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第5話 助けるという選択


 白石結衣が病室を出ていったあとも、しばらくのあいだ、湊は天井を見上げたまま動けずにいた。


 白い天井。


 白い照明。


 白い壁。


 白いシーツ。


 何もかもが均一で、整いすぎていて、少しだけ現実味が薄い。


 病院という場所は、いつだってそうだ。


 清潔で、静かで、機能的で、人間の生活感みたいなものをできるだけ排除した空間になっている。


 そのくせ、ここには人間の感情だけがやたらと濃く残る。


 不安も。


 安堵も。


 痛みも。


 疲れも。


 全部。


 消毒液の匂いが、微かに鼻の奥に残っている。


 どこか遠くでワゴンの車輪が転がる音がする。


 ナースステーションの方から、小さく抑えられた声が聞こえては消える。


 モニターの電子音が、規則的に、機械みたいに、まるで何も変わらないとでも言うように鳴り続けている。


 外は夜だった。


 窓はカーテンで半分ほど隠されているが、その隙間から見えるのは、暗いガラスと、その向こうに滲む街の灯りだけだ。


 昼間ならもっと現実的な景色が見えたのだろう。


 車の流れとか。


 向かいの建物とか。


 空の色とか。


 けれど今は、夜の黒に飲まれて、ただ明かりの粒だけが浮かんでいる。


 静かな夜の病院。


 何ひとつ派手なものはないはずなのに、頭の中だけが妙に騒がしかった。


 ついさっきまでここにいた家族のこと。


 母の目。


 父の短い言葉。


 ひなたの、見抜こうとするような視線。


 そして、そのあとに続いた白石結衣との会話。


 自分が選んだ言葉で、結衣の表情が変わったこと。


 あの瞬間の、確かな手応え。


 数字が上がったことよりも、自分の言葉が相手の不安を少しだけ軽くしたのだと感じられたこと。


 全部がまだ、胸の奥に残っていた。


(……なんか、今日は情報量多すぎるだろ)


 内心でそんなことを思いながら、小さく息を吐く。


 事故に遭って、死んで、神と会って、スキルをもらって、生き返って、病院で目を覚まして、家族が来て、看護師とイベントをこなしている。


 文字にすると、もはや正気の人間の一日ではない。


 どこか一つでも夢でした、と言われた方がまだ納得できる。


 冷静に考えれば、頭がおかしくなっていても不思議じゃない流れだ。


 なのに、意外と自分は冷静だった。


 いや、冷静というより――。


(もう、現実感が変な方向に振り切れてるのかもな)


 今さら一つ二つおかしなことが増えたところで、脳の処理が追いつかないまま「そういうものか」で流してしまうような、妙な諦めに近い感覚。


 その時。


 視界の端に、いつもの青白いウィンドウが静かに浮かんだ。


『《現在ステータス》』


『黒瀬湊』

『レベル:2』

『経験値:60/250』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』

『スキルレベル:2』

『スキル経験値:126/150』


『恋愛ポイント:82』


『進行中イベント』

・白石結衣イベントLv.1《進行度90%》

・父イベント《言葉にならない心配》

・妹イベント《怒りの奥にある涙》

・命を救われた女性《白峰紗雪/ロック中》

・佐倉奈緒イベント《未解放》


(……ロック中、か)


 湊は、表示の中にある名前を見つめた。


 白峰紗雪。


 自分が事故の時に助けた女性。


 まだ顔も、声も、きちんとは思い出せない。


 覚えているのは、濡れた路面と、白いライトと、肩を突き飛ばした時の感触くらいだ。


 けれど、名前だけはもう表示されている。


 “命を救われた女性”。


 まるでゲームのイベント名みたいな言い方だった。


 だが、そこにいるのは現実の人間だ。


 自分が助けた。


 自分が代わりに轢かれた。


 そしてその人は、今もどこかで、自分に会いたがっている。


(……そのうち、会うことになるんだろうな)


 想像すると、少しだけ胸の奥がざわついた。


 感謝されるのだろうか。


 謝られるのだろうか。


 泣かれるのだろうか。


 それとも、何も言えずに気まずくなるのだろうか。


 正解が見えたとしても、きっと簡単ではない。


 そんな気がした。


 その時だった。


 カーテンの隙間の向こう。


 廊下の奥を、一人の女性が通り過ぎた。


 看護師服。


 だが、白石結衣のような初々しさとは違う。


 もっと慣れていて。


 もっと疲れていた。


 歩幅は小さい。


 背中はほんの少しだけ丸い。


 足取りは止まっていないのに、どこか“進んでいる”というより“落ちないように歩いている”ように見えた。


 前へ行こうとしている人間の歩き方ではなく、いま立っている場所から崩れないように、どうにか次の一歩を出しているような、そんな危うさがあった。


 その瞬間。


 視界の端に、表示が浮かぶ。


『《対象を認識しました》』


『名前:佐倉奈緒』

『年齢:26』

『職業:看護師』


『レベル:21』

『レア度:★★★★』


『好感度:12%』


『状態:自己否定/疲労蓄積/精神不安定』

『感情トレース:焦燥/睡眠不足/抑圧』

『難易度:★★★★☆』


『警告:危険域』


(……やっぱり、重いな)


 さっき見た時よりも、はっきりとわかる。


 この人はまずい。


 ただ疲れているだけじゃない。


 ただ元気がないだけでもない。


 状態そのものが、かなり深いところまで沈んでいる。


 「つらそう」なんて軽い言葉では足りない。


 放っておけば、どこかで本当に折れる。


 そんな危うさが、数字と文字になって目の前に浮かんでいた。


 しかも厄介なことに、その表示はただの飾りではない。


 湊はもう知っている。


 あの文字列が、相手の今をかなり正確に言い当てていることを。


 だから無視しづらい。


 だから目に入った瞬間、責任みたいなものまで一緒に押しつけられた気がする。


(……やめろよ)


 湊は内心で呟いた。


(見えたからって、全部どうにかできるわけじゃないだろ)


 そう。


 そのはずだ。


 自分は患者だ。


 まだまともに起き上がることすらできない。


 体も痛い。


 医者からは安静を言い渡されている。


 そんな状態で、他人の心配まで背負い込む余裕なんてあるわけがない。


 ないはずなのに。


 表示が消えない。


 赤い警告だけが、廊下の奥で静かに点滅している。


 だが、次の瞬間だった。


 その佐倉奈緒の表示の奥に、別の人影が見えた。


 そして。


『《対象を認識しました》』


『《対象を認識しました》』


『《対象を認識しました》』


 一つでは終わらなかった。


 視界の中に、次々と文字が生まれる。


 まるで、止まっていたシステムが一気に起動したみたいに。


「……は?」


 思わず、声が漏れる。


 カーテンの向こうに見える廊下。


 ナースステーションの明かり。


 その前を通る人影。


 壁際のベンチに座る誰か。


 受付の方へ歩く誰か。


 売店の方向から戻ってくる誰か。


 その全部に、情報がついていく。


 見える。


 見えた瞬間に表示される。


 しかも、一人二人じゃない。


『《神宮寺綾乃》』

『年齢:28』

『職業:外科医』

『レベル:32』

『レア度:★★★★★』

『好感度:4%』

『状態:観察/警戒/疲労抑制』

『難易度:★★★★★』


『《天城志保》』

『年齢:54』

『職業:院長』

『レベル:41』

『レア度:★★★★★』

『好感度:2%』

『状態:冷静/多忙』

『難易度:★★★★★』


『《三浦彩花》』

『年齢:33』

『職業:内科医』

『レベル:25』

『レア度:★★★』

『好感度:12%』

『状態:疲労/集中』

『難易度:★★★☆☆』


『《相沢真奈美》』

『年齢:32』

『職業:受付』

『レベル:14』

『レア度:★★』

『好感度:22%』

『状態:業務集中』

『難易度:★★☆☆☆』


『《山岸理沙》』

『年齢:35』

『職業:清掃スタッフ』

『レベル:5』

『レア度:★』

『好感度:18%』

『状態:平常』

『難易度:★☆☆☆☆』


『《吉岡沙織》』

『年齢:17』

『職業:入院患者』

『レベル:4』

『レア度:★』

『好感度:25%』

『状態:退屈/軽度不安』

『難易度:★☆☆☆☆』


『《中村恵》』

『年齢:41』

『職業:付き添い』

『レベル:11』

『レア度:★★』

『好感度:20%』

『状態:心配/疲労』

『難易度:★★☆☆☆』


『《対象を認識しました》』


『《対象を認識しました》』


『《対象を認識しました》』


 止まらない。


 まだ増える。


 まだ出る。


 まだ終わらない。


 名前。


 年齢。


 職業。


 レベル。


 レア度。


 好感度。


 状態。


 難易度。


 それらが、次から次へと視界に重なっていく。


 廊下を歩く女性。


 ナースステーションの奥で書類を確認している女性。


 付き添いらしい年上の女性。


 会計待ちの女の子。


 院内の案内板の近くで立ち止まる女性。


 病室の前を通り過ぎるワゴンの陰に一瞬だけ見える横顔。


 全部に、名前がつく。


 全部に、状態が見える。


 全部に、難易度が貼られる。


 見える。


 見えすぎる。


「……っ」


 息が詰まった。


 視界が文字で埋まる。


 病院の白い廊下が、もはや見えなくなっていく。


 人の顔より先に名前が見える。


 仕草より先に状態が見える。


 現実が、情報の層に覆われる。


 人間を見ているのか、ステータス画面を見ているのか、一瞬わからなくなる。


(……多すぎるだろ)


 心の中で吐き捨てる。


(これ、全部見なきゃいけないのか?)


 いや、違う。


 見なきゃいけないわけじゃない。


 でも、“見えてしまう”。


 そこが問題だった。


 目を向けた瞬間に情報が流れ込む。


 見ようとしなくても、脳が勝手に認識してしまう。


 しかも一つ一つに意味がある。


 「受付」「清掃スタッフ」くらいならいい。


 問題は「疲労」「心配」「自己否定」「危険域」みたいな状態まで見えることだ。


 知ってしまう。


 見えてしまう。


 すると、そこから先はもう、知らなかった時の自分には戻れない。


 その瞬間、ウィンドウのひとつが強く明滅した。


『情報処理負荷を検知しました』


『スキル経験値を獲得しました』


『スキル経験値:126/150 → 150/150』


『条件達成』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』

『スキルレベル:2 → 3』


『新機能を解放しました』


『《表示フィルター》を獲得』


『《個別フォーカス》を獲得』


『《危険域アラート》を獲得』


『恋愛ポイント:82 → 92』


『アイテム獲得:《精神安定チュートリアル》×1』


(……このタイミングでレベルアップかよ)


 湊は、息苦しさの中で半ば呆れる。


 だが、正直に言えば助かった。


 このままでは本当に情報に潰される。


 画面に新しい表示が浮かぶ。


『《スキル設定》』


『表示フィルター:未設定』


『対象制限:なし』


『優先表示:未設定』


『年齢表示:ON』

『職業表示:ON』

『レベル表示:ON』

『レア度表示:ON』

『状態表示:ON』

『難易度表示:ON』


(……設定?)


 湊は、ゆっくりと息を整える。


 試す価値はある。


 というより、もう試さなければ無理だった。


(このままじゃ、まともに使えない)


 便利な能力、なんてもんじゃない。


 このままではただの情報災害だ。


 指で操作するわけじゃない。


 でも、見ているうちに何となくわかる。


 これは“意識で触る”タイプだ。


 神からもらったスキルらしい、妙な直感。


 ゲームのメニュー画面を開く感覚に近い。


(……フィルター)


 そう意識を向ける。


 すると表示が切り替わる。


『表示フィルターを選択してください』


『A:全対象表示』


『B:難易度別表示』


『C:個別指定』


『D:関係性優先表示』


(……B)


 迷わなかった。


 今この瞬間に必要なのは、全部じゃない。


 整理だ。


『難易度を選択してください』


『A:★☆☆☆☆』


『B:★★☆☆☆』


『C:★★★☆☆』


『D:★★★★☆以上』


(まずは……)


 湊は一瞬だけ考える。


 高難易度から見るべきか。


 それとも低難易度からか。


 感情だけでいえば、佐倉奈緒が気になる。


 でも。


(今のこの視界のままじゃ、そもそも考えられない)


 脳の処理能力には限界がある。


 ゲームならUIを整理するのは基本だ。


 情報を絞る。


 不要なものを消す。


 必要なものだけを残す。


 最初にやるべきことは、もうはっきりしていた。


(A。★1だけでいい)


 そう決める。


 次の瞬間。


 視界が――変わった。


 さっきまで画面を埋め尽くしていた情報が、一斉に消える。


 まるでノイズを一括でミュートしたみたいに、世界が静かになる。


 残ったのは、ほんの数人分の表示だけだった。


『《白石結衣》』

『年齢:20』

『職業:見習い看護師』

『レベル:7』

『レア度:★★』

『好感度:45%』

『状態:信頼/照れ/安定』

『難易度:★☆☆☆☆』


『《吉岡沙織》』

『年齢:17』

『職業:入院患者』

『レベル:4』

『レア度:★』

『好感度:25%』

『状態:退屈/軽度不安』

『難易度:★☆☆☆☆』


『《山岸理沙》』

『年齢:35』

『職業:清掃スタッフ』

『レベル:5』

『レア度:★』

『好感度:18%』

『状態:平常』

『難易度:★☆☆☆☆』


 ――少ない。


 明らかに、見える範囲が整理されている。


「っ……」


 自然に、呼吸が深くなる。


 視界が戻る。


 病院の廊下が、ちゃんと“廊下”として見える。


 白い床。


 壁際に置かれた椅子。


 案内表示。


 ナースステーションの明かり。


 その全部が、ようやく風景に戻った。


 たった今まで、自分は本当に“情報”しか見えていなかったのだと気づく。


 人がいて、空間があって、夜の病院があって――その上に情報が重なるのではなく、情報が前面に出すぎて現実を押し潰していた。


(見える……)


 ちゃんと、見える。


 情報は残っている。


 でも、処理できる量に収まっている。


 しかも残っている相手は、明らかに接触しやすい。


 難易度★1。


 序盤の経験値稼ぎにちょうどいい相手。


(これなら……使える)


 その瞬間、理解する。


(このスキル……ただ表示されるだけじゃない)


 使いこなす前提で作られている。


 整理して、絞って、選んで、最適化して、初めて役に立つ。


 まるで、ゲームのUIそのものみたいに。


(“設定して使うタイプ”か)


 ゲームと同じだ。


 最初から全部見えるのは親切じゃない。


 情報を整えて、必要なものだけ拾っていく。


 その時。


 意識の奥で、何かが引っかかる。


 さっき見えていたはずの名前。


 消えた表示。


 そして――。


(……佐倉奈緒)


 今は、見えない。


 ★1じゃないから。


 フィルターで除外されている。


 つまり。


(見ないことも、できる)


 一瞬だけ、思考が止まる。


 楽な対象だけを見る。


 簡単な相手だけ選ぶ。


 低難度を回して経験値を稼ぐ。


 それは、すごく合理的だ。


 恋愛ゲームなら、序盤はそうするのが正しい。


 レベルを上げる。


 資源を集める。


 低リスクで経験値を取る。


 それが定石だ。


(……今の俺に必要なのも、たぶんそれだ)


 病院から出るまでの短い時間で、スキルの扱いに慣れる。


 ★1の対象で経験値を稼いで、自分のレベルを上げる。


 恋愛ポイントも集まる。


 新機能も解放される。


 身体能力や視力補正につながるスキルがあるなら、先にそっちを伸ばした方が、この先のためにもなる。


 今後のことを考えれば、序盤での育成は大事だ。


 かなり大事だ。


(恋愛攻略も大事だが、自分のレベルを上げるのも大事)


 それはもう、はっきりしていた。


 相手ばかり攻略しても、自分が弱ければ詰む。


 ゲームでも現実でも、それは同じだ。


 問題は――。


(……それだけでいいのか)


 廊下の奥へ、ゆっくりと視線を向ける。


 ★1表示のままでは、佐倉奈緒は見えない。


 見えない。


 見えないということは、考えずに済む。


 楽だ。


 すごく、楽だ。


 だけど。


 ついさっき、あの状態を見てしまった。


 自己否定。


 疲労蓄積。


 精神不安定。


 危険域。


 それを知ったあとで、低難度だけ見て「まずは効率プレイで」と割り切れるほど、湊はきれいなゲーマーではなかった。


(……あの人、本当に大丈夫なのか)


 その思考が、消えない。


 見なかったことにはできない。


 見えてしまった以上、もう無視するのも一つの選択だとわかってしまう。


 そして、選択だとわかってしまった以上、何も感じないふりはできない。


「……黒瀬さん?」


 声がして、湊は少しだけ肩を揺らした。


 白石結衣が不思議そうにこちらを見ている。


 たぶん、さっきから廊下ばかり見ている自分を怪しく思ったのだろう。


「えっと……そんなに廊下、気になりますか?」

「何か、誰か探してるんですか?」


「あ……いや」


 誤魔化すように視線を戻す。


「ちょっと、考え事してただけ」


「そうですか……」


 結衣は少しだけ首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。


 その控えめさがありがたかった。


 だが、完全に引いたわけでもない。


 彼女はトレーを片づけながらも、ちらちらと湊の様子を見ている。


 さっき自分を支えてくれた相手が、今度は何か別のことで引っかかっているのが気になるのだろう。


 そういうところが、結衣らしい。


 距離の詰め方は不器用なのに、相手の変化には妙に敏感だ。


「……もし」

 結衣が少し躊躇ってから口を開く。

「また、どこか苦しいとか……そういうことなら、すぐ言ってくださいね」


「うん」


「その、我慢しそうなので」


「そんなに我慢しそうに見える?」


「見えます」


 小さな声だが、妙に即答だった。


 湊は少しだけ目を瞬かせる。


「……そんなに?」


「はい。だいぶ」


 結衣は言い切ったあと、少しだけ照れたように視線を逸らした。


「黒瀬さん、優しいですけど……」

「たぶん、自分のことは後回しにする人ですよね」


 その言葉に、胸の奥が少しだけ引っかかる。


 図星だった。


 そして、その図星を真正面から言われるのは、思った以上に落ち着かない。


「……いや、まあ」


「事故の時も、そうだったんじゃないですか」


 結衣はそこまで言って、はっとしたように口を閉じた。


 患者本人に事故の話をどこまでしていいのか、一瞬で迷ったのだろう。


「す、すみません……! 私、勝手なこと……」


「いや」


 湊は、小さく首を振る。


「……たぶん、そうだと思う」


 その返事に、結衣の表情が少しだけ曇る。


 心配している顔だった。


 その顔を見て、湊は妙に居心地が悪くなる。


 こんなふうに心配されることに、まだ慣れていない。


 慣れていないのに。


 悪くないと思ってしまう自分もいる。


 そんな自分にも、少し戸惑う。


『白石結衣』

『好感度:45% → 46%』

『状態:信頼/心配/見守りたい』


(……また上がった)


 何かをしたつもりはない。


 けれど、相手の中で感情が動けば数値も動く。


 このシステムは、本当に細かい。


 細かすぎて、時々怖い。


 湊はもう一度、視界の端の設定へ意識を向ける。


『優先表示を変更しますか?』


『A:現在のまま《★1のみ》』


『B:複数表示に戻す』


『C:個別対象をフォーカス』


『D:危険域のみ強制表示』


(……個別対象)


 そこで、少しだけ息を止める。


 この機能があるなら。


 全体を埋めるほどの情報は要らない。


 でも、一人だけ見ることはできる。


 つまり。


(低難度で視界を整理しつつ、気になる相手だけ拾うこともできる)


 便利だ。


 便利すぎる。


 やろうと思えば、かなりずるい使い方もできる。


 経験値稼ぎも、高難度監視も、同時に回せるかもしれない。


 安全な対象でレベル上げをしながら、危険な相手の状態だけは追い続ける。


 攻略ゲームとして考えるなら、理想的な立ち回りだ。


 その時。


 遠くの廊下で、小さく何かが落ちる音がした。


 カシャン、と。


 軽いプラスチックか、クリップボードの角か、何かそんな乾いた音。


 結衣が「えっ」と小さく振り返る。


 湊も反射的にそちらを見る。


 廊下の向こう。


 壁際。


 そこに、一瞬だけ人影が見えた。


 視界の中に、設定とは別の表示が割り込む。


『《警告対象を再検知しました》』


『名前:佐倉奈緒』

『年齢:26』

『職業:看護師』


『レベル:21』

『レア度:★★★★』


『好感度:12%』


『状態:自己否定/疲労蓄積/精神不安定』

『感情トレース:焦燥増加/抑制限界接近』

『難易度:★★★★☆』


『警告:危険域』


(……そういう仕様かよ)


 思わず心の中で悪態をつく。


 だが、同時に少しだけ納得もしていた。


 本当に危ない相手だけは、どれだけ見ないようにしても表示される。


 そういう“親切”が、このスキルにはあるらしい。


 あるいは、神の趣味かもしれないが。


 佐倉奈緒は、少しだけうつむきながら落としたものを拾っていた。


 しゃがむ動作が遅い。


 拾い上げる動きも鈍い。


 立ち上がる時、一瞬だけ壁に手をついている。


 疲れている。


 目に見えて、限界に近い。


 遠目にもわかるくらいに。


 結衣も同じものを見たのか、小さく眉を寄せた。


「……奈緒さん」


 その声には、ただの同僚を見る響き以上のものがあった。


 心配。


 気がかり。


 でも、踏み込みにくさもある。


「知ってる人?」


 湊が聞くと、結衣は小さく頷いた。


「はい……先輩です」

「すごく仕事できる人で、いつもちゃんとしてて……」

「私なんかが言うのも変なんですけど、ほんとに、すごい人なんです」


 結衣の声には尊敬があった。


 けれど、その奥に少しだけ怖さも混じっている。


 奈緒という先輩は、結衣にとって“憧れ”であり、“届かない人”でもあるのだろう。


「点滴の準備も早いし、記録も正確だし、患者さんへの声のかけ方も落ち着いてて」

「先生たちからも信頼されてて」

「私がミスしそうになった時も、怒るんじゃなくて、先に手を出して止めてくれるんです」

「でも最近、ちょっと……」


 言葉を選ぶみたいに、結衣は一度唇を閉じる。


「ずっと忙しそうで」

「夜勤も続いてるみたいだし、顔色もあまりよくなくて」

「みんな心配してるんですけど、奈緒さん、全然“平気です”って言って休まなくて」


 そこで少しだけ声が小さくなる。


「……私、前に一回だけ声かけたことあるんです」

「“大丈夫ですか”って」

「でも、“大丈夫だから自分の仕事に集中して”って言われちゃって」


 苦笑とも困惑ともつかない表情だった。


 それでいて、奈緒への不満は感じない。


 むしろ、どう接していいかわからない戸惑いの方が大きい。


「たぶん、奈緒さん、優しいんです」

「でも、優しいからこそ、余計に一人で抱えちゃうっていうか……」

「誰かに任せるくらいなら、自分でやった方が早いって思っちゃう人で」

「それで、本当に全部やっちゃうんです」

「だから余計に、周りが止めにくくて……」


 結衣はそこまで言って、少しだけ悔しそうに目を伏せた。


「私、まだ頼りないから」

「奈緒さんから見たら、たぶん余計に任せられないんだと思います」

「本当は、少しでも助けたいんですけど……」

「何をしたら助けになるのか、わからなくて」


 その言葉に、湊は少しだけ目を細める。


(……結衣さん、見てるな)


 ただのドジな見習いではない。


 ちゃんと人のことを見ている。


 言葉にするのが少し不器用なだけで。


 そして、だからこそ苦しいのだろう。


 見えているのに届かない。


 助けたいのに、手が届く位置まで行けない。


 それはたぶん、結衣にとっても小さな傷になっている。


 その時、病室の入り口にまた新しい気配が差した。


「……白石さん」


 低く、よく通る声。


 神宮寺綾乃だった。


 結衣がぴくっと背筋を伸ばす。


「は、はいっ」


「ここにいたんですね」


「す、すみません、すぐ戻ります」


「急がなくていいです」


 短い。


 相変わらずクールだ。


 だが、その短さの中に無駄な圧はない。


 必要なことだけ切り出している。


 綾乃はそのまま病室の中へ入り、湊を一瞥し、それから廊下の方へ視線を向ける。


 奈緒のいる方向を、ほんの短く。


(……見えてるな)


 たぶん、奈緒の状態に気づいていないわけがない。


 この人は、そういう小さな異変を見逃すタイプじゃない。


「神宮寺先生」


 結衣が少しだけ躊躇ってから声を出す。


「奈緒さん、さっきまた……」


「見ました」


 短い返答。


「……あの」

 結衣は意を決したように続ける。

「大丈夫なんでしょうか」


 綾乃はすぐには答えなかった。


 廊下の方へ一度視線を向け、それから静かに言う。


「大丈夫ではないでしょうね」


 言葉は冷静だ。


 でも、切り捨てているわけじゃない。


 事実を事実として言っているだけだ。


 結衣が少し息を呑む。


「ただ」


 綾乃は続ける。


「“大丈夫ではない人”に、雑な励ましは逆効果です」


 結衣が小さくうつむく。


 前に声をかけて失敗したことを思い出したのだろう。


 綾乃はそれを見て、ほんのわずかに視線を和らげた。


「あなたが悪かったわけではありません」

「ただ、今の佐倉さんは、人に心配されること自体を負担に感じる段階です」


 短い説明。


 だが、よくわかる。


「じゃあ……どうすれば」


「無理に支えようとしないことです」


 綾乃の声はやはり落ち着いている。


「ただし、完全に放置もしない」

「見える位置にはいる」

「仕事を奪わない」

「でも、落ちた時に拾える距離は保つ」


 それだけ言って、少し間を置く。


「難しいですが」


 その最後の一言にだけ、ほんのわずかに疲れが滲んだ。


(……ああ)


 湊は思う。


(この人も、たぶん結構ギリギリなんだな)


 奈緒を見ている綾乃の顔は、いつもの無機質なクールさだけではなかった。


 責任者として、守らなきゃいけないものを抱えすぎている人間の顔だった。


 その瞬間、《感情トレース》が少しだけ反応する。


『《神宮寺綾乃》』

『状態:観察/疲労/責任感過多』

『感情トレース:苛立ち(対象は自分自身)』


(自分に苛立ってるのか)


 奈緒を立て直せていないことに。


 結衣をもっと上手く支えきれていないことに。


 そういう“全部”を、たぶん一人で背負おうとしている。


 面倒な人だ。


 でも、そういうところがこの人の高難易度っぽさでもある。


 結衣は唇をきゅっと結ぶ。


「……私、何かできますか」


 綾乃は即答しなかった。


 少し考えてから、短く言う。


「あなたは、普段通りでいいです」


「普段通り……」


「はい」

「過剰に気を遣わない」

「でも、見ておく」

「それだけで十分です」


 結衣は小さく頷いた。


 その頷きの中には、完全には納得しきれないもどかしさもあった。


 けれど、自分にできることを探そうとしている真面目さもあった。


 そしてその時。


 湊の視界に、静かに選択肢が浮かぶ。


『【選択肢が表示されます】』


『A:低難易度対象を優先する』


『B:佐倉奈緒に関わる』


『C:白石結衣に任せる』


『D:神宮寺綾乃に任せて何もしない』


 心臓が、少しだけ強く打つ。


 四択。


 けれど、重い。


 白石結衣の時のような素直な優しさの選択じゃない。


 こっちはもっと現実的だ。


 もっと汚い。


 もっと、結果に差が出る。


 Aを選べば、たぶん効率はいい。


 安全だ。


 Bを選べば、何が起きるかわからない。


 下手をすれば、経験値どころかこっちまで巻き込まれるかもしれない。


 相手が本当に限界なら、優しい言葉一つでどうにかなる話でもないだろう。


 むしろ、軽率に触れたせいで悪化する可能性だってある。


 Cは、一見すると結衣を信じる選択だ。


 でも、今の結衣に全部任せるのはたぶん重い。


 Dは、大人としては正しい。


 医師に任せる。


 現場の人間に任せる。


 患者である自分は何もしない。


 それが普通だ。


(……さて)


 湊は、ゆっくりと息を吐いた。


 白い病室。


 夜の病院。


 モニター音。


 カーテンの向こうの廊下。


 楽な対象と、危ない対象。


 レベル上げと、見過ごせない現実。


 その全部を見比べながら、思う。


(どうする)


 答えは、まだ出ていない。


 でも一つだけ、はっきりしていることがあった。


 このスキルは、ただ恋愛を楽にするためのものじゃない。


 誰を見るか。


 誰を選ぶか。


 誰に関わるか。


 その責任ごと、押しつけてくる能力だ。


 だからこそ――。


 次の選択は、軽くない。


 湊は細く息を吐き、もう一度だけ廊下の向こうへ目を向けた。


 視界の中で、赤い警告表示が静かに明滅している。


(……見なきゃよかった、なんて)


 今さら思えるわけがない。


 視界に入ってしまった以上。


 もう、知らないふりはできなかった。


 結衣が、ほんの少し不安そうにこちらを見る。


 綾乃は何も言わない。


 ただ、湊の顔を一度だけ見た。


 その視線は短い。


 だが妙に鋭かった。


 まるで、“お前は何を選ぶ”と、言葉にせずに問われたみたいに。


 その瞬間、湊は小さく息を吸った。


(……どうせだ)


 もう、知ってしまったのなら。


 見えてしまったのなら。


 見なかったことにする方が、たぶん自分には難しい。


 事故の時だってそうだった。


 合理性より先に、身体が動いた。


 今回も、たぶん同じだ。


 選択肢へ意識を向ける。


 そして――。


(Bだ)


 決めた瞬間、表示がわずかに明るくなる。


『選択を確認しました』


『▼佐倉奈緒 イベントLv.1を開始します』


『イベント名:《折れかけた夜勤》』


『推奨行動:無理に励まさない』


『推奨行動:相手の“崩れ方”を観察してください』


『非推奨行動:説教/同情/過剰な介入』


(……崩れ方、ね)


 穏やかじゃない文言だ。


 だが、逆にリアルでもある。


 精神的に限界へ近づいている相手は、表面の言葉より、“どんなふうに無理をしているか”を読まなきゃ話にならない。


 湊はベッドから身を起こそうとして、肋骨のあたりに鈍い痛みが走り、小さく顔をしかめた。


「っ……」


 結衣がすぐ反応する。


「だ、大丈夫ですか!?」


「……いや、起き上がろうとしただけ」


「ダメです! まだ無理です!」

「というか、普通に安静指示出てますから!」


 珍しく少し強めの声だった。


 たぶん今の結衣は、“ちゃんとできている自分”を失いたくないのだろう。


 だからこそ、ここで患者に無茶をされると困る。


 その必死さが少しだけ可笑しくて、でも同時にありがたかった。


「……じゃあ、白石さん」


「はい」


「ひとつ頼んでいい?」


 結衣が少し身構える。


 断る準備ではなく、“今の自分にできることならやりたい”という身構え方だった。


「佐倉さん、今ちょっと危なそうに見える」

「でも俺、動けない」


 結衣の表情がわずかに強張る。


 奈緒の名前が出た瞬間、彼女の中でも緊張が立ち上がったのがわかった。


「……はい」


「だから、今すぐ何かするとかじゃなくていい」

「ただ、次に佐倉さんがどこ行くかだけ、わかる?」


 結衣は一瞬迷った。


 規則とか、先輩後輩の距離とか、いろいろ考えたのだろう。


 だが最後には、小さく頷いた。


「……休憩室の方だと思います」

「たぶん、この時間の申し送り前に、一回だけ飲み物取りに行くので」


(なるほど)


 ルートが見えた。


 情報が一つ増える。


「ありがとう」


「でも……」

 結衣は少し言いづらそうに続ける。

「黒瀬さん、何するつもりですか?」


 そこを聞かれると少し困る。


 “攻略するつもりです”とは言えない。


「……大したことはしない」

「ただ、ちょっと放っておくの、嫌だなって思っただけ」


 結衣は、その返事をじっと聞いていた。


 それから、ほんの少しだけやわらかく笑う。


「やっぱり、黒瀬さんってそういう人なんですね」


「どういう意味だよ」


「困ってる人見ると、見て見ぬふりしきれない人」


 図星だった。


 そして、その図星をこんなふうに穏やかに言われると、妙に反論しにくい。


『白石結衣』

『好感度:46% → 48%』

『状態:信頼/心配/協力したい』


『結衣イベントLv.1《この場にいる意味》』

『進行度:90% → 95%』


『黒瀬湊』

『経験値:60/250 → 75/250』


『恋愛ポイント:92 → 97』


 結衣は、少しだけ息を吸った。


 その表情には、不安がある。


 でも、それ以上に「自分にもできることがあるなら」という気持ちがあった。


 前の結衣なら、たぶん怖がって一歩引いていた。


 でも今は違う。


 少しだけ、自分の足で立とうとしている。


「……わかりました」

「様子だけ、見てきます」

「でも、黒瀬さんは本当に動かないでください」

「私が見に行くのは、黒瀬さんが無茶しないようにするためでもあるんですから」


「はいはい」


「はいは一回です」


「はい」


「……なんか、今ちょっと雑でした」


「気のせい」


「絶対、気のせいじゃないです」


 そんなやり取りなのに、少しだけ空気がやわらぐ。


 緊張しているはずなのに。


 奈緒のことが心配なはずなのに。


 結衣と話していると、どこか息がしやすい。


 それは結衣の持つ空気なのだろう。


 人を救うほど強くはない。


 でも、人の肩の力を少しだけ抜く。


 そういう優しさ。


 綾乃が短く言う。


「白石さん」


「は、はい」


「十五分後、申し送りです」

「その前に佐倉さんが休憩室へ入るなら、三分もないでしょうね」


 必要な情報だけ。


 無駄なく。


 だが、それはつまり。


 綾乃も、この会話の意図を理解しているということだった。


 結衣が目を見開く。


 湊も一瞬だけ綾乃を見る。


 綾乃は視線を逸らさない。


「私は関与しません」

「ですが、見えている異常を完全に無視するつもりもありません」


 短く。


 静かに。


「できる範囲で」


 それだけ言う。


(……この人)


 やっぱり優しいのかもしれない。


 すごくわかりにくい形で。


 結衣が小さく息を吸う。


「……行ってきます」


 そして、湊へ向き直る。


「でも、本当に無理はしないでくださいね」


「うん」


「絶対ですよ?」


「わかった」


「たぶん、半分くらいしかわかってない顔してます」


「そんな顔してる?」


「してます」


 即答だった。


 少しだけ空気がやわらぐ。


 だが、その直後にはもう結衣は仕事の顔へ戻っていた。


 病室を出る前、ほんの一瞬だけ湊を見る。


 その目には、心配と、少しの信頼と、あと少しだけ、期待が混ざっていた。


 結衣が出ていく。


 綾乃はその背中を確認したあと、湊へ視線を戻す。


「黒瀬さん」


「はい」


「一つだけ」


 短い声。


「助けると介入するは、違います」


 言葉が落ちる。


 まっすぐに。


 冷静に。


「そこを間違えないで」


 それだけ言って、綾乃もまた病室を出ていく。


 白衣の裾が揺れる。


 足音は静かで、迷いがない。


 だがその一言は、妙に深く湊の胸に残った。


(助けると、介入するは違う)


 たしかにそうだ。


 良かれと思って踏み込んだ結果、相手の立場や呼吸を壊すことだってある。


 奈緒みたいに、今ぎりぎりの形で自分を保っている相手なら、なおさらだ。


 だから必要なのは、正しい優しさじゃない。


 相手にとって邪魔にならない形の優しさだ。


 難しい。


 でも――。


(やるしかないか)


 湊は息を吐いた。


 モニター音が、変わらず規則正しく鳴っている。


 白い病室は静かだ。


 静かなのに、その静けさの奥で、確かに次のイベントが始まりかけていた。


 視界の端で、ウィンドウが更新される。


『▼佐倉奈緒 イベントLv.1』

『イベント名:《折れかけた夜勤》』

『進行度:開始』


『第一目標:接触機会を作る』


『第二目標:警戒を上げずに会話を成立させる』


『失敗条件:説教/同情/踏み込みすぎ』


『現在協力者:白石結衣』


『監視対象:神宮寺綾乃』


(……ハードだな)


 思わず苦笑する。


 けれど、同時に少しだけ胸が熱くなっている自分もいた。


 白い世界の中で。


 ただ効率だけを選ぶなら、もっと楽なルートはいくらでもある。


 それでも、自分は結局、赤い警告の方を選んだ。


 それが合理的じゃなくても。


 むしろ、たぶん損でも。


 見えてしまった誰かの危うさを、完全に無視するほど器用にはできていない。


 ――それが、黒瀬湊という人間だった。


 その時、スマートフォンが小さく震えた。


 画面を見ると、父からだった。


 たった一言。


『無理するな』


 それだけ。


 湊は、思わず目を止めた。


 短い。


 昨日の「休め」と同じくらい短い。


 でも、その一言の奥に、妙な重さがある。


 何かを察したわけではないだろう。


 ただ、母から湊の様子を聞いたのかもしれない。


 あるいは、父なりに心配して、何か送ろうとして、結局その一言しか出てこなかったのかもしれない。


 けれど、今の湊には妙に刺さった。


(……無理するな、か)


 笑いそうになって、でも笑えなかった。


 自分がこれからやろうとしていることは、きっと父に言えば怒られる。


 医者にも怒られる。


 結衣にも怒られる。


 たぶん、綾乃には無表情で叱られる。


 でも。


 完全に無視することもできない。


 だから、せめて間違えないようにする。


 助けることと、介入することを間違えないように。


 湊は父への返信画面を開いた。


 少し迷ってから、短く打つ。


『わかってる』

『ちゃんと休む』


 送信。


 すぐに表示が浮かぶ。


『黒瀬恒一』


『信頼値:68% → 69%』


『状態:受容/不器用な心配』


『父イベント《言葉にならない心配》進行度:45% → 48%』


『黒瀬湊』

『経験値:75/250 → 80/250』


『恋愛ポイント:97 → 100』


(……百になった)


 恋愛ポイントが100に到達した。


 けれど、今はそこに浮かれる気分ではなかった。


 病室の外。


 夜の病院。


 休憩室へ向かった結衣。


 危険域の奈緒。


 そして、関与しないと言いながら必要な情報だけを残していった綾乃。


 全部が、静かに次の場面へ向かっている。


 数分後。


 廊下の向こうで、結衣の声が聞こえた気がした。


 はっきりとは聞こえない。


 けれど、誰かに声をかけている。


 そして、少し低い奈緒の声。


 短い返答。


 張りつめた空気。


 湊の視界に、遠くの出来事を拾うように表示が浮かぶ。


『《佐倉奈緒イベントLv.1》』


『接触機会:発生』


『白石結衣が対象へ接触しました』


『警戒値:上昇なし』


『第一目標:達成』


『報酬』

『経験値:+20』

『スキル経験値:+10』

『恋愛ポイント:+5』


『黒瀬湊』

『経験値:80/250 → 100/250』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』

『スキルレベル:3』

『スキル経験値:0/250 → 10/250』


『恋愛ポイント:100 → 105』


『佐倉奈緒』

『好感度:12%』

『状態:自己否定/疲労蓄積/警戒なし』


(……第一目標、達成)


 まだ何も救えていない。


 奈緒の好感度も上がっていない。


 状態もよくなっていない。


 ただ、接触機会を作っただけ。


 でも、それでいい。


 今はそれでいい。


 いきなり人を救えるほど、現実は簡単じゃない。


 ゲームみたいに選択肢一つで全部解決するなら、きっと神々はあんなに人間を見下ろして楽しんだりしない。


 現実は、もっと面倒だ。


 もっと遅い。


 もっと傷つきやすい。


 だからこそ、一歩ずつ進めるしかない。


 やがて、結衣が戻ってきた。


 少しだけ息が上がっている。


 けれど、顔は暗くない。


「黒瀬さん」


「どうだった?」


「……休憩室に行きました」

「私が声をかけたら、最初はちょっと驚かれたんですけど」

「“申し送り前に、これだけ置いておきます”って、温かいお茶だけ渡しました」


「お茶?」


「はい」

「“大丈夫ですか”って聞くと、たぶんまた断られると思ったので」

「何も聞かずに、置くだけにしました」


 結衣はそこで少しだけ不安そうに湊を見る。


「これで……よかったんでしょうか」


 湊は表示を見る。


 警戒値、上昇なし。


 それが答えだった。


 少なくとも、失敗ではない。


「たぶん、よかったんだと思う」


「……ほんとですか?」


「うん」

「少なくとも、押しつけにはなってないと思う」


 結衣の肩から、ほっと力が抜ける。


「よかった……」


 小さな安堵。


 それを見た瞬間、湊の胸の奥に少しだけ温かいものが広がった。


 結衣は、少しずつ成長している。


 自分の言葉で。


 自分の判断で。


 誰かを支える距離を、少しずつ覚え始めている。


『白石結衣』


『好感度:48% → 50%』


『状態:自信の芽生え/信頼/少し誇らしい』


『結衣イベントLv.1《この場にいる意味》』

『進行度:95% → 100%』


『イベント達成』


『報酬』

『経験値:+40』

『スキル経験値:+15』

『恋愛ポイント:+20』

『アイテム獲得:《結衣のやさしい観察眼》×1』


『黒瀬湊』

『レベル:2』

『経験値:100/250 → 140/250』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』

『スキルレベル:3』

『スキル経験値:10/250 → 25/250』


『恋愛ポイント:105 → 125』


『レベルアップ:なし』


(……結衣イベント、ここで完了か)


 湊はそっと息を吐いた。


 結衣はまだ完璧ではない。


 でも、“自分にもできることがある”と少しだけ思えた。


 それでイベント完了なのだとしたら、悪くない。


 むしろ、かなり現実的だ。


「黒瀬さん」


「ん?」


「私、ちょっとだけ……」

「ほんのちょっとだけですけど」

「看護師っぽいこと、できた気がします」


 そう言って、結衣は照れたように笑った。


 その笑顔は、今までで一番自然だった。


 胸キュン、という言葉が頭をよぎる。


 湊は思わず視線を逸らした。


(……初心者ヒロイン、ほんと強いな)


「……できてたと思う」


「……ありがとうございます」


 結衣は嬉しそうに頷いた。


 その時、廊下の奥でまた気配が動いた。


 佐倉奈緒だ。


 休憩室から出てきたのだろう。


 表情はまだ暗い。


 疲れも消えていない。


 でも、手に小さな紙コップを持っている。


 湯気の立つ、お茶。


 結衣が置いたものだ。


 奈緒はそれを見下ろして、ほんの一瞬だけ立ち止まった。


 そして、誰にも聞こえないくらい小さく、何かを呟いた。


 表示が揺れる。


『佐倉奈緒』


『状態:自己否定/疲労蓄積/微かな緩み』


『警告:危険域 → 注意域』


『奈緒イベントLv.1《折れかけた夜勤》』

『進行度:開始 → 20%』


『次回目標:本人との直接会話』


(……少しだけ、動いた)


 好感度は変わらない。


 でも、状態が変わった。


 危険域から注意域へ。


 たったそれだけ。


 でも、今夜はそれで十分だった。


 湊は、白い天井を見上げる。


 助けることは、正解を選ぶことではない。


 相手の痛みに勝手に踏み込むことでもない。


 見えてしまった危うさを、全部背負い込むことでもない。


 ただ、落ちる前に拾える距離へ、そっと手を伸ばしておくこと。


 必要な時に、相手が受け取れる形で置いておくこと。


 たぶん、それが今の湊にできる、最初の“助けるという選択”だった。


 そして、夜の病院はまだ終わらない。


 次に来るのは、きっと優しくない会話だ。


 簡単な好感度上昇ではない。


 下手をすれば、何も届かず終わる。


 それでも。


 選んだ以上、やるしかない。


 湊はゆっくりと目を閉じて、もう一度だけ呼吸を整えた。


 次の選択は、今までよりもっと重い。


 でも、だからこそ――。


 ここからが、本番だった。

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