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第14話「雨のシアトル」

第14話 雨のシアトル


――1971年11月24日 午後4時05分

アメリカ合衆国・オレゴン州ポートランド CLIB臨時調査室


 窓の外では、冷たい雨が降り続いていた。

 古い事務所ビルの一室には、航空路図と空港の見取り図が広げられている。机の上には電話機が2台置かれ、その脇では小さな卓上時計が秒針を刻んでいた。

 エレノア・アシュフォードは、ノースウエスト・オリエント航空305便の運航資料を見つめていた。

 ソフィア・ベネットは手帳を開き、事件発生からの時刻を整理している。

 そして、クララ・コールマンは、くたびれたベージュ色のトレンチコートを着たまま、窓際の椅子に腰掛けていた。

「……さて、どうしましょうかねぇ」

 クララが呟いた。

 エレノアは顔を上げた。

「空港職員のこと?」

「ええ」

 クララは頷いた。

「搭乗口にいた、あの若い男性です」

 ソフィアは手帳を確認した。

「クーパーさんが搭乗口を通った時に、時計を見ていた人ですね」

「そうです」

 クララは微笑んだ。

「いやぁ、よく覚えてますね」

「だって、クララさんが気にしてたから」

 ソフィアは答えた。

 エレノアは腕を組んだ。

「でも、時計を見ただけでは不審とは言えないわ」

「もちろんです」

 クララは頷いた。

「空港で働いている人なら、時間を確認するのは当たり前ですから」

「それなら、なぜ気になるの?」

「……そうですねぇ」

 クララは少し考えた。

「時計を見たことより、見るタイミングが気になったんです」

 ソフィアが首を傾げた。

「タイミング?」

「ええ」

 クララは答えた。

「クーパーさんが搭乗口を通る前と、通った直後です」

 エレノアは頷いた。

「誰かの行動を確認していた可能性がある」

「そういうことです」

 クララは微笑んだ。

「ただし、まだ単なる偶然かもしれません」

 その時、部屋の扉が開いた。

 CLIBアメリカ支部のジョージ・ミラーが、書類を持って入ってきた。

「お待たせしました」

 ミラーは机の上に資料を置いた。

「ポートランド空港で勤務している職員の一覧です」

 クララは立ち上がった。

「いやぁ、ありがとうございます」

 エレノアは資料を手に取った。

 そこには、地上係員、整備担当者、手荷物取扱係、保安担当者などの氏名と勤務時間が記載されていた。

「……あの男性の特徴は?」

 ミラーが尋ねた。

 ソフィアが答えた。

「20代後半くらいで、茶色の髪でした。制服を着ていて、搭乗口の近くに立っていました」

 クララは頷いた。

「そうですねぇ。それと、左胸に小さな名札がありました」

 エレノアが顔を上げた。

「名前は読めた?」

「残念ながら、そこまでは」

 クララは答えた。

「いやぁ、私としたことが」

 ミラーは資料を確認した。

「該当する可能性がある職員は、数名います」

 クララは頷いた。

「では、順番にお話を聞いてみましょうか」

 エレノアは資料を閉じた。

「ええ。ただし、事件の進行には干渉しないように」

「もちろんです」

 クララは微笑んだ。

「私たちは、あくまで調査員ですから」

 その言葉を聞き、ソフィアは窓の外を見た。

 厚い雨雲の向こうでは、305便がシアトルへ向かって飛んでいる。

 機内には、身代金とパラシュートを要求する男がいた。

 そして地上では、別の謎が静かに動き始めていた。


――同日 午後4時40分

ポートランド国際空港 地上職員休憩室


 休憩室には、コーヒーの香りが漂っていた。

 壁には勤務予定表が掲げられ、窓際には古いラジオが置かれている。

 3人は、空港職員の案内で若い地上係員と面会していた。

 男の名前は、マイケル・リード。

 27歳。

 ポートランド空港で地上業務を担当している職員だった。

「……それで、私に何か?」

 リードは少し不思議そうに尋ねた。

 クララは人懐っこい笑顔を浮かべた。

「いやぁ、すみません。ちょっとお話を伺いたくて」

「何についてですか?」

「今日の午後、305便の搭乗口にいらっしゃいましたよね?」

 リードは頷いた。

「ええ。近くで作業をしていました」

 エレノアは手帳を開いた。

「具体的には、どんな作業を?」

「搭乗口周辺の案内と、地上業務の連絡です」

 リードは答えた。

 クララは頷いた。

「なるほど、なるほど」

 そして、何気ない調子で尋ねた。

「ところで、搭乗するお客さんの顔って、覚えていらっしゃいます?」

 リードは首を傾げた。

「……全員は無理ですね」

「そうですよねぇ」

 クララは笑った。

「毎日、大勢のお客さんがいらっしゃいますから」

 ソフィアが尋ねた。

「黒いスーツを着て、革鞄を持っていた男性は覚えていますか?」

 リードの表情が、わずかに変わった。

「……黒いスーツ?」

「はい」

 ソフィアは答えた。

「40代くらいの男性です」

 リードは少し考えた。

「……いたかもしれませんね」

 エレノアは、その返答を聞き逃さなかった。

「はっきり覚えていないの?」

「ええ。忙しかったので」

 リードは答えた。

 クララは頷いた。

「いやぁ、そうでしょうねぇ」

 そして、少し身を乗り出した。

「ああ、そうそう」

 リードが顔を上げた。

「何ですか?」

「今日、搭乗口で時計を何度かご覧になっていましたよね?」

 リードは一瞬、言葉を止めた。

「……仕事ですから」

「ええ、もちろんです」

 クララは微笑んだ。

「ただ、305便のお客さんが搭乗した直後にも、もう一度時計を見ていらっしゃった」

「……それが何か?」

「いえいえ」

 クララは首を振った。

「何か予定があったのかなと思いまして」

 リードは少し不機嫌そうに答えた。

「勤務時間を確認していただけです」

 クララは頷いた。

「なるほど」

 エレノアは手帳に書き込んだ。

『時計を確認した理由――勤務時間』

 ソフィアはリードの表情を見つめた。

 彼は、質問が続くにつれて落ち着きを失っているように見えた。

 しかし、それが何かを隠しているためなのか、単に不審な質問を受けて苛立っているだけなのかは分からなかった。

 クララは椅子から立ち上がった。

「いやぁ、お忙しいところ、ありがとうございました」

 リードは少し安堵したように息を吐いた。

「……もういいんですか?」

「ええ」

 クララは頷いた。

「大変参考になりました」

 3人は休憩室を出ようとした。

 しかし、クララは扉の前で立ち止まった。

「ああ、すみません」

 リードが顔を上げた。

「……まだ何か?」

「もう1つだけ、いいですか?」

 クララは微笑んだ。

「305便の搭乗口で、あなたは誰かを待っていたんでしょうか?」

 リードの表情が変わった。

「……何を言っているんです?」

「いやぁ、失礼しました」

 クララは頭を下げた。

「ただ、そう見えたものですから」

 リードは眉をひそめた。

「私は仕事をしていただけです」

「そうですか」

 クララは頷いた。

「分かりました。ありがとうございます」

 今度こそ、3人は休憩室を後にした。


――同日 午後5時20分

ポートランド国際空港 出発ロビー


 空港の窓には、夕暮れの薄暗い空が映っていた。

 エレノアは、休憩室での会話を振り返っていた。

「……リードは、何かを隠しているように見えたわ」

 ソフィアが頷いた。

「うん。特に、誰かを待っていたか聞かれた時」

 クララは肩をすくめた。

「いやぁ、どうでしょうねぇ」

 エレノアは顔を上げた。

「あなたは疑っていないの?」

「疑っていますよ」

 クララは微笑んだ。

「でも、疑うことと決めつけることは違いますから」

 ソフィアは頷いた。

「……確かに」

 クララは続けた。

「彼が本当に何かを隠しているなら、別の証拠が必要です」

 エレノアは腕を組んだ。

「勤務記録?」

「それもあります」

 クララは答えた。

「それから、彼が今日、誰と接触していたのか」

 ソフィアは手帳を開いた。

「……搭乗口で、クーパーさんを見ていたんですよね」

「ええ」

 クララは頷いた。

「でも、それが知り合いだったからなのか、単に乗客を見ていただけなのかは、まだ分かりません」

 エレノアは頷いた。

「……慎重に調べましょう」

 その時、ミラーからの連絡が入った。

 305便がシアトルへの着陸に向けて待機しているという。

 身代金とパラシュートの準備が進められていた。

 ソフィアは小さく呟いた。

「……もうすぐなんだね」

 クララは静かに頷いた。

「ええ」

 そして、窓の外を見た。

「……どうか、誰も傷つきませんように」


――同日 午後5時45分

ワシントン州シアトル上空 ノースウエスト・オリエント航空305便


 旅客機は、雨雲の下を飛行していた。

 窓の外には、夕暮れのシアトルの街並みが広がっている。

 機内後方では、ダン・クーパーを名乗る男が静かに座っていた。

 客室乗務員が近づく。

「……要求されたものは、準備が進められています」

 男は頷いた。

「分かりました」

 客室乗務員は続けた。

「着陸後、乗客を降ろしてもよろしいでしょうか?」

「ええ」

 男は答えた。

「約束どおり、乗客は解放します」

 客室乗務員は小さく息を吐いた。

 男は窓の外を見た。

 雨に濡れた街の灯りが、遠くに見える。

「……もうすぐですね」

 男は静かに呟いた。

 その表情には、緊張とも安堵ともつかないものが浮かんでいた。

 しかし、誰もその真意を知ることはできなかった。


――同日 午後5時55分

シアトル・タコマ国際空港 管制塔


 管制塔では、職員たちが緊張した面持ちでレーダー画面を見つめていた。

 305便からの連絡が続いている。

 管制官は、慎重に着陸許可を伝えた。

「ノースウエスト305便、着陸を許可する」

 無線から、操縦士の声が返ってきた。

『了解』

 管制官は滑走路を見つめた。

 雨の向こうから、銀色の旅客機が姿を現した。

 機体はゆっくりと降下し、滑走路へ接近する。

 そして、車輪が地面に接触した。

 白い水煙が上がる。

 305便は滑走路を走り、やがて速度を落とした。

 管制塔の職員たちは、ようやく小さく息を吐いた。

 しかし、事件はまだ終わっていなかった。


――同日 午後6時10分

シアトル・タコマ国際空港 駐機場


 305便は、指定された場所に停止していた。

 周囲には、空港関係者と警察が配置されている。

 乗客たちは、まだ機内にいた。

 機体後方では、クーパーを名乗る男が客室乗務員と話していた。

「……身代金は?」

「まもなく運ばれます」

 客室乗務員は答えた。

「パラシュートも準備されています」

 男は頷いた。

「分かりました」

 彼は静かに窓の外を見た。

 雨の中、空港職員が荷物を運んでいる。

 その中には、身代金の入った袋とパラシュートが含まれていた。

 男は客室乗務員へ視線を戻した。

「……乗客を降ろしてください」

 客室乗務員は頷いた。

 やがて、機体の扉が開かれた。

 乗客たちは、係員の誘導に従って順番に降り始めた。

 不安そうな表情の人々。

 子供の手を握る母親。

 荷物を抱えたビジネスマン。

 彼らは、ようやく危険な機内から解放された。

 しかし、客室乗務員の一部と操縦室の乗員は、まだ機内に残っていた。

 クーパーを名乗る男は、静かにその様子を見つめていた。


――同日 午後6時35分

シアトル・タコマ国際空港 臨時対策室


 空港内の一室では、航空会社の関係者と警察が緊急対応を続けていた。

 机の上には、身代金の受け渡し記録と運航計画が並んでいる。

 エレノア、ソフィア、クララの3人は、CLIBの協力者を通じて状況を確認していた。

 ソフィアは安堵したように息を吐いた。

「……乗客は無事に降りられたんですね」

「ええ」

 クララは頷いた。

「今のところ、負傷者の報告もありません」

 エレノアは資料を見つめた。

「……でも、犯人はまだ機内にいる」

「そうですねぇ」

 クララは答えた。

 その時、ミラーが資料を持って入ってきた。

「305便は、再離陸の準備を進めています」

 エレノアが顔を上げた。

「行き先は?」

「メキシコ方面を要求しています」

 クララは頷いた。

「なるほど」

 ソフィアが尋ねた。

「……本当に、メキシコまで行くつもりなんでしょうか?」

 エレノアは首を傾げた。

「分からないわ」

 クララは静かに答えた。

「いやぁ、そこが気になるんですよねぇ」

「どういうこと?」

 エレノアが尋ねた。

 クララは資料を見つめた。

「犯人はパラシュートを要求している」

「ええ」

「でも、行き先も指定している」

 クララは続けた。

「もし途中で飛び降りるつもりなら、最終目的地は本当に重要なんでしょうか?」

 エレノアは腕を組んだ。

「……飛行経路を誘導するためかもしれない」

「そうですねぇ」

 クララは頷いた。

「あるいは、別の理由があるのかもしれません」

 ソフィアは手帳に書き込んだ。

『メキシコ行きの要求――本当の目的?』

 エレノアは静かに呟いた。

「……まだ、犯人の狙いが見えないわね」

 クララは微笑んだ。

「ええ。でも、少しずつ分かってきていますよ」


――同日 午後7時10分

シアトル・タコマ国際空港 駐機場


 夜の空港には、雨が降り続いていた。

 305便は、再離陸に向けた準備を進めている。

 機体後方では、クーパーを名乗る男がパラシュートを確認していた。

 客室乗務員が近づく。

「……準備が整いました」

 男は頷いた。

「分かりました」

 客室乗務員は少し躊躇した。

「……本当に、飛行を続けるのですか?」

 男は静かに答えた。

「ええ」

 そして、窓の外を見た。

 滑走路の灯りが、雨に濡れて滲んでいる。

「……もう少しで終わります」

 客室乗務員は、その言葉の意味を理解できなかった。

 男は静かに立ち上がった。

 そして、機体後方へ向かった。


――同日 午後7時40分

シアトル・タコマ国際空港 管制塔


 管制塔では、305便の再離陸に向けた最終確認が進められていた。

 管制官は無線を手に取った。

「ノースウエスト305便、離陸を許可する」

 操縦士の声が返ってきた。

『了解』

 銀色のボーイング727が、ゆっくりと滑走路へ向かった。

 機体の外側には、雨粒が流れている。

 エンジン音が高まり、機体が加速する。

 そして、305便は夜空へ浮かび上がった。

 滑走路の灯りが遠ざかり、機体は暗い雲の中へ消えていった。

 その姿を、空港の窓から見つめる3人の少女がいた。

 エレノア、ソフィア、クララである。

 ソフィアは小さく呟いた。

「……行っちゃった」

 エレノアは頷いた。

「ええ」

 クララは腕時計を確認した。

「……ここからですね」

 エレノアが尋ねた。

「何が?」

 クララは静かに答えた。

「男が空から消えるまでの時間です」

 ソフィアは窓の外を見つめた。

 雨雲の向こうでは、305便が南へ向かって飛んでいる。

 その機内には、身代金とパラシュートを手にした男がいた。

 そして、地上には、その男の行方を追う3人の少女探偵がいる。

 事件は、いよいよ最大の謎へと近づいていた。


――同日 午後8時05分

ワシントン州南部上空 ノースウエスト・オリエント航空305便


 夜空には、厚い雲が広がっていた。

 機体は、雨と風の中を飛行している。

 操縦室では、乗員たちが計器を確認していた。

 その時、機体後方から小さな振動が伝わった。

 操縦士が顔を上げた。

「……今のは?」

 副操縦士が計器を確認する。

「後部階段の状態が変わったようです」

 操縦士は無線で確認を試みた。

 しかし、機体後方から返答はなかった。

 数分後。

 機体に、もう一度小さな揺れが伝わった。

 操縦士は計器を見つめた。

「……何かが起きたな」

 副操縦士は頷いた。

 しかし、誰も機体後方で何が起きたのかを直接見ていなかった。

 ただ、後部階段が開かれたことを示す兆候があった。

 そして、機体に伝わった不自然な振動。

 それだけだった。


――同日 午後8時30分

シアトル・タコマ国際空港 CLIB臨時連絡室


 エレノアたちは、空港内の臨時連絡室で報告を待っていた。

 机の上には、305便の飛行経路を示す地図が広げられている。

 ソフィアは手帳を握りしめていた。

「……もう、飛び降りたのかな」

 エレノアは静かに答えた。

「まだ分からないわ」

 クララは椅子に腰掛け、電話機を見つめていた。

 その時、電話が鳴った。

 クララは受話器を取った。

「はい、コールマンです」

 しばらく話を聞いた後、彼女の表情が変わった。

「……分かりました。ありがとうございます」

 受話器を置くと、エレノアとソフィアを見た。

「……後部階段が開かれたようです」

 ソフィアが息を呑んだ。

「……じゃあ」

「ええ」

 クララは頷いた。

「犯人が飛び降りた可能性があります」

 エレノアは地図を見つめた。

「……でも、直接見た人はいない」

「そうですねぇ」

 クララは答えた。

 そして、少し考えた。

「ああ、そうそう」

 ソフィアが顔を上げた。

「何ですか?」

 クララは静かに尋ねた。

「もし犯人が飛び降りたとしたら、身代金の入った袋はどうなったんでしょうね?」

 エレノアは頷いた。

「一緒に持っていったはずよ」

「そうですよねぇ」

 クララは微笑んだ。

「でも、もし飛び降りていなかったとしたら?」

 ソフィアは首を傾げた。

「……どういうこと?」

 クララは地図を見つめた。

「いやぁ、まだ分かりませんけどね」

 そして、静かに続けた。

「この事件、空から消えた男を探すより、地上に残された物を調べた方が早いのかもしれません」

 エレノアは腕を組んだ。

「……なるほど」

 ソフィアは手帳に書き込んだ。

『飛び降りた証拠は、まだない』

 クララは微笑んだ。

「そういうことです」

 窓の外では、冷たい雨が降り続いていた。

 その夜、1人の男が空から姿を消した。

 しかし、彼が本当に飛び降りたのか。

 そして、どこへ消えたのか。

 その答えは、まだ誰にも分からなかった。


――第14話 完

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