第8話 怪力巨漢と運命の出会い
アモン神殿での改革宣言を終え、王宮への帰路につくファラオ一行。
その道中、張り詰めた空気の中を歩む三人の表情は実に対照的であった。
大既得権益への宣戦布告を果たしたファラオの瞳には、一切の迷いなく、国と民を背負う者としての揺るぎない決意が宿っている。
その横を歩く老賢者メレルは、自らの見込んだ若き王の勇姿に深く満足し、楽しげに白髭をさすっていた。
一方で、二人の後ろを歩く老宰相アアイの顔は青ざめ、膝を微かに震わせている。
(正気か……正気なのか、あのファラオは……!
あのアモン神殿に真正面から喧嘩を売るなど、前ファラオ以上のアマルナの狂気……!
しくじれば我らごと暗殺されるぞ……!)
あまりの暴挙に、陰険な老政治家の胆は冷え切っていた。
一行が王宮へ向かう途中、王都の街道沿いにある巨大な石切場を通った時のことである。
カン、カンと石を穿つ音が響く現場の片隅で、突如として激しい怒号と悲鳴が上がり、人集まりができていた。
「うおおおぉぉあぁっ! どけ、どけぇい!!」
怒号の中心にいたのは、二メートルを優に超える巨躯を持った、褐色肌の男だった。
丸太のような腕と岩石のような筋力を誇るその巨漢は、数人の石切職人たちを相手に大立ち回りを演じていた。
飛びかかってくる職人を片手で投げ飛ばし、振り下ろされる木槌を腕一本で受け止める圧倒的な力。
ファラオは足を止め、興味深そうにその様子を眺めていた。
(……すごい体躯だな。元石工か?
だが、重心の使い方が荒削りだ。ただの腕力だけで振り回している……)
元柔道家・剣道家としての視点から冷徹に男の動きを観察していたファラオだったが、直後、その眉根が深く寄せられた。
暴れる巨漢が跳ね飛ばした巨大な石材の破片が、野次馬の最前線にいた幼い子供の方へと一直線に転がっていったのだ。
「危ない!」
子供の母親が悲鳴を上げる。
間一髪、ファラオは躊躇なく踏み出し、身を挺して子供の前に立ち塞がると、足で転がってきた石材をピタリと止めた。
そして、なおも周囲の職人たちを叩きのめそうと腕を振り上げる巨漢に向かい、静かだが凛とした声を響かせた。
「……そのへんにしておけ」
その一声に、荒い息を吐く巨漢が苛立ちを露わにして振り返った。
豪奢な衣服を着ているものの、病上がりでまだ線の細さが残る若者の姿を見て、巨漢は鼻で笑う。
まさか目の前の若者が、このエジプトの頂点に立つファラオだとは夢にも思っていない。
「なんだ貴様ぁ! 死にたいのか小僧っ!!」
巨漢は猛然とファラオへと突進し、丸太のような太い腕でその胸元を掴みかかってきた。
自慢の腕力で一気に押し潰し、地面に叩きつけてやろうという算段だった。
しかし、その瞬間。
「な……ッ!?」
巨漢の視界が、一瞬で天地逆転した。
ファラオは掴みかかってきた男の力を殺すことなく、自らの重心を沈めながら完璧な足捌きで間合いを詰めていた。
前世で幾度となく叩き込んだ柔道の基本。
相手の力を利用し、支点をつくり、テコの原理で巨躯を浮かせる。
疾風のごとき一本背負いが、過不足なく炸裂した。
ドガァァンッ!!
激しい衝撃音とともに、二メートルを超える巨漢の体が綺麗な放物線を描いて宙を舞い、頭から石切場の硬い地面へと激突した。
古代の石工に「受け身」という概念など存在するはずもない。
無防備なまま地面叩きつけられた巨漢は、頭部から鮮血を流し、激痛に顔を歪ませながらファラオを睨みつけた。
「がはッ……ぐ……くそ、貴様……何を……!」
怒りに任せて跳ね起きようとした巨漢だったが、ふと周囲の異様な静寂に気づき、動きを止めた。
周囲にいた石切職人たちも、野次馬の民も、そして王宮の護衛兵たちも、全員が青ざめた顔で、その場に平伏し、頭を垂れていたのだ。
静まり返る現場で、巨漢の血走った目がファラオの胸元に輝く王家の胸飾りと、その圧倒的な覇気に注がれる。
「ふぁ……ファラオ……!?」
我に返った巨漢の全身から、一瞬で血の気が引いた。
自分が何を犯したのか。
現人神であるファラオに掴みかかり、暴言を吐いた。
それは、自分どころか一族郎党の命が幾つあっても足りない、最悪の不敬罪である。
己の人生を完全に終わらせるほどの決定的な失敗を悟り、ガタガタと全身を震わせる巨漢の背中に、即座に護衛兵たちが群がり、取り押さえた。
「貴様、ファラオに何たる不敬を! 控えよ!!」
拘束され、地面に押さえつけられる巨漢を見下ろしながら、ファラオは服の乱れを静かに整えた。
脳裏には、先ほど男が見せた人間離れした筋力と、投げ飛ばされた瞬間の身体の頑丈さが強く刻まれていた。
(この力と体格……磨けば化ける。
ただの石工で終わらせるにはあまりにも惜しい素材だ)
ファラオは、不敬を叩き潰そうと剣に手をかけていた護衛兵の隊長に向かい、静かに告げた。
「この者を殺すな。手厚く手当てをした後、我が神殿まで連れてきてくれ」
言いたいことだけを伝えると、ファラオは振り返ることもなく、再び王宮へ向かって歩き出した。
残された巨漢は、頭から血を流しながら、うなだれるしかなかった。
ファラオの神殿へ連行されるということは、公開処刑か、見せしめの酷刑か。
護衛兵を引きずられるように歩きながら、男は絶望のなかで自らの運命を呟いた。
「あぁ……死刑だ……」
己の愚行を呪う巨漢はまだ知らなかった。
自分のこの後の人生を。




