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第4話「霧のロンドンと、存在しない容疑者」

第4話 霧のロンドンと、存在しない容疑者


――2026年11月12日 午前10時15分

英国・ロンドン

セント・キャサリン女学院


 ロンドンの空は、今日も灰色だった。

 11月特有の冷たい風が校舎の窓を揺らし、教室の外では小雨が降り始めていた。

 そんな中、エレノア・アシュフォードは退屈していた。

「……実につまらないわね」

 窓際の席に座った少女は、小さく呟いた。

 灰金色の髪を肩に流し、青い瞳を窓の外へ向けている。

 教壇では、数学教師が二次方程式について説明していた。

「それでは、この問題を解いてみましょう」

 教師は黒板に数式を書いた。

 エレノアは一瞥しただけで答えを導き出した。

 しかし、手を挙げることはしなかった。

 代わりに、机の上に開いていたノートへ別のものを書き始めた。

『1986年11月7日』

『アーサー・ウィットモア死亡事件』

『未解明事項:並行世界間の記録干渉』

 数日前、彼女は40年前のロンドンで、奇妙な事件を調査した。

 時空迷宮事件調査室。

 通称CLIB。

 過去や未来、そして並行世界で発生した不可解な事件を調査する秘密組織。

 エレノアは、その一員となったばかりだった。

 しかし、任務を終えて日常生活へ戻ってみれば、待っていたのは退屈な授業と平凡な学校生活だった。

「……人間は、どうしてこれほど簡単な問題を何十分もかけて説明するのかしら」

 エレノアは小さく溜息をついた。

「アシュフォードさん」

 突然、教師の声が響いた。

 エレノアは顔を上げた。

「はい?」

「授業に集中していますか?」

「もちろんです」

「では、黒板の問題を解いてください」

 教師は少し厳しい表情で言った。

 教室中の視線がエレノアへ集まった。

 しかし、彼女はまったく動じなかった。

「答えは、x=3とx=-2です」

 即答だった。

 教師は一瞬、言葉を失った。

「……正解です」

「ありがとうございます」

 エレノアは何事もなかったかのようにノートへ視線を戻した。

 隣の席に座っていたソフィア・ベネットが、小声で囁いた。

「……もう少し普通に答えられないの?」

「普通に答えたつもりだけれど」

「そういうところだよ……」

 ソフィアは苦笑した。

 エレノアは再び窓の外を見た。

 灰色の雲。

 雨に濡れた校庭。

 そして、時計の針。

 午前10時23分。

「……あと37分」

 エレノアが呟いた。

「何が?」

「授業が終わるまで」

「ちゃんと授業を聞こうよ……」

 ソフィアは小さく溜息をついた。

 その時だった。

 教室の扉が、控えめにノックされた。

「失礼します」

 入ってきたのは、学院の事務職員だった。

 職員は教師に近づき、小さな声で何かを伝えた。

 教師は少し驚いた表情を浮かべた。

 そして、教室を見渡した。

「アシュフォードさん。ベネットさん」

 2人は同時に顔を上げた。

「はい?」

 ソフィアが答えた。

「至急、学院長室へ来るようにとのことです」

 教室がざわめいた。

 エレノアは眉を上げた。

「……私たちが?」

「ええ。お2人ともです」

 ソフィアは不安そうにエレノアを見た。

「……何かしたっけ?」

「心当たりはないわ」

 エレノアは静かに立ち上がった。

「少なくとも、今日のところはね」

「今日のところはって……」

 ソフィアは困ったように呟いた。

 2人は教師に一礼し、教室を後にした。

 その背後では、クラスメイトたちが小声で話し始めていた。

「何だろう?」

「何か問題でも起こしたのかな?」

「アシュフォードさんなら、あり得るかも……」

 エレノアは、その声を聞き流した。

 彼女の頭の中では、すでに別の推理が始まっていた。


――同日 午前10時30分

セント・キャサリン女学院・学院長室前


 廊下には、生徒たちの姿がほとんどなかった。

 授業中の校舎は静まり返り、遠くから教師の声だけが聞こえてくる。

 ソフィアは不安そうに歩いていた。

「ねえ、エレノア」

「何?」

「本当に何もしてないよね?」

「ええ」

「昨日、図書室で先生と何か言い合ってなかった?」

「言い合いではないわ。歴史資料の年代について、誤りを指摘しただけよ」

「それが原因じゃない?」

「まさか」

 エレノアは首を振った。

「事実を指摘しただけで学院長室に呼ばれるなら、この学校の教育方針には問題があるわ」

「……そういう言い方をするから心配なんだけど」

 ソフィアは溜息をついた。

 やがて、2人は学院長室の前へ到着した。

 扉の向こうから、低い男性の声が聞こえていた。

 エレノアは足を止めた。

「……なるほど」

「どうしたの?」

「中に来客がいるわ」

「声が聞こえるから?」

「それもあるけれど」

 エレノアは扉の横に置かれた傘立てを指さした。

「見慣れない黒い傘がある。それに、廊下の絨毯には濡れた靴跡が残っている」

 ソフィアは首を傾げた。

「……だから?」

「来客はつい先ほど到着した。しかも、雨が降り始めてからね」

 エレノアは小さく微笑んだ。

「そして、私たちを呼び出したのは学院長ではない可能性が高い」

 ソフィアは驚いた。

「えっ?」

 エレノアは扉をノックした。

「失礼します」

 中から返事があった。

「どうぞ」

 2人は学院長室へ入った。

 大きな机の向こうには、白髪交じりの学院長が座っていた。

 そして、その隣には見覚えのある男性が立っていた。

 灰色のスーツ。

 落ち着いた表情。

 そして、胸元に付けられた小さな銀色の時計型徽章。

 エレノアは小さく笑った。

「……やっぱり」

 ソフィアは目を丸くした。

「あっ!」

 男性は穏やかに微笑んだ。

「お久しぶりです。アシュフォードさん、ベネットさん」

 それは、数日前にCLIB本部で2人を出迎えた男性職員だった。

「……あなたが、私たちを呼んだのね?」

 エレノアが尋ねた。

「ええ」

 男性は頷いた。

「少々急なお願いで申し訳ありません」

 学院長が口を開いた。

「アシュフォードさん、ベネットさん。こちらの方は、特別な学術調査を行っている研究機関の職員だそうです」

 エレノアは男性を見た。

 なるほど。

 学校側には、そう説明しているらしい。

「以前、お2人が参加された研究活動について、追加の協力をお願いしたいとのことです」

 学院長は続けた。

「今回は正式な依頼状も届いております」

 男性職員は書類を差し出した。

「こちらです」

 学院長は書類を確認した。

「本日の授業については、公欠として扱います」

 ソフィアは驚いた。

「……本当にいいんですか?」

「ええ。ただし、学業に支障が出ないようにしてください」

「ありがとうございます!」

 ソフィアは嬉しそうに頭を下げた。

 エレノアも軽く一礼した。

「ありがとうございます」

 学院長は頷いた。

「それでは、準備をしてきなさい」

 2人は学院長室を後にした。

 廊下へ出ると、男性職員も後からついてきた。

 エレノアは足を止めた。

「……それで?」

 男性職員が尋ねた。

「何でしょう?」

「今度は、どんな事件なの?」

 男性は少し驚いた。

「まだ事件だとは申し上げていませんが」

「わざわざ学校まで迎えに来たのでしょう?」

 エレノアは腕を組んだ。

「普通の用件なら、放課後に連絡すれば済むわ」

 男性職員は小さく笑った。

「……相変わらず鋭いですね」

「褒め言葉として受け取っておくわ」

 ソフィアが不安そうに尋ねた。

「……また、時間旅行ですか?」

 男性は頷いた。

「ええ。今回は少し特殊な事件です」

 エレノアの瞳が輝いた。

「特殊?」

「詳細は本部で説明いたします」

 男性職員は静かに答えた。

「ただし、1つだけお伝えしておきましょう」

「何?」

「今回の容疑者は、すでに死亡している人物です」

 ソフィアは目を丸くした。

「……えっ?」

 エレノアは、ゆっくりと微笑んだ。

「……なるほど」

 そして、楽しそうに呟いた。

「どうやら、退屈な授業よりずっと面白そうね」


――同日 午前11時15分

ロンドン・ベーカー街付近


 学院から出た3人は、黒い乗用車に乗り込んだ。

 車は雨に濡れたロンドンの街を走っていく。

 窓の外には、見慣れた現代の街並みが広がっていた。

 しかし、エレノアの頭の中は、すでに新たな事件のことでいっぱいだった。

「……死亡している容疑者、ね」

 彼女は小さく呟いた。

 ソフィアが尋ねた。

「どういうことなんだろう?」

「考えられる可能性はいくつかあるわ」

 エレノアは答えた。

「まず、死亡記録が間違っている可能性」

「うん」

「次に、誰かが死者になりすましている可能性」

「なるほど……」

「そして、もう1つ」

 エレノアは窓の外を見た。

「本当に、別の世界から来た人物という可能性もある」

 ソフィアは小さく息を呑んだ。

「……前の事件みたいに?」

「ええ」

 エレノアは頷いた。

「ただし、まだ何も分かっていない。推理するには情報が足りないわ」

 男性職員は前の座席から静かに言った。

「その点については、現地の調査員がすでに調べています」

 エレノアは顔を上げた。

「……また別の探偵?」

「ええ」

 男性は頷いた。

「今回の事件では、すでにCLIB所属の少女探偵が現地で活動しています」

 ソフィアは嬉しそうに言った。

「女の子なんですね!」

「はい。お2人と同じ16歳です」

 エレノアは興味深そうに尋ねた。

「名前は?」

 男性職員は静かに答えた。

「ジャンヌ・モロー」

 そして、少し微笑んだ。

「フランス出身の、非常に優秀な探偵です」

 エレノアは腕を組んだ。

「……どんな推理をするの?」

「それは、実際に会って確かめてください」

 男性職員は答えた。

「ただ、彼女はあなたとは少し違う考え方を持っています」

「……面白そうね」

 エレノアは小さく笑った。

 やがて、車はベーカー街近くの古い煉瓦造りの建物の前に到着した。

 黒い鉄柵。

 重厚な木製の扉。

 そして、時計の文字盤と迷宮を組み合わせた紋章。

 時空迷宮事件調査室。

 CLIB本部だった。

 エレノアは車から降りた。

「……さて」

 彼女は建物を見上げた。

「今度は、どんな謎が待っているのかしら」

 ソフィアも隣に並んだ。

「できれば、あまり怖くない事件がいいな……」

 エレノアは微笑んだ。

「それは保証できないわね」

 男性職員が扉を開いた。

「どうぞ。皆さんをお待ちしております」

 2人は建物の中へ入った。

 その先には、すでにセシル・ルノワールが待っていた。

 そして、彼女たちの前には、1891年のロンドンで発生した不可解な殺人事件の資料が用意されていた。

 死んだはずの男。

 内側から施錠された書斎。

 そして、存在するはずのない被害者。

 新たな事件の幕が、静かに上がろうとしていた。

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