第9話 ファラオの臣下
神殿の一室。重厚な石壁に囲まれた部屋の真ん中で、手当てを受けた巨漢カメスは、未だ頭を深く垂れたまま微動だにできずにいた。
己が胸元に手をかけた相手は、病床から蘇りし現人神・ツタンカーメンその人。
本来であれば即座に首を撥ねられ、その死体は砂漠の野犬に食い散らかされるのが当然の罪である。
静寂の中、足音が近づき、ファラオが目の前に立った。
「カメス。楽にして、顔を上げろよ」
静かで、透き通るような声だった。
威圧感で平伏させるような覇王の怒声ではない。だが、どこか人の心を深く揺さぶるような、暖かくも清々しい響きがそこにはあった。
カメスはおそるおそる顔を上げ、ファラオの瞳を見つめた。
「……ファラオ、あっしは……」
「単刀直入に聞くけどさ、なんであそこで暴れてたんだ? お前、これだけデカくて力があるなら、山賊にでもなって暴れまわったほうが楽だっただろ。
なのに石工として真面目に働いてて、あんな喧嘩を起こした。……理由は?」
ファラオの問いはフランクで、カメスを裁こうとする冷たさは一切なかった。
カメスは大きな拳を握りしめ、恥じ入るように視線を落とした。
「……手抜き、でさあ」
「手抜き?」
「へい……石切場の連中が、王宮の壁に使う石材の切り出しで、目に見えねぇ亀裂が入ってんのを知りながら『バレなきゃいい』ってそのまま納品しようとしたんです。
……そんな脆ぇ石使ったら、何年かあとに崩れて人が死ぬかもしれない。
石工の誇りを捨てるような真真が許せなくて……注意したら、逆ギレされて大喧嘩になっちまいました」
カメスの言葉を聞き、ファラオの傍らに控えていた老賢者メレルが目を見開く。
ファラオは静かに頷き、柔らかい微笑みを浮かべた。
「なるほどね……。自分の仕事に対する深い責任感と、誇りがあったからこそ怒ったんだな。……すごくいいじゃないか」
「え……?」
思いもよらぬ言葉に、カメスは呆然とファラオを見上げた。
「仕事に妥協せず、人の命や王宮の安全を本気で考えられる。お前みたいなやつこそ、真の職人だよ。
……まぁ、ちょっと短気すぎてすぐ手が先に出ちゃうところは、玉に瑕だけどな」
くすりと微笑むファラオの顔には、聖者としての慈愛と、人の上に立つ者としての圧倒的な器の広さが満ちていた。
(なんなんだ……このお方は……?)
カメスの胸の奥が、熱いもので満たされていく。
自分を投げ飛ばした時のあの圧倒的な強さ。
そして、罪人である自分に対してすら敬意を払い、真実を見抜いて褒たたえる圧倒的な徳。
この若きファラオには、命を預けたくなるほどの強烈なカリスマ性が宿っていた。
「お前が俺にした狼藉は、今この時をもってチャラにする。許してやるよ」
ファラオは一歩歩み寄ると、カメスの目の前でまっすぐにその瞳を見つめた。
「カメス。これからは、俺と……そして俺が一番大切にする王妃アンの身を護るために、その圧倒的な力を貸してくれよ。俺直轄の『宮殿守護者』として、俺の護衛を引き受けてほしいんだ」
「あ……あっしが……ファラオと王妃様の、守護者に……!?」
カメスの全身に雷が落ちたような衝撃が走った。
ただの暴れん坊の石工に過ぎなかった自分を、王の身を護る最高の一番近くに置いて買い買おうというのだ。
熱い涙が、カメスの目から溢れ出し、傷のある褐色の大頬を伝った。
ドスンッ!!
カメスは再び地面が割れんばかりの勢いで額を床に叩きつけた。
「ファラオ……! このカメス、この命、今この瞬間からすべて貴方様に捧げますッ!
ファラオを、そして王妃様を狙う不届き者がいれば、この拳とこの体で、一人残らず叩き潰してみせます!!」
床を濡らす涙とともに、固く誓われる絶対の忠誠。
ファラオはカメスの大きな肩に優しく手を置き、力強く頷いた。
「頼みにしてるぜ、カメス」
腐敗したアモン神殿と、迫り来るヒッティテ帝国の脅威。
巨大な敵に立ち向かう若きファラオに、いま初めて、命を懸けて戦う『最初の部下』が誕生した瞬間であった。




