔を上げた。
「……先生は、誰かに監視されていると言っていました」
雪乃の表情が変わった。
「監視?」
「はい。研究資料を調べ始めてから、知らない人間が周囲をうろつくようになったと」
エレノアが尋ねた。
「その人物の特徴は?」
「分かりません。先生も、詳しくは話してくれませんでした」
水城は小さく息を吐いた。
「でも、今回の旅行には理由があったんです」
「理由?」
ソフィアが尋ねた。
「先生は、北海道へ向かう途中で、あることを確認したいと言っていました」
雪乃は静かに尋ねた。
「それは、列車の運行に関係することですか?」
水城は頷いた。
「……そうだと思います」
そして、震える声で続けた。
「先生は、こう言っていました」
水城は一度、目を閉じた。
「『あの駅は、今でも列車を待っている』と」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
――同日 午後7時35分
CLIB日本支部・青森臨時調査室
夜の青森市には、冷たい雨が降り続いていた。
調査室へ戻った3人は、机の上に集めた資料を整理していた。
雪乃は鉄道時刻表を開き、事件当夜の運行経路を確認している。
エレノアは客室の写真を見つめ、ソフィアは聞き取りの記録をまとめていた。
「……水城さん、何かを隠していると思う」
ソフィアが口を開いた。
エレノアは顔を上げた。
「理由は?」
「駅名の写真を見せた時、すごく怖がっていたの。それに、詳しくは知らないって言いながら、先生が監視されていたことは話してくれたでしょう?」
「なるほど」
エレノアは頷いた。
「でも、隠し事があるからといって、殺人に関わっているとは限らないわ」
「うん。それは分かってる」
ソフィアは答えた。
「ただ、まだ話せないことがあるように感じたんだ」
雪乃は手帳を閉じた。
「その点については、私も同感です」
エレノアは机の上の時刻表を見た。
「それで、雪乃。列車の運行記録はどう?」
「今のところ、午前2時17分に臨時停車したという記録はありません」
「減速は?」
「運転関係の詳しい記録を照会しています。まだ回答待ちです」
エレノアは頷いた。
「なら、停車したという証言を詳しく調べる必要があるわね」
「はい。実は、証言した乗客の方から、追加の話を聞くことができました」
雪乃は1枚の紙を取り出した。
「証言者は、60代の男性です。事件当夜、午前2時頃に目を覚ましたそうです」
ソフィアが尋ねた。
「何か音がしたの?」
「はい。列車の揺れが弱くなったので、窓の外を見たそうです」
雪乃は続けた。
「すると、窓の向こうにホームのようなものが見えた、と」
エレノアは目を細めた。
「ホームのようなもの?」
「ええ。証言者自身も、駅だったとは断言していません」
「それで?」
「照明がいくつかあり、細長い屋根のようなものが見えたそうです」
ソフィアが尋ねた。
「駅名標は?」
「見ていないそうです」
エレノアは腕を組んだ。
「それだけなら、駅ではなく別の施設だった可能性もあるわね」
「はい」
雪乃は頷いた。
「鉄道施設の中には、旅客駅以外にも、保守作業用の設備や留置線などがあります」
「なるほど」
エレノアは資料を見つめた。
「つまり、列車が停車したという証言と、駅のホームが見えたという証言は、分けて考える必要があるわ」
「そのとおりです」
雪乃は答えた。
「さらに、証言者は時計を確認していません」
ソフィアが顔を上げた。
「じゃあ、午前2時17分だったとは限らない?」
「はい。本人は午前2時頃だったと記憶していますが、正確な時刻は分かりません」
エレノアは小さく微笑んだ。
「重要なことね」
雪乃は時刻表を指さした。
「この事件では、複数の情報が午前2時17分という時刻に結びつけられています。しかし、それぞれの情報が独立して正しいとは限りません」
ソフィアは頷いた。
「時計が止まっていたから、みんなその時間に何かあったと思ってるのかもしれないね」
「ええ」
エレノアは答えた。
「犯人がそれを狙った可能性もあるわ」
雪乃は少し考えた。
「……それなら、時計を止めた理由は、実際の死亡時刻を隠すためでしょうか」
「可能性の1つね」
エレノアは答えた。
「でも、もう1つ考えられる」
「何でしょう?」
「犯人が、私たちに特定の時刻を意識させたかった場合よ」
雪乃は黙って時刻表を見つめた。
午前2時17分。
存在しない停車駅。
そして、被害者が持っていた古い時刻表。
何かがつながりかけている。
しかし、まだ決定的な証拠が足りなかった。
その時、調査室の電話が鳴った。
雪乃が受話器を取った。
「はい。十河です」
数秒後、彼女の表情が変わった。
「……分かりました。すぐ確認します」
雪乃は電話を切った。
エレノアが尋ねた。
「何か分かったの?」
「三上警部からです」
雪乃は答えた。
「高宮さんの所持品について、追加の確認結果が出たそうです」
「何が見つかったの?」
ソフィアが尋ねた。
雪乃は1枚の資料を受け取った。
そこには、古い時刻表の写真があった。
「……時刻表です」
エレノアは顔を上げた。
「それなら、すでに見ているでしょう?」
「はい。でも、今回分かったのは、時刻表の裏側です」
雪乃は写真を机に置いた。
古びた紙の裏面。
そこには、鉛筆で小さな文字が書かれていた。
『02:17』
その下には、さらに別の文字があった。
エレノアは写真を覗き込んだ。
「……これは?」
雪乃は静かに答えた。
「駅名のようです」
ソフィアは息を呑んだ。
「……存在しない駅の?」
「おそらく」
雪乃は頷いた。
しかし、エレノアは別の部分を見つめていた。
「……待って」
「どうしました?」
雪乃が尋ねた。
エレノアは写真の右下を指さした。
「ここよ」
そこには、ほとんど消えかけた小さな印があった。
円形の図案。
その内部には、複雑に交差する線が描かれている。
時計の文字盤と、迷路を組み合わせたような紋章だった。
ソフィアの表情が変わった。
「……エレノア」
「ええ」
エレノアは静かに答えた。
「見覚えがあるわ」
それは、以前の事件でも目にした紋章だった。
1888年のロンドンで起きた倉庫火災。
その関係資料に残されていた、時計と迷宮の印。
そして、CLIB自身の紋章にも似た図案。
雪乃は2人を見つめた。
「……何か、ご存じなのですか?」
エレノアは写真から目を離さなかった。
「以前、別の事件で同じような印を見たことがあるの」
「別の事件?」
「ええ。19世紀のロンドンで起きた事件よ」
雪乃は驚いた表情を浮かべた。
「……時代も国も違う事件に、同じ紋章が?」
「まだ同じものと決まったわけではないわ。でも、偶然として片づけるには気になる」
ソフィアは小さく頷いた。
「私も覚えてる。あの資料にあった印だよね」
エレノアは答えた。
「そうよ」
雪乃は写真を見つめた。
古い鉄道時刻表。
午前2時17分。
存在しない駅名。
そして、時計と迷宮の紋章。
彼女は静かに呟いた。
「……高宮さんは、何を調べていたのでしょう」
エレノアは答えなかった。
ただ、写真の中の小さな紋章を見つめていた。
これまで別々に見えていた事件の背後に、何か共通するものが存在するのではないか。
そんな疑念が、彼女の胸の中で少しずつ大きくなっていた。
しかし、今はまだ推測にすぎない。
エレノアは写真を机に戻した。
「……まずは、高宮さんを殺した犯人を見つけましょう」
雪乃は頷いた。
「はい」
ソフィアも手帳を閉じた。
「それから、この紋章のことを調べるんだね」
「ええ」
エレノアは答えた。
「でも、もしかすると……」
彼女は言葉を止めた。
「もしかすると?」
ソフィアが尋ねた。
エレノアは窓の外を見た。
雨に濡れた青森の街並み。
遠くには、夜の闇が広がっている。
「……この事件は、私たちが思っているより、ずっと古い秘密につながっているのかもしれないわ」
雪乃は時刻表を閉じた。
その表紙には、長い年月を経た紙の傷みが残っていた。
そして、赤いインクで囲まれた、存在しない駅の名前。
午前2時17分。
その時刻が何を意味するのか。
まだ、誰にも分からなかった。
――第8話 完




