第12話「冴えない少女と、空から消えた男」
第12話 冴えない少女と、空から消えた男
――2026年12月2日 午前8時15分
英国・ロンドン セント・キャサリン女学院
12月のロンドンは、朝から冷たい霧に包まれていた。
石造りの校舎の窓には白い結露が浮かび、中庭の木々はすっかり葉を落としている。
教室の一角では、エレノア・アシュフォードが机に向かって本を読んでいた。
灰金色の髪を肩に流し、青い瞳でページを追っている。
その隣では、ソフィア・ベネットが手帳に何かを書き込んでいた。
「ねえ、エレノア」
「何?」
「日本のお土産、みんな喜んでくれたね」
「ええ。特に、あなたが買い込んだお菓子は評判だったわね」
「エレノアだって、結構食べてたでしょう?」
「……味を確認しただけよ」
ソフィアは笑った。
日本での事件から、すでに数日が経過していた。
寝台特急カシオペアで発生した殺人事件。
十河雪乃と神崎理央という、2人の日本人探偵との出会い。
そして、事件の背後に残された不可解な鉄道資料。
エレノアは本を閉じた。
「……そういえば、日本支部から追加の報告は?」
「まだ来てないよ」
ソフィアは答えた。
「例の時計と迷宮の紋章については、引き続き調査中だって」
「そう」
エレノアは窓の外を見た。
「……あの印は、いったい何を意味しているのかしら」
その時だった。
教室の扉が開いた。
「アシュフォードさん、ベネットさん」
担任教師が2人を呼んだ。
「職員室に、お客様がいらしています」
ソフィアは顔を上げた。
「お客様?」
「ええ。海外からの方だそうです」
エレノアは小さく溜息をついた。
「……どうやら、また事件のようね」
――同日 午前8時30分
セント・キャサリン女学院・応接室
応接室には、1人の女性が座っていた。
年齢は30代半ばほど。
濃紺のスーツを着用し、机の上には黒い革鞄を置いている。
「初めまして。CLIBアメリカ支部のエミリー・カーターです」
女性は立ち上がり、丁寧に一礼した。
「今回は、アメリカで発生した未解決事件について、ご協力をお願いしたく参りました」
エレノアは椅子に腰掛けた。
「アメリカの未解決事件?」
「はい」
カーターは鞄から資料を取り出した。
そこには、古い旅客機の写真が印刷されていた。
銀色の胴体。
後部に取り付けられた3基のジェットエンジン。
そして、機体後方に設けられた独特の乗降階段。
「……ボーイング727ね」
エレノアが呟いた。
カーターは頷いた。
「そのとおりです」
ソフィアは写真を覗き込んだ。
「飛行機の事件なんですか?」
「ええ」
カーターは答えた。
「1971年11月24日。アメリカ北西部で、1機の旅客機がハイジャックされました」
エレノアの表情が変わった。
「……D.B.クーパー事件?」
カーターは頷いた。
「ご存じでしたか」
「ええ。有名な未解決事件の1つだもの」
ソフィアは首を傾げた。
「どんな事件なの?」
エレノアは資料を見つめた。
「男が旅客機を乗っ取り、身代金とパラシュートを要求したの。そして、飛行中の機体から飛び降りて姿を消した事件よ」
「……飛行機から!?」
ソフィアは驚いた。
「ええ」
エレノアは答えた。
「その後、男の行方は分からなくなった」
カーターは頷いた。
「今回の調査対象は、その事件を基にした並行世界で発生した失踪事件です」
彼女は別の資料を広げた。
「対象世界の識別番号は、A-1971」
エレノアは資料を受け取った。
「……史実とは違う点があるのね」
「はい」
カーターは答えた。
「この世界では、ハイジャック犯が飛行機から脱出した後、ある不可解な証拠が発見されています」
ソフィアが尋ねた。
「どんな証拠ですか?」
カーターは1枚の写真を取り出した。
そこには、黒い革製の鞄が写っていた。
「犯人が所持していたとされる鞄です」
エレノアは目を細めた。
「……それが?」
「事件から3日後、空港の手荷物保管室で発見されました」
ソフィアは驚いた。
「でも、犯人は飛行機から飛び降りたんですよね?」
「はい」
カーターは頷いた。
「しかも、鞄には犯人の指紋が残されていました」
エレノアは写真を見つめた。
「……なるほど」
カーターは続けた。
「さらに、事件当夜の空港では、犯人に似た男が目撃されています」
ソフィアが尋ねた。
「じゃあ、生きて戻ってきたんですか?」
「それが分からないのです」
カーターは答えた。
「目撃者の証言には、重大な矛盾があります」
エレノアは腕を組んだ。
「……面白そうね」
カーターは頷いた。
「そこで、皆さんには1971年11月のアメリカへ向かっていただきます」
ソフィアは資料を見つめた。
「……今度は飛行機の謎なんだね」
エレノアは静かに微笑んだ。
「ええ。空から消えた男の謎よ」
――同日 午後1時20分
英国・ロンドン CLIB本部
CLIB本部の会議室には、アメリカ北西部の地図が広げられていた。
シアトル、ポートランド、そして周辺の山岳地帯。
机の上には、ボーイング727の機体図と事件の時系列が並べられている。
エレノアとソフィアは、カーターの説明を聞いていた。
「事件が発生したのは、1971年11月24日です」
カーターは地図を指さした。
「午後、ポートランドを出発した旅客機が、シアトルへ向かう途中でハイジャックされました」
ソフィアは手帳を開いた。
「犯人は1人だったんですか?」
「はい。少なくとも、機内で犯行を実行した人物は1人です」
エレノアが尋ねた。
「共犯者の可能性は?」
「否定されていません」
カーターは答えた。
「むしろ、今回の並行世界では、その可能性が重要になっています」
エレノアは頷いた。
「なるほど」
カーターは続けた。
「犯人は偽名を使用して搭乗しました。機内で客室乗務員に爆弾を持っていると告げ、身代金とパラシュートを要求しています」
ソフィアが尋ねた。
「本当に爆弾を持っていたんですか?」
「確認されていません」
カーターは答えた。
「犯人が見せた鞄の中には、爆発物らしい物体があったと証言されていますが、実物は発見されていません」
エレノアは腕を組んだ。
「……つまり、爆弾が本物だったとは限らない」
「はい」
カーターは頷いた。
「その後、犯人は要求した身代金とパラシュートを受け取り、乗客を解放しました」
ソフィアは手帳に書き込んだ。
「それから?」
「旅客機は再び離陸しました」
カーターは機体図を指さした。
「そして、夜間飛行中に後部階段が開かれ、犯人が機外へ脱出したと考えられています」
エレノアが尋ねた。
「飛び降りた瞬間を見た人は?」
「いません」
カーターは答えた。
「操縦室の乗員は、機体の挙動や階段の状態から脱出したと判断しています」
エレノアは目を細めた。
「……それなら、飛び降りたという事実そのものを検証する必要があるわね」
「はい」
カーターは頷いた。
「今回の事件では、そこが重要です」
ソフィアは地図を見つめた。
「でも、1971年の事件なら、今から行っても犯人はもう逃げた後なんじゃ……」
「いいえ」
カーターは首を振った。
「今回の調査では、事件発生前の時間へ向かいます」
エレノアが顔を上げた。
「……いつ?」
「1971年11月23日。事件の前日です」
ソフィアは驚いた。
「じゃあ、事件が起きる前から調べるんですか?」
「はい。ただし、歴史への干渉は禁止されています」
カーターは答えた。
「事件を未然に防ぐことではなく、当時の証拠と証言から真相を解明することが目的です」
エレノアは頷いた。
「いつもどおりね」
「はい」
カーターは続けた。
「現地での滞在は、原則7日以内です」
ソフィアは手帳を閉じた。
「分かりました」
エレノアは地図を見つめた。
「……ところで、アメリカ支部の調査員は?」
カーターは微笑んだ。
「現地で合流していただきます」
「どんな人?」
ソフィアが尋ねた。
カーターは少し困ったような表情を浮かべた。
「……非常に優秀な方です」
エレノアは首を傾げた。
「その言い方、どこかで聞いた気がするわ」
カーターは続けた。
「ただし、少々独特な調査方法を取る方でして」
ソフィアはエレノアを見た。
「……また変わった人?」
エレノアは小さく笑った。
「どうやら、そのようね」
――2026年12月2日 午後3時00分
英国・ロンドン CLIB地下時空駅
地下ホームには、クロノス急行が停車していた。
エレノアとソフィアは、いつもの旅行鞄を手にして列車へ乗り込んだ。
車内には、柔らかな照明が灯っている。
ソフィアは窓際の座席に腰掛けた。
「……今度はアメリカかぁ」
エレノアは向かいの席に座った。
「ええ」
「1971年って、どんな時代だったんだろう?」
「ベトナム戦争が続いていた時代ね。アメリカ国内でも、社会が大きく変化していた頃よ」
ソフィアは頷いた。
「飛行機も、今とは違うんだよね?」
「もちろん。空港の保安体制も、現代とは大きく異なるわ」
エレノアは資料を開いた。
「当時の航空機には、現在では考えられないような構造や運用上の特徴があったの」
ソフィアは機体図を見つめた。
「……後ろに階段が付いてる」
「ええ。ボーイング727の特徴の1つよ」
エレノアは頷いた。
「その階段が、今回の事件の重要な鍵になるはず」
ソフィアは手帳を開いた。
「……空から消えた男」
彼女は小さく呟いた。
「本当に、どこへ行ったんだろうね」
エレノアは窓の外を見た。
「……それを確かめに行くのよ」
その時、車内放送が流れた。
『クロノス急行、アメリカ方面行きは、まもなく発車いたします』
列車が静かに動き始めた。
窓の外には青白い光が広がり、ロンドンの地下ホームがゆっくりと遠ざかっていく。
ソフィアは微笑んだ。
「……次は、どんな探偵に会えるのかな?」
エレノアは答えた。
「さあ。でも、少なくとも退屈はしなさそうね」
クロノス急行は、時間と世界の境界へ向かって走り続けた。
――1971年11月23日 午前10時20分
アメリカ合衆国・ワシントン州シアトル CLIBアメリカ支部・臨時連絡室
シアトルの空は、厚い雲に覆われていた。
11月の冷たい雨が道路を濡らし、街路樹の葉が風に舞っている。
エレノアとソフィアは、CLIBアメリカ支部の臨時連絡室に到着していた。
建物は、街の中心部から少し離れた場所にある古い事務所ビルだった。
2人を迎えたのは、眼鏡をかけた中年の男性職員だった。
「ようこそ、シアトルへ」
男性は微笑んだ。
「アメリカ支部のジョージ・ミラーです」
「よろしくお願いします」
ソフィアが頭を下げた。
エレノアも軽く会釈した。
「それで、現地の調査員は?」
ミラーは少し困った表情になった。
「……実は、まだ到着していません」
「遅刻?」
エレノアが尋ねた。
「いえ、そういうわけでは……」
ミラーは言葉を濁した。
「彼女は、少々独特な行動を取る方でして」
ソフィアはエレノアを見た。
「……やっぱり」
エレノアは小さく笑った。
「日本の時と似ているわね」
その時だった。
廊下の向こうから、慌ただしい足音が聞こえた。
「いやぁ、すみません。ちょっと道を間違えちゃいまして」
扉が開いた。
そこに立っていたのは、1人の少女だった。
年齢は18歳ほど。
少し癖のある焦げ茶色の髪を、肩に届かない程度の長さに切っている。
くたびれたベージュ色のトレンチコートを羽織り、片手には古びた革鞄を持っていた。
その服装は、探偵というより、どこかの事務員のようにも見える。
「いやぁ、どうもどうも」
少女は人懐っこい笑顔を浮かべた。
「あなたたちが、ロンドンから来た調査員さん?」
ソフィアは頷いた。
「はい!」
「いやぁ、若いですねぇ」
少女は笑った。
「……って、私も人のこと言えないんですけど」
エレノアは腕を組んだ。
「あなたが、アメリカ支部の調査員?」
「ええ、そうです」
少女は軽く頭を下げた。
「クララ・コールマンといいます。18歳です」
ソフィアは笑顔で答えた。
「ソフィア・ベネットです!」
「エレノア・アシュフォードよ」
クララは2人を見つめた。
「いやぁ、噂は聞いてますよ。ロンドンでいろんな事件を解決してるんですって?」
エレノアは少し得意そうに微笑んだ。
「まあ、それなりにね」
「すごいですねぇ」
クララは頷いた。
「私なんて、まだまだですよ」
ソフィアは首を傾げた。
「でも、優秀な探偵だって聞きました」
「いやいや、とんでもない」
クララは笑った。
「私はただ、気になることを聞いて回ってるだけですから」
その時、ミラーが咳払いをした。
「コールマン調査員。事件の説明を始めたいのですが」
「ああ、そうでしたね」
クララは頷いた。
「すみません、すみません」
彼女は机に資料を置いた。
そして、エレノアとソフィアを見た。
「それじゃ、早速始めましょうか」
クララは微笑んだ。
「今回の事件、なかなか妙なんですよ」
エレノアが尋ねた。
「どこが?」
「いやぁ、私も最初は普通のハイジャック事件だと思ったんですけどね」
クララは資料を開いた。
「どうも、そう簡単な話じゃないみたいなんです」
ソフィアは身を乗り出した。
「どういうことですか?」
クララは写真を取り出した。
そこには、黒い革鞄が写っていた。
「この鞄なんですけどね」
彼女は写真を机に置いた。
「犯人が飛行機から持って飛び降りたはずのものなんですよ」
エレノアは頷いた。
「ええ。資料で見たわ」
「ところが、3日後に空港の手荷物保管室で見つかる」
クララは続けた。
「不思議ですよねぇ」
ソフィアは頷いた。
「はい」
クララは少し考えた。
「それで、私、ちょっと気になったことがありまして」
エレノアが尋ねた。
「何?」
クララは微笑んだ。
「その鞄、本当に犯人が飛行機へ持ち込んだものなんでしょうかね?」
室内に沈黙が落ちた。
エレノアの表情が変わった。
「……なるほど」
クララは続けた。
「いやぁ、すみません。変なことを言っちゃいましたね」
そして、資料を閉じかけた。
「ああ、そうだ」
彼女は再び顔を上げた。
「もう1つだけ、いいですか?」
エレノアは微笑んだ。
「どうぞ」
クララは静かに尋ねた。
「犯人が飛行機から飛び降りたところを、実際に見た人は誰もいないんですよね?」
ソフィアは頷いた。
「はい」
「じゃあ……」
クララは小さく首を傾げた。
「どうして、みんな犯人が飛び降りたって信じてるんでしょうね?」
エレノアは腕を組んだ。
「……確かに、確認する価値があるわ」
クララは微笑んだ。
「いやぁ、よかった。私だけじゃなかったんですね」
ソフィアは小さく笑った。
エレノアは、目の前の少女を見つめた。
くたびれたコート。
人懐っこい笑顔。
そして、何気ない質問の中に隠された鋭い洞察力。
どうやら、今回も一筋縄ではいかない探偵と出会ったようだった。
クララは資料をまとめた。
「さて、それじゃあ」
彼女は立ち上がった。
「まずは、空港へ行ってみましょうか」
ソフィアが尋ねた。
「空港ですか?」
「ええ」
クララは頷いた。
「犯人が消える前に、どんな準備をしていたのか。そこから調べてみたいんです」
エレノアは微笑んだ。
「いい考えね」
クララは笑った。
「いやぁ、どうも」
そして、扉へ向かった。
しかし、数歩進んだところで立ち止まった。
「ああ、そうそう」
彼女は振り返った。
「もう1つだけ、いいですか?」
ミラーが小さく溜息をついた。
「……今度は何ですか?」
クララは真剣な表情になった。
「今回の犯人、もしかすると最初から逃げるつもりなんてなかったのかもしれませんね」
エレノアは顔を上げた。
「……どういう意味?」
クララは微笑んだ。
「いやぁ、まだ分からないんですけどね」
そして、静かに続けた。
「ただ、もしそうだとしたら……」
彼女は机の上の旅客機の写真を見つめた。
「空から消えた男は、最初から空にいなかったのかもしれませんよ」
室内に静寂が落ちた。
エレノアは写真を見つめた。
銀色の旅客機。
その後部に設けられた階段。
そして、夜空へ消えたとされる謎の男。
事件は、まだ始まってすらいない。
しかし、3人の少女探偵はすでに、その背後に隠された矛盾へと目を向け始めていた。
――第12話 完




