第29話 「老謀と鋼(前編)」
時に「毒」をもって「毒」を制することを余儀なくされる。
かつてアモン神殿と手を組み、エジプトの国政を裏から支配していた老宰相アアイ。
至聖所で拘束され、幽閉されたこの老政治家は、たとえ失脚したとはいえ、数十年にわたりオリエント世界の外交と内政を動かし続けていた「生きた史書」であり、怪物であった。
翌朝、バビロニア使節団を案内する直前の謁見の間。
「……老宰相アアイを、本日の案内役に?」
大将軍ケンアモンが、耳を疑ったように声を荒らげた。
「陛下、なりませぬ! あやつはアモン神殿と蠢き、国を売ろうとした謀反人にございますぞ!
バビロニアの使節と接触させれば、いかなる裏工作や内通を企むか分かりませぬ!」
武人らしい直情的な危惧に対し、ファラオの傍らで静かに眼鏡の縁を上げたのは、参謀メレルであった。
「ケンアモン将軍、ご安心を。アアイが蠢こうにも、すでに神殿の財力も私兵も潰れております。
……そして何より、バビロニアの老獪な特使ナブーに対抗するには、仮にも長年この国の政治を仕切り、近隣国の足元と外交の裏取引を知り尽くしているアアイの『毒』こそが、最大の武器となるのです」
メレルは冷徹な眼差しでファラオへ向けて深く頭を下げた。
「バビロニア側に『エジプト内部の混乱』を悟らせぬためにも、表向きは鎖を外し、堂々と宰相として振る舞わせるべきです。陛下ご自身の先進的な知恵に、アイの持つ泥臭く老獪な政治手腕を噛み合わせる。
奴を『エジプトの利を叩き出すための道具』として使い潰すことこそ、最も苛烈で効率的な処罰であり、今回の外交戦を完勝に導く鍵でございます」
「……相変わらず、冴えた分析だな、メレル」
ファラオは静かに頷くと、隣に座す王妃アンに視線を向けた。アンは優しく微笑み、夫の決断を全面的に信頼する眼差しを返す。
「アアイを連れてこい。……鎖を外し、宰相の衣装を纏わせろ」
王宮の控室にて、地下牢から引き揚げられたアイの足かせと手かせが外された。
絢爛な宰相の官衣を羽織り直した老宰相アイは、手首の鬱血した痕を撫でながら、不敵な笑みを浮かべてファラオの前に引き据えられた。
「……ククッ。表向きは『宰相』として使節を迎えさせ、鎖を外してまで踊らせるとは。恐れ入った……病床から目覚められたファラオは、実に人がお悪い」
「戯言はよい、アアイ」
ファラオは高座から冷たく見下ろした。
「お前が長年溜め込んできた『エジプトの利』を守るための悪知恵、今日ここで存分に発揮してみせろ。
バビロニアの特使ナブーに我が国の足元を掬わせぬよう、宰相として毅然と振る舞うのだ。
……しくじれば、再び地下牢へ送ると思え」
「……ハッ。このアアイ、死に花を咲かせる場所としては悪くありませぬな」
老宰相は不敵に口元を歪め、深く平伏した。
太陽が昇り切る頃、バビロニア特使ナブー率いる使節団は、重厚な王宮の回廊で一人の老人と対峙した。
そこにいたのは、囚人などではなく、豪奢な官衣を纏い、背筋を深く伸ばしたエジプトの宰相アイであった。
「……ほう? これは驚いた。かつてオリエント世界にその名を轟かせたエジプトの権臣、アアイ殿自らのお出迎えとは」
ナブーは探るような視線を向けた。
アモン神殿の失脚によりアイもまた追放されたという噂を聞き及んでいたナブーにとって、威厳たっぷりに佇むアイの姿は計算外であった。
「お初にお目にかかります、ナブー殿」
アアイは顔色ひとつ変えず、溢れんばかりの威圧感を漂わせて慇懃無礼に頭を下げた。
「我がファラオの命により、本日の案内を務めさせていただきます。
……バビロニア様が過去に我が国と交わしてきた『密約』や『取引の歴史』、そしてこの土地の真の価値について、私ほど知り尽くしている者もおりませぬ故」
「む……?」
アアイの刺すような眼光と含みのある言葉に、ナブーの表情から余裕が消えた。
バビロニア側が歴史的にエジプトへ仕掛けてきた暗黙の外交的圧力を、目の前の老宰相はすべて掌握している。
エジプトは内部分裂を起こすどころか、新しき絶対者たるファラオのもとで強固に統制されているのではないかとナブーの脳裏に激しい警戒心が芽生えた。
「さて、特使殿」
背後から静かに歩み出でたファラオが、工房の中央へとナブーを促した。
「バビロニアの『銀本位制』と『法典』の誇り……我がエジプトの生み出した『新たなる鋼』の前で、どれほどの価値があるか、その目で確かめてもらうとしよう」
工房の奥から、職人たちが布に包まれた一振りの美しい「日本刀(打刀)」を恭しく運んでくる。




