第34話:新式長槍と、出陣の陣太鼓
ナイルの川風が吹き抜けるテーベ郊外の広い練兵場。
そこには、陽光を浴びて青白く輝く「鉄の尖頭」の群れが整然と並んでいた。
高炉の稼働によって量産された、高純度の鋼を先端に冠する長さ四メートル超の「新式長槍」である。
「——第一列、槍を構えよ!」
大将軍ケンアモンの太く重厚な号令が響き渡る。
兵士たちが一斉に長槍の柄を脇に抱え、前方へ突き出した。鋭い金属の先端が幾重にも重なり合い、まるで鋼のハリネズミのような絶対の防御壁——古代ギリシャのファランクス(密集陣形)を彷彿とさせる密集突撃陣が完成する。
「ほう……見事なものだな」
ファラオは高台からその光景を見下ろし、隣に立つ参謀メレルに声をかけた。
「ええ。従来の銅製短槍や革盾による歩兵では、ヒッタイトの重装戦車の突撃速度と質量を受け止めることは不可能でした。
しかし、この鋼鉄の長槍陣形であれば、敵の戦車馬隊は自重の運動エネルギーによって自ら串刺しとなります。力学的な計算上、正面からの破砕は不可能です」
メレルは羊皮紙の巻物に視線を落としながら、静かに自負をのぞかせた。
さらに陣形の両翼には、水車技術の応用によって生み出された「連射式巨大弩弓」が据え付けられている。
旋風の銀弓セセラ率いる弓兵隊が、その操作手順を念入りに確認していた。
「セセラ、調子はどうだ?」
ファラオが声をかけると、セセラは軽やかに振り返り、ニッコリと笑ってみせた。
「バッチリだよ、ファラオ様!
この巨大弩弓なら、ヒッタイトの戦車が長槍の届かない遠距離にいても、分厚い盾ごと貫けるわ。射撃の手順も体で覚えたから、本番でも息を合わせられるよ」
ファラオの授けた現代的軍事思想と、メレルの精密な計算、そして職人たちの技術。それらが噛み合い、エジプト軍は急速に「近代的な総合軍事機構」へと変貌を遂げつつあった。
練兵場の端では、汗に濡れた身体で木刀を振るう青年がいた。
天性の剣士ラノフェルだ。
「足さばきを乱すな、ラノフェル。腰の回転と目線が一致した時、刃は自ずと相手の隙を捉える」
ファラオは自ら木刀を手に取り、ラノフェルと相対した。
ファラオが踏み込み、木刀を軽く払う。
その一瞬の動きに対し、ラノフェルは反射的に身体を沈め、ファラオの木刀の背を滑らせるようにして反撃の刃筋を立てた。木刀同士が鈍い音を立てて交錯する。
「……素晴らしい。武道の『起こり』を捉える感覚が身についてきたな」
「ファラオ様のおかげです!」
ラノフェルは荒い息を整えながら、満面に笑みを浮かべた。
「俺たちが貧民街で振り回していた剣は、ただの乱暴でした。
けど、ファラオ様が教えてくださった『理』は……身体が勝手に反応して、敵の動きが遅く見えるんです」
野性の直感と、現代日本の洗練された剣道・居合の理。
この二つが融合したラノフェルの存在は、接近戦において圧倒的な脅威となるはずだった。
軍議と最終調整が終わり、重臣たちが各自の準備へと散っていく。
老宰相アイは、かつて神官勢力と結んでいた情報網をフルに活用し、シリア沿岸の都市国家群へ揺さぶりをかけていた。
「エジプトのファラオは神の炎で鋼を打ち、鋼鉄の軍勢を率いて北方へ進軍中である」
という噂を尾ひれ付きで流し、ヒッタイト軍の補給線や同盟関係をあらかじめ動揺させる狙いである。
また、「闇の盾」バキ率いる暗殺者たちは、すでに先発隊としてシリア方面へ潜入し、敵の偵察隊や哨戒網の無力化に動き出していた。
正面突破の武力、精密な兵器技術、裏工作の外交戦。
すべての歯車が合わさり、エジプト軍はかつてない完璧な布陣をもって、北方の覇者との大決戦へ向かおうとしていた。
夜が更けるにつれ、王宮の私室は、ナイルの川面に跳ねる月光とほのかな香油の匂いに包まれていった。
ファラオは腰の打刀を台座に置き、深い溜め息とともにベッドの端へ腰を下ろした。長降る軍議と練兵の疲れが、重く身体にのしかかっている。
その背後から、衣の擦れるかすかな音が近づき、温かく柔らかな肌の気配が背中に寄り添った。
「……ファラオ」
耳元で囁くような、王妃アンの声。
振り返る間もなく、細くしなやかな腕がファラオの首筋に回され、愛おしげに抱き寄せられる。アンの身に纏う上質な亜麻布の薄衣越しに、彼女の鼓動と熱がじかに伝わってきた。
「アン……まだ起きていたのか」
「このような夜に、寝入ることなどできませんわ。明日には……あなたが遠い北の地へ向かわれてしまうのですから」
アンはファラオの膝の上にそっと身を躍らせ、向き合う形で倒れ込むように重なった。
月光に照らし出されたその顔には、一国の王妃としての毅然とした気品とともに、一人の女性としての切ないほどの情愛が浮かんでいた。
アンの指先が、ファラオの頬、そして力強い首筋から胸元へとゆっくりと滑り降りていく。
「あなたの身に刻まれた傷も、背負われている重荷も……すべて私が抱きしめたい。私にできることは、こうしてあなたに命と身体の熱を捧げることだけ……」
「アン……お前はもう、十分すぎるほど俺を支えてくれている」
ファラオはアンの腰を抱き寄せ、その唇を優しく、深く塞いだ。
重なる息、深まる接吻。
現代からこの古代の地に引き寄せられ、「神の器」としての壮絶な使命を背負うファラオにとって、アンの体温だけが自分が血の通った人間であることを証明してくれる唯一の救いであった。
アンは艶やかな息を漏らし、ファラオの背にしっかりと手を回すと、指を深く食い込ませた。
「……私を、深く愛してください、ファラオ。
あなたの中に、私のすべてを刻み込んでくださいませ……」
解かれた亜麻布が滑り落ち、二人の身体は月光の描く影の中でひとつに重なり合った。
互いの存在を確かめ合い、慈しみ合うように重ねられる肌の熱。静謐な室内には、途切れることのない深い愛の囁きと、熱い吐息だけがいつまでも満ちていた。
やがて、東の空がほの白み始める。
朝の光が差し込む頃、ファラオはベッドの中で静かに眼を開けた。
腕の中では、愛を確かめ合ったアンが、満足げな微かな微笑みを浮かべたまま、愛おしそうに胸に顔を寄せて眠っている。
ファラオは彼女の額にそっと最後の接吻を落とすと、アンを起こさぬよう静かに身を起こした。
甲冑を纏い、腰に至高の日本刀を差す。その瞳には、すでに一切の迷いはなかった。
「……行ってくる」
眠る愛妻へ静かに誓いを残し、ファラオは力強い足取りで私室を後にした。
王宮の外からは、テーベの空を揺らす出陣の陣太鼓の音が、地鳴りのように響き渡り始めていた。




