第2話 老賢者の来訪
混乱と疲憊が、重く一真の身体を押し潰していた。
床に叩きつけられた刺客の男はぴくりとも動かず、ただアンのすすり泣く声だけが薄暗い部屋に響いている。
状況を整理しようとするが、思考に靄がかかったように頭が働かない。
自分は28歳の日本の公務員で、市役所の駐車場で刺されたはずだ。
なのに、ここは古代エジプトの王宮。
自分はファラオ・ツタンカーメンと呼ばれ、病弱な身体と見知らぬ記憶を押し付けられている。
(夢……なのか……? だが、この関節の痛みも、冷や汗の感覚も……あまりにも生々しすぎる……)
壁に背をもたせかけ、荒い呼吸を繰り返す一真。
その時、重厚な扉の向こうから、ゆっくりとした足音が近づいてきた。
現れたのは、一人の老人だった。
白髪を後頭部で束ね、深い知性を宿した瞳。
亜麻布の衣を纏ったその人物は、室内を一瞥すると、倒れている刺客と、短剣を手放して呼吸を乱す一真の姿を交互に見つめた。
その表情には、驚きの色はほとんどない。
ただ、探るような、どこか懐かしむような視線が一真へと注がれる。
メレル。
この宮廷で賢者と称され、兵器や建築の技術を司る男。
「……お怪我はありませんか、ファラオ」
老人の口から出た言葉は、一真の耳に不思議な滑らかさで届いた。
「メレル……様……」
アンが涙を拭いながら、すがるような目を老賢者に向ける。
老人は静かに頷くと、気絶した刺客の首元に手を当て、脈があることを確認してから、一真の前で深く膝をついた。
「病床で息絶えるはずだったお方が、刺客を組み伏せるとは。……ふむ、興味深い」
老人の瞳の奥に、一瞬だけ鋭い光が走った。
一真はその視線に、どこか見覚えのある既視感を覚える。
(この老人……ただの古い人間じゃない……? なんだ、この独特の理知的な圧は……)
一真が問い詰める間もなく、老人は静かに語り始めた。
「ファラオ。あなたが今、どれほど混乱されているかは想像に難くありません。
……ですが、事態は一刻を争います。あなたが『生きている』という事実だけで、この国はすでに激震に見舞われているのですから」
「この国……? エジプトのことか……?」
かすれた声で一真が尋ねると、老人は静かに首を肯かせた。
「今のエジプトの現状を、お分かりでしょうか」
老賢者メレルは、部屋の壁に刻まれたヒエログリフを見上げながら、淡々と、しかし極めて論理的に現状を紐解いていった。
「先代アメンホテプ4世様が断行されたアテン信仰への強制移行、いわゆるアマルナの改革は、この国を根底から切り裂きました。
伝統あるアモン神殿の権力を削ぎ、神々の名を取り去った暴挙は、神官たちの怒りと民衆の混乱を招いた」
「アモン神殿……」
「ええ。そして今、あなた様がアモン信仰への復帰を宣言し、都をテーベへ戻そうとされている。しかし、一度奪われた権力と莫大な土地の利権を取り戻そうとするアモン神官たちの執念は、苛烈を極めております。
彼らにとって、ファラオとは自分たちの利権を復権させるための『都合の良い道具』でなければならんのです」
老人の解説は、極めて構造的だった。
宗教的な狂信ではなく、権力と利権の動態として歴史を分析している。
古代の人間とは思えない、客観的で冷徹な視点。
「外に目を向ければ、北方の強国ヒッタイトがシリア方面へ怒涛の勢いで侵攻しております。
我が国の軍事的影響力は衰退し、同盟国は見捨てられ、オリエントの均衡は破綻寸前。国内では神官と老臣アアイが主導権を争い、王宮は毒蛇の巣窟と化している……」
老人は一真の目をまっすぐに見つめた。
「そして何より、この国を支える兵士や職人、民衆の生活は困窮し、制度は破綻しかかっている。
……あなたが倒れれば、この国は内と外から完全に引き裂かれ、歴史の闇へと消え去るでしょう」
一真は絶句した。
頭の中に断片的に入っていたツタンカーメンの記憶が、老人の言葉によって一つの巨大な「現実」として繋がっていく。
破綻した国家経営。
肥大化した既得権益。
押し寄せる外敵と、困窮する民衆。
(これは……まるで……潰れかけた巨大な自治体じゃないか……)
かつて市役所で数々の不祥事や財政危機、理不尽な問題を見てきた一真の「公務員」としての本能が、老人の説明の凄惨さに冷や汗を流していた。
「……なぜ、俺にそんな話をする」
一真が尋ねると、老賢者はふっと口元に微かな笑みを浮かべた。
「あなたが『ただの少年』ではない目をされているからです。病から醒めたあなたの瞳には、死線を潜り抜けた者の気迫と、理不尽を受け止める意志が宿っている」
老人はゆっくりと立ち上がった。
「私はメレル。この国の技術と知識を預かる者。……ファラオ、あなたがこの爛れた国をどうされるおつもりか、見極めさせていただきましょう」
その背中を見送りながら、一真の胸の中に、未だ見ぬ巨大な運命の嵐への予感が重く立ち込めていた。
史実のアメンホテプ4世は、古代エジプト第18王朝の宗教革命を起こした異端のファラオであり、従来のアメン神中心の多神教を排し、太陽円盤アテンを唯一神として崇拝する宗教改革(アマルナ革命)を断行した人物。
彼の改革は国家構造・宗教・美術・外交に大きな影響を与え、息子ツタンカーメンの時代に全面的に否定されるほど急進的だった。




