第33話:地下牢の密偵と、北からの暗雲
王宮の最深部、灯火の光すら届かぬ地下回廊。
湿り気を含んだ石壁の冷気が、夜の静けさをより際立たせていた。
太い石柱に拘束された男は、身動き一つ取れずに低く息を吐いた。全身に深手を負い、褐色の肌は血と埃で汚れていたが、その瞳に宿る鋭い光だけは消えていない。
「……無駄だ。俺をどう扱おうと、何も話さん」
男の掠れた声に対し、闇の中から応じたのは「闇の盾」バキであった。
影のように静かに歩み寄り、短剣の柄を指先で弄びながら、冷めた眼差しで密偵を見下ろす。
「無駄かどうかを決めるのはお前ではない。……この王宮の警備網をくぐり抜けようとした腕は大したものだが、詰めが甘かったな」
重い足音が響き、回廊の奥からファラオが姿を現した。
その脇には参謀メレル、そして歩調を合わせて進む老宰相アイの姿がある。
ファラオは捕らえられた密偵の顔をじっと見つめ、静かに問いかけた。
「アナトリア(小アジア)の者だな。ヒッタイトの王スッピルリウマの手先か」
密偵の男の身体が、一瞬だけ硬直した。
敵国の王の名を即座に口にしたファラオの洞察力に、隠しきれない動揺が走る。
「なぜ……その名を……」
「怪しむほどの記憶ではない」
一歩前に出たのは老宰相アイであった。皺の刻まれた顔に、長年の政治闘争をくぐり抜けてきた男特有の、落ち着いた笑みを浮かべる。
「ヒッタイトの現王スッピルリウマは、北シリアのミタンニ勢力を圧迫し、オリエントの覇権を握ろうと狙っている。
バビロニアの商船が我がテーベで対等通商を受け入れ、高炉の製鉄技術を目撃して戻ったのだ。自前の鉄と戦車を誇るヒッタイトが、危機感を募らせて密偵を放つのも当然の道理よ」
アイはファラオに向かって恭しく頭を下げると、淡々と見解を述べた。
「陛下。ヒッタイトの本質は軍事技術の独占にございます。
我が国が高度な製鉄手法と高純度の鋼を手にすれば、彼らの優位性は根底から揺らぎます。故に彼らが選ぶのは、技術が定着する前に叩き潰す『予防戦争』にほかなりません」
「つまり、相手はこちらの力を恐れるあまり、軍を動かさざるを得ないというわけか」
ファラオは腕を組み、静かに思考を巡らせた。
「メレル、軍備の状況はどうなっている」
「はっ」
メレルが羊皮紙の記録を開き、正確な数値を淀みなく口にする。
「鍛冶工房の高炉稼働により、近衛兵五千名分の新式長槍および打刀の配備は、あとふた月で完了いたします。
また、水車技術を用いた連射式巨大弩弓の試作も順調です。しかし、懸念すべきは決戦の『地形』にございます」
メレルは指先で床の塵を払い、簡略な地図を描いた。
「ヒッタイトが南下する場合、主戦場となるのはシリア・パレスチナ回廊のカデシュ周辺です。あそこは視界の開けた平原であり、相手の誇る重装戦車隊が最も威力を発揮します。
我が軍の従来の歩兵陣形では、正面からの突撃を受け止めるのは容易ではありません」
「受け止めきれぬのなら、受け止める仕組みを作ればよいまでのこと」
廊下の暗がりから重厚な甲冑の擦れる音が聞こえ、大将軍ケンアモンが姿を現した。
その背後には、剣士ラノフェルと銀弓のセセラも控えている。
「陛下。エジプト軍総司令官として申し上げます。相手が重装戦車であろうと、それを封じる兵法を整えれば恐れるに足りません。ファラオが授けてくださった強鋼の武具と新たな陣形があれば、我が軍は決して崩れませぬ」
ケンアモンの言葉には、主君への深い絶対の信頼と、武将としての頼もしい自負が満ちていた。
翌朝、王宮の大広間にて軍議が執り行われた。
居並ぶ重臣たちの表情には、かつての内乱期のような悲壮感はない。自分たちの手で成し遂げた技術革新と、導き手であるファラオへの信頼が、彼らに静かな自信を与えていた。
「皆、聞け」
壇上のファラオの声が、大広間の澄んだ空気の中に響く。
「北のヒッタイトは、我が国の富と技術を恐れ、力で奪わんとして動いている。だが、我らが目指すのは覇道ではない。このナイルの民が平穏に暮らしを立てられる『揺るぎなき平和』だ。それを脅かす者が現れるならば——我らはその刃をもって、降りかかる災いを退ける」
「「「ファラオ!!」」」
ケンアモンを筆頭に、全将兵が一斉にひざまずき、力強い唱和を上げた。その声は柱を揺らし、朝の王宮全体へと広がっていく。
軍議が終わり、廊下へ出たファラオの元へ、王妃アンがそっと歩み寄ってきた。
「ファラオ」
「アン……聞き及んでいるか。北方への遠征が決まった」
アンは穏やかな眼差しで夫を見つめ、静かに首を振った。
「はい。ですが、私は心配しておりません。あなたがこの国と民のために示される道に、迷いがないことを知っておりますから」
アンはファラオの手に自らの手を重ね、温もりを伝えた。
「どうかご無事で。私も王宮を守り、民とともにあなたの朗報を待っております」
「ああ、約束する」
ファラオは妻の手を握り返し、北の空を見上げたた。
古代オリエントの歴史において、エジプトとヒッタイトが衝突した大決戦。
本来辿るはずだった苦難の歴史を塗り替えるべく、現代の知恵と絆を結集した新たな戦いが、いま始まろうとしていた。




