第22話「王の剣」
アモン神殿の前庭を覆う鉄と血の匂いが、戦場の混迷を物語っていた。
「押し潰せ! ケンアモンさえ倒せばファラオ軍は終わりだ! 首を取った者に黄金五十両を与えるぞ!」
神殿の塔門の上から響くパネヘシの醜悪な怒号。それに煽られたアモン神殿軍の怒涛の物量が、重い波となってケンアモンの率いる大盾陣形へ何度も叩きつけられていた。
「ぬうううっ……!」
ケンアモンの口から、苦悶の唸り声が漏れた。
身の丈を超える鋼鉄の大盾を支える両腕の筋肉が不気味に震え、膝がわずかに石畳へと沈み込む。
連戦の疲労だけではない。
敵陣の奥から現れた「一匹の獣」が、ケンアモンの絶対防壁を過酷なまでに削り取っていたのだ。
「ハハハ! どうした大将軍! その程度の盾で、このレクミレの戦斧を防ぎきれると思うたか!」
アモン神殿軍最強と謳われる猛将、黒獅子のレクミレ。
豪奢な青銅の胸当てを身に纏い、丸太のように太い両腕で巨大な両刃戦斧をぶん回す巨漢である。かつて南方のヌビア国境で数々の部族を惨殺し、その残虐性と圧倒的な腕力で恐れられた男だった。
ズドォォン……ッ!!
レクミレの振り下ろした大戦斧が、ケンアモンの大盾を直撃する。
重厚な金属音が鼓膜を破らんばかりに響き渡り、火花が激しく散った。大盾の鋼鉄表面に深い亀裂が走り、衝撃に耐えかねたケンアモンが右膝を地面についた。
「ケンアモン様!」
後方からセセラの悲鳴が上がる。
「くっ……これしきの傷、ファラオの御前で膝を折る理由にはならぬ……!」
ケンアモンは吐血しながらも強靭な意志で立ち上がろうとした。だが、すでに彼の右肩の骨は砕け、大盾を保持する威力は残されていない。
「終わりだ、不落の防壁とやら! 死ねいっ!」
レクミレが狂喜の笑みを浮かべ、無防備となったケンアモンの首元目がけて、全力を込めた大戦斧を大上段から振り下ろした。
もはや、交わす術はない。ケンアモンが覚悟を決め、歯を食いしばった——その瞬間。
シュン……ッ!
空気を鋭く引き裂く刃の風が吹き抜けた。
「なに……!?」
レクミレの目が見開かれる。振り下ろされるはずだった重い戦斧の軌道が、横合いから滑り込んできた「一本の細い鉄の線」によって、滑らかに受け流されたのだ。
不快な金属摩擦音とともに、戦斧の刃が空を切り、地面の石畳を深く砕いた。
「誰だッ!?」
激怒したレクミレが視線を向けた先、ケンアモンの前に割り込むように立っていたのは、泥と血煙の中に佇む一人の青年であった。
金糸の刺繍が施された王衣を風になびかせ、背すじを真っ直ぐに伸ばした男。
ファラオ(一真)であった。
「な……ッ!? ファラオ……陛下!?」
地面に膝をついたまま、ケンアモンが目を見開いて絶句する。
本来であれば、本陣の最後方で全軍の指揮を執っているはずの王が、なぜこのような凄惨な殺戮の最前線に降臨しているのか。
「お下がりくだされ! ここは血に塗れた最前線! 貴方様のお身体に万一があれば!」
「黙って見ていろ、ケンアモン」
ファラオの静かな、だが一切の反論を許さない声がケンアモンの言葉を遮った。
ファラオが手にしていたのは、この古代エジプトの地には存在しない異型の武器であった。
この時代主流の重く鈍い青銅刀でもなければ、湾曲したショペシュ(鎌剣)でもない。
刃長が長く、幅が極めて細い、鍛え上げられた一振りの
「西洋刀」
現代の製鉄・鍛造知識の粋を集めて試作させた、軽量かつ鋭利な至高の鋼の刃である。
「青二才のファラオが、自ら首を差し出しに来たか!」
レクミレは驚きを即座に嘲笑へと変え、再び巨躯を躍動させて大戦斧を構え直した。
「重装甲も着けぬその薄着で、このレクミレの腕力に勝てると思うなよ! 王の首を刻んでやる!」
「我が兵を傷つけ、我が眼前に立ち塞がる不忠の徒よ」
ファラオは西洋刀を斜め下に構え、冷徹な眼光でレクミレの間合いを見極める。
「我が民を、我が兵を護るのがファラオの務めだ。この背を引いて、何がエジプトの王か!!
死ねぇぇぇっ!!」
レクミレが地響きを立てて踏み込み、横一文字に戦斧を薙ぎ払った。一撃で数人の兵を胴斬りにする絶大な威圧。
だが、ファラオは動じない。
現代日本で培った間合いの感覚と、軽量な西洋刀の最大の利点である「圧倒的な速度」。
ファラオは最小限のステップでレクミレの薙ぎ払いを紙一重でかわすと、空を切って体勢の崩れたレクミレの懐へと、疾風のごとく踏み込んだ。
「なに!?」
レクミレの思考が凍りつく。
ファラオの手元から放たれた西洋刀の白銀の閃光。
重い鎧の隙間、首筋と胸甲のわずかな繋ぎ目を、計算し尽くされた一閃が正確無比に穿っていた。
ズシャッ……!
「ガ……ッ!?」
レクミレの口から大量の血が噴き出した。
彼が手にしていた巨大な大戦斧が手から零れ落ち、石畳へ重い音を立てて転がる。
「馬鹿な……この私、が……このような、細い……鉄くず……に……」
レクミレは信じられないという目で見開いたまま、その巨躯をゆっくりと膝から崩れ落とし、石畳の上に倒れ伏した。動かなくなった。
静寂が、戦場を支配した。
アモン神殿軍最強の猛将が、ファラオの一撃によって一瞬で葬り去られたのだ。
「ひ……ひいいっ! レクミレ様が……
一撃で……!?」
「あんな剣、見たことがないぞ!
なんだあの速さは!?」
前線の敵兵たちが、恐怖で数歩後ずさりする。
ファラオは西洋刀に付着した血を静かに払い、刀身を鞘へと納めると、背後のケンアモンに向き直った。
「立てるか、ケンアモン」
「へ、陛下……」
ケンアモンは全身を激しい震えに支配されていた。
命を救われたことへの困惑ではない。目の前で繰り広げられた、王自らの圧倒的な武勇と、不退転の威厳。
それに対する強烈な「畏怖」と、魂を揺さぶるような「感服」であった。
「……見事な戦いぶりだった。
我が盾となりて耐え抜いたこと、見事なり」
ファラオが手を差し伸べる。
ケンアモンはその手を固く握り返し、泥に塗れた体を引き起こした。
「ファラオ……貴方様というお方は……」
ケンアモンの胸の中で、何かが決定的に組み替わった。
仕えるべき「ファラオという王権」への義務的な忠誠ではない。
目の前に立つこの若者櫻「ファラオ個人」に対し、この命の全てを捧げるという絶対の誓いが、彼の魂に刻み込まれた瞬間であった。
そして、ファラオ軍が歓声に包まれ、敵軍が動揺に揺れるその時。
カルナック神殿の巨大な塔門の奥深くから、地鳴りのような異様な重低音が響き始めようとしていた。




