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第3話「まだ生まれていない犯人」

第3話 まだ生まれていない犯人


――1986年11月6日 午後1時35分

英国・ロンドン

アーサー・ウィットモア邸


「君は……まだ生まれていないはずだ」

 その言葉を最後に、玄関先には奇妙な沈黙が落ちた。

 エレノア・アシュフォードは、目の前の男性をじっと見つめていた。

 アーサー・ウィットモア。48歳。歴史研究者。

 そして、明日の夜に死亡することになっている人物。

 彼は初対面の少女を見て、まるで幽霊に遭遇したかのような表情を浮かべていた。

「……失礼ですが、私たちは初めてお会いするはずです」

 エレノアが静かに言った。

 ウィットモアは我に返ったように瞬きをした。

「あ、ああ。そうだね」

「では、なぜ私がまだ生まれていないと?」

「……昔の知人に似ていたんだ」

「その方は、まだ生まれていないのですか?」

 男性は言葉に詰まった。

 その様子を見て、セシル・ルノワールが優雅に一歩前へ出た。

「ウィットモア様。立ち話も何ですし、まずは中へ入れていただけませんか?」

 彼女は穏やかに微笑んだ。

「私たちは研究のお話を伺いに参りました。もちろん、お邪魔でなければですが」

 ウィットモアは慌てて頷いた。

「ああ、そうだった。すまない」

 彼は重厚な木製の扉を大きく開いた。

「どうぞ、入ってくれ」

 3人は屋敷の中へ足を踏み入れた。

 玄関ホールには古い木製の階段があり、壁には19世紀のロンドンを描いた絵画が飾られていた。

 廊下の奥では、大きな振り子時計が規則正しく時を刻んでいる。

 古い紙と家具用ワックスの匂いが漂う室内は、歴史研究者の住まいにふさわしい落ち着いた雰囲気だった。

「素敵なお家ですね」

 ソフィア・ベネットが言った。

「ありがとう。祖父の代から使っている建物なんだ」

 ウィットモアは少しだけ表情を和らげた。

「もっとも、今では資料の置き場所になってしまっているがね」

 エレノアは周囲を観察していた。

 玄関の傘立てには黒い傘が2本。

 床には乾きかけた泥の跡。

 そして、階段の手すりには比較的新しい擦り傷が残っている。

「……最近、誰かがこちらを訪ねてきましたか?」

 エレノアが尋ねた。

 ウィットモアは足を止めた。

「どうしてそう思う?」

「玄関の傘です。1本は古いものですが、もう1本はまだ濡れています。それに、床には靴底の異なる泥の跡が2種類あります」

 男性は驚いたように少女を見た。

「……午前中に助手が来たんだ」

「助手?」

「ダニエル・ハーパーという青年だよ」

 セシルが頷いた。

「先生の研究を手伝っている方ですね」

「ああ。優秀な青年だ」

 ウィットモアはそう答えた。

 しかし、その声にはわずかなためらいがあった。

 エレノアは、その変化を見逃さなかった。


――同日 午後1時50分

ウィットモア邸・書斎


 書斎は、壁一面を埋め尽くす本棚に囲まれていた。

 中央には大きなオーク材の机が置かれ、その上には古文書や地図、写真、帳簿などが積み重ねられている。

 暖炉の上には古い懐中時計。

 窓際には革張りの椅子が2脚。

 そして、机の奥には鍵の付いた木製の書類棚があった。

「随分と多くの資料を集めていらっしゃるのですね」

 セシルが感心したように言った。

「歴史を調べていると、どうしてもこうなる」

 ウィットモアは苦笑した。

「さて、何から話そうか」

「先生が最近調べていらっしゃる、歴史記録の食い違いについて伺いたいのです」

 セシルが答えた。

 ウィットモアの表情が変わった。

「……誰から聞いた?」

「研究者の間で噂になっております」

 セシルは落ち着いて答えた。

「同じ出来事について、異なる結末を記した資料を発見されたとか」

 男性はしばらく黙っていた。

 やがて、机の引き出しから1枚の古い写真を取り出した。

「これを見てくれ」

 写真には、19世紀末と思われる服装をした5人の人物が写っていた。

 男性が4人、女性が1人。

 背景には、現在のウィットモア邸によく似た建物があった。

「1896年に撮影された写真だ」

 ウィットモアが説明した。

「当時、この建物はある研究団体の事務所として使われていた」

「研究団体?」

 ソフィアが尋ねた。

「ああ。正式名称は時系列研究協会。時間と歴史について研究していたらしい」

 エレノアは写真を手に取った。

 建物の形は、現在とほとんど変わらない。

 しかし、彼女が注目したのは、写真の裏側だった。

 そこには、比較的新しいインクで名前が書かれていた。

『Eleanor Ashford』

 その下には、小さな数字が記されている。

『2026』

 エレノアは一瞬、目を細めた。

「……これは?」

 ウィットモアは顔を青ざめさせた。

「それが、私にも分からないんだ」

「誰が書いたのですか?」

「不明だ。3日前、助手のダニエルが資料の整理中に見つけた」

 セシルが静かに尋ねた。

「先生が先ほどアシュフォード嬢を見て驚かれたのは、この写真が理由ですか?」

 男性は頷いた。

「ああ」

 彼はエレノアを見つめた。

「写真に写る女性が、君にそっくりだったんだ」

 ソフィアは写真を覗き込んだ。

「……確かに、少し似ているね」

 エレノアは冷静に答えた。

「似ているだけでしょう。写真の裏書きも、後から書き加えられたものです」

「そうだ。しかし……」

 ウィットモアは言葉を切った。

 そして、声を落とした。

「私は最近、存在するはずのない人物の記録をいくつも発見している」

「存在するはずのない人物?」

 セシルが尋ねた。

「ああ。まだ生まれていないはずの人物が、過去の記録に登場しているんだ」

 エレノアは写真を机に戻した。

「……それで、先生は何を発見されたのですか?」

 ウィットモアはしばらく黙っていた。

 やがて、鍵付きの書類棚へ視線を向けた。

「この建物には、秘密がある」

「秘密?」

「1896年に存在した時系列研究協会は、1901年に解散したことになっている」

 ウィットモアは続けた。

「だが、実際には解散していなかった。名前を変えながら、密かに活動を続けていたんだ」

 エレノアは静かに頷いた。

「その団体の現在の名前は?」

 ウィットモアは答えなかった。

 代わりに、机の上に置かれた封筒を握り締めた。

「……明日の夜、研究仲間を集めて発表する予定なんだ」

「明日?」

 ソフィアが尋ねた。

「ああ。11月7日の午後7時だ」

 エレノアは腕時計を確認した。

 1986年11月7日。

 午後7時。

 それは、ウィットモアが死亡したとされる時間帯の真ん中だった。

「先生」

 エレノアが静かに言った。

「明日ではなく、今日お話しいただくことはできませんか?」

「……まだ確認したい資料があるんだ」

 ウィットモアは首を振った。

「明日には、すべてが揃う」

 その言葉に、エレノアは小さな違和感を覚えた。

 まるで、彼は明日という日を待っているようだった。

 あるいは、明日までに何かを完成させなければならないようだった。


――同日 午後3時10分

ウィットモア邸・書斎


 調査はさらに続いた。

 ウィットモアによれば、最近になって奇妙な出来事が相次いでいたという。

 研究資料の一部が消える。

 書斎の机の配置が変わる。

 誰もいないはずの夜中に、階段を上る足音が聞こえる。

 そして、数日前には脅迫状が届いた。

『11月7日、真実は死ぬ。』

『だが、死者は再び歩き始める。』

「警察には相談しましたか?」

 ソフィアが尋ねた。

「ああ。しかし、単なる悪戯だと言われた」

 ウィットモアは疲れたように答えた。

「私はそうは思わない」

 セシルは静かに紅茶のカップを置いた。

「ウィットモア様。1つ確認させてください」

「何だね?」

「あなたは、ご自身の研究成果を誰かに公表する予定でしたね?」

「ああ」

「その発表を、快く思わない人物はいませんか?」

 ウィットモアの表情が変わった。

「……どうして、そう思う?」

「脅迫状が届いたからです」

 セシルは穏やかに答えた。

「そして、先生は何かを恐れているように見えます」

 男性はしばらく黙っていた。

 やがて、小さく溜息をついた。

「……助手のダニエルだ」

 エレノアは目を細めた。

「彼が?」

「ああ。最近、研究の進め方について意見が対立している」

「どのような?」

「私は発見した資料を公表するべきだと考えている。しかし、彼は危険だからやめるべきだと言うんだ」

 セシルは静かに頷いた。

「なるほど」

 ウィットモアは続けた。

「彼は優秀な青年だ。悪い人間ではない」

「ですが、何かを隠している?」

 エレノアが尋ねた。

 男性は答えなかった。

 その沈黙が、何より雄弁だった。

 やがて、セシルが懐中時計を取り出した。

「そろそろ失礼いたしましょう」

 ウィットモアは頷いた。

「ああ。今日はありがとう」

 3人は立ち上がった。

 その時、ソフィアがふと尋ねた。

「ウィットモアさん」

「何だね?」

「……明日の夜、私たちも来ていいですか?」

 男性は少し驚いた。

 そして、静かに微笑んだ。

「ああ。構わないよ」

「本当ですか?」

「君たちには、何か不思議な縁を感じる」

 ウィットモアはエレノアを見た。

「特に、君にはね」

 エレノアは小さく頷いた。

「では、明日」

 3人は書斎を後にした。

 その背後で、ウィットモアは机の上の写真を見つめていた。

 そして、誰にも聞こえない声で呟いた。

「……やはり、彼女たちが来たか」

 その表情には、恐怖と同時に、どこか安堵の色が浮かんでいた。


――同日 午後5時20分

ロンドン・ベーカー街


 ウィットモア邸を出た3人は、夕暮れの街を歩いていた。

 ロンドンの空は相変わらず曇っており、街灯が少しずつ灯り始めている。

「……どう思う?」

 エレノアが尋ねた。

 セシルはしばらく考えた。

「ウィットモア氏は、何かを隠していますね」

「ええ」

「ですが、悪意というより恐怖に近い」

 セシルは続けた。

「彼は私たちに助けを求めたい。しかし、すべてを話すことを恐れている」

 ソフィアが心配そうに言った。

「明日、本当に殺されちゃうのかな……」

 エレノアは答えなかった。

 代わりに、鞄から手帳を取り出した。

「今の段階で分かっていることを整理しましょう」

 彼女は歩きながら書き始めた。

「まず、ウィットモアは1986年11月7日の夜に死亡したとされている」

「はい」

 セシルが頷いた。

「しかし、午後10時以降に目撃したという証言がある」

「ええ。そして、死亡記事には事故死と殺人の2種類が存在する」

 エレノアは続けた。

「さらに、彼の研究資料には2026年という数字と、私の名前が記されていた」

 ソフィアは首を傾げた。

「……どう考えても、普通の事件じゃないよね」

「そうね」

 エレノアは頷いた。

「でも、どれほど奇妙な事件でも、必ず原因がある」

 セシルは微笑んだ。

「Très bien。その考え方は、私も大好きです」

 エレノアは手帳を閉じた。

「そして、もう1つ」

「何でしょう?」

「ウィットモアは、明日の夜に研究成果を発表すると言った」

「ええ」

「つまり、彼を殺そうとしている人物がいるなら、その発表を阻止する動機がある」

 セシルは頷いた。

「その可能性は高いですね」

 ソフィアが尋ねた。

「じゃあ、助手のダニエルさんが怪しいの?」

「まだ分からないわ」

 エレノアは答えた。

「でも、彼が重要な人物であることは確かね」

 セシルは懐中時計を取り出した。

「明日の午前中、彼に会う予定を取りましょう」

「ええ」

 エレノアは頷いた。

「そして、明日の夜にはウィットモア邸へ戻る」

 ソフィアは不安そうに尋ねた。

「……危なくない?」

 エレノアは小さく微笑んだ。

「危険を避けるために、私たちは事件を調べているのよ」

 セシルも頷いた。

「それに、3人いれば心強いでしょう?」

 ソフィアは2人を見比べた。

「……そうだね」

 彼女は小さく笑った。

「私も、できることを頑張るよ」

 エレノアは満足そうに頷いた。

「期待しているわ、ソフィア」

 その時だった。

 通りの向こう側に、黒いコートを着た男性の姿が見えた。

 男性は新聞を手に持ち、こちらを見つめていた。

 エレノアが視線を向けると、男性はすぐに顔を背けた。

「……セシル」

「ええ」

 セシルも気づいていた。

「どうやら、私たちは見張られているようですね」

 ソフィアは驚いて振り返った。

「えっ!?」

 しかし、その時には男性の姿は消えていた。

 エレノアは静かに呟いた。

「……面白くなってきたわ」

 セシルは苦笑した。

「あなたは本当に、危険な状況を楽しむ方ですね」

「退屈よりはずっといいもの」

 ソフィアは深い溜息をついた。

「……お願いだから、無茶だけはしないでね」

 3人は再び歩き始めた。

 その背後で、ロンドンの街灯が静かに灯っていった。


――1986年11月7日 午前10時30分

ロンドン大学・歴史研究室


 翌朝。

 3人は、ウィットモアの助手であるダニエル・ハーパーを訪ねていた。

 ダニエルは24歳。

 茶色の髪を短く整えた、真面目そうな青年だった。

 大学の研究室には、古い書籍や資料が所狭しと並んでいる。

「ウィットモア先生の研究について、ですか?」

 ダニエルは少し警戒した様子で尋ねた。

「ええ」

 セシルは微笑んだ。

「私たちは、先生の研究に興味を持っているのです」

「そうですか……」

 ダニエルは椅子に腰掛けた。

「先生は最近、少し様子がおかしいんです」

「どういうこと?」

 エレノアが尋ねた。

「誰かに追われていると言ったり、存在しない記録を見つけたと言ったり……」

「存在しない記録?」

「ええ。ある人物が、まだ生まれていない時代の資料に登場しているというんです」

 エレノアは目を細めた。

「その資料を見たことは?」

「ありません」

 ダニエルは首を振った。

「先生は、重要な部分を私にも見せてくれませんでした」

 セシルは静かに尋ねた。

「昨日の午前中、先生のご自宅を訪問されましたね?」

 ダニエルは驚いた。

「……なぜ、それを?」

「先生から伺いました」

「ああ、そうでしたか」

 青年は少し安心したようだった。

「研究資料を届けに行ったんです」

「何時頃?」

「午前10時頃です」

「どのくらい滞在しましたか?」

「30分ほどです」

 エレノアは手帳に記録した。

「その時、先生の様子は?」

「……かなり疲れていました」

 ダニエルは答えた。

「最近、ほとんど眠っていないようです」

 ソフィアが心配そうに尋ねた。

「何か悩みがあるんでしょうか?」

 青年は少し迷った。

 そして、小さく頷いた。

「……研究成果を発表することについて、意見が対立しているんです」

「あなたは反対なのですね?」

 セシルが尋ねた。

「ええ」

 ダニエルは答えた。

「先生の研究は、あまりにも危険です」

「危険?」

「もし本当なら、歴史学の常識が覆ってしまう」

 エレノアは静かに言った。

「だから、発表を阻止したい?」

 ダニエルは顔を上げた。

「……そういう意味ではありません」

「では、どういう意味?」

「先生を守りたいんです」

 青年は強い口調で答えた。

「先生は、私にとって恩人です。危険な研究に深入りしてほしくないだけなんです」

 セシルは青年の表情をじっと見つめた。

 そして、穏やかに尋ねた。

「ハーパーさん。あなたには、大切な方がいらっしゃいますね?」

 ダニエルは驚いた。

「……え?」

「左手の薬指に、指輪の跡があります」

 セシルは微笑んだ。

「しかし、現在は指輪を着けていない。婚約者の方でしょうか?」

 青年は顔を赤くした。

「……マーガレットです」

「マーガレット?」

 ソフィアが尋ねた。

「大学図書館で働いている女性です」

 ダニエルは少し照れくさそうに答えた。

「まだ正式に婚約したわけではありませんが……」

 セシルは嬉しそうに微笑んだ。

「Magnifique! 素晴らしいことです」

 エレノアは呆れたように横目で見た。

「……また始まったわね」

「何がでしょう?」

「あなたの仲人癖よ」

「愛情は人生において非常に重要なものですよ」

 セシルは平然と答えた。

 ソフィアは思わず笑った。

 しかし、その和やかな雰囲気は長く続かなかった。

 ダニエルが静かに言った。

「……マーガレットも、先生の研究を手伝っていたんです」

 エレノアの表情が変わった。

「彼女も?」

「ええ。古い新聞や土地台帳を調べていました」

「では、彼女も研究内容を知っている?」

「……一部は」

 ダニエルは頷いた。

「ただ、最近は先生と意見が合わなくなっていました」

 セシルは静かに尋ねた。

「どのような?」

 ダニエルは少し考えた。

「先生が発見した資料の中に、彼女の家族に関係するものがあったんです」

「家族?」

「ええ。昔、この建物の管理に関わっていたらしくて……」

 エレノアは手帳に記録した。

「なるほど」

 そして、静かに呟いた。

「……登場人物が揃ってきたわね」


――同日 午後1時15分

ロンドン大学図書館


 大学図書館は、静かな午後の空気に包まれていた。

 高い天井。長い閲覧机。壁一面の本棚。

 窓から差し込む弱い日差しが、古い書物の背表紙を照らしている。

 3人は、図書館員のマーガレット・エリスと面会していた。

 マーガレットは22歳。

 栗色の髪を後ろでまとめた、落ち着いた雰囲気の女性だった。

「ウィットモア先生の研究についてですか?」

 彼女は少し警戒した様子で尋ねた。

「ええ」

 セシルは穏やかに答えた。

「先生が最近、古い資料について調べていらっしゃると伺いました」

 マーガレットは頷いた。

「はい。私も少しお手伝いしました」

「どのような資料を?」

 エレノアが尋ねた。

「19世紀末の土地台帳と、建物の所有権記録です」

「時系列研究協会についても?」

 マーガレットの表情が変わった。

「……その名前を、どこで?」

「先生から伺いました」

 エレノアは答えた。

 マーガレットはしばらく黙っていた。

 やがて、小さく溜息をついた。

「……あの団体は、私の祖父の家族と関係があるんです」

「どのような?」

「祖父の父親が、かつて建物の管理人をしていたそうです」

 エレノアは静かに頷いた。

「なるほど」

 セシルが尋ねた。

「先生の研究成果が公表されると、何か困ることがあるのでしょうか?」

 マーガレットは首を振った。

「いいえ。私は、真実を知りたいだけです」

 しかし、その声はわずかに震えていた。

 ソフィアが優しく尋ねた。

「……何か、心配なことがあるんですか?」

 マーガレットは少し驚いたように顔を上げた。

 そして、しばらく迷った末に答えた。

「……先生が、最近とても怖がっているんです」

「怖がっている?」

「ええ。誰かが自分を殺そうとしている、と」

 エレノアは目を細めた。

「先生が、そう言ったのですか?」

「はい」

 マーガレットは頷いた。

「昨日も、電話でそう言っていました」

「何時頃?」

「午後8時頃です」

 エレノアは手帳に記録した。

「その時、先生は何と?」

 マーガレットは少し考えた。

「……『明日、すべてが終わる』と」

 3人の間に沈黙が落ちた。

 セシルは静かに呟いた。

「……Mon Dieu」

 エレノアは窓の外を見つめた。

 1986年11月7日。

 午後1時30分。

 ウィットモアが死亡するまで、残された時間は数時間しかなかった。


――同日 午後6時40分

ウィットモア邸


 夕暮れのロンドンには、冷たい雨が降り始めていた。

 3人がウィットモア邸へ到着すると、玄関にはすでに数人の客が集まっていた。

 ダニエル・ハーパー。

 マーガレット・エリス。

 そして、ウィットモアの研究仲間である中年の男性が2人。

 書斎には、緊張した空気が漂っていた。

「皆さん、お集まりいただきありがとうございます」

 ウィットモアは机の前に立っていた。

 その顔色は昨日よりも悪かった。

「今夜、私は長年の研究について、重要な発表をするつもりです」

 ダニエルが不安そうに言った。

「先生、本当に発表するんですか?」

「ああ」

「ですが……」

「もう決めたことだ」

 ウィットモアは静かに答えた。

 マーガレットは俯いていた。

 セシルはその様子を観察していた。

 エレノアは部屋の構造を確認していた。

 書斎の扉は1つ。

 窓は2つ。

 どちらも内側から鍵をかけられる構造だった。

 そして、机の奥には鍵付きの書類棚。

 その時、ウィットモアが言った。

「……少し待っていてくれ」

 彼は机の上の封筒を手に取った。

「最後の資料を確認してくる」

 そう言うと、書斎の奥にある小さな資料室へ入っていった。

 扉が閉まった。

 鍵のかかる音がした。

 エレノアは時計を確認した。

 午後6時55分。

 その時だった。

 突然、資料室の中から大きな物音が響いた。

 何かが倒れる音。

 続いて、短い悲鳴。

「……先生!?」

 ダニエルが叫んだ。

 全員が扉へ駆け寄った。

 しかし、扉は内側から鍵がかかっていた。

「開かない!」

 ダニエルが叫んだ。

 エレノアは扉を調べた。

 鍵穴は古い真鍮製。

 扉の下には、わずかな隙間があった。

 セシルが静かに言った。

「……中から返事がありません」

 ソフィアは不安そうに扉を叩いた。

「ウィットモアさん! 聞こえますか!?」

 返事はなかった。

 エレノアは決断した。

「扉を壊して!」

 ダニエルと研究仲間の男性たちが肩をぶつけた。

 何度目かの衝撃で、古い扉が破れた。

 そして、全員が室内へ飛び込んだ。

 そこには、床に倒れたウィットモアの姿があった。

 机の上には割れたグラス。

 床には散乱した書類。

 そして、男性の胸には、細い金属製の刃物が突き刺さっていた。

 ソフィアが悲鳴を上げた。

「……そんな……!」

 ダニエルは呆然としていた。

「先生……?」

 エレノアは素早く駆け寄った。

 そして、男性の首元に指を当てた。

 数秒後。

 彼女は静かに首を振った。

「……亡くなっているわ」

 部屋には重い沈黙が落ちた。

 1986年11月7日。

 午後7時。

 アーサー・ウィットモアは、予告されたとおり死亡した。

 しかし、その部屋は内側から施錠されていた。

 窓も閉じられている。

 そして、凶器は被害者の胸に残されていた。

 密室殺人。

 それが、3人の少女探偵の前に現れた最初の本格的な事件だった。


――同日 午後7時20分

ウィットモア邸・資料室


 警察が到着するまでの間、エレノアたちは現場の状況を確認していた。

 もちろん、証拠を動かさないよう細心の注意を払っていた。

 エレノアは扉の鍵穴を見つめた。

「……奇妙ね」

 セシルが尋ねた。

「何か気づきましたか?」

「鍵は内側からかかっていた。でも、扉の下には隙間がある」

「つまり?」

「糸や細い道具を使えば、外側から施錠できる可能性がある」

 セシルは頷いた。

「なるほど。しかし、それだけでは犯人を特定できませんね」

「ええ」

 エレノアは室内を見渡した。

 窓は閉じられていた。

 床には足跡がほとんどない。

 そして、机の上には割れたグラスが残されていた。

「……ソフィア」

「何?」

「この部屋に入った時、何か気づかなかった?」

 ソフィアは少し考えた。

「……変な匂いがした」

「匂い?」

「うん。薬品みたいな匂い」

 エレノアは目を細めた。

「……なるほど」

 セシルも静かに頷いた。

「非常に重要な証言ですね」

 ソフィアは驚いた。

「本当?」

「ええ」

 エレノアは答えた。

「殺害方法を考える手がかりになるかもしれない」

 その時、廊下から警察官の声が聞こえた。

「皆さん、こちらへお願いします」

 3人は現場を離れた。

 しかし、エレノアの頭の中では、すでに推理が始まっていた。


――同日 午後8時10分

ウィットモア邸・応接室


 警察による事情聴取が始まっていた。

 事件当時、屋敷にいた人物は全員、応接室に集められている。

 ダニエル・ハーパー。

 マーガレット・エリス。

 研究仲間の男性2人。

 そして、エレノア、ソフィア、セシルの3人。

 警察官は全員の行動を確認していた。

 ダニエルは事件発生時、書斎の入口付近にいた。

 マーガレットは窓際の椅子に座っていた。

 研究仲間の男性2人は暖炉の前で会話していた。

 そして、3人の少女は部屋の中央にいた。

 つまり、全員が互いの姿を確認できる位置にいた。

 セシルは静かに呟いた。

「……奇妙ですね」

 エレノアが頷いた。

「ええ」

「犯人がこの中にいるなら、どうやって密室を作ったのでしょう?」

 エレノアは少し考えた。

 そして、静かに答えた。

「……そもそも、犯人は部屋に入っていないのかもしれない」

 セシルの表情が変わった。

「なるほど」

 ソフィアは首を傾げた。

「どういうこと?」

「殺害方法を考え直す必要があるということよ」

 エレノアは答えた。

「密室の中で人が死んだからといって、必ずしも犯人がその部屋に入ったとは限らない」

 セシルは満足そうに微笑んだ。

「Très bien。実に合理的です」

 その時、マーガレットが小さく呟いた。

「……私のせいかもしれない」

 ソフィアが振り向いた。

「え?」

 マーガレットは震える声で続けた。

「私が……先生に、あの資料を渡さなければ……」

 エレノアの表情が変わった。

「……どの資料です?」

 マーガレットは顔を上げた。

「古い研究協会の記録です」

「いつ渡したの?」

「今日の午後です」

 エレノアは静かに尋ねた。

「どのような形で?」

「……封筒に入れて」

 その瞬間、エレノアは何かに気づいた。

 そして、ゆっくりと微笑んだ。

「……なるほど」

 セシルも彼女を見た。

「何か分かりましたか?」

「ええ」

 エレノアは答えた。

「ようやく、事件の構造が見えてきたわ」


――同日 午後9時00分

ウィットモア邸・応接室


 エレノアは、警察官に向かって静かに言った。

「1つ、確認していただきたいことがあります」

「何だね?」

「資料室にあった封筒です」

 警察官は眉をひそめた。

「封筒?」

「ええ。ウィットモア氏が最後に持っていたものです」

 警察官は部下に指示を出した。

 数分後、封筒が運ばれてきた。

 エレノアは中身を確認するよう求めた。

 封筒の中には、古い書類が数枚入っていた。

 しかし、そのうちの1枚だけ、紙の端が不自然に切り取られていた。

「……これは?」

 警察官が尋ねた。

 エレノアは静かに答えた。

「仕掛けの一部です」

「仕掛け?」

「ええ」

 エレノアは続けた。

「犯人は、ウィットモア氏が資料室で書類を確認することを知っていた」

 セシルが頷いた。

「そして、彼が1人になる時間を利用した」

「ですが、犯人は部屋に入っていません」

 警察官が言った。

「そのとおりです」

 エレノアは答えた。

「だから、殺害方法を事前に仕込んだのです」

 彼女は資料室の机を指さした。

「机の引き出しには、古い書類を押さえるための金属製の器具がありました」

「それが?」

「その器具の一部が、凶器として使われた可能性があります」

 セシルは静かに続けた。

「つまり、被害者が封筒を開ける動作を利用して、仕掛けが作動するようにした」

 警察官は驚いた。

「そんなことが可能なのか?」

「仕組みを調べれば分かります」

 エレノアは答えた。

「ただし、重要なのは仕掛けそのものではありません」

 彼女は部屋にいる全員を見渡した。

「誰が、その封筒を用意したのかです」

 マーガレットの顔が青ざめた。

「……私です」

 エレノアは静かに頷いた。

「ええ。あなたが渡した」

 ソフィアは驚いてマーガレットを見た。

「……まさか」

 しかし、セシルは静かに首を振った。

「まだ結論を出すのは早いですよ、マドモアゼル」

 彼女はマーガレットに向き直った。

「エリスさん。あなたは封筒を渡しただけですね?」

「……はい」

「中身を確認しましたか?」

「いいえ。ダニエルから預かったものです」

 その瞬間、室内の空気が変わった。

 ダニエルが顔を上げた。

「……何?」

 セシルは静かに微笑んだ。

「なるほど。ようやく、すべてが繋がりましたね」

 エレノアも頷いた。

「ええ」

 彼女はダニエルを見つめた。

「ハーパーさん。あなたが、封筒を用意したのね?」

 青年は青ざめた。

「……違う」

「では、なぜマーガレットさんに渡したの?」

「それは……」

 ダニエルは言葉に詰まった。

 セシルが静かに続けた。

「あなたは、先生の研究発表を阻止したかった」

「違う!」

「ですが、先生を殺すつもりだったのでしょうか?」

 ダニエルは何も答えなかった。

 その沈黙が、すべてを物語っていた。

 やがて、青年は力なく椅子に座り込んだ。

「……僕は」

 彼は震える声で言った。

「先生を、止めたかっただけなんだ……」

 マーガレットが泣きそうな顔で見つめた。

「ダニエル……」

 青年は両手で顔を覆った。

「先生が研究を発表すれば、僕たちの人生は終わると思った」

「なぜ?」

 エレノアが尋ねた。

 ダニエルは顔を上げた。

「……あの研究協会の記録には、僕の家族の名前もあったんだ」

 セシルは静かに頷いた。

「なるほど」

「祖父が、協会の資金を不正に流用していた証拠があった」

 ダニエルは続けた。

「それが公表されれば、家族の名誉は失われる」

 エレノアは静かに言った。

「だから、先生を殺した?」

 青年は首を振った。

「……殺すつもりなんてなかった」

「では、なぜ仕掛けを?」

「脅かして、発表をやめさせるつもりだったんだ」

 ダニエルは震える声で答えた。

「まさか、本当に死ぬなんて……」

 室内には重い沈黙が落ちた。

 セシルは静かに言った。

「あなたは、人間の恐怖を利用しようとした」

 青年は俯いた。

「……はい」

「しかし、その恐怖が、取り返しのつかない結果を招いたのです」

 ダニエルは何も答えなかった。

 警察官が彼に近づいた。

「ハーパーさん。詳しい話は署で聞こう」

 青年は抵抗しなかった。

 こうして、ウィットモア死亡事件の犯人は明らかになった。

 しかし、エレノアの表情は晴れなかった。

 なぜなら、まだ解けていない謎があったからだ。

 犯人は、1986年に生きている青年だった。

 それなのに、手紙にはこう書かれていた。

『犯人はまだ生まれていない。』

 そして、死亡したはずのウィットモアは、午後10時以降に目撃されている。

 事件は解決したはずだった。

 だが、本当の謎はまだ残されていた。


――同日 午後10時15分

ロンドン・ベーカー街


 警察による事情聴取を終えた3人は、ウィットモア邸を後にした。

 雨はすでに止んでいた。

 濡れた石畳には街灯の光が反射し、夜のロンドンは静かな輝きを放っていた。

「……終わったんだね」

 ソフィアが呟いた。

「少なくとも、殺人事件についてはね」

 エレノアは答えた。

 セシルは静かに頷いた。

「ですが、まだ不思議な点が残っています」

「ええ」

 エレノアは手帳を開いた。

「午後10時以降の目撃証言」

「そして、まだ生まれていない犯人」

 セシルが続けた。

 ソフィアは首を傾げた。

「どういうことなんだろう……」

 その時だった。

 通りの向こう側に、1人の男性の姿が見えた。

 黒いコートを着た中年男性。

 眼鏡をかけ、少し痩せた顔立ち。

 ソフィアは息を呑んだ。

「……え?」

 エレノアも足を止めた。

 その男性は、街灯の下をゆっくりと歩いていた。

 そして、3人の前で立ち止まった。

「……こんばんは」

 男性は静かに言った。

 その顔は、間違いなくアーサー・ウィットモアだった。

 ソフィアが震える声で呟いた。

「……ウィットモアさん……?」

 男性は微笑んだ。

「いや」

 彼は首を振った。

「私は、君たちが知っているアーサー・ウィットモアではない」

 エレノアは目を細めた。

「……では、あなたは誰?」

 男性はしばらく黙っていた。

 そして、静かに答えた。

「別の世界から来た、アーサー・ウィットモアだ」

 セシルが小さく呟いた。

「……Mon Dieu」

 男性は続けた。

「君たちが調べていた事件は、1つではない」

「どういうこと?」

 エレノアが尋ねた。

「同じ日、同じ場所で、異なる世界の私が死亡した」

 男性は静かに答えた。

「ある世界では事故死。ある世界では殺人。そして、別の世界では私は生き延びた」

 ソフィアは驚いた。

「……そんなことが」

「あり得るのよ」

 エレノアは静かに言った。

「私たちは、すでに異なる時代を移動している。並行世界が存在しても不思議ではない」

 男性は頷いた。

「そのとおりだ」

 セシルが尋ねた。

「では、あなたは何のためにここへ?」

 男性はエレノアを見つめた。

「君たちに、警告するためだ」

「警告?」

「ああ」

 男性は静かに続けた。

「CLIBの内部には、歴史を意図的に改変しようとしている者がいる」

 エレノアの表情が変わった。

「……何ですって?」

「私は、その証拠を見つけた」

 男性は懐から小さな封筒を取り出した。

「これを持っていってくれ」

 エレノアは封筒を受け取った。

 表には、見覚えのある文字が書かれていた。

『エレノア・アシュフォード嬢へ』

 彼女は息を呑んだ。

「……この筆跡」

 男性は頷いた。

「そうだ。君が2026年に受け取った手紙を書いたのは、私だ」

 ソフィアが驚いた。

「じゃあ、あの手紙は……」

「君たちを、この事件へ導くためのものだった」

 エレノアは静かに尋ねた。

「では、『犯人はまだ生まれていない』という言葉は?」

 男性は少しだけ微笑んだ。

「それは、別の事件の犯人についてだ」

「別の事件?」

「ああ」

 彼は続けた。

「君たちがこれから調べることになる、もっと大きな事件だ」

 エレノアは封筒を握り締めた。

「……なるほど」

 セシルは静かに呟いた。

「つまり、今回の事件は序章にすぎないということですね」

 男性は頷いた。

「そうだ」

 その時、遠くから時計の鐘が響いた。

 午後10時30分。

 男性は空を見上げた。

「……そろそろ時間だ」

「待って」

 エレノアが呼び止めた。

「あなたは、どこへ行くの?」

 男性は静かに微笑んだ。

「私の世界へ帰る」

「また会える?」

 ソフィアが尋ねた。

 男性は少し考えた。

「……それは、君たち次第だ」

 そう言うと、彼は路地の奥へ歩き始めた。

 エレノアは追いかけようとした。

 しかし、セシルが静かに腕を伸ばした。

「アシュフォード嬢」

「何?」

「今は、追わない方がよろしいでしょう」

「……どうして?」

「彼は、すべてを話すつもりがありません」

 セシルは静かに答えた。

「そして、無理に追えば、私たちが守るべき規則を破ることになるかもしれません」

 エレノアはしばらく黙っていた。

 やがて、小さく頷いた。

「……そうね」

 彼女は封筒を鞄にしまった。

「今は、これで十分よ」

 ソフィアは不安そうに尋ねた。

「……これから、どうなるんだろう?」

 エレノアは静かに微笑んだ。

「分からないわ」

 そして、夜のロンドンを見つめた。

「だからこそ、調べる価値があるのよ」


――1986年11月8日 午前8時30分

CLIBロンドン支部・地下時空駅


 翌朝。

 3人は、クロノス急行の発着ホームに立っていた。

 薄暗い地下駅には、黒と深紅の車体を持つ列車が停車していた。

 ソフィアは名残惜しそうにホームを見渡した。

「……もう帰るんだね」

「ええ」

 エレノアは答えた。

「事件の調査は完了したもの」

 セシルは満足そうに頷いた。

「初めての任務としては、なかなか見事な働きでしたよ」

「あなたもね」

 エレノアは微笑んだ。

 セシルは胸元のリボンを整えた。

「Merci。光栄です」

 ソフィアが尋ねた。

「セシルさんも、一緒に帰るんですか?」

「ええ。私も今回の任務は終了です」

 セシルは頷いた。

「もっとも、帰還後は報告書の作成が待っていますが」

 エレノアは苦笑した。

「……それは面倒ね」

「探偵の仕事には、書類整理も含まれますから」

 セシルは真顔で答えた。

「私は、書類を整える作業が大好きです」

 ソフィアは笑った。

「セシルさんらしいですね」

 その時、駅員が声をかけた。

「皆様、まもなく発車いたします」

 3人は列車へ乗り込んだ。

 客車の窓からは、薄暗いホームが見えていた。

 エレノアは座席に腰掛け、鞄から封筒を取り出した。

 昨夜、もう1人のウィットモアから受け取ったものだった。

 しかし、彼女はまだ封を開けていなかった。

「……開けないの?」

 ソフィアが尋ねた。

「今は、まだね」

「どうして?」

「帰還してから、正式な証拠として扱うべきでしょう」

 エレノアは答えた。

「それに、急いで開けたところで、真実が逃げるわけではないもの」

 セシルは満足そうに微笑んだ。

「Très bien。慎重な判断です」

 やがて、列車が静かに動き始めた。

 窓の外のホームがゆっくりと遠ざかっていく。

 そして、景色は再び無数の光が渦巻く空間へと変わった。

 クロノス急行は、2026年へ向けて走り始めた。


――2026年11月8日 午前9時10分

英国・ロンドン

CLIB本部


 3人がクロノス急行を降りた時、ロンドンは穏やかな朝を迎えていた。

 地下駅から階段を上がると、そこには見慣れた現代の街並みが広がっていた。

 自動車の形も、広告も、人々の服装も、すべてが2026年のものに戻っている。

「……帰ってきたんだ」

 ソフィアは安堵したように呟いた。

「ええ」

 エレノアは頷いた。

「40年後のロンドンへ」

 3人はCLIB本部へ向かった。

 そこは、かつてウィットモアが暮らしていた建物だった。

 しかし、現在は時空迷宮事件調査室として使用されている。

 玄関の扉を開くと、灰色のスーツを着た男性が待っていた。

「お帰りなさい」

 男性は静かに言った。

「初めての任務、ご苦労様でした」

 エレノアは鞄を机の上に置いた。

「事件の報告をしたいのだけれど」

「もちろんです」

 男性は頷いた。

「ですが、その前に1つ確認させてください」

「何?」

「……もう1人のアーサー・ウィットモアに会いましたね?」

 エレノアの表情が変わった。

「……知っていたの?」

 男性は答えなかった。

 ただ、静かに微笑んだ。

「CLIBには、まだ皆さんに説明していないことが多くあります」

 セシルは少し困ったように溜息をついた。

「……相変わらず、秘密主義ですね」

 男性は肩をすくめた。

「必要な情報は、必要な時にお伝えします」

 エレノアは腕を組んだ。

「……気に入らないわね」

「そうでしょうね」

 男性は苦笑した。

「ですが、今回の事件で皆さんの能力は十分に確認できました」

 彼は机の引き出しから、3枚のカードを取り出した。

 そこには、CLIBの紋章が刻まれていた。

『時空迷宮事件調査室』

『特別調査員』

 エレノアはカードを受け取った。

「……正式な調査員?」

「ええ」

 男性は頷いた。

「今後、皆さんにはさまざまな時代や世界で起きた事件を調査していただきます」

 ソフィアは目を輝かせた。

「本当に?」

「もちろんです」

 セシルは嬉しそうに微笑んだ。

「ようこそ、CLIBへ」

 エレノアはカードを見つめた。

 そして、小さく笑った。

「……退屈しなくて済みそうね」

 男性は静かに頷いた。

「それは保証いたします」

 その時、机の上に置かれた電話が鳴った。

 男性は受話器を取った。

「はい。時空迷宮事件調査室です」

 しばらく沈黙が続いた。

 やがて、男性の表情が変わった。

「……分かりました」

 彼は受話器を置いた。

 そして、3人を見つめた。

「どうやら、次の事件が発生したようです」

 ソフィアが驚いた。

「もう!?」

 エレノアは興味深そうに顔を上げた。

「……どんな事件?」

 男性は静かに答えた。

「ある世界で、存在するはずのない人物が殺害されました」

 エレノアは微笑んだ。

「……面白そうね」

 セシルも頷いた。

「Très bien。新たな謎の始まりですね」

 ソフィアは深い溜息をついた。

「……私たち、休む暇もないんだね」

 3人は互いに顔を見合わせた。

 そして、静かに笑った。

 こうして、エレノア・アシュフォードとソフィア・ベネットの最初の事件は幕を閉じた。

 しかし、彼女たちの前には、まだ無数の謎が待ち受けていた。

 過去に埋もれた真実。

 未来に隠された犯罪。

 そして、異なる世界で起きた、存在するはずのない事件。

 時空迷宮事件調査室。

 その扉は、今まさに開かれたばかりだった。


――第3話 完

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