第35話:雷帝降臨と、カデシュの黒雲
黒海から吹き付ける荒々しい山風が、ヒッタイト帝国の首都ハトゥシャの巨大な石造城壁を叩いていた。
断崖の上にそびえる「獅子門」の深奥、赤々と燃える篝火に照らされた大謁見の間。
そこに座すのは、オリエント世界で「アナトリアの荒鷲」「鉄の覇王」と恐れられる男、ヒッタイト皇帝シュッピルリウマ1世であった。
その深く刻まれた眉間のシワと、鷲のように鋭い眼光は、数多の戦場と陰謀をくぐり抜けてきた絶対者の威厳を放っている。
「……バビロニアの商船が持ち帰った報告に、狂いはないのだな?」
シュッピルリウマの重く太い声が、石造りの部屋に響いた。
「はっ……! 偽りございません」
平伏しているのは、北方密偵・工作部隊総監のタキハラであった。
その額からは冷や汗が吹き出している。
「テーベに潜入させた我が精鋭の工作隊は、一人として戻りませんでした。
……バビロニアの特使ナブーが目撃した通り、エジプトの幼王は、神殿の神官どもを粛清し、自ら製鉄の高炉を打ち建て、水車をもって肥沃な国土をさらに倍加させております。
さらに……我が国の鉄製品すら易易と切断する、謎の『異形の強鋼剣』を兵に授けているとのこと……!」
謁見の間に、重苦しい沈黙が落ちた。
ヒッタイトがオリエントの覇者として君臨できた最大の理由は、アナトリア特有の「鉄の製錬技術」の独占と、それを背景とした軍事力であった。
もし、南方の肥沃な大国エジプトが、自前でより高度な「鉄」を量産し始めたとすれば——ヒッタイトの存在基盤そのものが根底から覆ることを意味していた。
「ハッ! 戯言を!」
沈黙を切り裂いたのは、ヒッタイト重装戦車隊・総指揮官であり、皇帝の長男である猛将テリピヌであった。
巨躯に青銅と鉄の重甲冑を纏ったテリピヌは、大斧の柄を床に叩きつけながら吐き捨てる。
「高炉だの強鋼剣だの、エジプトの軟弱な病弱王が見せかけた『はったり』に過ぎん! 我が軍の誇る三千五百輌の三人乗り重装戦車の前には、歩兵の群れなど枯れ草と同じ! 突撃の一撃で踏み潰し、その高炉とやらも木っ端微塵にしてくれましょう!」
「待て、テリピヌ。軽挙は慎め」
静かに制したのは、近衛戦車隊長であり、鋭い洞察力を誇る若き将ムワタリであった。
「バビロニアの商人は利に目がないが、嘘はつかん。
何より、我が国の精鋭工作員が束になって潜入し、誰一人として生還できなかったのだぞ?
エジプトの王宮には、我々の知らぬ『闇』と『謀略』が渦巻いている。
ただの病弱なファラオではない……『何者か』が、あの幼王の肉体を借りて覚醒したと考えるべきだ」
「何だと……? 貴様、我が戦車隊の突撃が退けられるとでも言う気か!?」
「そうは言っておらん! 敵の正体と技術のカラクリを見極めずに突っ込めば、足元をすくわれると言っているのだ!」
両者が睨み合い、謁見の間の緊張感が跳ね上がった、その時——。
バチッ……! バチバチバチッ……!
突如として、大謁見の間の空気が重く跳ね上がり、青白い火花が石畳の隙間を走り抜けた。
広場の篝火が一瞬で激しく揺らぎ、不気味な紫電の光が将兵たちの顔を照らし出す。
「静まれ」
重く、地響きのような一言。
玉座から立ち上がったシュッピルリウマの手には、巨木をも一刃で断つ両刃の鉄大剣が握られていた。
彼がその剣を斜めに掲げると、天井の隙間から差し込む日光が遮られ、ハトゥシャの空が一瞬にして黒雲に覆い尽くされた。
シュッピルリウマの全身から立ち上る、高圧の雷気。
それこそが、ヒッタイト最高神「嵐と雷の神テシュブ」の神威を身に宿す、覇王シュッピルリウマの絶対的な能力であった。
「相手が病弱な幼王であろうと、異世界の悪魔であろうと関係ない。我がヒッタイトが誇るものは、単なる鉄の塊ではない……神雷の加護そのものだ」
ズ・ド・ン————!!
シュッピルリウマが剣を一閃させると、ハトゥシャの空を突くような太い雷光が天から落ち、城壁の塔の一つを粉々に打ち砕いた。
放たれた高圧の電撃と暴風に、猛将テリピヌも謀臣タキハラも息を呑み、恐怖と崇拝の念から床に平伏する。
「ファラオが『鋼鉄』を揃えようと、金属など我らが神雷を引き寄せる格好の標的(避雷針)に過ぎん。
全軍へ告げよ……我が直接率いる三人乗り重装戦車三千五百、重装歩兵二万、同盟国の軍勢を合わせ、四万の大軍をもってカデシュへ出陣する!」
シュッピルリウマの眼光が、紫電の光を帯びて鋭く輝いた。
「エジプトのファラオに教えてやるのだ。アナトリアの荒鷲と、テシュブの雷火の前には、いかなる智慧も灰燼に帰すということをな!」
「「「タバルナ(皇帝)に栄光あれ!! 神雷の覇王に栄光あれ!!」」」
テリピヌ、ムワタリ、ハトゥシリら将軍たちの咆哮と、天を揺らす雷鳴が重なり合い、ハトゥシャの地を狂乱の渦へと巻き込んでいった。
オリエントの雷帝シュッピルリウマ1世。
その超常の神威を携えた巨鯨のごとき大軍勢が、カデシュ平原へ向けて南下を開始した。




