第30話 「鋼の対価(後編:技術と外交の決着)」
外交の場における「優位」とは、単に兵の数や金銀の量によって定まるものではない。相手が喉から手が出るほど欲している「価値」を握り、それをいかに提示してみせるか――その一点にかかっている。
王宮専属の鍛冶工房。
黒煙と熱気が立ち込めるその中央で、職人が恭しく差し出した布が払われた。
現れたのは、日差しを浴びて波打つような刃紋を浮かべさせる、一振りの美しい刀――「日本刀(打刀)」であった。
「……何だ、その妙な形の剣は。青銅にしては色が青黒く、あまりに細い」
バビロニア特使ナブー・シュム・リシルは、鼻で笑うように吐き捨てた。
「我がバビロニアの誇る重装歩兵の青銅の大盾や重甲冑の前には、そのような細身の剣など一撃でへし折れよう。
我が国の『銀』と『法』による保障条約を拒み、そのような玩具を見せびらかすおつもりか?」
せせら笑うナブーの横で、宰相として立つアアイが、くっくっと低く喉を鳴らして嗤った。
「……ククッ、ナブー殿。無知とは罪なものよのう。その『玩具』が何であるかも見抜けぬとは、バビロニアの外交官も随分と目が曇られたようだ」
「なに……!?」
アアイの刺すような挑発にナブーが顔を赤くした瞬間、ファラオが静かに一歩前へ出た。
ファラオは無言で柄に手をかけると、すっと刀を抜いた。切っ先が描く美しい「反り」。
「……ナブー特使。お前たちの誇る青銅の大盾と、我が国の鍛冶職人が命を削って創り上げた『鋼』。
どちらが上か、試してみるか?」
ファラオの静かな、しかし有無を言わせぬ圧迫感に、ナブーは一瞬息を詰まらせた。
「……よいでしょう。我がバビロニアの青銅技術の結晶を見せてやる! 打ち砕いて後悔するなよ!」
ナブーの指示を受け、巨漢のバビロニア兵が重厚な青銅の大盾を前に構え、身構えた。
工房内に緊迫した静寂が走る。
ふ、とファラオが息を吐いた。
次の瞬間、ファラオの姿がブレた。
閃光。
空を断つ鋭い刃風の音とともに、一筋の銀の軌跡が走る。
――ガァンッ!
澄んだ金属音が工房内に響き渡った。
バビロニア兵が構えていた厚さ指二本分はある青銅の大盾が、一瞬の抵抗もなく、まるで温めたバターを切り裂くように一刀両断され、床に転がった。
「……な、なに……!?」
ナブーの目が飛び出さんばかりに見開かれた。切り口は滑らかで、刃こぼれひとつしていない。
「折れず、曲がらず、極限まで切れ味を高めた『鋼』の刀だ」
ファラオは刃を鞘に滑らせ、静かにカチリと音を立てて納刀した。
「バビロニアが誇る青銅や、ヒッタイトの粗悪な鉄剣など、この刀の前には紙同然。
……そしてナブー、我がエジプトが持っているのは、この製鉄技術だけではない」
合図を受けた参謀メレルが、羊皮紙の図面と計算書をナブーの目の前に広げた。
「特使殿。こちらは我がファラオが設計された『水車式ナイル灌漑装置』、および高炉による『大量製鉄・金属鍛造』の設計図でございます」
メレルは冷徹な眼差しで、絶句するナブーを見下ろした。
「この技術があれば、貴国が喉から手が出るほど欲している軍備の近代化と、農業生産性の爆発的向上(三倍以上の収穫)が約束されます。
……バビロニアの不平等な買い叩きに応じるなど、我が国には何の価値もありませんな」
「ば、バカな……! このような奇跡の技術が存在するはずが……!」
狼狽するナブーに対し、追撃の手を緩めなかったのは老宰相アアイであった。
アイはナブーの耳元へ顔を寄せると、悪魔のような笑みを浮かべて囁いた。
「ナブー殿……我が国がこの『鋼の製鉄技術』と『灌漑図面』を、バビロニアではなく、北方のライバルである『ヒッタイト』や『ミタンニ』に売り渡したらどうなるか……お考えになられたことはおありか?」
「……つっ!!」
ナブーの顔から一気に血の気が引いた。
もしヒッタイトがこの「しなやかで折れない鋼」と爆発的な糧食を手に入れれば、バビロニアは一回戦で踏み潰され、国家滅亡の憂き目に遭う。
「さぁ、選択されよ特使殿」
アアイが冷ややかに追い詰める。
「我がエジプトの豊富な穀物・金と、バビロニアの錫・ラピスラズリ・高品質な軍馬を『完全対等な高レート』で等価交換するか……それとも、我が国を敵に回し、ヒッタイトの鉄足に踏み潰されるか!」
完璧なまでの「技術」と「老謀」の挟み撃ち。
ナブーは膝から崩れ落ちそうになり、全身からダラダラと冷や汗を流した。
「く……降参だ。我がバビロニアは……エジプトの提示する『対等かつ不可侵の通商条約』を全面的に受け入れる……!」
夕刻――。
バビロニア使節団との調印を終え、テーベの街を見下ろす王宮のバルコニー。
ナイル川に沈む夕陽が、王都を黄金色に染め上げていた。
「お見事でした、ファラオ」
可憐で気品に満ちた衣装を纏った王妃アンが、ファラオの隣に並び立ち、心からの尊敬と慈愛を込めた微笑みを向けた。
「武力で脅すのではなく、知恵と技術で相手を屈服させ、エジプトに富をもたらす……あの方たちも、ファラオの底知れぬ凄みに戦慄しておりましたわ」
「アン……」
ファラオは優しく妻の肩を抱き寄せた。
「俺一人の力じゃないさ。
職人たちの汗、メレルの計算、そして……アアイの毒まで使いこなさなければ、ここまでの完勝はあり得なかった」
「ふふ、それでも……そのすべてを束ね、前へ進まれるのは、私の愛するファラオ、あなたです」
アンはそっと夫の胸に頭を預けた。
ファラオはその温もりを確かに感じながら、新しく腰に挿した日本刀の柄に手を置いた。
武力による決着(アモン神殿戦)を経て、技術と経済による勝利(バビロニア外交戦)を収めたエジプト。
しかし、オリエント世界の覇権を巡る激動の波は、北方の巨大帝国、ヒッタイトの影とともに、確実に王都テーベへ迫りつつあった。




