第11話「最後にもう1つだけ」
第11話 最後にもう1つだけ
――2013年11月20日 午後4時35分
日本国・東京都台東区 CLIB東京上野時空連絡駅
クロノス急行の発車を告げるベルが、地下ホームに響いていた。
深い紺色の車体に金色の装飾を施した列車。その窓際では、エレノア・アシュフォードとソフィア・ベネットが向かい合って座っていた。
2人の足元には、日本観光で購入した土産物の紙袋が置かれている。
「楽しかったね、日本!」
ソフィアは満足そうに微笑んだ。
「ええ。なかなか興味深い国だったわ」
エレノアは日本製の小さな懐中時計を取り出した。
「それに、時計の作りも悪くない」
「エレノア、それ、今日だけで何回見てるの?」
「別に数えていないわ」
「私は7回見たよ」
「……あなた、そんなことを数えていたの?」
ソフィアが笑った、その時だった。
車内放送が鳴った。
『CLIB調査員の皆様にお知らせいたします。東京上野時空連絡駅より、緊急連絡が入っております』
エレノアは顔を上げた。
続いて、座席脇の通信端末が点灯する。
『アシュフォード調査員、ベネット調査員。至急、駅務室へお越しください』
「……何だろう?」
ソフィアが首を傾げた。
エレノアは時計をしまった。
「少なくとも、観光の感想を聞くためではなさそうね」
2人は荷物を持ち、列車を降りた。
ホームの先では、佐伯美咲が待っていた。
「申し訳ありません。帰還直前にお呼びしてしまって」
「何かあったの?」
エレノアが尋ねた。
佐伯は頷いた。
「カシオペア事件について、重要な進展がありました」
ソフィアの表情が変わった。
「田辺車掌のことですか?」
「はい。ただし、まだ決定的な証拠が不足しています」
佐伯は少し言いにくそうに続けた。
「そこで、日本支部から新しい調査員が派遣されました」
「新しい調査員?」
エレノアが尋ねた。
「ええ。非常に優秀なのですが……」
佐伯は言葉を止めた。
「……少々、変わった方です」
その時、背後から穏やかな声が聞こえた。
「おやおや。本人のいないところで、ずいぶんな紹介ですね」
3人が振り返る。
そこには、黒髪を短く切り揃えた少女が立っていた。
年齢は17歳ほど。
白いブラウスに濃紺のジャケットを合わせ、細身の黒いズボンを身に着けている。
背筋はまっすぐで、落ち着いた佇まいだった。
その瞳には、相手の些細な仕草さえ見逃さないような鋭さがあった。
「初めまして。僕は神崎理央と申します」
少女は丁寧に一礼した。
「CLIB日本支部所属の調査員です。どうぞ、よろしくお願いいたします」
「エレノア・アシュフォードよ」
「ソフィア・ベネットです。よろしくお願いします!」
理央は2人を順番に見つめた。
「なるほど。君がアシュフォードさんで、君がベネットさんですね」
そして、ソフィアの紙袋へ視線を落とした。
「浅草と秋葉原を観光されたようですね」
ソフィアが目を丸くした。
「えっ、どうして分かったんですか?」
「紙袋に店名が印刷されていますから」
理央は微笑んだ。
「それから、君の上着に付いている小さな紙片。浅草の土産物店で使われている包装紙ですね」
「すごい!」
「いえ、観察しただけです」
理央はエレノアへ視線を移した。
「それにしても、任務中に随分と楽しまれたようですね。佐伯さんには資料調査と報告されたそうですが」
エレノアの眉が動いた。
「……どこで聞いたの?」
「佐伯さんからです」
「神崎さん!」
佐伯が慌てて声を上げた。
「その話は、今ここでする必要はありません!」
「おやおや。失礼しました。僕は事実を確認しただけなのですが」
理央は穏やかに微笑んだ。
エレノアは腕を組んだ。
「……なるほど。確かに変わっているわね」
「よく言われます」
理央はまったく気にした様子もなく答えた。
「もっとも、変人という評価は、観察対象として興味深いものです」
ソフィアは小さく笑った。
しかし、理央の表情はすぐに真剣なものへ変わった。
「さて、本題に入りましょう」
彼女は鞄から資料を取り出した。
「カシオペア殺人事件について、1つだけ、皆さんが見落としている点があります」
エレノアの青い瞳が細くなった。
「……聞かせてもらえる?」
「もちろんです」
理央は微笑んだ。
「ただし、その前に青森へ戻る必要があります」
「青森へ?」
ソフィアが驚いた。
「ええ」
理央は静かに答えた。
「犯人を特定するための最後の証拠が、まだ現場に残されている可能性がありますので」
――同日 午後5時10分
CLIB東京上野時空連絡駅・会議室
小さな会議室の机には、事件の写真と鉄道資料が並べられていた。
理央は椅子に腰掛け、紅茶のカップを手にしている。
その向かいにはエレノアとソフィア、そして佐伯が座っていた。
「まず、確認したいことがあります」
理央はカップを置いた。
「皆さんは、なぜ午前2時17分にこだわっているのでしょう?」
エレノアが答えた。
「被害者の懐中時計が、その時刻を示していたからよ」
「しかし、その時計は意図的に操作された可能性が高い」
「ええ」
「では、なぜその時刻が事件の中心になったのでしょう?」
ソフィアが口を開いた。
「古い時刻表にも、同じ時刻が書いてあったからです」
「そのとおりです」
理央は頷いた。
「つまり、犯人が時計を操作したとすれば、その数字を選んだ理由があったはずです」
エレノアは腕を組んだ。
「被害者の研究資料へ、捜査の注意を向けさせるため?」
「その可能性はあります」
理央は資料を広げた。
「ですが、もう1つ考えられます。犯人が、被害者の研究内容を知っていた場合です」
佐伯が尋ねた。
「田辺車掌が、ですか?」
「ええ」
理央は頷いた。
「高宮さんは、古い駅について何度も質問していたそうですね」
「はい」
ソフィアが答えた。
「田辺さんは、駅名を覚えていないと言っていました」
「おやおや」
理央は小さく微笑んだ。
「それは奇妙ですね」
「どうして?」
「何度も尋ねられた駅名を忘れたと言いながら、存在しない駅だと知っている。少なくとも、説明には不自然な点があります」
エレノアは頷いた。
「私たちもそこは気になっていたわ」
「でしょうね」
理央は資料をめくった。
「ですが、もっと気になるのは、田辺さんが高宮さんの客室へ入ったという直接の証拠が、まだ見つかっていないことです」
ソフィアが尋ねた。
「制服に血が付いていたのに?」
「事件発覚時に遺体へ近づいていますから、それだけでは説明がついてしまいます」
理央は答えた。
「制服の繊維も同様です。接触の可能性は示しますが、殺害時の接触とは限りません」
エレノアは微笑んだ。
「慎重なのね」
「当然です。推理は証拠の代わりにはなりません」
理央は静かに答えた。
「僕が注目しているのは、鍵の管理です」
佐伯が顔を上げた。
「鍵?」
「ええ。乗務員用の解錠手段は、使用時刻を電子的に記録しないそうですね」
「はい」
「ならば、鍵そのものを調べる必要があります」
エレノアは目を細めた。
「……なるほど」
理央は続けた。
「鍵を使った人物は、必ず何らかの痕跡を残すとは限りません。しかし、鍵を保管していた場所には、手掛かりが残ることがあります」
ソフィアは首を傾げた。
「例えば?」
「管理簿の記入、保管位置の変化、鍵束の扱い方。それから、他の乗務員の記憶です」
理央は微笑んだ。
「人間は、意外なほど些細なことを覚えているものです」
エレノアは立ち上がった。
「いいわ。青森へ戻りましょう」
ソフィアが驚いた。
「えっ、本当に?」
「事件を完全に解決しないまま帰るわけにはいかないでしょう?」
理央は満足そうに頷いた。
「素晴らしい判断です」
そして、佐伯へ視線を向けた。
「ところで、佐伯さん」
「はい?」
「帰還手続きの延期について、本部への説明はお願いできますか?」
「……もちろんです」
「ありがとうございます。君たちの観光の件については、僕からは報告しませんので」
「神崎さん!」
佐伯の声が会議室に響いた。
理央は不思議そうに首を傾げた。
「おやおや。また何か失礼なことを言いましたか?」
ソフィアは笑いをこらえるのに必死だった。
――2013年11月21日 午前9時15分
日本国・青森県青森市 青森県警察・臨時捜査本部
翌朝、4人は青森県警の臨時捜査本部を訪れていた。
十河雪乃は、再び戻ってきたエレノアとソフィアを見て、驚いた表情を浮かべた。
「……お2人とも、帰還されたのでは?」
「その予定だったのだけれど」
エレノアが答えた。
「事件がまだ終わっていないと聞いたものだから」
ソフィアは笑顔で頷いた。
「もう少しお手伝いすることになりました!」
雪乃は安堵したように微笑んだ。
「ありがとうございます」
その時、理央が一歩前へ出た。
「お久しぶりです、雪乃さん」
雪乃の表情が変わった。
「……神崎先輩?」
「おやおや。そんな顔をしなくてもよいでしょう」
「いえ、その……」
雪乃は少し困ったように言った。
「先輩が来られるとは聞いていませんでした」
「急に決まりましたので」
理央は微笑んだ。
「ところで、君は昨日も夜遅くまで時刻表を調べていたそうですね。睡眠不足は判断力を鈍らせますよ」
「……どうしてご存じなのですか?」
「佐伯さんから聞きました」
「神崎先輩……」
雪乃は小さく溜息をついた。
ソフィアが耳打ちした。
「雪乃さん、神崎さんのこと知ってるんだね」
「はい。日本支部では有名な方です」
「優秀だから?」
「……それもあります」
雪乃は言葉を選んだ。
「ですが、組織の指示より自分の判断を優先することが多く、上司の方々からは少々……」
「変人扱いされているのね」
エレノアが言った。
雪乃は困ったように頷いた。
「……はい」
理央は振り返った。
「聞こえていますよ、雪乃さん」
「申し訳ありません」
「いえ、事実ですから」
理央は穏やかに答えた。
その時、三上警部が部屋へ入ってきた。
「……また増えたのか」
警部は4人を見渡した。
「今度は誰だ?」
理央は丁寧に一礼した。
「神崎理央と申します。CLIB日本支部の調査員です」
「17歳?」
「はい」
三上警部は額に手を当てた。
「……最近の捜査協力者は、どうなっているんだ」
「おやおや。年齢に問題があるのでしょうか?」
「いや、そういうわけではないが……」
「では、問題ありませんね」
理央は微笑んだ。
「1つ、宜しいでしょうか?」
三上警部は苦笑した。
「……何だ?」
「田辺車掌が管理していた解錠用の鍵について、詳しい確認は済んでいますか?」
「鍵の所在は確認している」
「使用状況は?」
「本人は、事件発覚前には使用していないと話している」
「なるほど」
理央は頷いた。
「では、他の乗務員から、鍵の管理について詳しく聞き取りをしたいのですが」
三上警部は腕を組んだ。
「警察が立ち会うなら構わん」
「ありがとうございます」
理央は微笑んだ。
「それから、もう1つ」
「……まだあるのか?」
「田辺さんが管理していた工具の保管場所についても、再確認をお願いします」
三上警部は小さく溜息をついた。
「……分かった」
エレノアは理央を見つめた。
その穏やかな表情とは裏腹に、彼女は捜査の中心へ自然に入り込んでいた。
しかも、誰かを押しのけることなく、必要な情報だけを確実に集めている。
エレノアは小さく微笑んだ。
「……面白い人ね」
ソフィアも頷いた。
「うん。ちょっと怖いけど」
理央は振り返った。
「おやおや。怖がらせてしまいましたか?」
ソフィアは慌てて首を振った。
「い、いえ!」
「それはよかった」
理央は微笑んだ。
――同日 午前10時40分
青森県警察・臨時捜査本部
警察の聞き取りにより、新たな事実が明らかになった。
事件当夜、田辺車掌は午前1時20分頃、車内設備の確認を行っていた。
その後、午前2時35分までの行動については、本人の申告以外に明確な記録がなかった。
さらに、乗務員の1人が、午前2時前後に田辺が工具保管場所付近にいたことを思い出したという。
「……工具保管場所ですか」
雪乃が呟いた。
三上警部は頷いた。
「ただし、時刻は正確ではない。本人も、午前2時頃だったと思う、と話している」
理央は静かに尋ねた。
「その乗務員は、田辺さんが何をしていたか見ていますか?」
「いや。保管場所の付近に立っていたところを見ただけだ」
「なるほど」
理央は頷いた。
「それでも、重要な情報です」
エレノアが尋ねた。
「凶器とみられる工具の鑑定は?」
三上警部は資料を開いた。
「高宮の血液が付着していた。傷の形状とも矛盾しない。ただし、使用者を直接特定できる指紋は残っていない」
雪乃は頷いた。
「つまり、凶器である可能性は高いものの、田辺さんが使用したと断定するには足りません」
「そうだ」
三上警部は答えた。
理央は少し考えた。
「……1つ、宜しいでしょうか?」
「何だ?」
「工具の保管場所には、他にも同じ種類の器具がありましたか?」
三上警部は資料を確認した。
「同じ用途の工具はあるが、発見されたものだけ先端が加工されていた」
「加工された時期は?」
「まだ特定できていない」
「なるほど」
理央は頷いた。
「では、その加工に使用された道具についても確認してください」
エレノアが顔を上げた。
「……犯人が、あらかじめ凶器を準備していた可能性ね」
「ええ」
理央は答えた。
「通常の工具をその場で偶然使ったのではなく、殺害を目的として加工していた可能性があります」
ソフィアは不安そうに尋ねた。
「……じゃあ、計画的な殺人?」
「その可能性はあります」
理央は答えた。
「ただし、計画的だったかどうかは、他の証拠と照らし合わせなければなりません」
雪乃は手帳に書き込んだ。
『凶器の事前準備の可能性』
エレノアは理央を見つめた。
「……あなた、なかなか慎重なのね」
「ありがとうございます」
理央は微笑んだ。
「推理を急ぐと、都合のよい証拠だけを集めてしまいますから」
エレノアは頷いた。
「同感よ」
――同日 午後0時15分
青森県警察・資料室
昼休み。
雪乃は、古い鉄道時刻表の複写資料を机に広げていた。
その隣では、理央が静かに紅茶を飲んでいる。
エレノアとソフィアは、事件当夜の運行記録を確認していた。
「……神崎先輩」
雪乃が口を開いた。
「はい?」
「午前2時17分のことですが」
「ええ」
「列車がその時刻に停車した記録はありません」
理央は頷いた。
「承知しています」
「ただし、速度が低下していたことは確認できました」
「なるほど」
理央はカップを置いた。
「では、乗客が見たホームのような構造物は、駅ではなかった可能性が高いですね」
「はい」
雪乃は答えた。
「鉄道保守用の施設だった可能性があります」
エレノアが顔を上げた。
「つまり、停車駅の謎は、殺人そのものとは別の問題だったのね」
「そのようですね」
理央は答えた。
「ただし、被害者が持っていた古い時刻表には、同じ時刻が書かれています」
ソフィアが尋ねた。
「それは偶然なのかな?」
理央は少し考えた。
「……偶然とは限りません」
彼女は時刻表の写真を見つめた。
「高宮さんは、午前2時17分に何かを確認しようとしていた可能性があります」
雪乃は頷いた。
「はい。水城さんも、北海道に着く前に確かめたいことがあると話していました」
理央は静かに尋ねた。
「その駅の名前について、詳しい調査は進んでいますか?」
「現在、日本支部が確認しています」
雪乃は答えた。
「ただし、正式な記録には見つかっていません」
理央は頷いた。
「なるほど」
そして、突然顔を上げた。
「……僕とした事が!」
3人が驚いた。
「どうしたの?」
ソフィアが尋ねた。
「迂闊でした」
理央は立ち上がった。
「僕たちは、時計が午前2時17分を示していた理由ばかり考えていました」
エレノアが尋ねた。
「……それが?」
「犯人が時計を操作したとして、なぜ被害者の研究資料に書かれていた時刻を選んだのか」
理央は続けた。
「その理由を、犯人の立場から考えるべきでした」
雪乃は顔を上げた。
「……犯人の立場?」
「ええ」
理央は静かに答えた。
「もし犯人が田辺さんなら、彼は高宮さんの研究を知っていた可能性があります」
「はい」
「そして、時計を操作したのは、死亡時刻を偽装するためだけではなかった」
エレノアの表情が変わった。
「……研究資料の数字を使って、捜査を別の方向へ向けた?」
「その可能性があります」
理央は頷いた。
「しかし、まだ1つ問題があります」
「何?」
エレノアが尋ねた。
「時計を操作した人物が、なぜその数字を知っていたのか」
雪乃は時刻表を見つめた。
「……時刻表を見たから」
「ええ」
理央は微笑んだ。
「では、田辺さんがその時刻表を見たことを証明できれば、重要な手掛かりになります」
ソフィアが尋ねた。
「どうやって?」
理央は答えた。
「被害者の所持品に残された痕跡を、もう一度調べるのです」
――同日 午後2時20分
青森県警察・鑑識資料室
鑑識担当者の協力により、4人は高宮俊一の所持品に関する追加資料を確認していた。
机の上には、古い時刻表の写真、懐中時計の鑑定報告書、そして被害者の衣服から採取された微細な付着物の記録が並べられている。
理央は写真を見つめた。
「……おやおや」
雪乃が尋ねた。
「何か気になることが?」
「この時刻表です」
理央は写真の一部分を指さした。
「赤いインクで駅名が囲まれていますね」
「はい」
「その赤いインクについて、成分の比較はされていますか?」
鑑識担当者が答えた。
「時刻表のインク自体は分析していますが、比較対象がありませんでした」
理央は頷いた。
「では、田辺さんの所持品に同種のインクが使われていないか、確認していただけますか?」
三上警部が腕を組んだ。
「……なるほど。筆記具か」
「はい」
理央は答えた。
「もちろん、同じ種類のインクが見つかっただけでは証拠として弱いでしょう。しかし、他の痕跡と一致すれば意味があります」
エレノアは写真を見つめた。
「……それより、私は時計の方が気になるわ」
「ほう」
理央が顔を上げた。
「何でしょう?」
「時計は意図的に操作された。でも、犯人が針を動かした時、どんな状態だったのかしら」
ソフィアが首を傾げた。
「どんな状態?」
「例えば、時計が動いていたのか、それともすでに止まっていたのか」
理央は頷いた。
「なるほど」
エレノアは続けた。
「それに、時計を操作した後、犯人がどこへ置いたのかも重要よ」
雪乃が写真を見つめた。
「テーブルの端ですね」
「ええ」
エレノアは答えた。
「もし高宮さんが時計を見ていたなら、そこに置いた理由があるはず。でも、犯人が置いたなら、位置そのものに意味がない可能性もある」
理央は静かに微笑んだ。
「……興味深いですね」
そして、少し考えた。
「最後にもう1つだけ」
三上警部が顔を上げた。
「……今度は何だ?」
「時計の外装に残された微細な付着物について、再確認をお願いします」
「付着物?」
「ええ。犯人が手袋を使用していた場合でも、時計に別の物質が付着している可能性があります」
エレノアは頷いた。
「例えば、工具の油や、繊維ね」
「そのとおりです」
理央は微笑んだ。
「もちろん、何も見つからないかもしれません。しかし、確認する価値はあります」
三上警部は頷いた。
「分かった。鑑識に依頼しよう」
――2013年11月22日 午前9時30分
青森県警察・臨時捜査本部
翌朝、捜査本部には新たな報告書が届いていた。
三上警部は4人を前にして、机の上に資料を置いた。
「鑑識の追加確認で、いくつか分かったことがある」
雪乃は顔を上げた。
「何でしょうか?」
「まず、懐中時計の外装から、微量の油性物質が検出された」
エレノアが尋ねた。
「工具に使われる油?」
「成分は、車内の工具保管場所にあった潤滑油と共通する特徴を持っている」
理央は頷いた。
「なるほど」
三上警部は続けた。
「さらに、時計の表面には、ごく小さな繊維が付着していた」
雪乃が尋ねた。
「制服の繊維ですか?」
「いや。作業用手袋に使われる素材と一致する特徴がある」
ソフィアが息を呑んだ。
「……じゃあ、犯人が手袋をして時計を触った可能性があるんですね」
「そうだ」
三上警部は答えた。
「ただし、同じ素材の手袋は複数の乗務員が使用している」
理央は静かに頷いた。
「それだけでは、まだ田辺さんを特定できませんね」
「そうだ」
三上警部は続けた。
「だが、もう1つある」
彼は別の資料を取り出した。
「工具保管場所から見つかった凶器とみられる器具に付着していた油性物質が、時計の外装から検出されたものと、詳細な成分分析でよく一致した」
エレノアの表情が変わった。
「……同じ油が、時計と凶器の両方に?」
「その可能性が高い」
三上警部は頷いた。
「完全に同一の由来だと断定できるわけではないが、関連を示す証拠にはなる」
雪乃は静かに頷いた。
「つまり、凶器を扱った人物が、その後に時計を操作した可能性があります」
「ええ」
理央は答えた。
「そして、凶器は田辺さんが管理していた工具保管場所から発見された」
ソフィアは小さく呟いた。
「……つながってきたね」
エレノアは腕を組んだ。
「でも、まだ田辺さん本人の行動を確定できていないわ」
理央は頷いた。
「そのとおりです」
そして、三上警部を見た。
「1つ、宜しいでしょうか?」
「何だ?」
「田辺さんが使用していた作業用手袋は、すべて確認されていますか?」
三上警部は資料を開いた。
「……一組、本人が紛失したと申告しているものがある」
室内に沈黙が落ちた。
雪乃が顔を上げた。
「……紛失?」
「そうだ。事件当夜から見当たらないと話している」
理央は静かに頷いた。
「なるほど」
エレノアは目を細めた。
「……その手袋が見つかれば」
「ええ」
理央は答えた。
「事件の核心に近づけるかもしれません」
――同日 午後0時40分
青森県内・寝台特急「カシオペア」留置場所
冷たい風が、銀色の車体を吹き抜けていた。
警察の許可を得て、4人は再び事件車両を訪れていた。
車内では、鑑識担当者が工具保管場所を再確認している。
雪乃は乗務員控室の前で立ち止まった。
「田辺さんは、ここで作業用手袋を管理していたそうです」
理央は頷いた。
「なるほど」
エレノアが尋ねた。
「紛失した手袋は、どこにあると思う?」
理央は少し考えた。
「犯人が使用したのなら、処分した可能性があります」
「ええ」
「ですが、列車の中で完全に処分するのは簡単ではありません」
雪乃は頷いた。
「はい。走行中に窓から捨てることも困難です」
ソフィアが尋ねた。
「じゃあ、どこかに隠したのかな?」
「その可能性があります」
理央は答えた。
その時、エレノアが壁際の収納設備を見つめた。
「……ここは?」
雪乃が答えた。
「清掃用具の収納場所です」
エレノアは頷いた。
「事件当夜、清掃作業は行われていたの?」
「夜間は必要に応じた対応だけです」
雪乃は答えた。
理央は静かに尋ねた。
「この収納場所は、すでに調べられていますか?」
三上警部が答えた。
「初動捜査で確認している」
「では、収納物の内部まで調べましたか?」
「……そこまでは、すべて確認できていないかもしれん」
理央は頷いた。
「再確認をお願いできますか?」
三上警部は鑑識担当者へ指示を出した。
数分後。
清掃用具の収納箱から、古い布袋が取り出された。
その中には、使い古された作業用手袋が入っていた。
ソフィアが息を呑んだ。
「……手袋!」
鑑識担当者が慎重に確認する。
手袋の内側には、薄い赤褐色の染みが残っていた。
さらに、指先の部分には油性の汚れが付着している。
三上警部の表情が変わった。
「……これは」
理央は静かに頷いた。
「鑑定が必要ですね」
エレノアは手袋を見つめた。
「……もし血液が高宮さんのものなら」
雪乃が続けた。
「田辺さんが紛失したと申告した手袋と一致するか、確認する必要があります」
理央は頷いた。
「ええ」
そして、静かに呟いた。
「……ようやく、最後の証拠が見つかったかもしれません」
――2013年11月23日 午前10時00分
青森県警察・臨時捜査本部
鑑識の結果が届いた。
発見された手袋には、高宮俊一の血液が付着していた。
さらに、手袋の内側から検出された皮膚由来の細胞について、田辺正彦のDNA型と一致する結果が得られた。
そして、手袋に付着していた油性物質は、凶器とみられる工具や懐中時計の外装から検出されたものと、共通する特徴を持っていた。
三上警部は報告書を閉じた。
「……これで、田辺が事件に関与した可能性は非常に高くなった」
雪乃は頷いた。
「はい」
エレノアは静かに言った。
「ただし、まだ密室の成立方法を説明する必要があるわ」
理央は頷いた。
「その点については、すでに整理できています」
ソフィアが顔を上げた。
「本当ですか?」
「ええ」
理央は机の上に客室の施錠装置の図面を広げた。
「高宮さんは、犯人を自分の意思で客室へ入れた可能性が高い」
雪乃が頷いた。
「田辺さんなら、車掌として客室を訪れても不自然ではありません」
「そのとおりです」
理央は続けた。
「そして、犯行後、犯人は乗務員用の解錠手段を利用し、外側から施錠された状態を作った」
エレノアが尋ねた。
「それを裏付ける証拠は?」
理央は頷いた。
「乗務員用の鍵の管理記録と、田辺さんの行動です」
雪乃は資料を確認した。
「……田辺さんは、事件当夜の午前2時前後に鍵を管理できる立場にいました」
「ええ」
理央は答えた。
「さらに、他の乗務員の証言によれば、田辺さんはその時間帯に工具保管場所付近にいた」
ソフィアは頷いた。
「凶器を隠しに行った可能性があるんですね」
「その可能性があります」
理央は答えた。
エレノアは腕を組んだ。
「……なるほど」
雪乃はホワイトボードに事件の流れを書き始めた。
『午前1時頃から午前3時頃 高宮俊一が殺害される』
『犯人が懐中時計を操作し、午前2時17分を示す』
『犯人が客室を出て、外側から施錠』
『凶器と手袋を別々の場所へ隠す』
『午前5時40分 遺体発見』
理央は静かに頷いた。
「この流れなら、密室の成立方法は説明できます」
エレノアは頷いた。
「ええ」
ソフィアは少し考えた。
「でも、どうして高宮さんを殺したんだろう?」
理央の表情が変わった。
「……それが、最後の問題ですね」
――同日 午後1時30分
青森県警察・事情聴取室
田辺正彦は、机の向こうに座っていた。
その顔には、深い疲労が浮かんでいる。
三上警部は、鑑識報告書を机に置いた。
「田辺さん。あなたが紛失したと話していた手袋が見つかった」
田辺の表情が変わった。
「……手袋?」
「そうだ」
三上警部は続けた。
「その手袋から、高宮俊一の血液が検出された」
田辺は黙っていた。
理央が静かに口を開いた。
「田辺さん」
「……何ですか」
「僕は神崎理央と申します」
理央は丁寧に一礼した。
「いくつか、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
田辺は小さく頷いた。
「……はい」
理央は穏やかな声で続けた。
「あなたは、高宮さんが調べていた古い駅について、何かご存じだったのですね?」
田辺は答えなかった。
「そして、その資料が公表されることを恐れていた」
「……違います」
田辺は小さく答えた。
理央は頷いた。
「そうですか」
そして、静かに続けた。
「では、なぜ高宮さんの血液が付着した手袋を、清掃用具の収納場所へ隠したのでしょう?」
田辺の指が震えた。
「……私は、そんなことは」
「おやおや」
理央は微笑んだ。
「僕はまだ、あなたが隠したとは断定していませんよ」
田辺は口を閉じた。
エレノアは理央を見つめた。
穏やかな声。
丁寧な言葉遣い。
しかし、その質問は相手の逃げ道を少しずつ狭めていた。
理央は続けた。
「あなたは、事件当夜の午前2時頃、工具保管場所付近にいたことを覚えていますか?」
「……覚えていません」
「そうですか」
理央は頷いた。
「では、最後にもう1つだけ」
田辺は顔を上げた。
「……何ですか」
理央は静かに尋ねた。
「高宮さんは、あなたに何を見せたのですか?」
田辺の表情が変わった。
「……何を?」
「古い時刻表ですか。それとも、別の資料でしょうか?」
理央は続けた。
「あなたは、駅名を覚えていないと言いながら、その駅が存在しないことを知っていました」
田辺は黙っていた。
「そして、高宮さんが何かを急いでいたことも知っていた」
理央の声は穏やかなままだった。
「あなたは、高宮さんとかなり詳しい話をしていたのではありませんか?」
田辺は顔を伏せた。
長い沈黙が続いた。
やがて、彼は小さく呟いた。
「……あの人は、余計なことを調べすぎたんです」
理央は頷いた。
「ええ。以前も、そうおっしゃいましたね」
田辺は続けた。
「……あの駅のことは、誰も知らなくてよかった」
雪乃が静かに尋ねた。
「なぜですか?」
田辺は顔を上げた。
「……あの資料が公表されたら、困る人間がいるんです」
エレノアが尋ねた。
「あなた自身も?」
田辺は答えなかった。
理央は静かに続けた。
「田辺さん。あなたが何かを守ろうとしていたことは分かります」
そして、表情を引き締めた。
「ですが、そのために人の命を奪うことは、決して許されません」
田辺の肩が震えた。
「……私は」
長い沈黙の後、田辺は小さく呟いた。
「……あの人を、止めたかっただけなんです」
室内に静寂が落ちた。
理央は何も言わず、続きを待った。
田辺は震える声で続けた。
「高宮先生は、あの駅の記録を公表すると言っていました」
「……はい」
「私は、やめてくれと頼んだんです」
田辺は顔を伏せた。
「でも、先生は聞かなかった」
三上警部が静かに尋ねた。
「それで、殺したのか?」
田辺は長い間、答えなかった。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
ソフィアが息を呑んだ。
田辺は続けた。
「先生の部屋へ行って、もう一度話をしました。でも、先生は資料を公表すると言い張った」
彼の声が震えた。
「……私は、取り返しのつかないことをしました」
理央は静かに尋ねた。
「凶器は、あらかじめ準備していたのですね?」
田辺は頷いた。
「……はい」
「そして、殺害後に時計を操作した」
「……はい」
「なぜ午前2時17分だったのですか?」
田辺は顔を伏せた。
「……先生の時刻表に書いてあったからです」
雪乃は静かに頷いた。
「……やはり」
田辺は続けた。
「先生が、その時刻に何かを確認すると話していたんです。だから、時計をその時刻に合わせれば、事件があの駅と関係しているように見えると思いました」
エレノアは腕を組んだ。
「……捜査を混乱させるためだったのね」
田辺は頷いた。
「……はい」
理央は静かに尋ねた。
「客室の鍵は、どうしましたか?」
「……乗務員用の鍵を使いました」
田辺は答えた。
「部屋を出た後、外側から施錠しました」
雪乃は手帳を閉じた。
密室の仕組み。
午前2時17分の意味。
そして、消えた凶器。
すべてが、ようやく1つにつながった。
理央は静かに頷いた。
「……ありがとうございます」
田辺は顔を伏せた。
理央は続けた。
「ただし、あなたが何を守ろうとしていたのかについては、まだ説明が必要です」
田辺は答えなかった。
その沈黙は、殺人事件の解決とは別の、さらに深い秘密が残されていることを示しているようだった。
――同日 午後4時00分
青森県警察・臨時捜査本部
田辺正彦は、高宮俊一の殺害と、犯行後の証拠隠匿について供述した。
警察は、その供述を鑑識結果や現場の状況と照らし合わせ、裏付け捜査を進めることになった。
三上警部は、4人を前にして静かに頭を下げた。
「……協力に感謝する」
雪乃も頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございました」
エレノアは微笑んだ。
「これで、密室殺人事件は解決ね」
ソフィアは安堵したように息を吐いた。
「……よかった」
しかし、理央は机の上の時刻表を見つめていた。
「……おやおや」
雪乃が尋ねた。
「どうしました、神崎先輩?」
「1つだけ、気になることがあります」
エレノアが顔を上げた。
「何?」
理央は古い時刻表の写真を指さした。
「田辺さんは、高宮さんを殺害した理由について、あの駅の記録を公表されたくなかったと話しました」
「ええ」
「ですが、なぜ公表されると困るのかについては、最後まで具体的に説明しませんでした」
雪乃は頷いた。
「はい」
理央は続けた。
「つまり、殺人事件の犯人は特定できましたが、高宮さんが調べていた駅の秘密は、まだ解明されていないということです」
エレノアは静かに頷いた。
「……そうね」
ソフィアが尋ねた。
「じゃあ、また調べることになるのかな?」
理央は微笑んだ。
「ええ。いずれ、そうなるでしょう」
雪乃は時刻表を見つめた。
赤いインクで囲まれた駅名。
午前2時17分。
そして、時計と迷宮を組み合わせた紋章。
それらは、事件の解決後もなお、答えの出ない謎として残されていた。
――2013年11月24日 午後3時30分
日本国・東京都台東区 CLIB東京上野時空連絡駅
地下ホームには、クロノス急行が停車していた。
エレノアとソフィアは、再びロンドンへ帰る準備を整えていた。
見送りには、雪乃、理央、佐伯の3人が来ている。
「今回は、本当にありがとうございました」
雪乃が頭を下げた。
「こちらこそ」
エレノアが微笑んだ。
「あなたの時刻表の知識がなければ、列車の謎を整理するのは難しかったわ」
雪乃は少し照れたように笑った。
「ありがとうございます」
ソフィアも笑顔で言った。
「また一緒に事件を調べたいね!」
「はい。ぜひ」
その時、理央が口を開いた。
「おやおや。もうお別れですか」
エレノアは微笑んだ。
「ええ。でも、また会うこともあるでしょうね」
「そうですね」
理央は頷いた。
「僕も、君たちの推理には大変興味があります」
ソフィアが笑った。
「神崎さんも、すごかったです!」
「ありがとうございます」
理央は丁寧に一礼した。
「もっとも、僕はまだまだ未熟です。今回も、いくつか見落としがありました」
エレノアは少し驚いた。
「……あなたでも?」
「もちろんです」
理央は微笑んだ。
「人間である以上、誤りは避けられません。大切なのは、それを認めて修正することです」
エレノアは静かに頷いた。
「……同感ね」
その時、理央が突然口を開いた。
「ところで、ソフィアさん」
「はい?」
「秋葉原で購入されたアニメグッズは、ロンドンでも大切にしてくださいね」
ソフィアの顔が赤くなった。
「……えっ!?」
エレノアが笑った。
「まだその話をするの?」
理央は不思議そうに首を傾げた。
「おやおや。何か問題が?」
佐伯が小さく溜息をついた。
「神崎さん……」
雪乃も困ったように微笑んだ。
ソフィアは顔を赤くしたまま言った。
「……もう、内緒にしてたのに!」
理央は穏やかに答えた。
「失礼しました。僕は少々、口が軽いようです」
「少々じゃないと思う……」
ソフィアが呟いた。
エレノアは笑いをこらえながら、理央へ手を差し出した。
「……また会いましょう、神崎理央」
理央はその手を握った。
「ええ。次にお会いする時も、興味深い事件であることを願っています」
エレノアは微笑んだ。
「事件が起きない方が、世の中にとってはいいのだけれど」
「おやおや」
理央は小さく笑った。
「それも、確かにそうですね」
発車ベルが鳴った。
エレノアとソフィアは列車へ乗り込んだ。
窓の外では、雪乃たちが手を振っている。
ソフィアも大きく手を振った。
「さようなら!」
エレノアも微笑んだ。
「また会いましょう」
やがて、クロノス急行は静かに動き始めた。
地下ホームが後方へ流れ、窓の外には青白い光が広がっていく。
ソフィアは座席に腰掛けた。
「……ねえ、エレノア」
「何?」
「神崎さん、すごく変わってたね」
エレノアは微笑んだ。
「ええ。でも、優秀な探偵だったわ」
「うん」
ソフィアは頷いた。
「また会えるかな?」
「きっとね」
エレノアは窓の外を見た。
時間と世界の境界を、クロノス急行が走り続けている。
その先には、まだ見ぬ事件が待っている。
そして、今回の事件で見つかった時計と迷宮の紋章。
それは、彼女たちが追い続ける大きな謎の一部だった。
エレノアは静かに呟いた。
「……真実は、必ずどこかにある」
ソフィアは微笑んだ。
「うん」
クロノス急行は、ロンドンへ向かって走り続けた。
――第11話 完




