第24話「一万の膝」
カツン……ガラガラッ。
一人の兵の手から零れ落ちた槍が、石畳の上を空しく転がった。
それを皮切りに、まるで伝染病のように、連鎖的な金属音がカルナック神殿の前庭全体へと広がっていく。
カツン、ガラガラ、ドサリ。
あちこちで剣が落とされ、大盾が投げ捨てられ、弓の弦が緩められた。
神殿から放たれる眩い白銀の光柱。大気を、そして魂を直接揺さぶる重低音の【神託】。そして何より、その光の渦の中心で、血濡れた西洋刀を手に泰然と佇む若きファラオ(一真)の圧倒的な存在感。
「あ……ああ……」
前線にいた重装歩兵が一人、崩れるように両膝を石畳につけた。続いてその隣の傭兵が、さらにその背後に控えていた神殿騎士たちが、争うようにして次々と地にくはつし、頭を垂れていく。
押し寄せていた一万の黒い波が、一瞬にして地に伏す「平伏の海」へと姿を変えたのだ。
誰一人として、もはや武器を握り直そうとする者はいない。
彼らにとって、目の前に立つ青年は単なる政治的敵対者でも、病上がりの若きファラオでもなかった。アモン神の怒りを体現し、自ら刃を振るって猛将を討ち倒した、真の「神の化身」そのものであった。
「な……何をやっているか、愚か者どもめが!!」
塔門の上から、大神官パネヘシの悲鳴のような叫びが響く。
「立て! 立つんだ! あの青二才に惑わされるな! 金だ! 黄金をいくらでもやる! 早くあの者を殺せえええっ!!」
金の力で兵を動かそうと必死に叫び続けるパネヘシ。
だが、地面に深く頭をこすりつける兵たちの耳に、その醜悪な怒号はもはや届かない。
神の加護を失い、取り乱すだけの男と、泥と血に塗れながら兵の前に立った真の王。どちらに仕えるべきか、答えはすでに決していた。
「勝負はついたな」
ファラオは静かに西洋刀を鞘へ納めると、ゆっくりと背後を振り向いた。
そこには、傷ついた肩を押さえながら立ち尽くす、大将軍ケンアモンの姿があった。
ケンアモンの全身は、激しい震えに支配されていた。
先代ファラオの時代から数々の凄惨な戦場を潜り抜け、「不動の不落壁」と称えられてきた歴戦の武人。
彼がこれまで捧げてきた忠誠は、あくまで
「ファラオという絶対的な王権」という概念に対するものであった。
若きツタンカーメン個人に対しては、どこか甘さや器量を試すような冷ややかな視線を送っていたことも紛れもない事実だ。
だが、今は違う。
自ら死線に飛び込み、ケンアモンの盾となって命を救った【泥臭く熱い王の覚悟】。
西洋刀の一閃で猛将レクミレを切り伏せた【圧倒的な武の鋭さ】。
そして、一万の敵軍すら一瞬で従えてみせた【至高の威厳とカリスマ】。
(このお方は……『神の化身』などという形骸化した言葉の枠に収まるお方ではない……!)
ケンアモンの中で、古い固定観念がガラガラと崩れ去っていた。
彼が見つめているのは、制度としての王ではない。命を賭して護り、どこまでもついていきたいと魂が叫ぶ、櫻井一真という「ただ一人の絶対的君主」であった。
ケンアモンは重い甲冑の音を響かせ、血と汗に塗れた巨躯をゆっくりと折り曲げた。
手負いの右膝を深く石畳につき、深く、深く頭を垂れる。
「我が命、我が盾、我が魂のすべてを……我が真の主、ファラオに捧げ奉る」
腹の底から響くケンアモンの声には、今までのような冷徹な探りや躊躇いは欠片もなかった。
そこにあるのは、生涯をかけて一人のお方に仕えることを誓った武人の、揺るぎない絶対の服従。
「ケンアモン……」
「これよりこのケンアモン、陛下の御剣となり、御盾となりて、立ちはだかるあらゆる敵を打ち砕きましょうぞ……!」
ケンアモンの覚醒。
それは、単に強力な将軍の一人が味方についたという以上の意味を持っていた。王宮と軍部を繋ぐ絶対の支柱が、完全にファラオの手に落ちたのだ。
ファラオはケンアモンの肩に優しく手を置くと、力強く頷いた。
「頼むぞ、ケンアモン。……さて」
ファラオは再び視線を上げ、光輝くアモン神殿の塔門の上を見上げた。
そこには、腰を抜かし、ガタガタと震えながら後退りするパネヘシとアイの姿があった。
「長きにわたる不忠の歴史に、幕を引きに行くとしよう」
一万の平伏する兵たちの間をぬって、ファラオ軍の静かな、しかし圧倒的な進撃が神殿内部へと向かい始めた。




