第10話 迫る黒い影
アモン神殿の深奥。太陽神の威光を模した絢爛豪華な大広間に、雷鳴のような怒声が響き渡っていた。
「愚者めが……! あの病弱な青くさき小童が、神の威光に泥を塗ろうとはなッ!!」
怒りに顔を歪め、豪奢な装飾が施された白リネンの衣装を波打たせているのは、アモン神殿の大神官パネヘシであった。
その手には、先刻届いたばかりの石切場からの報告書が固く握りしめられている。
これまで神殿は、神聖なる「神託」を盾に、エジプト全土の国有農地の三割以上を独占し、租税のすべてを免除されてきた。
歴代のファラオなど、神殿の意のままに動く傀儡に過ぎず、意に沿わぬ王であれば病死に見せかけて陰で処理すれば済む話であったのだ。
現に、先代の王たちもそうして闇に葬られてきた。
しかし、病床から奇跡の復活を遂げた若きファラオ・ツタンカーメンは違っていた。
彼は復活するや否や、神殿による不正な徴税や財産の独占に鋭いメスを入れ始め、さらには石切場での不祥事をも盾にして、神殿の利権に直接割り込もうとし始めていたのだ。
「大神官様、お怒りをお鎮めください。あのような小僧、長くは持ちませぬ……」
控えていた下級神官たちが恐々とおもねるが、パネヘシの胸中の沸き立つ殺意は収まらない。
「静かにせい! 奴はただの病上がりではない。あの目だ……あの瞳には、かつて我らに怯えていた弱者の影など微塵もない!
このまま放置すれば、我が神殿の既得権益はすべて切り崩され、我らはただの飾りへと成り下がるのだぞ!」
パネヘシは握りつぶした報告書を床へ投げ捨てると、広間の暗がり――巨大な石柱の影に向かって、冷酷な眼光を向けた。
「……出てこい、バキ」
一瞬の静寂の後、何もないはずの影から、ぬっとひとりの男が姿を現した。
全身を黒い忍び装束のような布で包み、鋭く細い目をした男。
裏社会でその名を知らぬ者はいない伝説の暗殺者、バキである。その肉体は無駄な脂肪が削ぎ落とされ、全身に関節技や刃物を扱う者特有の無気味なまでのしなやかさを宿していた。
「お呼びでございますか、大神官様」
バキの声は、氷のように冷たく低かった。
「仕事だ。あの生意気な青二才……ファラオを消せ。
これまで我らの邪魔をした者たちと同じようにな。
病死に見せかける必要はもうない。
二度と立ち上がれぬよう、その首を完全に落としてこい」
バキは薄い唇を歪めて不敵な笑みを浮かべた。
「お安い御用です。
ですが、いくら病上がりとはいえ相手はファラオ。
宮殿の警備をどう抜けるかが問題ですが……」
「ふん、心配はいらん。宮殿内部にはすでに『道』を用意してある」
パネヘシが不気味に目を細めたその時、大広間の側門が静かに開いた。
現れたのは、重厚な側近服を纏った老宰相アアイであった。
アアイは深く刻まれた顔の皺をさらに深め、計算高い蛇のような瞳でバキを見つめた。
「大神官様の仰る通りだ。
王宮の警備など、内側から開けてしまえば何の意味もなさぬ」
アアイは静かな足取りで近づくと、袖の中から一枚の布地に描かれた宮殿の精密な裏抜け道の図面を取り出し、バキの手元へ滑らせた。
「これは……」
「毎夜、ファラオは執務室で夜遅くまで賢者メレルと二人きりで語らっている。
裏庭に通じる隠し通路の鍵はすでに解いておいた。
巡回の兵たちも、私の指示で意図的に配置を薄くしてある。
……二人まとめて一瞬で片付けろ」
アアイの口調には一切の躊躇がなかった。
若きファラオが魅せる底知れぬカリスマ性と、これまでの王にはなかった先進的な治世の手腕に、この老政治家は誰よりも強い危機感を抱いていたのだ。
このままファラオが力をつければ、自分たちの立場は完全に失われる。だからこそ、神殿と手を組み、最大の障害をいま芽のうちに摘み取る決断をしたのであった。
「フッ……相変わらず喰えないお人だ、宰相様は」
バキは受け取った図面を頭の中に叩き込むと、懐に仕舞い込んだ。
「ファラオと賢者の首、まとめて確実に持ち帰りましょう。暗殺の技術というものを、あの若造の身体に刻み込んでやりますよ」
その夜。
エジプトの空には黒雲が立ち込め、月明かりさえも遮られていた。
夜風が気味悪く吹き抜ける王宮の外郭。厳重なはずの城壁の根元に、ひとつの黒い影が揺らめいた。
バキはアアイから教えられた隠し扉の前に立ち、無音でそれを押し開ける。
(本当に警備が手薄だ……。アアイのジジイ、しっかりと手回しをしやがったな)
バキは猫のようにしなやかな足取りで、廊下の天井や柱の影を滑るように移動していく。その両手には、静かに抜き放たれた鋭利な暗殺刀が握られていた。
一方、執務室の中では、ファラオが賢者メレルと机を挟んで向かい合っていた。
これは彼が玉座に復帰して以来、毎夜欠かさず行っている日課の語らいであった。
「メレル、今日上がってきた税の管理書類だけど。
やっぱり計算のズレが大きいよ。
現場の役人が不正をしているのか、単に計算の手間を取らせすぎてるのか……」
「ふむ……ファラオの仰る通り、従来のやり方では無駄が多すぎますな。
ですが、あなたが提示されたあの『式』を使えば、確かに人の手を介さずとも検地が正確に行えます」
「だろ? 内政を安定させるには、まず現場の負担を減らして公正さを担保することからだよ」
松明の暖かな光の下、ファラオは親しみやすい笑顔で未来のエジプトの改革について語り合っていた。
その執務室のすぐ外の天井梁、気配を完璧に消したバキが、刀を低く構えて潜んでいた。
(……情報通り、部屋にいるのはファラオとあの老賢者の二人だけ。
警備の兵も皆無。くくっ、無防備にもほどがあるぜ)
カメスという護衛の存在すら知らぬバキは、暗闇の中で冷酷に口元を吊り上げる。
(ファラオ……ツタンカーメン。賢者とお気楽におしゃべりか。温室で育ったお坊っちゃまと老いぼれ二人、一瞬で首を飛ばしてやる)
バキは全身の筋肉を完璧に連動させ、刀の刃先を月光の届かぬ闇に研ぎ澄ましながら、執務室の天井からファラオとメレルの頭上へ向けて、無音の刃とともに牙を剥いた。




