第28話 「バビロニアの威嚇」
歴史において、国家の「隙」というものは、武力の敗北よりもむしろ政治的・宗教的な混迷の渦中に生じる。
アモン神殿の巨大な権力を解体し、新しき戴冠を果たしたファラオの改革は、内政的には画期的な成果であった。
しかし、ナイルを臨む古代近東の国際情勢(地政学)から見れば、それは「エジプトの中央集権が過渡期に入り、軍事・経済の混乱が生じている絶好の隙」に他ならなかったのである。
ナイル川の水平線を埋め尽くすように、異国の巨船が姿を現したのは、テーベの市場が新体制の熱気に包まれ始めた矢先のことであった。
船体に施された鮮やかな青い釉薬瓦の意匠と、雄々しい翼を持つ獅子の紋章。
メソポタミアの強国・バビロニアからやってきた、特使ナブー・シュム・リシル率いる大規模な貿易使節団であった。
「……あれが、バビロニアの交易船ですか」
王宮のテラスからナイルを見下ろす王妃アンが、そのあまりの規模に息をのむ。
彼女の傍らに歩み寄ったファラオは、愛する妻の肩をそっと抱き寄せるように手を出した。アンはその温もりに包まれ、凛とした佇まいで夫の横顔を見つめる。
水面に浮かぶ巨船は、ただの商船ではない。船首には青銅の衝角が備え付けられ、甲板には重装の甲冑を纏ったバビロニア兵が隙間なく立ち並んでいた。あからさまな「武力の威嚇」を伴った来航であった。
「表向きはアモン神殿失脚にともなう通商再開の打診……ですが、本音はエジプトの国力を測りにきた品定めでしょうな」
ふたりの後ろに控える参謀メレルが、冷ややかな手つきで眼鏡の縁を上げた。
謁見の間。
王座に並んで座すファラオと王妃アンの前に、バビロニア特使ナブーが足音を響かせて進み出た。
ナブーは濃密な髭を蓄えた五十格好の男で、その目には百戦錬磨の外交官特有の、相手を値踏みするような冷徹な光が宿っていた。
「エジプトの若きファラオ、そして美しき王妃殿下に拝謁いたします。
我が大王の名において、アモン神殿の不正を排された貴国の新しき旅立ちに祝意を」
ナブーは仰々しく頭を下げたが、その声には王に対する敬意よりも、弱者を追い詰める肉食獣のような余裕が滲んでいた。
「……感謝する、特使ナブー。
遠路遥々、何の用向きか」
ファラオが静かに問いかけると、ナブーは薄く笑みを浮かべ、脇の従者に持たせた膨大な粘土板(契約書)を提示した。
「我がバビロニアは、エジプトとの永久の安寧と通商を望んでおります。
……つきましては、我が国の『銀本位制』に基づく新たなる条約を提案いたしたく。
エジプトの肥沃なナイルが育む穀物と金を、我が国の産出する青銅・羊毛・バビロニア法典に基づく治安維持の保障と交換しようではありませんか」
提示された条件は、一見すると平和的な貿易条約に見えた。
しかし、その実態はエジプトの富(穀物と金)を不当に安いレートで買い叩き、バビロニア側の製品を一方的な高値で押し付ける、圧倒的な「不平等条約」であった。
「ふざけるな……!」
王の臣下として控えていた大将軍ケンアモンが、巨躯を震わせて低い声で唸った。
古代エジプトの武人にとって、このような足元を見透かした交渉は屈辱以外の何物でもない。
「我がエジプトを愚弄するか!
このような理不尽な要求、呑めるはずがなかろう! 兵を出し、ナイルの土左衛門にしてくれるわ!」
ケンアモンの放つ圧倒的な威圧感に、一瞬バビロニアの従者たちが身をすくめた。
だが、特使ナブーは顔色ひとつ変えず、せせら笑うように言った。
「ほう……武力でお応えになりますか、大将軍。しかし、神殿を潰したばかりの貴国に、我がバビロニアおよび近隣国との全面戦争を耐え抜く『兵糧』と『足腰』が残っているかな?
いま我らとの取引を拒めば、エジプトは孤立し、市場は干上がることになりましょうぞ」
「貴様……!」
怒号が飛び交う謁見の間。
ファラオの隣で、王妃アンは動じることなく静かに夫の様子を見守っていた。
彼女は知っていた。病床から奇跡の復活を遂げ、自分を慈しみ、数々の不可能な戦いを制してきた夫・ファラオが、この程度の威圧に屈する男ではないことを。
ファラオはそっと手を挙げ、ケンアモンの制止を促した。
そして、王座から静かに立ち上がると、階下にいる特使ナブーをゆっくりと見下ろした。
「……ナブー特使。バビロニアの法と銀の力、実に大したものだ」
ファラオの口元に、ふっと揺るぎない不敵な笑みが浮かぶ。
「だが……お前たちは大きな勘違いをしている。エジプトが差し出せるのは、穀物と金だけではないのだよ」
「……何だと?」
ファラオの予想外の落ち着きと、その隣に立つ王妃アンの気品ある笑みに、ナブーの眉がピクリと跳ね上がった。
「メレル、明日『我が国の提示する等価交換』の準備を整えろ。バビロニアの使節団を、鍛冶工房とナイルの岸辺へ案内する」
「御意にございます、陛下」
ファラオの瞳に宿る鋭い光、それは、現代知識と「神の器」としての叡智が融合した、圧倒的な確信の光であった。
武力でも威圧でもない。
古代中東の常識を根底から覆す「技術と経済の知恵比べ」が、いま幕を開けようとしていた。
(※注釈:当時のバビロニアは、粘土板に刻まれるハンムラビ法典に代表される緻密な『法』と、銀を交換媒体とする高度な『金融・契約社会』を誇っていた。金や穀物を中心とした物物交換・計量経済に頼るエジプトに対し、彼らは自らの経済システムと法理の優位性を盾に、周辺国を外交的に呑み込んでいく老獪さを持っていたのである。)




