第16話「鞄の持ち主」
第16話 鞄の持ち主
――1971年11月26日 午前11時45分
アメリカ合衆国・オレゴン州ポートランド ポートランド国際空港
11月のポートランドは、朝から冷たい雨に包まれていた。
空港の大きなガラス窓には無数の雨粒が流れ、駐機場では銀色の旅客機がゆっくりと移動している。
感謝祭の翌日。
空港には、休日を家族と過ごした人々や、帰路につく旅行客の姿が見られた。
しかし、その穏やかな光景とは対照的に、空港の一角では緊張した空気が漂っていた。
ノースウエスト・オリエント航空305便ハイジャック事件。
犯人を名乗ったダン・クーパーという男は、飛行中の旅客機から姿を消したまま、いまだ行方が分かっていない。
そして今朝、その男が所持していたとされる黒い革鞄が、ポートランド空港の手荷物保管室から発見された。
エレノア・アシュフォードは、空港の廊下を歩きながら資料を確認していた。
隣にはソフィア・ベネット。
そして、少しくたびれたベージュ色のトレンチコートを羽織ったクララ・コールマンが、いつものようにのんびりとした足取りで歩いている。
「……まさか、こんなに早く見つかるなんて」
ソフィアが呟いた。
エレノアは頷いた。
「ええ。事前に渡された事件概要では、発見は11月27日だったはずよ」
「でも、今日は26日だよね?」
「そうね」
エレノアは答えた。
「記録と実際の出来事に、1日の違いが生じている」
クララは首を傾げた。
「いやぁ、不思議ですねぇ」
ソフィアが尋ねた。
「時間が変わっちゃったんでしょうか?」
「まだ分かりません」
クララは答えた。
「それに、発見日が違うからといって、すぐに歴史改変と決めつけるのも危険です」
エレノアは頷いた。
「最初に確認すべきなのは、記録が正確だったかどうかね」
「そのとおりです」
クララは微笑んだ。
「過去の記録にも、勘違いや記入間違いはありますから」
ソフィアは手帳を開いた。
「……じゃあ、まず鞄が本当にいつ発見されたのか、確かめるんですね」
「ええ」
クララは頷いた。
「それから、誰が、どこで、どんな状態で見つけたのか」
エレノアは歩みを止めた。
「……そして、なぜ発見者がマイケル・リードだったのか」
クララは微笑んだ。
「そうですねぇ」
その表情には、いつもの人懐っこさが浮かんでいた。
しかし、その瞳は鋭く、廊下の奥にある手荷物保管室の扉を見つめていた。
――同日 午後0時10分
ポートランド国際空港 手荷物保管室
手荷物保管室には、木製の棚と金属製の保管箱が並んでいた。
旅行鞄や小包が番号ごとに整理され、壁には荷物の取扱規則が掲げられている。
部屋の中央には、1つの黒い革鞄が置かれていた。
その周囲には、連邦捜査局の捜査員が数名立っている。
CLIBの3人は、捜査当局の許可を受け、現場の状態を確認することになっていた。
鞄はすでに証拠品として管理されており、直接触れることは認められていない。
エレノアは、少し離れた場所から鞄を観察した。
黒い革製。
角には金属製の補強具。
持ち手は使い込まれており、表面には細かな擦り傷が見られる。
「……写真と似ているわね」
エレノアが呟いた。
ソフィアは資料を取り出した。
「うん。事件前に見た、あの鞄の写真と」
クララは鞄を見つめた。
「いやぁ、確かによく似ていますねぇ」
エレノアは顔を上げた。
「でも、似ているだけでは同じ物とは言えない」
「ええ」
クララは頷いた。
「そこが大切なんですよ」
捜査員の1人が近づいてきた。
「CLIBの皆さんですね」
男は40代ほどで、灰色のスーツを着ていた。
「連邦捜査局のトーマス・ウォーカーです」
エレノアは軽く会釈した。
「エレノア・アシュフォードです」
「ソフィア・ベネットです」
「クララ・コールマンです。いやぁ、お忙しいところすみません」
クララは人懐っこく微笑んだ。
ウォーカーは頷いた。
「現在、鞄の外側と内部を鑑識に回す準備をしています」
エレノアが尋ねた。
「中身は確認したの?」
「はい」
ウォーカーは答えた。
「爆発物はありませんでした」
ソフィアは安堵したように息を吐いた。
「……よかった」
「ただし、いくつか気になる物が入っています」
ウォーカーは資料を開いた。
「古い新聞、衣類、それから航空会社の荷物札です」
エレノアの表情が変わった。
「荷物札?」
「はい」
ウォーカーは頷いた。
「ただし、番号の一部が擦れていて、現時点では完全に読み取れません」
クララは静かに尋ねた。
「その荷物札、鞄の外側に付いていたんですか?」
「いいえ」
ウォーカーは答えた。
「鞄の内側のポケットから見つかりました」
クララは頷いた。
「なるほど、なるほど」
そして、少し考えた。
「ああ、そうそう」
ウォーカーが顔を上げた。
「何でしょう?」
「その荷物札、いつのものか分かりますか?」
「まだ確認中です」
ウォーカーは答えた。
「ただ、最近発行されたもののようです」
クララは微笑んだ。
「いやぁ、ありがとうございます」
エレノアは鞄を見つめた。
「……もし事件当日に発行された札なら、重要な手掛かりになるわ」
「ええ」
クララは頷いた。
「でも、まだ決めつけられませんねぇ」
ソフィアは手帳に書き込んだ。
『黒い革鞄――内部に航空会社の荷物札』
『発行日・番号は確認中』
『爆発物なし』
クララはその文字を見て、小さく頷いた。
――同日 午後1時05分
ポートランド国際空港 地上職員事務室
事務室には、電話の呼び出し音とタイプライターの音が響いていた。
机の上には勤務表や運航記録が積まれ、壁には翌日の作業予定が貼り出されている。
マイケル・リードは、窓際の机に座っていた。
27歳。
茶色の髪を短く整えた地上係員である。
彼は3人の少女が入ってくると、露骨に顔をしかめた。
「……またあなたたちですか」
クララはいつもの笑顔を浮かべた。
「いやぁ、どうも。何度もすみませんねぇ」
リードは溜息をついた。
「今度は何です?」
「ちょっと、鞄のことでお話を伺いたくて」
クララは答えた。
リードの表情が、わずかに変わった。
「……鞄?」
「ええ」
クララは頷いた。
「今朝、手荷物保管室で黒い革鞄を見つけたそうですね」
「……はい」
リードは答えた。
「整理中に見つけました」
エレノアは手帳を開いた。
「何時頃?」
「午前8時過ぎです」
リードは答えた。
「棚の奥に置かれていました」
ソフィアが尋ねた。
「普段から、そこを整理しているんですか?」
「ええ。担当業務の1つです」
クララは頷いた。
「なるほど」
そして、何気ない調子で尋ねた。
「ところで、どうしてその鞄が事件と関係していると思ったんです?」
リードは少し眉をひそめた。
「……黒い鞄だったからです」
「黒い鞄?」
「ええ」
リードは答えた。
「新聞で、犯人が黒い鞄を持っていたと読んだので」
クララは微笑んだ。
「いやぁ、なるほど」
エレノアはリードを見つめた。
「でも、黒い鞄なんて珍しくないわ」
「……そうですね」
リードは答えた。
「ただ、何となく気になったんです」
クララは頷いた。
「そうですか」
そして、椅子に腰掛けた。
「いやぁ、実は私も、そういうことがよくあるんですよ」
リードは不思議そうに顔を上げた。
「……何がです?」
「何となく気になる、ということです」
クララは笑った。
「小さな違和感って、案外大切なんですよねぇ」
リードは少し表情を緩めた。
「……そうですか」
「ええ」
クララは頷いた。
そして、静かに続けた。
「ところで、その鞄を見つけた時、誰か一緒にいました?」
リードは答えた。
「……いえ、私1人でした」
「なるほど」
クララは頷いた。
「では、発見した直後に、誰へ報告したんでしょう?」
「上司です」
「お名前は?」
「ロバート・ヘイズです」
クララは微笑んだ。
「ありがとうございます」
エレノアは手帳に書き込んだ。
『発見時刻――午前8時過ぎ』
『発見場所――保管室奥の棚』
『発見者――リード単独』
『報告先――ロバート・ヘイズ』
クララは立ち上がった。
「いやぁ、大変参考になりました」
リードは少し安堵したように息を吐いた。
「……もういいですか?」
「ええ」
クララは頷いた。
「ありがとうございました」
3人は扉へ向かった。
しかし、クララは数歩進んだところで立ち止まった。
「ああ、そうそう」
リードは顔を上げた。
「……まだ何か?」
「もう1つだけ、いいですか?」
クララは振り返った。
「その鞄、最初から棚の奥にあったんでしょうか?」
リードは眉をひそめた。
「……どういう意味です?」
「いやぁ、すみません」
クララは微笑んだ。
「例えば、誰かが後から置いた可能性もあるんじゃないかと思いまして」
リードは少し考えた。
「……それは分かりません」
「なるほど」
クララは頷いた。
「では、あなたが最後にその棚を整理したのは、いつですか?」
リードは一瞬、言葉を止めた。
「……23日です」
エレノアの表情が変わった。
「事件の前日?」
「ええ」
リードは答えた。
「23日の午後に整理しました」
クララは静かに頷いた。
「……なるほど」
そして、いつもの笑顔を浮かべた。
「いやぁ、ありがとうございました」
3人は事務室を後にした。
――同日 午後1時40分
ポートランド国際空港 職員用廊下
廊下へ出ると、エレノアが口を開いた。
「……クララ」
「はい?」
「最後の質問、重要だったわね」
「そうですか?」
クララは首を傾げた。
エレノアは頷いた。
「リードは23日の午後に棚を整理したと言った」
「ええ」
「そして、26日の朝に鞄を見つけた」
「そうですねぇ」
クララは答えた。
ソフィアが手帳を確認した。
「……じゃあ、鞄は23日の午後から26日の朝までの間に置かれた可能性が高いんですね」
エレノアは頷いた。
「そうよ。ただし、23日の整理が本当に完全だったなら、という条件付きだけれど」
クララは微笑んだ。
「いやぁ、そこまで考えてくれると助かりますねぇ」
ソフィアは首を傾げた。
「でも、リードさん自身が置いた可能性もあるんですよね?」
「もちろんあります」
クララは答えた。
「ただ、まだそれを示す証拠はありません」
エレノアは腕を組んだ。
「……それに、彼がわざわざ鞄を発見したと報告した理由も分からない」
「ええ」
クララは頷いた。
「もし隠したい物なら、わざわざ警察へ知らせる必要はないようにも思えます」
ソフィアは考えた。
「……でも、見つけてもらいたかったのかもしれない」
クララは顔を上げた。
「おや」
ソフィアは少し慌てた。
「えっ?」
「いやぁ、いい考えですよ」
クララは微笑んだ。
「誰かが証拠を隠したのではなく、見つけさせようとした可能性ですね」
エレノアは頷いた。
「……犯人の注意を別の方向へ向けるため?」
「そういうことも考えられます」
クララは答えた。
そして、少し考えた。
「ただし、今は仮説です」
エレノアは微笑んだ。
「分かっているわ」
3人は廊下を進んだ。
その先には、ロバート・ヘイズの事務室があった。
――同日 午後2時15分
ポートランド国際空港 航空会社事務室
ロバート・ヘイズは、机に向かって書類を整理していた。
40代半ばほどの男性で、灰色のスーツを着ている。
3人が入ってくると、彼は顔を上げた。
「……CLIBの皆さんですね」
クララは微笑んだ。
「いやぁ、どうも。お忙しいところすみません」
ヘイズは頷いた。
「鞄の件でしょう?」
「ええ」
クララは答えた。
「リードさんから、あなたへ報告したと伺いました」
「そのとおりです」
ヘイズは頷いた。
「今朝、彼から連絡を受けました」
エレノアが尋ねた。
「何時頃?」
「午前8時20分頃です」
ヘイズは答えた。
「保管室で不審な鞄を見つけたと言っていました」
ソフィアは手帳に書き込んだ。
「……その時、リードさんは何か説明しましたか?」
「黒い革鞄で、事件の犯人が持っていたものに似ていると」
ヘイズは答えた。
クララは頷いた。
「なるほど」
そして、少し考えた。
「ああ、そうそう」
ヘイズが顔を上げた。
「何でしょう?」
「その鞄、リードさんが持ってきたんですか?」
ヘイズは首を振った。
「いいえ」
「では?」
「保管室へ来てほしいと言われました」
クララは頷いた。
「なるほど」
エレノアが尋ねた。
「あなたが保管室へ行った時、鞄はどこに?」
「棚の奥です」
ヘイズは答えた。
「リードが指さして教えてくれました」
ソフィアは頷いた。
「……つまり、鞄は動かされていなかったんですね」
「少なくとも、私が見た時には棚にありました」
ヘイズは答えた。
クララは微笑んだ。
「いやぁ、ありがとうございます」
そして、少し身を乗り出した。
「ところで、23日の午後、リードさんが棚を整理したという記録はありますか?」
ヘイズは資料を確認した。
「……あります」
エレノアの表情が変わった。
「本当?」
「はい」
ヘイズは頷いた。
「23日の午後4時から、手荷物保管室の整理作業を担当しています」
ソフィアは手帳に書き込んだ。
クララは頷いた。
「なるほど」
そして、静かに尋ねた。
「その時、他の職員も一緒でしたか?」
ヘイズは資料を確認した。
「……いいえ。記録上はリード1人です」
クララは微笑んだ。
「ありがとうございます」
エレノアは腕を組んだ。
「……つまり、23日の整理も26日の発見も、リードが単独で行っていた」
「そうなります」
ヘイズは答えた。
クララは頷いた。
「いやぁ、これはなかなか興味深いですねぇ」
ヘイズは少し不安そうに尋ねた。
「……リードが何か関係していると?」
クララは首を振った。
「まだ分かりません」
そして、穏やかに微笑んだ。
「ただ、確認したいことが増えただけです」
ヘイズは頷いた。
クララは立ち上がった。
「お忙しいところ、ありがとうございました」
3人は事務室を後にした。
――同日 午後3時30分
ポートランド国際空港 CLIB臨時調査室
机の上には、黒い革鞄の写真と、空港職員の勤務記録が並べられていた。
エレノアは資料を整理しながら、静かに口を開いた。
「……これまでに分かったことをまとめましょう」
ソフィアは手帳を開いた。
クララは椅子に腰掛け、コーヒーカップを手にしている。
「まず、鞄が発見されたのは26日の午前8時過ぎ」
エレノアが言った。
「発見者はマイケル・リード」
ソフィアが続けた。
「23日の午後にも、リードさんが同じ棚を整理していた」
クララは頷いた。
「ええ」
エレノアは続けた。
「そして、発見時も単独だった」
「そうですねぇ」
クララは答えた。
ソフィアは手帳を見つめた。
「……やっぱり、リードさんが怪しいのかな」
エレノアは首を振った。
「怪しいことと、犯人であることは別よ」
「……うん」
ソフィアは頷いた。
クララは微笑んだ。
「いやぁ、エレノアさんの言うとおりです」
そして、少し考えた。
「でも、私にはもう1つ気になることがあるんですよ」
エレノアが顔を上げた。
「何?」
クララは黒い革鞄の写真を指さした。
「この鞄、本当にクーパーさんが持っていたものなんでしょうかねぇ」
ソフィアは首を傾げた。
「……最初から疑っていましたよね」
「ええ」
クララは頷いた。
「だって、似ているだけなら、他にも同じような鞄はありますから」
エレノアは頷いた。
「……同一性の確認が必要ね」
「そういうことです」
クララは微笑んだ。
その時、電話が鳴った。
ソフィアが受話器を取った。
「はい、CLIB臨時調査室です」
しばらく話を聞いた後、彼女の表情が変わった。
「……分かりました。ありがとうございます」
受話器を置くと、エレノアとクララを見た。
「……鑑識から連絡が来たよ」
エレノアが顔を上げた。
「結果が出たの?」
「うん」
ソフィアは頷いた。
「鞄の持ち手から、複数の指紋が見つかったんだって」
クララは静かに頷いた。
「なるほど」
ソフィアは続けた。
「そのうちの1つが、マイケル・リードさんの指紋と一致したそうです」
室内に沈黙が落ちた。
エレノアの表情が変わった。
「……リードの?」
「うん」
ソフィアは答えた。
クララはコーヒーカップを置いた。
「……いやぁ」
そして、少し考えた。
「これは、ますます面白くなってきましたねぇ」
エレノアは腕を組んだ。
「でも、発見者なら鞄に触れていても不思議ではないわ」
「そのとおりです」
クララは頷いた。
「指紋があるだけでは、何も証明できません」
ソフィアは手帳を見つめた。
「……じゃあ、どうすればいいんですか?」
クララは微笑んだ。
「簡単ですよ」
エレノアが顔を上げた。
「……何をするつもり?」
クララは立ち上がった。
「リードさんに、もう一度お話を聞いてみましょう」
ソフィアは少し驚いた。
「……また?」
「ええ」
クララは笑った。
「いやぁ、何度も申し訳ないんですけどね」
そして、静かに続けた。
「今度は、鞄に触れたかどうかを聞いてみたいんです」
エレノアは頷いた。
「……なるほど」
クララはトレンチコートの襟を整えた。
「それじゃあ、行きましょうか」
3人は部屋を後にした。
――同日 午後4時05分
ポートランド国際空港 地上職員事務室
マイケル・リードは、机に向かって書類を整理していた。
3人の姿を見ると、彼は露骨に顔をしかめた。
「……またですか」
クララは申し訳なさそうに微笑んだ。
「いやぁ、本当にすみませんねぇ」
リードは溜息をついた。
「今度は何です?」
「ちょっと、確認したいことがありまして」
クララは答えた。
エレノアは、リードの表情を注意深く観察していた。
ソフィアは手帳を開いた。
クララは椅子に腰掛けた。
「今朝、黒い革鞄を見つけた時のことなんですけどね」
リードは頷いた。
「……はい」
「その鞄、手に取りました?」
リードは少し考えた。
「……ええ。持ち上げました」
クララは頷いた。
「なるほど」
そして、微笑んだ。
「じゃあ、指紋が付いていても不思議じゃありませんね」
リードの表情が変わった。
「……指紋?」
「ええ」
クララは答えた。
「鞄の持ち手から、あなたの指紋が見つかったそうです」
リードは少し驚いた表情を浮かべた。
「……それは、私が持ったからでしょう」
「そうですよねぇ」
クララは頷いた。
「私も、そう思います」
エレノアは、クララの言葉を聞いて少し眉を上げた。
クララは続けた。
「いやぁ、よかった。これで1つ確認できました」
リードは不思議そうに尋ねた。
「……それだけですか?」
「ええ」
クララは微笑んだ。
「それだけです」
そして、立ち上がった。
「ありがとうございました」
リードは安堵したように息を吐いた。
しかし、クララは扉の前で立ち止まった。
「ああ、そうそう」
リードの表情が曇った。
「……まだ何か?」
「もう1つだけ、いいですか?」
クララは振り返った。
「その鞄、持ち上げた時に重かったですか?」
リードは少し考えた。
「……いいえ。軽かったと思います」
「なるほど」
クララは頷いた。
「では、中に何が入っているか、分かりました?」
「……いえ」
リードは答えた。
「開けていませんから」
クララは微笑んだ。
「そうですか」
そして、静かに続けた。
「じゃあ、どうしてその鞄が犯人のものだと思ったんでしょうねぇ」
リードは眉をひそめた。
「……黒い鞄だったからです」
「ええ」
クララは頷いた。
「そうでしたねぇ」
そして、少し首を傾げた。
「でも、黒い鞄なんて、空港にはいくらでもありますよね?」
リードは言葉を詰まらせた。
「……それは」
クララは穏やかに微笑んだ。
「いやぁ、すみません。変なことを聞いてしまいました」
リードは黙っていた。
クララは続けた。
「ただ、ちょっと不思議なんですよ」
エレノアが顔を上げた。
「……何が?」
クララはリードを見つめた。
「この方は、黒い鞄を見ただけで、すぐにハイジャック事件を思い出した」
リードは眉をひそめた。
「……それが何か?」
「いえいえ」
クララは首を振った。
「ただ、どうしてその鞄だけが気になったのか、知りたかったんです」
リードは少し強い口調で答えた。
「……偶然です」
クララは頷いた。
「そうですか」
そして、静かに微笑んだ。
「分かりました。ありがとうございます」
3人は事務室を後にした。
――同日 午後5時20分
ポートランド国際空港 CLIB臨時調査室
夕暮れの空港には、冷たい雨が降り続いていた。
エレノアは机に向かい、今日の調査内容を整理していた。
ソフィアは手帳を閉じ、クララを見つめた。
「……クララさん」
「はい?」
「リードさん、やっぱり何か隠しているように見えました」
クララは頷いた。
「そうですねぇ」
エレノアは腕を組んだ。
「でも、まだ決定的な証拠はない」
「ええ」
クララは答えた。
「だから、もう少し調べる必要があります」
ソフィアは尋ねた。
「……次は何を?」
クララは机の上の資料を見つめた。
「そうですねぇ」
そして、少し考えた。
「ああ、そうそう」
エレノアが顔を上げた。
「何?」
クララは静かに尋ねた。
「鞄の中にあった荷物札の番号、もう分かったんでしょうか?」
ソフィアは資料を確認した。
「……まだです」
「なるほど」
クララは頷いた。
「それが分かれば、鞄の持ち主に近づけるかもしれませんねぇ」
エレノアは微笑んだ。
「……そうね」
その時、電話が鳴った。
ソフィアが受話器を取った。
「はい、CLIB臨時調査室です」
しばらく話を聞いた後、彼女の表情が変わった。
「……分かりました。ありがとうございます」
受話器を置くと、エレノアとクララを見た。
「……荷物札の番号が分かったそうです」
エレノアは立ち上がった。
「本当?」
「うん」
ソフィアは頷いた。
「航空会社の記録と照合できたんだって」
クララは静かに頷いた。
「なるほど」
ソフィアは続けた。
「その荷物札は、11月24日の午後、ポートランド空港で発行されたものだったそうです」
エレノアの表情が変わった。
「……事件当日?」
「うん」
ソフィアは答えた。
クララは微笑んだ。
「いやぁ、これは重要ですねぇ」
エレノアは腕を組んだ。
「……誰の名前で発行されたの?」
ソフィアは資料を確認した。
「……それが」
彼女は少し驚いた表情を浮かべた。
「ダン・クーパーという名前だったそうです」
室内に沈黙が落ちた。
エレノアの青い瞳が細くなった。
「……クーパー?」
「うん」
ソフィアは頷いた。
クララは静かに呟いた。
「……なるほど」
そして、少し考えた。
「いやぁ、これは面白くなってきましたねぇ」
エレノアは資料を見つめた。
「……でも、荷物札に名前があるだけでは、本人が預けたとは限らない」
「そのとおりです」
クララは頷いた。
「ただ、これで1つ分かったことがあります」
ソフィアが尋ねた。
「何ですか?」
クララは静かに答えた。
「この鞄は、事件当日にポートランド空港と何らかの関係を持っていた可能性が高いということです」
エレノアは頷いた。
「……そして、クーパーという名前が使われていた」
「ええ」
クララは微笑んだ。
窓の外では、雨が降り続いていた。
空から消えた男。
地上に残された黒い鞄。
そして、その鞄に付けられていたダン・クーパーという名前。
事件の謎は、さらに深まっていた。
クララは椅子から立ち上がった。
「……さて」
彼女はトレンチコートの襟を整えた。
「次は、この荷物札を発行した人にお話を聞いてみましょうか」
エレノアは微笑んだ。
「ええ。今度こそ、鞄の持ち主に近づけそうね」
クララは扉へ向かった。
しかし、またしても立ち止まった。
「ああ、そうそう」
ソフィアが顔を上げた。
「何ですか?」
クララは静かに尋ねた。
「その荷物札、鞄の外側じゃなくて、内側のポケットに入っていたんですよね?」
エレノアは頷いた。
「ええ」
クララは少し考えた。
「……じゃあ、鞄を見つけた時には、外から名前が分からなかったはずですねぇ」
ソフィアは頷いた。
「そうですね」
クララは微笑んだ。
「いやぁ、不思議ですねぇ」
エレノアは顔を上げた。
「……何が?」
クララは静かに答えた。
「リードさんは、黒い鞄を見ただけで事件と関係があると思った」
そして、少し間を置いた。
「でも、鞄の中にはクーパーさんの名前が入っていた」
エレノアは腕を組んだ。
「……偶然にしては出来すぎている」
「そうですねぇ」
クララは頷いた。
「もちろん、まだ偶然かもしれません」
そして、静かに微笑んだ。
「ただ、もしリードさんが最初から鞄の中身を知っていたとしたら……」
ソフィアは息を呑んだ。
「……鞄を置いた人を知っている?」
「その可能性があります」
クララは答えた。
エレノアは窓の外を見つめた。
雨に濡れた滑走路の向こうでは、旅客機が次々と離着陸している。
その中の1機から、1人の男が姿を消した。
そして、地上ではその男の名前が書かれた荷物札が見つかった。
空と地上。
離れた2つの場所を結ぶ、黒い革鞄。
クララは静かに呟いた。
「……さて、リードさん」
その声には、いつもの軽い調子が残っていた。
しかし、その瞳は鋭かった。
「あなたは、いったい何をご存じなんでしょうねぇ」
窓の外では、雨が降り続いていた。
事件の真相は、まだ厚い雲の向こうに隠されていた。
――第16話 完




