第5話 「死者の足跡と、2つの世界」
第5話 死者の足跡と、2つの世界
――1891年11月22日 午前10時35分
並行世界E-1891
英国・ロンドン東部
ブラックウッド邸・使用人用台所
「事件を解くには、まずその人がどんな人生を送っていたのかを知らなきゃ」
ジャンヌ・モローは、そう言って紅茶のカップを置いた。
16歳。
短く整えられた栗色の髪と、穏やかな茶色の瞳を持つフランス人少女。
彼女はCLIB欧州事件調査部に所属する探偵であり、今回のホワイトチャペル資産家殺害事件を先行して調査していた。
エレノア・アシュフォードは、そんなジャンヌを興味深そうに見つめていた。
「……それで、あなたは事件現場ではなく台所を調べていたの?」
「ええ」
ジャンヌは頷いた。
「ここには、この屋敷で働く人たちが集まるから」
「使用人たちの証言を集めるため?」
「それもあるわ。でも、それだけじゃないの」
ジャンヌは台所を見渡した。
大きな調理台。
壁に掛けられた銅製の鍋。
暖炉のそばに置かれた木製の椅子。
そして、隅には使い込まれた長靴が並んでいた。
「この屋敷では、主人と使用人がまったく違う生活を送っているのよ」
ジャンヌは静かに続けた。
「主人は暖かい部屋で食事をして、使用人は朝早くから夜遅くまで働く。そういう暮らしの中で、何が起きていたのかを知りたいの」
エレノアは腕を組んだ。
「……それが犯人の特定につながると?」
「ええ。少なくとも、犯行の理由を知る手がかりにはなると思う」
セシル・ルノワールが微笑んだ。
「Très bien。実にジャンヌらしい考え方ですね」
ソフィア・ベネットも頷いた。
「私も、そういう調べ方は大切だと思う」
エレノアは少し考えた。
「……否定はしないわ。ただ、動機だけでは犯人を証明できない」
「もちろん」
ジャンヌは穏やかに答えた。
「だから、あなたたちにも来てもらったのよ」
その返答に、エレノアはわずかに微笑んだ。
「……なるほど。気が合いそうね」
ソフィアは2人を見比べた。
「考え方は全然違うのに?」
「違うからこそ、面白いのよ」
エレノアは答えた。
ジャンヌも小さく笑った。
その時、台所の奥から年配の女性が戻ってきた。
白いエプロンを身につけた、50代ほどの女性だった。
「お嬢さん方、お茶のお代わりはいかがですか?」
「ありがとうございます、ミセス・カーター」
ジャンヌは丁寧に答えた。
「ですが、その前に、もう少しお話を伺ってもよろしいですか?」
女性は頷いた。
「ええ。私に分かることでしたら」
ジャンヌは手帳を開いた。
「ブラックウッドさんは、最近どのような様子でしたか?」
ミセス・カーターは少し考えた。
「……旦那様は、ここ数週間ずっと苛立っておられました」
「何か理由が?」
「港の仕事で揉め事があったようです」
エレノアが顔を上げた。
「港?」
「ええ。旦那様は貿易商でしたから」
女性は続けた。
「倉庫の所有権や、昔の契約書について、何度もお客様と口論なさっていました」
ジャンヌは静かに頷いた。
「そのお客様のお名前は?」
「……確か、リードという名前だったような」
4人の表情が変わった。
セシルが尋ねた。
「トマス・リードですか?」
ミセス・カーターは驚いた。
「どうして、その名前を?」
エレノアは静かに答えた。
「今回の事件で、重要な人物だからです」
女性は不安そうに胸元で手を組んだ。
「……そうですか」
ジャンヌは優しく尋ねた。
「怖がらなくても大丈夫ですよ。私たちは、何が起きたのかを知りたいだけです」
女性は小さく頷いた。
「……旦那様は、その方の名前を聞くと、ひどく怒っておられました」
「なぜ?」
ソフィアが尋ねた。
「詳しいことは分かりません。ただ……」
女性は言葉を切った。
「ただ?」
ジャンヌが促した。
「3年前の火事について、何か言い争っていたことがあります」
エレノアの瞳が鋭くなった。
「……1888年の倉庫火災ね」
ミセス・カーターは頷いた。
「ええ。あの火事で、何人かの労働者が亡くなったそうです」
ジャンヌは静かに手帳へ記録した。
「ありがとうございます」
女性は小さく溜息をついた。
「旦那様は、昔から仕事には厳しい方でした。でも……」
「でも?」
ソフィアが尋ねた。
「……最近は、何かを恐れているようにも見えました」
ジャンヌはその言葉を聞き逃さなかった。
「恐れている?」
「ええ。夜になると、何度も窓の外を確認しておられました」
エレノアは静かに呟いた。
「……誰かに見張られていると思っていたのかもしれないわね」
セシルは頷いた。
「あるいは、過去の秘密が明らかになることを恐れていたのかもしれません」
ジャンヌは紅茶のカップを置いた。
「……まずは、その火事について調べる必要がありそうね」
エレノアは立ち上がった。
「その前に、現場を見せてもらえる?」
「もちろん」
ジャンヌは微笑んだ。
「ちょうど、案内しようと思っていたところよ」
――同日 午前11時10分
ブラックウッド邸・2階書斎
書斎は、屋敷の2階にあった。
重厚な木製の扉。
壁一面の本棚。
中央には大きな執務机。
そして、通りに面した窓が2つ。
室内には、古い紙と葉巻の匂いが残っていた。
扉の前には制服姿の警察官が立っていた。
「モロー嬢。お戻りですか」
警察官が声をかけた。
「ええ。調査員の仲間を連れてきました」
ジャンヌは答えた。
「現場を確認してもよろしいでしょうか?」
「構いません。ただし、物には触れないでください」
「もちろんです」
4人は書斎へ入った。
エレノアは一歩足を踏み入れると、すぐに室内を見渡した。
机。
椅子。
暖炉。
窓。
絨毯。
そして、扉の鍵。
「……なるほど」
彼女は小さく呟いた。
ソフィアが尋ねた。
「もう何か分かったの?」
「まだよ」
エレノアは答えた。
「でも、興味深い点はいくつかあるわ」
セシルは扉を観察した。
「施錠方法は?」
ジャンヌが説明した。
「内側から鍵をかける仕組みよ。鍵は、被害者の上着のポケットから見つかったそうなの」
「……鍵がポケットに?」
エレノアが尋ねた。
「ええ」
ジャンヌは頷いた。
「警察が扉を破った時、鍵穴には何も入っていなかった」
エレノアは扉へ近づいた。
鍵穴は古い真鍮製。
鍵を回すと、金属製の閂が扉の枠へ差し込まれる構造だった。
「……扉の下に隙間はある?」
「ほとんどないわ」
ジャンヌは答えた。
「絨毯が敷かれているから」
エレノアは床を見た。
厚い絨毯が扉のすぐ内側まで伸びている。
「なるほど……」
彼女は手帳を取り出した。
セシルは窓へ向かった。
「窓の鍵は?」
「両方とも内側からかかっていたそうです」
ジャンヌが答えた。
「外側には雨樋があるけれど、足場として使うには不安定ね」
エレノアは窓を観察した。
窓枠には薄い埃が積もっている。
しかし、右側の窓の下部だけ、埃が不自然に途切れていた。
「……ここ」
エレノアが指さした。
ソフィアが近づいた。
「何?」
「埃が拭き取られている」
「本当だ……」
エレノアは続けた。
「誰かが最近、この窓に触れた可能性があるわ」
セシルは頷いた。
「ですが、それだけでは外から出入りした証拠にはなりませんね」
「ええ」
エレノアは窓の外を見た。
2階の高さ。
下には小さな庭。
そして、壁に沿って細い雨樋が伸びている。
「……誰かがここから出入りしたなら、痕跡が残るはず」
ジャンヌが言った。
「庭の土は、昨日の雨でかなり柔らかくなっていたわ」
エレノアは頷いた。
「では、後で確認しましょう」
その時、ソフィアが机の上を見つめた。
「……ねえ」
「何?」
エレノアが振り返った。
「この机、何か変じゃない?」
机の上には、書類が数枚並んでいた。
インク壺。
羽根ペン。
そして、古い懐中時計。
ソフィアは時計を指さした。
「これ、止まってる」
エレノアは近づいた。
懐中時計の針は、午後8時47分を指していた。
「……なるほど」
セシルが尋ねた。
「事件発生時刻と近いですね」
「ええ」
ジャンヌは頷いた。
「警察は、被害者が倒れた時に時計が止まった可能性を考えているわ」
エレノアは首を振った。
「……それは、まだ分からない」
「どうして?」
ソフィアが尋ねた。
「時計は、衝撃以外でも止まるもの」
エレノアは答えた。
「ぜんまいが切れたのかもしれないし、誰かが意図的に止めたのかもしれない」
セシルは微笑んだ。
「つまり、時計が示す時刻を、そのまま死亡時刻と考えてはいけないということですね」
「ええ」
エレノアは頷いた。
「時刻は、時計そのものが証明してくれるわけではないもの」
ジャンヌは静かに呟いた。
「……それに、時計は被害者のものではないらしいの」
エレノアが顔を上げた。
「何ですって?」
「使用人たちに確認したけれど、ブラックウッド氏は普段、金色の懐中時計を使っていたそうよ」
ジャンヌは続けた。
「でも、机に置かれているのは銀色の時計」
エレノアは時計を見つめた。
銀色の蓋には、小さな傷が刻まれている。
そして、蓋の端には、かすかな文字が見えた。
「……何か刻まれているわね」
セシルが覗き込んだ。
「文字でしょうか?」
エレノアは目を細めた。
「……T.R.」
ジャンヌの表情が変わった。
「……トマス・リード?」
ソフィアは息を呑んだ。
「じゃあ、この時計は……」
「まだ断定はできないわ」
エレノアは答えた。
「でも、重要な手がかりになりそうね」
その時、廊下から足音が聞こえた。
警察官が扉の前に現れた。
「モロー嬢。少しよろしいですか?」
「はい」
ジャンヌが振り返った。
「何でしょう?」
「警部が、皆さんに話を聞きたいそうです」
ジャンヌは頷いた。
「分かりました」
そして、3人を見た。
「行きましょう」
エレノアは最後にもう一度、書斎を見渡した。
止まった時計。
不自然な窓枠。
そして、被害者のポケットに残されていた鍵。
「……この密室、何かがおかしいわ」
彼女は小さく呟いた。
その言葉を聞いたジャンヌが振り返った。
「どうしてそう思うの?」
エレノアは微笑んだ。
「まだ説明できないけれど……」
そして、静かに続けた。
「犯人は、私たちに何かを見せようとしている気がするのよ」
――同日 午後0時15分
ブラックウッド邸・応接室
応接室には、制服姿の警察官と、口髭を蓄えた中年男性が待っていた。
男性は40代後半ほど。
背筋を伸ばし、厳格そうな表情を浮かべている。
「君たちが、モロー嬢の仲間かね?」
男性が尋ねた。
「はい」
ジャンヌは丁寧に答えた。
「こちらがエレノア・アシュフォード、ソフィア・ベネット、そしてセシル・ルノワールです」
男性は頷いた。
「私は、ロンドン警視庁のエドワード・ハリントン警部だ」
エレノアは軽く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
ハリントン警部は4人を見渡した。
「随分と若い調査員たちだな」
セシルは微笑んだ。
「年齢と推理力は、必ずしも比例しませんので」
警部は苦笑した。
「……そうかもしれんな」
彼は机の上に書類を置いた。
「さて、事件について説明しよう」
警部は事件発生当夜の状況を語り始めた。
11月21日、午後8時30分。
ブラックウッドは書斎へ入った。
その後、午後9時頃になっても夕食後の用件に応じなかったため、執事が様子を見に行った。
しかし、扉には鍵がかかっていた。
何度呼びかけても返事がない。
執事は使用人2人を呼び、扉を破った。
室内ではブラックウッドが床に倒れていた。
胸には鋭い刃物による傷。
すでに息はなかった。
「……凶器は?」
エレノアが尋ねた。
「現場には残されていなかった」
警部は答えた。
「つまり、犯人が持ち去った可能性が高い」
セシルは静かに頷いた。
「死亡推定時刻は?」
「医師の初見では、午後8時から9時の間だ」
エレノアは手帳に記録した。
「……なるほど」
ジャンヌが尋ねた。
「警部。トマス・リードの件について、進展はありましたか?」
警部の表情が変わった。
「ああ。そのことだ」
彼は別の書類を取り出した。
「昨日の夜、屋敷の近くで不審な男が目撃されている」
「右頬に傷のある男性ですね?」
セシルが尋ねた。
「そうだ」
警部は頷いた。
「3人の目撃者が、同じ特徴を証言している」
エレノアが尋ねた。
「目撃時刻は?」
「午後8時40分から9時10分の間だ」
「場所は?」
「屋敷の裏手にある路地と、近くの通りだ」
エレノアは頷いた。
「……なるほど」
警部は続けた。
「そして、その男の特徴が、3年前に死亡したトマス・リードと一致した」
ソフィアは不安そうに尋ねた。
「……本当に、死んだ人なんですか?」
警部は首を振った。
「それが分からん」
彼は書類を見つめた。
「死亡記録はある。しかし、当時の火災はひどく、遺体の身元確認が十分だったとは言い難い」
エレノアは静かに言った。
「なら、生存している可能性がありますね」
「そうだ」
警部は頷いた。
「我々も、その可能性を考えている」
セシルが尋ねた。
「では、現在のトマス・リードの行方は?」
「不明だ」
警部は答えた。
「火災の後、彼の家族もロンドンを離れている」
ジャンヌは静かに呟いた。
「……家族」
エレノアが振り返った。
「何か気になるの?」
「ええ」
ジャンヌは答えた。
「トマス・リードが本当に生きているなら、3年間どこで暮らしていたのかを知りたいの」
セシルは頷いた。
「重要な点ですね」
ジャンヌは続けた。
「人は、突然消えてしまうわけではないもの。どこかで食事をして、眠って、誰かと関わって生きているはずよ」
エレノアは少し考えた。
「……なるほど」
そして、静かに微笑んだ。
「では、彼の過去を調べましょう」
――同日 午後1時40分
ロンドン東部・旧港湾地区
午後のホワイトチャペルには、冷たい風が吹いていた。
4人は、トマス・リードがかつて働いていた港湾倉庫の跡地を訪れていた。
そこには、焼け焦げた煉瓦壁の一部が残っていた。
周囲には新しい倉庫が建てられていたが、火災の痕跡は完全には消えていなかった。
「……ここで火事が起きたのね」
ソフィアが呟いた。
ジャンヌは頷いた。
「1888年10月17日。夜間の倉庫火災よ」
セシルが手帳を開いた。
「当時、倉庫には労働者が数人残っていたそうですね」
「ええ」
ジャンヌは答えた。
「そのうち3人が死亡したと記録されているわ」
エレノアは焼け焦げた壁を見つめた。
「トマス・リードも、その1人?」
「そうよ」
ジャンヌは頷いた。
「ただし、遺体の身元確認には問題があったみたい」
ソフィアが尋ねた。
「どういうこと?」
「火災が激しく、遺体の損傷が大きかったの」
ジャンヌは静かに答えた。
「当時の記録では、所持品などを手がかりに身元を判断したらしいわ」
エレノアは目を細めた。
「……所持品?」
「ええ」
ジャンヌは頷いた。
「懐中時計や衣服の一部などね」
その瞬間、エレノアの表情が変わった。
「……懐中時計」
セシルも気づいた。
「書斎にあった時計ですね」
「ええ」
エレノアは静かに頷いた。
「もし、あの時計がトマス・リードのものなら……」
ソフィアが尋ねた。
「何か分かるの?」
「少なくとも、死亡記録の信頼性を調べる必要があるわ」
エレノアは答えた。
「時計が遺体の身元確認に使われたのなら、なぜ今、ブラックウッドの書斎にあるのか」
ジャンヌは静かに頷いた。
「……確かに不自然ね」
その時、近くの倉庫から年配の男性が出てきた。
作業着を着た、60歳ほどの男性だった。
「……お嬢さん方、何を調べているんだ?」
ジャンヌは穏やかに微笑んだ。
「こんにちは。少し昔の火災について調べているんです」
男性の表情が変わった。
「……あの火事か」
「ご存じですか?」
「ああ」
男性は頷いた。
「俺は、当時ここで働いていたからな」
4人は顔を見合わせた。
ジャンヌは静かに尋ねた。
「お名前を伺ってもよろしいですか?」
「ジョージ・ミラーだ」
男性は答えた。
「昔は、この辺りの倉庫で荷運びをしていた」
ジャンヌは頷いた。
「ミラーさん。トマス・リードという方をご存じですか?」
男性はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……知っている」
エレノアが尋ねた。
「どんな人物でしたか?」
ミラーは少し考えた。
「真面目な男だったよ」
彼は続けた。
「口数は少なかったが、仲間思いでな。困っている奴がいれば、必ず助けていた」
ジャンヌは静かに頷いた。
「そうですか」
「ただ……」
男性は言葉を切った。
「ただ?」
ソフィアが尋ねた。
「ブラックウッドとは、よく揉めていた」
エレノアは目を細めた。
「……理由は?」
「労働者の賃金だ」
ミラーは答えた。
「ブラックウッドは、給料を減らそうとしていた。リードは、それに反対していたんだ」
ジャンヌは静かに尋ねた。
「火災の直前にも、何かありましたか?」
男性は頷いた。
「ああ。あの夜、リードはブラックウッドに会いに行くと言っていた」
4人の表情が変わった。
セシルが尋ねた。
「……火災が起きた夜に?」
「そうだ」
ミラーは答えた。
「倉庫の帳簿について、話があると言っていた」
エレノアは静かに呟いた。
「……帳簿」
ジャンヌは続けて尋ねた。
「その後、リードさんを見た方は?」
「いない」
ミラーは首を振った。
「少なくとも、俺は知らん」
彼は焼け焦げた壁を見つめた。
「……あの火事で、何もかも変わっちまった」
ソフィアは男性の表情を見た。
そこには、長い年月を経ても消えない悲しみがあった。
「……つらかったんですね」
彼女が静かに言った。
ミラーは少し驚いたように顔を上げた。
そして、小さく頷いた。
「ああ」
彼は呟いた。
「リードには、小さな娘がいたんだ」
ジャンヌの表情が変わった。
「……娘さん?」
「ああ」
ミラーは頷いた。
「まだ幼い子だった。父親が死んだと聞いて、ずっと泣いていたよ」
ソフィアは胸が締めつけられるような思いがした。
「……その子は、今どこに?」
「さあな」
ミラーは首を振った。
「母親と一緒に、ロンドンを離れたと聞いた」
ジャンヌは静かに頷いた。
「ありがとうございます」
ミラーは4人を見渡した。
「……あんたたち、リードのことを調べているのか?」
「ええ」
ジャンヌは答えた。
「彼に何が起きたのか、知りたいんです」
男性はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……もし、あいつが生きているなら」
4人は男性を見つめた。
「……どうか、娘に会わせてやってくれ」
ジャンヌは小さく頷いた。
「……約束はできません」
彼女は静かに答えた。
「でも、できる限り調べます」
男性は少しだけ微笑んだ。
「……ありがとう」
4人は男性に礼を言い、倉庫跡地を後にした。
――同日 午後3時20分
ホワイトチャペル地区・小さな喫茶店
4人は、通り沿いの小さな喫茶店で休憩していた。
店内には石炭ストーブが置かれ、暖かな空気が漂っている。
窓の外では馬車が行き交い、新聞売りの少年が声を張り上げていた。
エレノアは手帳を開いた。
「……さて、整理しましょう」
セシルが頷いた。
「ええ」
エレノアは机の上に紙を広げた。
『1888年10月17日』
『港湾倉庫火災』
『トマス・リード死亡と記録』
『1891年11月21日』
『ブラックウッド殺害』
『リードに似た男が目撃される』
ソフィアは紙を見つめた。
「……3年前の火事と、今回の事件がつながってるんだね」
「その可能性が高いわ」
エレノアは答えた。
セシルは静かに言った。
「しかし、重要なのは動機です」
「ええ」
ジャンヌが頷いた。
「リードが生きているなら、ブラックウッドを恨んでいた可能性がある」
「でも……」
ソフィアが口を開いた。
「何?」
ジャンヌが尋ねた。
「ミラーさんの話だと、リードさんは優しい人だったんだよね?」
「ええ」
「だったら、本当に人を殺すのかな……」
ジャンヌは少し考えた。
「……人は、優しいからといって、絶対に罪を犯さないわけではないわ」
彼女は静かに続けた。
「大切な人を守ろうとして、間違ったことをしてしまう人もいる」
ソフィアは俯いた。
「……そうだよね」
セシルは頷いた。
「そして、恨みがあることと、実際に殺人を犯したことは別問題です」
エレノアは微笑んだ。
「そのとおり」
彼女は手帳を閉じた。
「だから、証拠が必要なのよ」
ジャンヌは紅茶を一口飲んだ。
「……ところで、エレノア」
「何?」
「あなたは、あの密室についてどう考えているの?」
エレノアは少し考えた。
「まだ断定できないけれど、鍵の位置が気になるわ」
「被害者のポケットにあった鍵?」
「ええ」
エレノアは頷いた。
「犯人が外へ出た後、どうやって鍵をポケットへ戻したのか」
セシルは静かに言った。
「あるいは、被害者自身が鍵をポケットに入れたのかもしれません」
エレノアの表情が変わった。
「……なるほど」
ジャンヌも頷いた。
「つまり、犯人が部屋を出た後、被害者が自分で鍵をかけた可能性もあるということね」
「ええ」
セシルは答えた。
「ただし、その場合は、被害者がまだ生きていた必要があります」
エレノアは静かに微笑んだ。
「……面白い仮説ね」
ソフィアは首を傾げた。
「でも、どうして犯人が出た後に鍵をかけるの?」
エレノアは答えた。
「それを考える必要があるわ」
ジャンヌは静かに呟いた。
「……被害者が、誰かを恐れていたから?」
セシルが頷いた。
「あるいは、誰にも見られたくないものがあったのかもしれません」
エレノアは窓の外を見つめた。
霧に包まれたロンドンの街。
そして、どこかに隠されているはずの真実。
「……まだ足りないわね」
彼女は呟いた。
「何が?」
ソフィアが尋ねた。
「証拠よ」
エレノアは答えた。
「もっと、現場を調べる必要がある」
――同日 午後5時10分
ブラックウッド邸・裏庭
夕暮れが近づく頃、4人は再びブラックウッド邸へ戻っていた。
空は灰色から濃い青へ変わり始めていた。
屋敷の裏庭には、雨に濡れた土が広がっている。
エレノアは書斎の窓の下を見上げた。
「……あそこね」
2階の窓。
その下には細い雨樋。
そして、壁に沿って蔦が伸びていた。
セシルが尋ねた。
「外から登れそうですか?」
「不可能ではないわ」
エレノアは答えた。
「ただし、かなり危険ね」
ジャンヌは庭の土を見つめた。
「……足跡があるわ」
ソフィアが近づいた。
「本当?」
そこには、靴底の跡がいくつか残っていた。
エレノアはしゃがみ込んだ。
「……なるほど」
彼女は足跡を観察した。
靴底の模様。
大きさ。
歩幅。
そして、土の沈み方。
「……成人男性のものと思われるわね」
セシルが頷いた。
「しかし、使用人や警察官の足跡かもしれません」
「ええ」
エレノアは答えた。
「だから、これだけでは証拠にならない」
その時、ソフィアが声を上げた。
「……あれ?」
「何?」
ジャンヌが振り返った。
ソフィアは壁際を指さした。
「ここだけ、土の色が違う」
4人は近づいた。
そこには、小さな長方形の跡があった。
周囲の土よりも少し乾いている。
エレノアは目を細めた。
「……何かが置かれていた跡ね」
ジャンヌが尋ねた。
「何が?」
「まだ分からないわ」
エレノアは答えた。
「でも、大きさから考えると、木箱か小さな踏み台かもしれない」
セシルは窓を見上げた。
「……つまり、誰かがここに踏み台を置いて、窓へ登った可能性がある」
エレノアは頷いた。
「ええ」
ソフィアは驚いた。
「じゃあ、犯人は窓から逃げたの?」
「可能性はあるわ」
エレノアは答えた。
「でも、まだ説明できないことがある」
「何?」
「窓の鍵よ」
エレノアは静かに続けた。
「もし犯人が窓から逃げたなら、どうやって内側から鍵をかけたのか」
ジャンヌは少し考えた。
「……仕掛けを使った?」
「それも考えられるわ」
エレノアは答えた。
「ただし、今の段階では仮説にすぎない」
セシルは頷いた。
「では、窓の構造を詳しく調べる必要がありますね」
エレノアは立ち上がった。
「ええ」
その時だった。
屋敷の裏門の方から、かすかな物音が聞こえた。
4人は同時に振り返った。
霧の向こうに、人影が見えた。
黒いコートを着た男性。
帽子を深く被り、顔はよく見えない。
しかし、エレノアは一瞬だけ、その男性の右頬に大きな傷痕があることに気づいた。
「……待って!」
彼女が叫んだ。
男性は振り返った。
そして、次の瞬間、裏門の向こうへ走り去った。
「……追いましょう!」
セシルが叫んだ。
4人は駆け出した。
しかし、裏門を抜けた先には、複雑に入り組んだ路地が広がっていた。
霧が濃く、数メートル先も見通せない。
男性の姿は、すでに消えていた。
ソフィアは息を切らして立ち止まった。
「……逃げられちゃった……」
エレノアは周囲を見渡した。
「……そうね」
ジャンヌは静かに呟いた。
「……右頬に傷があった」
セシルが頷いた。
「ええ。私も見ました」
ソフィアは驚いた。
「じゃあ、あの人が……」
エレノアは静かに答えた。
「トマス・リードかもしれない」
4人の間に沈黙が落ちた。
3年前に死亡したはずの男性。
その人物が、今、目の前に現れた。
しかし、エレノアはすぐに首を振った。
「……まだ決めつけてはいけないわ」
セシルは頷いた。
「ええ。顔の傷だけでは本人とは断定できません」
ジャンヌは路地の奥を見つめた。
「……でも、あの人は何かを知っている」
エレノアは静かに微笑んだ。
「そうね」
そして、手帳を取り出した。
「……ようやく、事件が動き始めたわ」
――同日 午後6時30分
ホワイトチャペル地区・CLIB現地連絡所
4人は、CLIBが現地に設けている小さな連絡所へ戻っていた。
そこは、古い商店の2階にある部屋だった。
外観は普通の事務所だが、内部には時空通信装置や資料保管庫が設置されている。
エレノアは机の上に調査記録を広げた。
セシルは証言を整理し、ジャンヌは聞き込みの内容をまとめていた。
ソフィアは窓際で、先ほどの男性の姿を思い出していた。
「……ねえ」
彼女が口を開いた。
「何?」
エレノアが顔を上げた。
「さっきの人、本当に逃げてたのかな?」
エレノアは首を傾げた。
「どういうこと?」
「私たちを見て、すぐに走り出したけど……」
ソフィアは少し考えた。
「……怖がっているようにも見えたんだ」
ジャンヌが顔を上げた。
「怖がっていた?」
「うん」
ソフィアは頷いた。
「悪いことをした人が逃げるというより、誰かに見つかるのを恐れているみたいだった」
ジャンヌは静かに考え込んだ。
「……なるほど」
セシルも頷いた。
「重要な観察ですね」
エレノアは少し考えた。
「……確かに、犯人とは限らないわ」
ジャンヌは手帳を閉じた。
「私は、あの人を探してみたい」
「どうやって?」
ソフィアが尋ねた。
「昔の知り合いを訪ねるの」
ジャンヌは答えた。
「もし本当にトマス・リードなら、この街には彼を覚えている人がいるはずだから」
エレノアは頷いた。
「合理的ね」
セシルは微笑んだ。
「では、明日は彼の家族と昔の同僚について調べましょう」
その時、連絡所の扉がノックされた。
4人は顔を上げた。
「……誰かしら?」
ジャンヌが立ち上がった。
扉の向こうから、低い男性の声が聞こえた。
「……モロー嬢は、こちらにいらっしゃいますか?」
ジャンヌは少し驚いた。
「はい。どちら様でしょう?」
「ロンドン警視庁の者です」
ジャンヌは扉を開いた。
そこには、若い警察官が立っていた。
「ハリントン警部から、至急お伝えするように言われました」
「何でしょう?」
警察官は封筒を差し出した。
「1888年の倉庫火災について、新しい資料が見つかりました」
ジャンヌは封筒を受け取った。
中には、古い死亡記録の写しが入っていた。
エレノアが近づいた。
「……見せて」
ジャンヌは書類を机の上に広げた。
そこには、火災で死亡したとされる3人の名前が記されていた。
『トマス・リード』
『ウィリアム・ハリス』
『ジョン・ベイカー』
しかし、書類の下部には、別の記録が添付されていた。
それは、火災の翌日に作成された警察の内部報告書だった。
エレノアは文章を読み進めた。
そして、ある一文で目を止めた。
『遺体の身元確認に用いられた懐中時計は、トマス・リード本人の所有物であると確認できず』
セシルの表情が変わった。
「……これは」
ジャンヌも息を呑んだ。
「……つまり」
エレノアは静かに頷いた。
「トマス・リードが死亡したという記録には、最初から疑問があったのよ」
ソフィアが尋ねた。
「じゃあ、あの人は本当に生きているの?」
「可能性は高くなったわ」
エレノアは答えた。
「でも、まだ確定ではない」
彼女はさらに書類を読み進めた。
そして、次のページで手を止めた。
そこには、火災当時の倉庫の所有者に関する記録があった。
『所有者:エドマンド・ブラックウッド』
その下には、もう1つの名前が記されていた。
『共同管理責任者:アーサー・ウィットモア』
エレノアの表情が凍りついた。
「……何ですって?」
セシルが驚いた。
「ウィットモア……?」
ソフィアも顔を上げた。
「……前の事件の?」
ジャンヌは3人を見比べた。
「……知っている名前なの?」
エレノアはしばらく黙っていた。
そして、静かに答えた。
「……ええ」
彼女は書類を見つめた。
「私たちが、最初の事件で出会った人物の名前よ」
セシルは静かに呟いた。
「……偶然でしょうか?」
エレノアは首を振った。
「……まだ分からない」
しかし、その青い瞳には、明らかな興味が浮かんでいた。
「でも、これで事件はさらに面白くなったわ」
ジャンヌは静かに尋ねた。
「……どういうこと?」
エレノアは答えた。
「私たちが調べているのは、単なる殺人事件ではないのかもしれない」
彼女は机の上の書類を指さした。
「1888年の倉庫火災」
「1891年の密室殺人」
セシルが続けた。
「そして、1986年のウィットモア事件……」
ソフィアは小さく息を呑んだ。
「……全部、つながってるの?」
エレノアは静かに微笑んだ。
「……それを確かめるのが、私たちの仕事よ」
窓の外では、ロンドンの霧がさらに濃くなっていた。
1891年の街に隠された、3年前の火災の秘密。
死んだはずの男。
密室で殺害された資産家。
そして、40年どころか1世紀近く離れた事件を結ぶ、奇妙な名前。
4人の少女探偵は、まだ知らなかった。
この事件の真相が、CLIBという組織そのものの歴史に関わっていることを。
――第5話 完




