第12話:毒牙を砕く手
「……ハッ、使いづらい刀だな」
静寂を切り裂き、月光の差す執務室にファラオの冷ややかな呟きが落ちた。
ファラオが手にしているのは、急ぎ壁の飾り棚から引き抜いた一振りの鋼鉄刀だ。両刃で直刀に近いエジプト独特の剣身は重く、柄の重心も独特で、現代の剣道や居合に慣れ親しんだ彼の感覚からすれば、あまりにバランスが悪い。
「刃筋を立てるだけで一苦労だ……まあ、贅沢は言っていられないか」
「……ファラオ。我が刃を目前にして、よくもそれほど軽薄な口が叩けるものだ!」
暗闇の天井から滑り降りた刺客、バキの瞳に、獰猛な殺気が宿る。
バキの身のこなしは人間離れしていた。影から影へと滑るように移動し、エジプトの暗黒街で磨き抜かれた特異な曲身刀が、蛇の舌のごとく死角からファラオの喉元を掠める。
チッ、とファラオの頬から一筋の血が飛んだ。
「ハハッ! 聞いていた『病弱な傀儡』とは大違いだが……所詮は温室の王! 殺し合いの場数を踏んだ俺の毒牙をかわせると思うな!」
バキの刀身には、怪しく光る麻痺毒が塗られている。かすり傷一つでも、数秒で全身の自由を奪う死の刃。
「陛下ッ! お下がりを!」
異変を察知し、重厚な扉を蹴破って飛び込んできたのは巨漢カメスだった。
手に握りしめた石工の鎚を構え、眼を怒らせてバキへ躍り出ようとする。
「手を出すな、カメス!」
ファラオの一声が、カメスの足をぴたりと止めさせた。
「こいつの狙いは俺だ。
それに……お前の巨躯じゃ、この狭い執務室での切り結びには向かない。そこで手を出さずに見ていろ」
「し、しかし……!」
「構うな。すぐ終わる」
ファラオは静かに息を吐き出すと、重心を低く落とした。
手に馴染まない刀を、あえて軽く下段に構える。
刀身の重さに頼るな。
重心の移動と、相手の『起こり』を捉る……!)
バキがニタリと歪んだ笑みを浮かべた。
「終わりだと? 抜かしたなファラオ! 死ねぇッ!」
シュッと風を切る音。
バキは壁を蹴り、天井の梁を跳躍台にして、上空からの不可避な三段突きの軌跡を描く。重力と跳躍の加速を乗せた、回避不能の死の奇襲。
だがファラオの目には、その動きが驚くほど鮮明に「見えて」いた。
現代武術における「見切り」。
相手が技を繰り出す直前の筋肉の緊張、視線のブレ、踏み込みの「起こり」。
それらすべてが、ファラオの脳内でスローモーションのように解析されていく。
(上段からの踏み込み間合いに入る、コンマ二秒前!)
「そこだ。」
バキの刀がファラオの眉間に達する直前。
ファラオは身を極限まで沈め、すりあげるように斜め前へと踏み込んだ。
バキの視界から、ファラオの姿が一瞬で消える。
「なっ――!?」
体さばきによって攻撃を完全に空転させられたバキの体勢が、空中での死角で大きく崩れた。
ファラオはその隙を見逃さない。使いづらい刀の柄頭(つか頭)を叩き込むように、バキの手首へと正確に打ち据えた。
ゴキッ!
「グアッ!?」
痺れと激痛で、バキの手から毒塗りの曲身刀が跳ね飛ぶ。
空中で武器を失い、床へもつれ込むように着地したバキ。
だが、暗殺者としての本能がすぐさま立ち上がろうと足を踏みしめた。
その瞬間。
視界が不自然に傾いた。
「なに――」
ファラオの手が、すでにバキの衣の襟首と軸足を正確に捉えていた。
柔道の『支点と重心』の理論。相手の勢いをそのまま利用し、最小限の力で支点を崩す。
ドサァンッ!!
石造りの床に、バキの巨体が激しく打ちつけられた。
呼吸が止まるほどの衝撃。肋骨が悲鳴を上げ、脳揺れを起こして動けないバキの首元に、冷たい鉄の感触が突きつけられる。
ファラオが見下ろしていた。
息一つ乱さず、冷徹で、されどどこか呆れたような瞳で。
「……勝負ありだ。刺客さん」
バキは息を呑んだ。
全身を激痛と麻痺のような衝撃が支配している。何が起きたのか理解できない。
自分はエジプト裏社会で恐れられた暗殺者だ。それが、武器を奪われ、たった一手で床に叩き伏せられた。
ファラオの手にあるのは、先ほどまで「使いづらい」と不満を漏らしていた無骨な鉄刀。
だが、その刃先は寸分の狂いもなく、バキの喉元の一点を捉えて微動だにしない。
「……バカな。……あり得ん……! 貴様、本当にあの病弱なファラオなのか……!?」
バキの口から、戦慄の籠もった声が漏れ出た。
部屋の隅で見守っていたカメスもまた、息をのんで主君の圧倒的な強さに打ち震えていた。
「さあて」
ファラオはゆっくりと刀を引くと、床に横たわるバキを見下ろしたまま、フッとフランクで親しみやすい笑みを浮かべた。
「誰に頼まれてここに来たのか、ゆっくり聞かせてもらおうか。
……断るなら、次は『使いづらい刀』じゃなく、素手でお前の関節を一つずつ折っていくことになるが……どうする?」




