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第15話「消えた鞄と残されたネクタイ」

第15話 消えた鞄と残されたネクタイ


――1971年11月24日 午後11時18分

アメリカ合衆国・ネバダ州リノ リノ空港


 夜の滑走路に、銀色の旅客機が降下してきた。

 ノースウエスト・オリエント航空305便。

 ポートランドからシアトルへ向かう短い飛行のはずだったこの便は、今やアメリカ中の注目を集めるハイジャック事件の舞台となっていた。

 機体は滑走路に接地し、長い制動の末に速度を落とした。

 操縦室では、機長が深く息を吐いた。

「……ようやく着いたな」

 副操縦士が頷いた。

「はい。乗員は全員無事です」

 しかし、その言葉に安堵の色は薄かった。

 機内には、まだ解決していない問題が残されていた。

 ダン・クーパーを名乗った男。

 身代金20万ドル。

 4つのパラシュート。

 そして、飛行中に開かれた後部階段。

 機長は後方を振り返った。

「……あの男は、どうなった?」

 誰も答えられなかった。

 乗員たちは、男が機体後方へ向かったことを知っていた。

 しかし、実際に飛び降りる瞬間を目撃した者はいない。

 やがて305便は、指定された駐機位置に停止した。

 外では警察車両と空港関係者が待機している。

 機体後部には、降ろされたままの乗降階段が見えていた。

 それはまるで、何者かが夜空へ逃げ出した後の、開け放たれた扉のようだった。


――同日 午後11時42分

リノ空港 ノースウエスト・オリエント航空305便機内


 連邦捜査局の捜査員たちが、慎重に機内へ入った。

 客室には、乗客が残していった雑誌や新聞が置かれている。

 座席の背もたれは整然と並び、天井の照明が静かな通路を照らしていた。

 つい数時間前まで、ここには多くの乗客が座っていた。

 そして、その中の1人が旅客機を乗っ取ったのである。

「後方から調べろ」

 捜査責任者が指示した。

 捜査員たちは、男が座っていたとされる機体後部へ向かった。

 座席の周辺には、いくつかの物が残されていた。

 飲み物の容器。

 小さな紙片。

 そして、黒っぽいネクタイ。

「……これは?」

 若い捜査員が尋ねた。

「犯人の所持品かもしれん」

 上司が答えた。

 ネクタイには、小さなタイピンが付いていた。

 捜査員は手袋をはめ、慎重にそれを証拠袋へ収めた。

「指紋が残っている可能性がある。鑑識へ回せ」

「了解しました」

 別の捜査員が後部階段へ向かった。

 機体後方には、夜の冷たい空気が流れ込んでいる。

 階段の先には、暗い滑走路が広がっていた。

「……本当にここから飛び降りたのか?」

 若い捜査員が呟いた。

「その可能性が高い」

 上司は答えた。

「だが、決めつけるな。まずは証拠だ」

 捜査員は頷いた。

 男が飛び降りたという推測は、状況から見れば自然だった。

 しかし、推測と証明は違う。

 誰も男の最後の姿を見ていない以上、調べるべきことはまだ数多く残されていた。


――1971年11月25日 午前8時35分

アメリカ合衆国・ワシントン州シアトル CLIBアメリカ支部・臨時調査室


 翌朝。

 シアトルの空は、相変わらず厚い雲に覆われていた。

 窓の外では雨が降り続き、街路を走る自動車が水しぶきを上げている。

 エレノア・アシュフォードは、机に広げられた報告書を読んでいた。

 その向かいでは、ソフィア・ベネットが手帳に事件の時系列を書き込んでいる。

 そして、クララ・コールマンは、いつものくたびれたトレンチコートを羽織ったまま、コーヒーを飲んでいた。

「……いやぁ、無事に着陸できてよかったですねぇ」

 クララが呟いた。

 ソフィアは頷いた。

「本当に。乗員の人たちも無事だったんですね」

「ええ」

 エレノアは報告書を閉じた。

「ただし、犯人は見つかっていない」

「そうですねぇ」

 クララは答えた。

 エレノアは資料を指さした。

「305便は昨夜、リノへ着陸した。機内を捜索したけれど、クーパーを名乗る男の姿はなかった」

 ソフィアは手帳を確認した。

「後部階段が開かれたのは、午後8時頃でしたね」

「ええ」

 エレノアは頷いた。

「その後、機体に不自然な振動が伝わった」

 クララはコーヒーカップを置いた。

「でも、飛び降りる瞬間を見た人はいない」

「そうよ」

 エレノアは答えた。

「だから、私たちはまだ男が飛び降りたと断定できない」

 クララは満足そうに微笑んだ。

「いやぁ、いいですねぇ。その慎重さ、大好きですよ」

 エレノアは少し眉を上げた。

「……褒めているの?」

「もちろんです」

 クララは笑った。

「私、思い込みで事件を解決するのが一番嫌いなんです」

 ソフィアは頷いた。

「私も、ちゃんと確かめたいです」

 その時、部屋の扉が開いた。

 ジョージ・ミラーが、厚い封筒を持って入ってきた。

「リノから、追加の報告が届きました」

 エレノアは顔を上げた。

「機内捜索の結果?」

「はい」

 ミラーは封筒を机に置いた。

「犯人の所持品とみられるネクタイが発見されています」

 ソフィアが驚いた。

「ネクタイ?」

「ええ」

 ミラーは写真を取り出した。

 そこには、黒っぽいネクタイとタイピンが写っていた。

 エレノアは写真を見つめた。

「……犯人が身に着けていたもの?」

「その可能性があります」

 ミラーは答えた。

「ただし、まだ鑑識中です」

 クララは写真を覗き込んだ。

「……へぇ」

 エレノアが尋ねた。

「何か気になる?」

「いやぁ、ちょっと」

 クララは首を傾げた。

「飛行機から飛び降りるつもりだった人が、ネクタイを外していったんですねぇ」

 ソフィアは考えた。

「邪魔になるからじゃないですか?」

「そうかもしれません」

 クララは頷いた。

「でも、それなら他の物はどうしたんでしょう?」

 エレノアが答えた。

「身代金とパラシュートは持っていったはずよ」

「ええ」

 クララは微笑んだ。

「そこなんですよ」

 ソフィアは首を傾げた。

「どういうことですか?」

「いやぁ、たいしたことじゃないんですけどね」

 クララは写真を机に置いた。

「犯人は、飛び降りるために必要な物と、必要ない物を選んだはずです」

 エレノアは頷いた。

「……それで?」

「その選び方を調べれば、犯人が何を考えていたのか、少し分かるかもしれません」

 エレノアは静かに微笑んだ。

「……なるほど」

 ソフィアは手帳に書き込んだ。

『犯人が残した物と、持ち去った物』

 クララは頷いた。

「そういうことです」


――同日 午前10時20分

シアトル CLIBアメリカ支部・資料室


 資料室の壁には、アメリカ北西部の大きな地図が掲げられていた。

 ワシントン州。

 オレゴン州。

 そして、コロンビア川。

 エレノアは、305便の推定飛行経路を赤い鉛筆でなぞっていた。

 ソフィアは、その隣で時刻を書き込んでいる。

「午後7時40分頃、シアトルを再離陸」

 エレノアが言った。

「午後8時頃、後部階段が開かれたとみられる」

 ソフィアが続けた。

「その後、機体に振動があった」

 クララは地図を見つめた。

「……なるほど」

 エレノアは顔を上げた。

「何?」

「いやぁ、飛び降りた場所を特定するのって、難しそうですねぇ」

 クララは答えた。

 エレノアは頷いた。

「ええ。飛行速度、高度、風向き、機体の位置。すべてが関係するわ」

 ソフィアは地図を見つめた。

「……森が多いですね」

「そうね」

 エレノアは答えた。

「山岳地帯もあるし、川も流れている」

 クララは腕を組んだ。

「もし犯人がパラシュートで降下したなら、着地地点を正確に予測するのは難しいでしょうねぇ」

 エレノアは頷いた。

「しかも、夜間で悪天候だった」

 ソフィアは不安そうに尋ねた。

「……生きていたのかな?」

 クララは静かに答えた。

「分かりません」

 そして、少し考えた。

「でも、私たちが調べるべきことは、そこだけじゃありません」

 エレノアが尋ねた。

「……地上の協力者?」

「ええ」

 クララは頷いた。

「ポートランド空港で会った、マイケル・リードさんです」

 ソフィアは手帳を開いた。

「27歳の地上係員ですね」

「そうです」

 クララは微笑んだ。

「彼が事件と関係しているかどうか、まだ分かりません」

 エレノアは頷いた。

「でも、確認する必要がある」

「そのとおりです」

 クララは立ち上がった。

「それじゃあ、ポートランドへ行きましょうか」

 ソフィアは驚いた。

「今からですか?」

「ええ」

 クララは答えた。

「いやぁ、こういうことは早い方がいいですから」

 エレノアは微笑んだ。

「賛成よ」

 3人は資料をまとめ、部屋を後にした。


――同日 午後1時45分

アメリカ合衆国・オレゴン州ポートランド ポートランド国際空港


 空港は、感謝祭の休日らしい落ち着いた雰囲気に包まれていた。

 昨日よりも乗客の姿は少なく、出発ロビーには静かな話し声が響いている。

 3人は、空港の地上職員事務室を訪れていた。

 マイケル・リードは、机に向かって書類を整理していた。

 彼は3人の姿を見ると、少し驚いた表情を浮かべた。

「……またあなたたちですか」

 クララは人懐っこく微笑んだ。

「いやぁ、どうも。昨日はありがとうございました」

 リードは眉をひそめた。

「今度は何です?」

「ちょっと、確認したいことがありまして」

 クララは答えた。

 エレノアは、リードの机の上にある勤務表を見つめた。

「昨日の午後、あなたは305便の搭乗口付近にいたわね」

「ええ」

 リードは答えた。

「前にも話しました」

 クララは頷いた。

「そうでしたねぇ」

 そして、何気ない調子で尋ねた。

「ところで、昨日の午後3時頃、どなたかとお話ししました?」

 リードは少し考えた。

「……仕事の話なら、何人かと」

「そうですよねぇ」

 クララは笑った。

「空港ですからね」

 ソフィアが尋ねた。

「黒いスーツの男性とは?」

 リードの表情が変わった。

「……その話は昨日もしました」

 クララは頷いた。

「ええ、覚えています」

 そして、少し身を乗り出した。

「ただ、私、1つ気になることがありまして」

 リードは溜息をついた。

「……何です?」

「あなた、昨日の午後、搭乗口で時計を見ていましたよね?」

「仕事ですから」

「ええ」

 クララは頷いた。

「でも、クーパーさんが搭乗口を通った直後にも時計を見ていらっしゃった」

 リードは不機嫌そうに答えた。

「……だから、勤務時間を確認していたんです」

「なるほど」

 クララは微笑んだ。

 そして、突然別の質問をした。

「ところで、あなたは普段、腕時計を右手に着けるんですか?」

 リードは一瞬、言葉を止めた。

「……何ですか、それは」

「いやぁ、すみません」

 クララは笑った。

「昨日、右手の方を見ていらっしゃったように思ったものですから」

 リードは左手を見せた。

「私は左手に着けています」

「そうでしたか」

 クララは頷いた。

「いやぁ、私の勘違いですね」

 エレノアは、クララの質問の意味を考えていた。

 なぜ、時計を着けている腕を確認したのか。

 しかし、クララはそれ以上説明しなかった。

 代わりに、机の上の勤務表へ視線を向けた。

「ああ、そうそう」

 リードは苛立ったように言った。

「……まだ何か?」

「もう1つだけ、いいですか?」

 クララは微笑んだ。

「昨日の午後、あなたは何時に勤務を終えたんでしょう?」

 リードは答えた。

「午後5時です」

「なるほど」

 クララは頷いた。

「その後は?」

「自宅へ帰りました」

「まっすぐ?」

「……ええ」

 クララは微笑んだ。

「そうですか」

 エレノアは手帳に書き込んだ。

『リード――午後5時退勤、自宅へ直帰と申告』

 クララは立ち上がった。

「いやぁ、ありがとうございました」

 リードは少し不機嫌そうに答えた。

「……もういいですか?」

「ええ」

 クララは頷いた。

「大変参考になりました」

 3人は事務室を後にした。


――同日 午後2時30分

ポートランド国際空港 職員用通路


 事務室を出ると、エレノアが口を開いた。

「……クララ」

「はい?」

「さっきの腕時計の質問、何か意味があったの?」

 クララは少し困ったように笑った。

「いやぁ、たいしたことじゃないんですけどね」

「でも、あなたは右手を見ていたと言ったわ」

「ええ」

 クララは頷いた。

「昨日、彼が時計を確認していた時のことを思い出しまして」

 ソフィアが尋ねた。

「何かおかしかったんですか?」

「……そうですねぇ」

 クララは少し考えた。

「彼は、左手に時計を着けていると言いました」

 エレノアは頷いた。

「ええ」

「でも、昨日は右手の方を見ていたように思うんです」

 ソフィアは首を傾げた。

「……じゃあ、時計を見ていたんじゃない?」

「その可能性があります」

 クララは答えた。

 エレノアの表情が変わった。

「……何か合図を確認していた?」

「さあ、どうでしょうねぇ」

 クララは微笑んだ。

「ただ、もし時計を見ていなかったとしたら、何を見ていたんでしょう?」

 ソフィアは手帳を開いた。

「……右手に何か持っていたのかな?」

 クララは頷いた。

「それも考えられます」

 エレノアは腕を組んだ。

「……確認が必要ね」

「ええ」

 クララは答えた。

「それから、もう1つ」

 ソフィアが顔を上げた。

「何ですか?」

「彼は午後5時に勤務を終えて、まっすぐ自宅へ帰ったと言いました」

 エレノアは頷いた。

「ええ」

 クララは続けた。

「でも、それを証明する人はいるんでしょうかねぇ」

 ソフィアは手帳を見つめた。

「……アリバイですね」

「そういうことです」

 クララは微笑んだ。

「それに、空港で働いている人なら、手荷物保管室の仕組みもよく知っているでしょう」

 エレノアは顔を上げた。

「……例の黒い鞄?」

「ええ」

 クララは頷いた。

「事件から3日後に見つかるという鞄です」

 ソフィアは首を傾げた。

「でも、まだ発見されていませんよね?」

「そうですねぇ」

 クララは答えた。

「だからこそ、今のうちに保管室の記録を調べておきたいんです」

 エレノアは静かに頷いた。

「……なるほど」

 クララは歩き始めた。

「それじゃあ、もう少しだけ空港を調べましょうか」


――同日 午後3時15分

ポートランド国際空港 手荷物保管室


 手荷物保管室には、旅行鞄や段ボール箱が整然と並べられていた。

 木製の棚には番号札が付けられ、壁際には古い金属製の保管箱が置かれている。

 3人は、空港職員の案内で保管記録を確認していた。

 クララは、机の上に置かれた台帳を見つめた。

「……いやぁ、随分と細かく記録しているんですねぇ」

 案内役の職員が頷いた。

「はい。荷物の取り違えを防ぐためです」

 エレノアが尋ねた。

「預けられた荷物には、必ず番号が付くの?」

「原則として、そうです」

 職員は答えた。

「預かり票と荷物の番号を照合して、引き渡します」

 ソフィアは手帳に書き込んだ。

「……じゃあ、番号が分かれば、いつ預けられたか調べられるんですね」

「はい」

 職員は頷いた。

 クララは微笑んだ。

「いやぁ、ありがとうございます」

 そして、何気ない調子で尋ねた。

「ところで、職員の方が荷物を預けることもあるんですか?」

 案内役は少し考えた。

「……ありますね。業務上、一時的に保管することもあります」

 エレノアの表情が変わった。

「その場合も記録が残る?」

「はい。ただし、一般のお客様とは別の管理になることがあります」

 クララは頷いた。

「なるほど」

 ソフィアは小さく呟いた。

「……別の管理」

 クララは続けた。

「じゃあ、一般のお客様の記録に名前がなくても、荷物が保管室に置かれていることはあるんですね」

「そうなります」

 職員は答えた。

 エレノアは腕を組んだ。

「……重要ね」

 クララは微笑んだ。

「ええ」

 そして、台帳を閉じた。

「いやぁ、ありがとうございました」

 職員は頭を下げた。

「お役に立てたなら何よりです」

 3人は保管室を後にした。


――同日 午後4時20分

ポートランド国際空港 CLIB臨時調査室


 夕方。

 3人は空港近くの臨時調査室へ戻っていた。

 机の上には、今日の聞き取り内容と保管室の管理資料が並べられている。

 エレノアは、マイケル・リードの勤務記録を見つめていた。

「……リードは午後5時に退勤したと話している」

 ソフィアは頷いた。

「でも、その後の行動は確認できていない」

 クララは椅子に腰掛けた。

「そうですねぇ」

 エレノアは続けた。

「それに、手荷物保管室には一般の預かり記録とは別の管理方法がある」

「ええ」

 クララは頷いた。

「もし誰かが荷物を持ち込むなら、職員の方が有利でしょうねぇ」

 ソフィアは手帳を見つめた。

「……じゃあ、リードさんが鞄を置いた可能性もあるんですね」

「可能性はあります」

 クララは答えた。

「でも、まだ証拠はありません」

 エレノアは頷いた。

「ええ。決めつけるのは早いわ」

 その時、ミラーが部屋へ入ってきた。

「皆さん、追加の情報があります」

 エレノアが顔を上げた。

「何?」

 ミラーは資料を机に置いた。

「リードの昨日の勤務記録について、確認が取れました」

 クララは頷いた。

「なるほど」

 ミラーは続けた。

「本人は午後5時に退勤したと話していますが、勤務表には午後5時30分まで勤務したことになっています」

 ソフィアが驚いた。

「……30分違う?」

「はい」

 ミラーは答えた。

「ただし、記録の誤りという可能性もあります」

 エレノアは腕を組んだ。

「……確認が必要ね」

「ええ」

 クララは頷いた。

 そして、少し考えた。

「ああ、そうそう」

 ミラーが顔を上げた。

「何でしょう?」

 クララは静かに尋ねた。

「その勤務表、誰が記入したんでしょうか?」

 ミラーは資料を確認した。

「……リード本人です」

 室内に沈黙が落ちた。

 エレノアの表情が変わった。

「……本人が?」

「はい」

 ミラーは頷いた。

 クララは小さく微笑んだ。

「いやぁ、これはちょっと気になりますねぇ」

 ソフィアが尋ねた。

「どうしてですか?」

 クララは答えた。

「自分で午後5時30分まで勤務したと記録しているのに、私たちには午後5時に帰ったと言っている」

 エレノアは頷いた。

「……確かに矛盾しているわ」

「ええ」

 クララは微笑んだ。

「もちろん、単なる記憶違いかもしれません」

 そして、資料を見つめた。

「でも、もし意図的に違う時刻を話したのだとしたら……」

 ソフィアは息を呑んだ。

「……何かを隠している?」

「そうかもしれませんねぇ」

 クララは静かに答えた。

 窓の外では、夕暮れの雨が降り続いていた。

 空から消えた男。

 その男が残したネクタイ。

 そして、空港職員の曖昧な証言。

 事件の謎は、少しずつ地上へと広がり始めていた。


――1971年11月26日 午前9時10分

アメリカ合衆国・ワシントン州シアトル CLIBアメリカ支部・臨時調査室


 翌朝。

 エレノアたちは、再びシアトルへ戻っていた。

 机の上には、305便の機内捜索に関する追加報告書が置かれている。

 ソフィアは資料を読みながら、首を傾げた。

「……ねえ、エレノア」

「何?」

「犯人が持っていた黒い鞄って、機内からは見つかっていないんだよね?」

「ええ」

 エレノアは答えた。

「少なくとも、現時点の報告にはないわ」

 ソフィアは続けた。

「でも、事件から3日後に空港で見つかる予定なんでしょう?」

「そうね」

 エレノアは頷いた。

「それが、今回の並行世界で起きる不可解な出来事よ」

 クララはコーヒーカップを置いた。

「……いやぁ、そこなんですよねぇ」

 エレノアが尋ねた。

「何?」

 クララは資料を見つめた。

「もし、その鞄が本当に犯人のものなら、誰かが空港まで運んだことになります」

 ソフィアは頷いた。

「……犯人本人か、協力者ですね」

「ええ」

 クララは答えた。

「でも、もう1つ考えられます」

 エレノアは腕を組んだ。

「……別の鞄だった可能性?」

「そのとおりです」

 クララは微笑んだ。

「いやぁ、さすがですねぇ」

 ソフィアは手帳を開いた。

「……じゃあ、鞄が見つかったら、まず本当に犯人のものか確かめるんですね」

「そういうことです」

 クララは頷いた。

 エレノアは資料を閉じた。

「……そして、誰が保管室へ持ち込んだのか」

「ええ」

 クララは答えた。

「そこが重要になるでしょうねぇ」

 その時、電話が鳴った。

 ミラーが受話器を取る。

「はい、CLIBアメリカ支部です」

 しばらく話を聞いた後、彼の表情が変わった。

「……分かりました。すぐに確認します」

 受話器を置くと、3人を見た。

「……新しい情報が入りました」

 エレノアが顔を上げた。

「何?」

 ミラーは静かに答えた。

「ポートランド空港の手荷物保管室で、黒い革鞄が見つかったそうです」

 ソフィアが驚いた。

「……えっ!?」

 エレノアは立ち上がった。

「でも、発見されるのは事件から3日後のはずでは?」

 ミラーは頷いた。

「はい。今回の情報では、保管室の整理中に職員が発見したとのことです」

 クララは静かに呟いた。

「……おやおや」

 エレノアが顔を上げた。

「クララ?」

 クララは少し考えた。

「いやぁ、これは予定より早いですねぇ」

 ソフィアは不安そうに尋ねた。

「……どういうこと?」

 クララは微笑んだ。

「私たちが知っている記録と、現実に起きていることが少し違うようです」

 エレノアは腕を組んだ。

「……時間の分岐?」

「その可能性もあります」

 クララは答えた。

「でも、今はそれより、鞄を調べることが先ですね」

 ソフィアは頷いた。

「……うん」

 クララは立ち上がった。

「それじゃあ、ポートランドへ行きましょうか」

 エレノアも立ち上がった。

「ええ」

 クララは扉へ向かった。

 しかし、数歩進んだところで立ち止まった。

「ああ、そうそう」

 ソフィアが顔を上げた。

「何ですか?」

 クララは静かに尋ねた。

「その鞄、発見した職員の名前は分かりますか?」

 ミラーは資料を確認した。

「……はい」

 そして、少し驚いた表情を浮かべた。

「マイケル・リードです」

 室内に沈黙が落ちた。

 エレノアの青い瞳が細くなった。

「……リードが?」

「はい」

 ミラーは答えた。

 クララは静かに頷いた。

「……なるほど」

 そして、いつもの人懐っこい笑顔を浮かべた。

「いやぁ、これはぜひ、ご本人にお話を聞かないといけませんねぇ」

 ソフィアは手帳を握りしめた。

 空から消えた男。

 地上に残された鞄。

 そして、その鞄を発見した空港職員。

 それぞれ別々に見えていた謎が、少しずつ1つの事件へとつながり始めていた。

 クララはトレンチコートの襟を整えた。

「……さて」

 彼女は静かに呟いた。

「今度こそ、面白いお話が聞けそうですねぇ」


――第15話 完

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