第11話 殺気と刃
執務室に満ちていた穏やかな夜の空気が、突如として変質した。
松明の炎がわずかに揺らぎ、室内を包む影が歪む。
ファラオは手にしていた羊皮紙をそっと机の上に置くと、静かに息を吸い込んだ。
(……この感覚、身覚えがある)
肌の表面がピリピリと痺れるような、圧倒的な密度の殺意。
かつて現代の日本で、己に武道を叩き込んでくれた師範と対峙した際、喉元に刃を突きつけられているかのように肌を刺した、あの命を削り合うような尖った空気そのものであった。
「……賢者殿、少し離れてくれ」
「え……? ファラオ……?」
メレルが戸惑う間もなく、ファラオは静かな動作で腰のコペシュ(エジプト曲刀)の柄に手を伸ばし、すっと刀身を抜き放った。
その視線はまっすぐに、何の変哲もない天井の一点へと注がれていた。
次の瞬間――ドカンッ!!
天井の石板が爆発したかのように弾け飛び、大量の粉塵とともに黒い影が舞い降りた。
月光すら反射させぬ漆黒の刃が、ファラオの頭上から一閃される。
暗殺者バキの、一撃必殺の振り下ろし。
「ふッ……!」
ファラオは踏み込んだ足の軸をコンマ一秒で切り替え、最小限の動きで体を紙一重開いた。
真空を裂く鋭い風切り音が聞こえ、ファラオの衣装の裾が数本の糸となって宙を舞う。
バキの刃は、ファラオの首筋をわずか数ミリかすめて床の石畳に深々と突き刺さった。
「なっ……見切っただと!?」
バキの細い目が驚愕に見開かれる。
闇に乗じた完璧な初撃。
温室育ちの王など一瞬で首を飛ばせるはずの襲撃を、この若者は完全に「読んで」かわしたのだ。
その破壊音を聞きつけ、執務室の重厚な扉が叩き割られるようにして開いた。
「ファラオッ!!」
怒号とともに飛び込んできたのは、二メートルを超える巨漢カメスであった。
昼間、ファラオから直属の「宮殿守護者」に任命されたばかりの第一の部下が、丸太のような腕を丸めて暗殺者へ飛びかかろうとする。
「手は出すな」
制したのは、低く凛としたファラオの声だった。
「ファラオ!? しかしその者は!?」
「言ったはずだ、カメス。手は出すな。
……こいつは、お前が混ざれるような生半可な手合いじゃない」
ファラオは刀を中段に構え、じりじりとバキとの距離を詰める。
その瞳には、慈愛の笑みなど欠片もない。修羅の場を幾度となく潜り抜けてきた、本物の武芸者の冷徹な光が宿っていた。
バキは地面に刺さった刀を引き抜くと、ニヤリと不気味な薄笑いを浮かべた。
「くくっ……驚いたぜ。病上がりのひ弱な王様かと思えば、いい眼をしてやがる。
……どうやら俺の獲物は、ただの温室の小鳥じゃなかったらしい」
「お前の後ろに誰がいるかは大体想像がつくよ。……だが、俺の命を獲りにきた以上、無傷で帰れると思うな」
「抜かせッ!」
地面を蹴ったバキの姿が消えた。
いや、消えたと錯覚するほどの超低空の踏み込み。バキの体は床すれすれを滑り、ファラオの膝裏を狙って刃を水平に一閃する。
死角からの斬撃。
だが、ファラオは踏み込まれた足の重みを瞬時に察知し、跳躍するのではなく、相手の刀の背へ自身の刃を滑らせて衝撃を殺した。
ガギィィンッ!!
激しい火花が二人の顔を照らし出す。
「くっ……!?」
「見切り、すりあげ……剣技の基本だ」
ファラオはそのままバキの刀を押し込み、体勢を崩したバキの胸元へ強烈な前蹴りを叩き込んだ。
ドスッ!
「ガハッ……!」
バキの巨躯……いや、鋼のように引き締まった肉体が後方へ弾け飛び、壁の石柱に叩きつけられる。
しかしバキもタダでは転ばない。
受け身を取ると同時に懐から仕込み毒針を取り出し、間髪入れずにファラオの目と喉へ向けて放った。
暗闇を切り裂く微小な飛来物。
ファラオは首を僅かに捻って毒針を放物線の外へ逃がし、間髪入れずに刃を返して前進する。
「なんなんだお前は……!
王の振るう剣じゃない!
泥と血に塗れた、殺し合いの剣だッ!」
バキは叫びながら、暗殺術特有の変幻自在な体さばきでファラオの斬撃に応戦する。
上段からの振り下ろしと見せかけて足払い、腕を絡め取っての関節破壊、刃の柄を使った打撃、あらゆる不意打ちと暗器の乱舞。
しかし、ファラオはそのすべてを最小限の動きで押し返し、受け流し、直前に察知して打撃を叩き込んでいく。
「ははっ! 面白い、面白すぎるぞファラオッ!」
バキの顔から不敵な笑みが消え、
獣のような凶暴な歓喜が広がっていた。
全身から血を吹き出しながらも、己の暗殺術のすべてを叩きつけられる存在に歓喜しているのだ。
一方、ファラオの刃もまた、バキの皮膚を切り刻み、着実に相手の体力を削っていく。
極限の殺気と殺気が交錯する執務室。
参戦を禁じられたカメスは、両拳を血が出るほど固く握りしめ、汗を流しながら二人の人外の死闘をただ見つめることしかできなかった。




