公務員 櫻井一真死す
平成から令和へと移り変わった現代日本、首都圏郊外に位置する市役所の市民課。
書類の紙めくりの音とキーボードを叩く打鍵音、そして鳴り止まない電話のベルが重なり合うその場所は、まさに市民生活の最前線だった。
櫻井一真、28歳。
市民課に勤めて6年目になる彼は、若手ながら課内で最も頼りにされる職員の一人だった。
「櫻井くん、また例の窓口で指名が入っているんだけど……代わってもらえるかしら?」
同僚の女性職員が、疲弊した顔で一真に声をかける。
「了解しました。すぐ行きます」
一真は爽やかな笑みを浮かべ、デスクから立ち上がった。
身長180センチを超える恵まれた体格。
幼少期から打ち込んできた柔道三段、剣道四段の鍛え抜かれた肉体は、スーツ越しでもその頑強さが伝わってくる。
だが、彼が市民課で一目置かれている理由は、その体躯や武道の段位ではない。
どんな理不尽な不平不満、理不尽な怒号に対しても、決して背を向けず、相手の言葉に耳を傾ける「真実一路」の誠実さだった。
かつて、自分を我が子のように育ててくれた剣術の師父。
狂気に呑まれ、真剣を振りかざして襲いかかってきたその人を、正当防衛とはいえ自分の手で斬り伏せてしまった過去。
人を殺めた感触、消え去った命の重み。
その深いトラウマと罪悪感を知るからこそ、一真は「生きている人間」の理不尽な感情や痛みを、すべて受け止めようと心に決めていたのだった。
「――だからね! 税金払ってるこっちの身にもなりなさいよ!」
窓口で荒れ狂う初老の男性に対しても、一真は一切嫌な顔を見せず、深く腰を低くして対応する。
「おっしゃる通りです。ご不便をおかけして大変申し訳ございません。ですが、この手続きにつきましては……」
丁寧で、嘘偽りのない誠実な対話。
やがてクレーマーの興奮も冷め、最後には「あんたが親身になってくれたから納得するよ」と捨て台詞を残して去っていく。
「さすが櫻井さんだな。市民課の鑑だよ」
「あの鋼のメンタル、どこから来てるんだか」
同僚たちの感心する声を聞きながら、一真は苦笑いを浮かべて時計を見上げた。
時刻は午後8時を過ぎている。
残業時間を告げるチャイムが鳴り響く中、一真はデスクの書類を整理し始め、ふと息を吐いた。
(……さて、今日もなんとか無事に終わったな
帰ったら、道場で軽く素振りでもするか……)
そう思いながら、市役所の勝手口から夜の駐車場へと踏み出した、その瞬間だった。
「――櫻井ぃぃぃっ!!」
暗闇の影から、耳を刺すような悲鳴のような叫び声が響いた。
一真が振り返ると、そこには目を血走らせた見覚えのある男が立っていた。
先週、提出書類の不備で手続きが受理できず、一真が根気強く説明して持ち帰らせた生活困窮者の男だった。
男の手には、夜灯に鈍く光る包丁が握られている。
「お前のせいで! お前が俺の申請を蹴ったから、俺はもう終わりなんだよ!!」
絶望と憎悪に狂った男が、一真に向かって直線的に飛びかかってくる。
「落ち着いてください!」
一真の武道の本能が素早く反応する。
剣道の「見切り」の技術で包丁の軌道を冷静に見極め、柔道の「捌き」で男の手首を叩き落とそうとした。
本来ならば、間合いを外して容易に制圧できるはずだった。
しかし、男の足元にあったのは、雨で濡れたプラスチック製の段ボール。
滑った男の体勢が不自然に崩れ、突き出された包丁の軌道が、あり得ない角度へと跳ね上がった。
(なっ――!?)
予期せぬ事故。
かわしきれない「死角」からの刃。
凄まじい衝撃とともに、鋭利な刃先が一真の左胸心臓の深くまで深く突き刺さった。
「ぐっ……あ……っ!?」
一真の口から、熱い血が溢れ出る。
「ひ、ひぃっ……! 俺は、俺は悪くない……っ!」
男はパニックになり、包丁を抜くとそのまま闇の中へと逃走していった。
アスファルトの上に崩れ落ちる一真。
冷たい夜の空気が肺を満たし、胸の奥から溢れ出す温かい血が、アスファルトを黒く染めていく。
視界が急速に狭まり、意識が遠のいていく。
(……嘘だろ……こんな……ところで……
俺は……まだ…………)
市役所の窓口で、どれだけ誠意を尽くしても救いきれなかった人々。
そして、自分の手で命を奪ってしまった師父の面影。
(……命ってのは……こんなにも簡単に……消えるのか……
もっと……もっと話を聞いてやれば……あいつだって……)
悔恨と、虚無感と、不条理への怒り。
28歳の市役所職員、櫻井一真の鼓動は、静かに、そして確実にとどめを刺された。
暗闇が彼の魂を呑み込んでいく。
だが、その途絶えかけた意識の底で、次元の壁を切り裂くような「光」と「叫び」が響き渡った。
――『誰か……余は……まだ……』――
古代の少年王の無念の悲鳴が、一真の消えゆく魂と激しく交錯する。
死の淵で交わった二つの不条理な魂が、三千年の時空を超えて融合を始めていた。




