第31話 謁見の間の誓い
バビロニア特使ナブーが失意のうちに辞去し、張り詰めていた重苦しい空気がようやく解けた謁見の間。
豪奢な宰相の衣装を纏ったままの老宰相アイが、ファラオの前に立ち尽くしていた。
バビロニアの老獪な特使を相手に「毒」を吐き散らし、エジプトへ圧倒的な利をもたらしたその働きは、まさに完璧と言うにふさわしいものであった。
ファラオは王座から静かにアイを見下ろし、口を開いた。
「……良い働きだった、アアイ。お前のおかげで国は救われた。アイ、お前の罪…」
ファラオがその温厚な人柄ゆえに、無条件での恩赦を告げようとした、その瞬間。
「お待ちください、陛下」
静かな、しかし凛とした声がファラオの言葉を遮った。
ファラオの傍らに控えていた参謀メレルが、一歩前へ出たのである。
メレルは眼鏡の縁に手をやり、冷徹とも思える知的な眼差しを老宰相アイへ向けた。
ファラオの慈悲深さは、王としての最大の魅力であり強みである。
しかし、国を揺るがした大罪人に対し、何のお咎めも誓いもなく許してしまえば、命を賭して戦ってきたケンアモンら近衛の将校や、民の間に「王は裏切り者に甘い」という不審の種を撒くことになりかねない。
王の優しさを、政治的な隙にしてはならない。
メレルは一瞬でそう判断したのである。
「アアイ殿」
メレルはアイを見据え、朗々と謁見の間に響き渡る声で言った。
「今ここでファラオに跪き、自らの非を認めて許しを乞い、生涯の忠誠を誓うのならば……我がファラオはそなたを許し、慈悲を与えてくださるだろう」
言葉の裏にあるメレルの意図を、老政治家であるアイが悟れぬはずがなかった。
これは「形だけの赦免」ではない。己のプライドを捨て、王都の全重臣の前でファラオ個人へ膝を折るという、政治的な「服従の儀式」であった。
アアイは一瞬、目を丸くしたが、やがてくっくっと低く胸を揺らして笑った。
(……見事なものよ、賢者メレル。ファラオの慈愛を傷つけず、威厳を完璧に保ってみせたか)
アアイは静かに両膝を床につけ、老いた身体を折り曲げて、ファラオの足元へ深く、深く頭を垂れた。
「……我が至高のファラオ、ツタンカーメン陛下。この愚かな老骨めが犯した過ちをお許しくだされ。……いまこの瞬間より、このアイの命と知恵のすべてを陛下へ捧げ、生涯の忠誠を誓います」
かつてアモン神殿とともに国を牛耳っていたあの老宰相アイが、ついに完全に膝を折った瞬間であった。
メレルがそっとファラオへ向けて、目だけで静かに合図を送る。
『これで筋は通りました。許しをお与えください』
と。
ファラオはメレルの深い配慮に感謝しつつ、力強く頷いた。
「面を上げよ、アアイ。……これからも国と民のために、その知恵と力を貸してくれ」
ファラオの声が謁見の間を満たす。そして、ファラオは周囲の臣下たちを見渡した。
「皆も、良いな?」
その問いかけに、真っ先に応えたのは大将軍ケンアモンであった。
さらにカメス、メレル、そして居並ぶすべての将兵と官吏たちが、一斉にその場に膝をつき、頭を下げた。
「「「御意にございます、ファラオ!!」」」
誰一人として不満を漏らす者はいない。
王妃アンもまた、夫・ファラオの隣で、誇らしげにその光景を見つめていた。
旧体制の象徴であったアイを取り込み、バビロニアの威嚇を退け、重臣たちの絆をより強固なものとしたエジプト。
新しき時代を創るファラオの威光は、ナイルの太陽のごとく、いっそう眩しく輝き始めるのであった。




