第18話「出陣の朝」
ナイルの河面を渡る風が、夜明け前の王宮に冷涼な空気を運んでいた。
東の空がわずかに白み始め、夜と朝の境界が青紺色の靄となって回廊を包み込んでいる。
アモン神殿包囲という大一番を数時間後に控えた
早朝。宮殿の一角にあるメレルの研究執務室には、既に油ランプの小さな灯火が揺れていた。
部屋の空気はピンと張り詰めている。
うずたかく積まれた粘土板や図面のただ中で、セセラは愛弓『ラ・バリスティカ』を卓上に置き、滑車構造と弦の張力を丹念に確かめていた。
カチ、カチ、と精緻な金属音が静寂に響く。
「……角度補正の魔導回路、わずかに左へ寄っている。風速三メートル以上の横風を受けた際、微小な摩擦抵抗が弾道を極限で狂わせる可能性があるな」
淡々と、しかし研ぎ澄まされた声で告げるセセラ。
作業台の向こうで羊皮紙に計算式を書き走らせていたメレルは、眼鏡の奥の瞳を和らげ、静かに息を吐いた。
「相変わらず見事な眼力ですね、セセラ。
……ですが、その『微小な違和感』を正確に言語化できるのは、この国であなただけだ。
私が提示した複雑な力学の理論と機構を、まさかこれほど完璧に使いこなしてくれるとは」
メレルが専用の小型工具を手渡すと、セセラは手慣れた足取りで『ラ・バリスティカ』のテンションネジを締め直す。
長年の研究と試行錯誤の末に生み出された黒銀の長弓は、彼女のしなやかな指先と完全に同化しているようだった。
「調整完了。……これなら、千歩先の標的の眉間も穿てる」
「頼もしい限りです。アモン神殿の分厚い塔門も、既得権益に守られた重装歩兵の陣形も、ケンアモン殿の絶対防壁とあなたのこの一撃があれば必ずや破れるでしょう」
二人が深く頷き合ったその時、入口の厚い幕が静かに上がり、ひとりの男が姿を現した。
「朝早くから精が出るな、メレル、セセラ」
「ファラオ……!」
セセラが咄嗟に姿勢を正そうとするのを、ファラオは親しみやすい笑みを浮かべ、手で制した。
「楽にしてくれ。……それが例の『魔道兵器』か。
メレルの知恵も凄いが、それを完璧に着こなすセセラの腕前には頭が下がるよ」
ファラオはセセラの抱く『ラ・バリスティカ』の洗練されたフレームに感嘆の視線を送った後、まっすぐに彼女の目を見つめた。
「いよいよ今日だな。アモン神殿包囲戦……頼りにしている。ケンアモンの右腕として、そしてファラオ軍の『主砲』として期待しているよ、セセラ」
圧倒的な覇気。しかしその奥底から溢れ出る、味方を温かく包み込むような慈愛。
普段は感情を滅多に表に出さないセセラの切れ長な瞳が、一瞬だけ揺れた。
(……アン様が言っていた通りだ)
セセラの脳裏に、宮殿の奥で過ごした静かな時間が蘇る。
武に長け、口数の少ない自分を気負わせることなく、いつも優しく微笑みかけてくれた正妃アン。彼女は宮殿内で数少ない、セセラの心を許せる話し相手だった。
『ファラオはね、誰よりも民と仲間を想っている温かい人なのよ』
と、嬉しそうに、誇らしげに語っていたアンの表情。
(アン様が全てを捧げた理由が、今ならはっきりと分かる)
目の前に立つ若き王の威光と器の広さを肌で感じ、セセラの胸の奥で熱い感情が昂ぶっていく。
セセラは『ラ・バリスティカ』をその背に担ぐと、ファラオの前で静かに片膝をついた。
「お任せください、ファラオ。
私の矢は、陛下の見据える未来の邪魔立てをするあらゆる敵を穿ちます」
セセラは深く頭を下げた後、顔を上げて凛とした声を響かせた。
「では、お先にアモン神殿でお待ちしております」
ファラオとメレルに一礼を捧げると、黒髪をなびかせ、旋風のごとく静かに部屋を後にするセセラ。
朝日が差し込み始めた回廊へ消えていくその背中を見送りながら、ファラオは頼もしそうに口元を綻ばせるのだった。




