第6話 踏み込むという選択
夜の病院には、昼間とはまるで質の違う静けさがある。
それは、ただ単純に人の声が減るとか、足音が少なくなるとか、そういう表面的な意味ではなかった。
人の気配は、確かにある。
ナースステーションの奥では、誰かが端末のキーボードを叩く、乾いた小さな連打が続いている。遠くの病室からは、時おり咳払いのような短い音が漏れ、点滴スタンドか何かがわずかに触れ合う硬質な金属音が、そのたびに白い廊下の奥へと伸びていく。
空調は低く均一に唸り続けていた。
心電図モニターの電子音は規則正しく病院の時間を刻み、深夜用の照明に照らされたワゴンの車輪が、ときどき床の上を滑るように転がっていく。
音は、ある。
人も、いる。
業務も、止まっていない。
なのに。
その全部が、夜という薄い膜を一枚だけかぶせられたみたいに、少しずつ輪郭をやわらげていた。
白い天井。
白い壁。
白いシーツ。
白いカーテン。
白い照明。
どこを見ても似たような色で統一された、感情の揺れなど最初から存在しないかのような、清潔で、均一で、整いすぎた空間。
けれど、そういう場所に限って、人間の感情だけは濃く沈殿する。
眠れない不安。
痛みへの苛立ち。
家族の安堵。
看護師の疲労。
医師の判断。
口にできない焦り。
飲み込むしかない弱さ。
そういうものが、白さの下へ静かに沈み、見えない層になって積もっていく。
黒瀬湊は、ベッドの上で少しだけ上半身を起こした姿勢のまま、しばらく天井を見上げていた。
起き上がるたびに、身体の奥が鈍く軋む。
事故の直後に感じたような、骨ごと砕け散るみたいな激痛はもうなかった。
だが、それは痛みが消えたわけじゃない。
ただ、表面からもっと深い場所へ沈んだだけだ。
筋肉の奥、関節のつなぎ目、身体の芯そのものが少しだけずれてしまっているみたいな、不穏で鈍い違和感だけが、今も静かに居座っている。
それでも、意識は驚くほどはっきりしていた。
むしろ、はっきりしすぎていて落ち着かないくらいだった。
(……今日、長すぎだろ)
内心で、ひとりごちる。
事故。
白い空間。
神々。
リリス。
《恋愛選択肢表示》。
病院での覚醒。
結衣とのチュートリアル。
綾乃との初接触。
家族との再会。
父との距離がほんの少しだけ動いたこと。
結衣イベントLv.1の完全攻略。
報酬。
新機能解放。
そして、赤い警告表示を伴って現れた看護師――佐倉奈緒。
ひとつひとつが、普通なら数日分。
いや、下手をすると数週間分の密度だった。
なのに、まだ今日という日は終わっていない。
視界の端で、例の青白い光が静かに明滅している。
『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』
『現在ステータス』
『黒瀬湊』
『レベル:2』
『経験値:140/250』
『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』
『スキルレベル:3』
『スキル経験値:25/250』
『恋愛ポイント:125』
『所持スキル』
・《恋愛選択肢表示》Lv.3
・《感情トレース》Lv.1
・《選択肢精度補正》Lv.1
『所持アイテム』
・《リラックスキャンディ》×1
『現在進行中イベント』
『▼白石結衣 イベントLv.1』
『状態:COMPLETE』
『▼白石結衣 イベントLv.2』
『状態:解放条件 一部達成』
『▼黒瀬家 信頼イベント』
『状態:進行中』
『▼佐倉奈緒 イベントLv.1』
『進行率:20%』
『状態:注意域』
『▼未開放イベント:複数』
(……前より、増えてるな)
湊は、青白い表示を見つめながら小さく息を吐いた。
“ゲームとしては”見慣れている。
数字も。
経験値も。
イベント達成も。
スキル解放も。
アイテム獲得も。
恋愛ゲームもRPGも散々やってきた湊にとって、構造としての理解は早い。むしろ、恐ろしいほど馴染みがある。メニュー画面のどこを見れば何がわかるのか、報酬の重さがどのくらいなのか、優先して把握すべき項目がどれなのか。
そういう“読む感覚”だけは、もう身体に染みついている。
気味が悪いのは、そのゲーム的なものが、現実の白い病室の中に当然のように重なっていることだった。
ついさっきまでベッドの横にいた白石結衣は、ただの立ち絵ではない。
ドジで、素直で、緊張するとすぐ空回りして、それでも目の前の患者にはちゃんと向き合おうとする、現実の人間だ。
手元のわずかな震えも、言葉に詰まるタイミングも、嬉しい時に頬が赤くなるわかりやすさも、全部がゲームの演出じゃなく、本物の人間の反応だった。
神宮寺綾乃も、もちろん同じだ。
好感度が七だろうが、レア度が星五だろうが、あの人はただの高難易度ヒロインじゃない。
夜の病院で、自分の疲れを押し込めたまま患者を診て、見習いの結衣にまで必要な言葉を必要な温度だけで返せる、本物の医師だ。
そして佐倉奈緒も。
危険域だの、注意域だの、イベント進行率だの、そんな表示で軽く扱っていい相手じゃない。
あの人はたぶん、限界が近い。
けれど、その限界を表に出せない。
出したくない。
出したら自分が壊れると思っている。
だから、平気な顔をして働いている。
数字がついているからといって、人間が軽くなるわけじゃない。
むしろ逆だ。
見えてしまう分だけ、重い。
(……だから厄介なんだよな)
湊は、小さく息を吐いた。
その時だった。
病室の入口に、遠慮がちな気配が立った。
「……黒瀬さん」
柔らかい声。
白石結衣だった。
カーテンの隙間から顔を覗かせた彼女は、まだ少しだけ緊張した顔をしていた。だが、最初に出会った時のような、何もかもに慌てている危うさは薄れている。
髪はきちんと整えられていた。
名札も真っ直ぐだった。
制服の袖口も、さっきよりきちんと収まっている。
本人なりに“ちゃんとしよう”としているのが伝わってきて、それだけで少し微笑ましい。
「入っても大丈夫ですか?」
「うん」
「し、失礼します」
結衣は小さなトレーを手に、慎重な足取りでベッドの横へ来た。
トレーの上には、ストロー付きのコップと、小さなタブレット端末が置かれている。端末には記録画面が開かれていて、彼女の指先がときどき不安そうに縁を撫でていた。
落ち着こうとしている。
でも、完全には落ち着けていない。
それが見える。
『《白石結衣》』
『レベル:9』
『レア度:★★★』
『好感度:66%』
『状態:信頼/照れ/責任感』
『感情トレース:安心/緊張小/期待(微)』
『イベント状態:結衣イベントLv.2 解放条件 一部達成』
(……好感度、高いな)
改めて見ると、少し怖い。
六十六パーセント。
ゲームなら、かなり好意的な数値だ。
でも現実でそれを見ると、少し重い。
この数字は、好かれている、という単純な話だけではない。
信頼されている。
気にされている。
こちらの言葉が、相手の内側に残っている。
その証拠でもある。
湊は軽く喉を鳴らした。
(……ちゃんと扱わないと、だよな)
結衣はコップを差し出しながら、少しだけ心配そうに眉を寄せた。
「お水、飲めそうですか?」
「先生からは少しずつなら大丈夫って確認取ってます。急に飲むと気持ち悪くなるかもしれないので、ゆっくりでお願いします」
「ああ。ありがとう」
「いえ……!」
結衣が少しだけ表情を明るくする。
けれど次の瞬間、何かを思い出したように視線を落とした。
トレーの端を握る指に、ほんのわずかに力が入る。
(……まだ、引っかかってるな)
湊はすぐに気づいた。
結衣の心は、今、別の場所に少し引っ張られている。
たぶん、佐倉奈緒のことだ。
「白石さん」
「は、はいっ」
「佐倉さんのこと、気になってる?」
結衣の肩がぴくっと動いた。
あからさまだった。
「え……あ、はい……」
「その、気になるというか……」
「ずっと気になってはいたんですけど、何を言えばいいのかわからなくて……」
言葉を探すように、結衣は視線を落とす。
白い床に、彼女の影が薄く落ちていた。
「佐倉さん、すごくできる人なんです」
「私が何回も同じところでミスした時も、怒るというより、何が原因だったか一緒に確認してくれて」
「忙しいのに、ちゃんと見てくれて」
「だから、私……尊敬してて」
一拍。
「でも最近、何となく……」
「笑ってても、笑ってない感じがする時があって」
その言葉は、不器用だった。
けれど、とても結衣らしい言い方だった。
笑っているのに、笑っていない。
それはたぶん、ステータスや数値が見えていなくても、ちゃんと見ていればわかる変化だ。
結衣はドジで、よく空回る。
でも、人の変化を見ていないわけじゃない。
むしろ、自分に自信がないからこそ、人の顔色や言葉の揺れに敏感なのかもしれない。
「前に、大丈夫ですかって聞いたら」
「“大丈夫だから、自分のことに集中して”って言われて」
「その言い方が、別に冷たかったわけじゃないんです」
「でも……それ以上、言えなくなっちゃって」
結衣は少しだけ苦笑した。
その苦笑は、自分を責める人間の顔だった。
「私、まだ見習いで」
「人の心配する前に、自分の仕事ちゃんとしなきゃいけないのに」
「でも、見えてるのに何もできないのも、嫌で」
「でも、変に踏み込んで迷惑かけるのも怖くて……」
「うん」
湊は、静かに頷いた。
「それ、普通だと思う」
「普通、ですか?」
「たぶん」
「助けたいって思っても、助け方がわからないことってあるだろ」
「特に、相手が“助けて”って言わない人なら、なおさら」
結衣の目が少しだけ揺れた。
「……はい」
「佐倉さん、たぶん“助けてください”が言えない人なんです」
助けてくださいが言えない人。
それは、強い人間という意味ではない。
助けを求める方法を失っている人間だ。
湊は、ほんの少しだけ息を吐く。
「白石さんは、ちゃんと見てるんだな」
「え……?」
「佐倉さんのこと」
「俺より前から、ちゃんと気づいてたんだろ」
「そんな……私は、ただ……」
「ただ、じゃないと思う」
「それ、普通にすごいことだろ」
結衣の頬が、じわりと赤くなった。
「く、黒瀬さんは……」
「なんでそういう言い方を、すぐ……」
「変だった?」
「変じゃないです」
「変じゃないから困るんです」
「困るのか」
「困ります」
「……嬉しくなるので」
最後の一言は、小さかった。
でも、ちゃんと聞こえた。
湊は一瞬だけ返事に詰まる。
結衣は、自分で言ったあとに顔を赤くして、慌てて視線を落とした。トレーを持つ手が少しだけ忙しなく動く。何も落としていないのに、何かを整えようとしているみたいだった。
(……初心者ヒロイン、火力高いな)
胸の奥が少しだけ跳ねる。
こういう素直な好意は、ゲームなら読みやすい。
けれど現実だと、受け止める側の心臓に悪い。
その時、視界に選択肢が浮かんだ。
『【選択肢】』
『A:白石さんも無理しないで、と優しく返す』
『B:また話を聞かせて、と次回へ繋ぐ』
『C:照れ隠しで軽口を言う』
『D:何も言わず水を飲む』
(四択か)
湊は、喉の奥で小さく息を止めた。
Aは安定。
Bは進行。
Cはラブコメ的には悪くないが、今の結衣には少し雑に見えるかもしれない。
Dは逃げだ。
そして今、結衣に必要なのは、ただ褒められることではない。
自分が気づいていたことに意味がある、と認められること。
そして、その気づきを“次”へ繋げることだ。
(なら、B寄り)
でも、Bだけだと少し攻略っぽすぎる。
だから、自分の言葉で少し変える。
「白石さん」
「は、はい」
「今度また、佐倉さんのこと聞かせて」
「それと……白石さんのことも」
「わ、私のこと、ですか……!?」
「うん」
「見習いって、たぶん俺が思ってるよりずっと大変だろ」
「佐倉さんのことも気になるけど、白石さんが無理してたら意味ないし」
結衣の顔が、一気に赤くなった。
耳まで赤い。
わかりやすい。
ものすごくわかりやすい。
「わ、私のことまで気にしなくていいです……!」
「黒瀬さん、患者さんなんですから……!」
「患者だからこそ、見えることもあるだろ」
「それは……」
「そうかも、ですけど……」
「嫌なら聞かない」
「嫌じゃないですっ」
即答だった。
結衣自身も、即答してしまったことに気づいたらしく、さらに頬を赤くした。
「あ……」
「い、嫌じゃ、ないです」
「ただ、その……私の話なんて、そんなに面白くないと思うので……」
「面白いかどうかじゃなくて」
「聞きたいと思ったから」
沈黙。
病室のモニター音が、ピッ、と鳴った。
結衣は、何か言おうとして、言えずに口を閉じた。
目が潤んでいるわけではない。
でも、その目の奥に、確かに何かが揺れていた。
自分の話を聞きたいと言われること。
自分の不安や努力や、うまくできないことに意味があると言われること。
それはきっと、彼女にとって思っている以上に大きい。
『《白石結衣》』
『好感度:66% → 70%』
『状態:信頼/照れ/期待』
『イベント更新:結衣イベントLv.2 解放条件 2/3達成』
『スキル経験値:+10』
『経験値:+20』
『恋愛ポイント:+10』
『現在経験値:160/250』
『スキル経験値:35/250』
『恋愛ポイント:135』
(……上がった)
数字が動く。
経験値も入る。
けれど、レベルアップ表示は出ない。
(レベルアップは、まだか)
それでいい。
毎回簡単に上がるより、積み重ね感がある。
むしろ現実味がある。
結衣は、コップを置き直しながら、少しだけ困ったように笑った。
「黒瀬さんって、ずるいです」
「またそれ?」
「またです」
「だって、そういうふうに言われたら……」
「こっちが、勝手に嬉しくなっちゃうじゃないですか」
「嬉しいなら、いいんじゃないか」
「よくないです」
「患者さんに、そんなに喜ばされる看護師って、どうなんですか……」
「別にいいんじゃないか」
「よくないです」
「たぶん、よくないです」
「でも……」
結衣は、少しだけ視線を逸らした。
「嫌じゃないです」
その言い方が、妙に胸に残った。
湊は言葉を返そうとして、少しだけ迷う。
その時だった。
カーテンが、静かに開いた。
「……楽しそうですね」
低く、落ち着いた声。
神宮寺綾乃だった。
空気が、変わる。
一瞬で。
結衣の背筋がぴんと伸びる。
「せ、先生っ」
綾乃は無駄な動きなく歩み寄る。
白衣が静かに揺れる。
髪は相変わらず乱れなく整っていて、照明の白い光の下で黒が際立っていた。何度見ても顔立ちは整いすぎていて、けれど綺麗さに見惚れるより先に、“簡単には踏み込ませない人だ”という印象が前へ来る。
その視線が、まっすぐ湊へ向けられる。
『《神宮寺綾乃》』
『年齢:28』
『職業:外科医』
『レベル:33』
『レア度:★★★★★』
『好感度:7%』
『状態:観察/警戒/興味(微)』
『感情トレース:疲労小/責任感過多/注意持続』
『特性:理知的/完璧主義/感情抑制/責任感過多』
(……相変わらず硬い)
けれど、前より見える。
《感情トレース》のおかげか、綾乃の奥にある疲労が少しわかる。
隠している。
表には出していない。
でも、完全にないわけじゃない。
彼女もまた、この夜の病院の重さを背負っている。
「黒瀬さん」
「はい」
「簡単な確認をします」
短い。
無駄がない。
「頭痛」
「少しだけです。強くはありません」
「吐き気」
「ないです」
「視界の歪み」
「今のところは」
「右手、動かせますか」
湊は指をゆっくり動かした。
「動きます」
「右足は」
「少し重いですけど、感覚はあります」
「呼吸苦」
「なしです」
綾乃は、わずかに頷いた。
「経過は良好です」
それだけ言う。
だが、その一言に重みがある。
「……ただし」
視線が少し鋭くなる。
「“良好だから問題ない”とは思わないこと」
「……はい」
「回復には段階があります」
「今はまだ“戻り始めた段階”です」
一拍。
「無理をすれば、簡単に崩れます」
静かな警告。
だが、怖くはない。
むしろ――
(ちゃんと見てるな)
という感覚の方が強い。
その時、表示が揺れる。
『【選択肢が表示されます】』
『A:指示に素直に従う』
『B:少し軽く返して距離を縮める』
『C:自分の回復速度について質問する』
『D:佐倉奈緒のことを聞く』
(……Dは早い)
湊は即座に判断する。
今ここで奈緒の話を出せば、綾乃は警戒する。
患者が看護師の精神状態に踏み込むなど、普通に考えれば異常だ。まして綾乃は観察力が高い。下手をすれば、“なぜそこまで気づいているのか”という疑念を生む。
Bも違う。
この人に軽口はまだ早い。
Cは情報としては悪くないが、今の目的ではない。
なら。
(A)
「わかりました」
「無理はしません」
短く、素直に。
綾乃はそれを聞いて、わずかに目を細めた。
「……いい判断です」
それだけだった。
だが、表示は小さく動く。
『神宮寺綾乃』
『好感度:7% → 8%』
『状態:警戒/観察 → 観察/興味(微)』
(硬いな……ほんと)
でも、動いた。
一パーセント。
たった一パーセント。
けれど、綾乃相手ならその一パーセントはかなり重い。
綾乃は次に結衣へ視線を向ける。
「白石さん」
「は、はいっ」
「さっきよりは、動きが安定しています」
「……え?」
「報告も早い」
「確認の順序も崩れていません」
「その調子で」
それだけ。
短い。
あまりにも短い。
でも――
結衣の目が、一気に見開かれた。
「は、はいっ!」
顔が明るくなる。
しかも今度は、ちゃんと受け取っている。
前なら「いえ、そんな、私なんて」と全部打ち消していたかもしれない。だが今の結衣は、少し照れながらも、その言葉を胸の奥にしまい込むように頷いた。
(……綾乃先生なりの褒め方、か)
湊は理解する。
わかりにくい。
でも、確実に届く言葉。
結衣の表示も、柔らかく更新される。
『白石結衣』
『状態:緊張小/達成感/やる気』
『好感度:70% → 72%』
(そっちも上がるのかよ)
思わず笑いそうになる。
綾乃は湊のわずかな表情の変化を見逃さなかったのか、少しだけ視線を細めた。
「何か?」
「いえ」
「白石さん、嬉しそうだなと思って」
結衣が「く、黒瀬さんっ」と小さく抗議するような声を出す。
綾乃は表情を変えない。
だが、ほんのわずかにだけ目元がやわらいだ気がした。
「嬉しいなら、いいことです」
「ただし、浮かれすぎないこと」
「は、はい!」
結衣はまた背筋を伸ばした。
その様子を見て、湊は少しだけ笑いそうになる。
この二人の関係は、思っていたよりも悪くない。
厳しい医師と、未熟な見習い看護師。
怖がっているようで、でもちゃんと信頼がある。
綾乃はわかりにくく支え、結衣は不器用に受け取る。
その間にある距離感が、少しだけ面白かった。
その時だった。
廊下の向こうで、乾いた音が鳴った。
カシャン、と。
金属よりは軽い。
プラスチックか、ボールペンか、クリップ付きのメモ板か。
そんな、小さなものが床へ落ちたときの音。
大した音量ではなかったはずなのに、夜の病院の静けさの中では、その音だけが妙にくっきりと耳へ残った。
結衣が、びくっと肩を揺らす。
「えっ……今の……」
小さな声だった。
だが、その響きには単なる驚き以上のものが混じっていた。
湊も視線を向ける。
カーテンの隙間。
病室の外。
ナースステーションから少し外れた位置。
壁際の、明かりはちゃんと届いているのに、人の流れからほんの少しだけ外れている場所に、一人の看護師がしゃがみ込んでいた。
長めの髪を後ろでまとめた女。
佐倉奈緒だった。
きっちりした印象なのに、今はその輪郭のどこかにかすかな乱れがある。髪の後れ毛が少しだけ頬に張りつき、肩の角度も、白衣の裾の流れも、普段ならもっと整っている人なのだろうと逆にわかる“崩れ方”だった。
拾い上げようとしているのは、たぶんペンだ。
床に落ちたそれを指先で取るだけの、何でもない動作。
何でもないはずの動作。
なのに、その一連の動きが妙に遅い。
膝を曲げるまでに、一拍。
指先が届くまでに、さらにもう一拍。
拾い上げて立ち上がる時には、ほんの一瞬だけ壁に手をついている。
立っていられないほどではない。
倒れそうなわけでもない。
でも。
(……限界、近いな)
その瞬間、視界に赤い文字が割り込む。
『《警告対象を再検知しました》』
『《佐倉奈緒》』
『年齢:26』
『職業:看護師』
『レベル:21』
『レア度:★★★★』
『好感度:12%』
『状態:自己否定/疲労蓄積/精神不安定』
『補足状態:隠蔽傾向/過剰責任感』
『攻略難易度:★★★★☆』
『イベント状態:奈緒イベントLv.1進行中』
『進行率:20%』
『警告:注意域』
『注意:短時間で悪化する可能性あり』
赤い文字列が、夜の白い廊下に冷たく重なる。
前回より“危険域”ではなく“注意域”になっている。
それは、さっきの小さな接触が完全に無駄ではなかったということだろう。
だが、安心できるほどではない。
むしろ、危険域から注意域へ戻しただけ。
まだ、崩れる可能性は十分にある。
(……ああ、最悪だ)
厄介なタイプだと直感する。
こういう人は、簡単には助けを求めない。
自分がしんどいことすら、“言うべきじゃないこと”へ分類する。
頑張るのが当たり前で、できなかった時だけを自分の責任だと思い込む。
周囲に迷惑をかけないことが最優先になっていて、自分が壊れることは後回しになる。
だから、周囲が気づいた時には、かなり深くまで沈んでいることが多い。
しかも、夜の病院で働く看護師だ。
止まれない。
抜けられない。
誰かがすぐに代わってくれるとも限らない。
患者の前で崩れるなんて、本人が一番許せないだろう。
そういう条件が、揃いすぎている。
奈緒は、落としたペンを拾い上げたあとも、すぐには動かなかった。
壁に手をついたまま、ほんの短いあいだだけ俯いている。
息を整えているのか。
気持ちを押し戻しているのか。
それとも、自分の中の“しんどい”を無理やり消してから立ち直ろうとしているのか。
遠目にも、それが“何かを押し殺している時間”だとわかった。
結衣が不安そうに言う。
「佐倉さん……」
綾乃も、廊下の方を見ていた。
表情は変わらない。
でも、視線だけが少しだけ鋭くなっている。
その一瞬、湊の視界に綾乃の表示が浮かんだ。
『神宮寺綾乃』
『感情トレース:苛立ち(対象:自分自身)/責任感/判断保留』
(……自分に苛立ってるのか)
奈緒の異変に気づいている。
だが、簡単には介入できない。
医師という立場。
看護師の業務。
本人のプライド。
チームの空気。
綾乃はきっと、全部見ている。
全部見た上で、最適な距離を探している。
それでも手が届いていないことに、自分自身へ苛立っている。
湊は、そのことを理解した。
「白石さん」
綾乃が短く呼ぶ。
「は、はい」
「ここにいてください」
「佐倉さんの動きは、私が見ます」
「……はい」
結衣は頷いた。
けれど、納得しきれていない顔だった。
何かしたい。
でも、何をすればいいのかわからない。
そのもどかしさが、今の結衣にはある。
湊は、そんな結衣を見て、静かに口を開いた。
「白石さん」
「はい?」
「佐倉さんって、“大丈夫ですか”って聞いたら、たぶん大丈夫って言う人だよな」
結衣が少しだけ目を見開いた。
「……はい」
「たぶん、絶対に言います」
「なら、“大丈夫ですか”以外の言い方が必要なんだろうな」
結衣は、ほんの少しだけ息を呑む。
「……黒瀬さん、やっぱり佐倉さんのこと、気にしてますよね」
「まあ」
「見えたから」
「見えた?」
「あ……いや」
「さっき、廊下で」
危ない。
言い方を間違えた。
結衣は不思議そうに首を傾げたが、深く追及はしなかった。
代わりに、少しだけ困ったように笑う。
「黒瀬さん、ほんとに……」
「自分のことより、人のことばっかり見てますよね」
「そんなことない」
「あります」
「だって今、普通なら自分の体のことで精一杯でもおかしくないのに」
「佐倉さんのことを見て、神宮寺先生のことまで見て」
「私のことまで気にしてくれて」
そこで結衣は、少しだけ声を小さくした。
「そういうところ……すごいと思うけど」
「ちょっと、怖いです」
「怖い?」
「はい」
「黒瀬さん、自分が壊れるまで止まらなそうだから」
その言葉は、胸に刺さった。
湊は何も言えなくなる。
事故の時も、そうだった。
止まらなかった。
止まれなかった。
見捨てる方が嫌だったから。
結果、死んだ。
いや、死にかけた、ではない。
神は確かに言った。
お前は死んだ、と。
その記憶が、喉の奥に冷たいものを残す。
「……白石さん」
「はい」
「たぶん、俺はそこまで良い人じゃない」
「え?」
「見捨てたくないって思うのは、優しさだけじゃないと思う」
「見捨てた後の自分に耐えられないから、動いてるだけかもしれないし」
「誰かのためって言いながら、結局、自分が後悔したくないだけかもしれない」
言葉にしてみると、思ったより苦かった。
自分は善人じゃない。
綺麗なヒーローじゃない。
ただ、見えてしまったものを見なかったことにできないだけだ。
その弱さを、優しさと呼んでいいのか、湊にはまだわからない。
結衣は、じっと湊を見ていた。
そして、少しだけ眉を下げて笑う。
「でも、それで動けるなら」
「私は、やっぱり優しいと思います」
「……そうかな」
「はい」
「少なくとも私は、そう思います」
その声は、揺れていなかった。
不思議だった。
結衣は自分に自信がない。
よく慌てる。
すぐ赤くなる。
なのに、人のことを肯定する時だけ、妙に強い。
その強さが、少しだけ眩しかった。
その時、廊下の向こうで奈緒が顔を上げた。
仕事の顔に戻っている。
壁に手をついていた人間とは思えないほど、歩き方は整っていた。
背筋は伸びている。
足取りも一定。
表情も落ち着いている。
崩れていたものを一瞬で内側へ押し戻し、“何もない看護師”として歩いてくる。
(……切り替えがうますぎるだろ)
それができるから、余計に危ないのだろう。
奈緒は病室の前で立ち止まり、軽くノックした。
「失礼します」
声は穏やかだった。
聞き取りやすい音量。
落ち着いたトーン。
不必要に親しげではなく、かといって冷たくもない。
患者に安心感だけを渡すために最適化された、看護師の声。
結衣がすぐに反応する。
「佐倉さん」
「白石さん、記録確認ありがとう。あとは私が見ます」
奈緒はそう言って、結衣の手元の端末へ一瞬だけ視線を落とした。
「黒瀬さん、体調はいかがですか。痛みやめまい、気持ち悪さはありませんか?」
「あ……今のところは」
「そうですか。今夜は急に起き上がらないようにしてくださいね」
「身体は意識より遅れて反応することがありますから」
丁寧だ。
適切だ。
完璧に近い。
なのに。
赤い表示だけは消えない。
『状態:自己否定/疲労蓄積/精神不安定』
『感情トレース:抑制/焦燥/眠気隠蔽』
外側と内側が完全に分離している。
その異様さに、湊はかえってぞくりとした。
選択肢が浮かぶ。
『【選択肢】』
『A:無理してませんか、と踏み込む』
『B:忙しそうですね、と様子をうかがう』
『C:患者として受け答えに徹する』
『D:仕事ぶりを肯定する』
(……D)
湊は、すぐに思った。
Aはない。
直球すぎる。
今の奈緒は“崩れていることを隠している状態”だ。
そこへいきなり触れれば、防御反応が出る。
患者からそんなことを言われたら、“見られている”不快感の方が先に立つ可能性すらある。
Bも悪くない。
けれど、少し踏み込み方が粗い。
“忙しそう”は、相手の状態を指摘している言葉だ。
奈緒みたいなタイプは、それだけで警戒する。
Cは安全。
でも、それではイベントが進まない。
なら。
心配ではなく、肯定。
疲れていることではなく、ちゃんと届いている仕事ぶりを言葉にする。
それなら、奈緒の防御を大きく刺激せずに触れられる。
湊は、喉を一度だけ鳴らした。
「……佐倉さん」
「はい」
「さっきから、声が落ち着いてるなって思ってました」
奈緒の手が、ごくわずかに止まった。
結衣も、綾乃も、こちらを見る。
湊は続けた。
「いや、その……」
「俺、まだ病院とか、自分の身体とか、正直よくわかってなくて」
「急に起きて、検査とか説明とか、いろいろあって」
「頭の中、ずっと変な感じなんですけど」
一拍。
「佐倉さんに声かけられると」
「少し、呼吸が楽になる感じがします」
奈緒の表情は、大きく変わらなかった。
だが、目だけが一瞬止まった。
「……私の声、ですか?」
「はい」
「仕事だからそうしてるのかもしれないですけど」
「落ち着く声です」
言ってから、少しだけ気まずくなる。
現実でこういうことを言うのは慣れていない。
ゲームなら、選択肢を押すだけだ。
だが現実では、自分の声で、自分の顔で、相手へ届く形にしなければならない。
その生々しさが、少し恥ずかしい。
しかし、奈緒の反応は予想よりずっと静かだった。
彼女は数秒だけ沈黙して、それから薄く笑った。
看護師としての笑み。
だが、その奥に、ほんのわずかな戸惑いがあった。
「……ありがとうございます」
「でも、私は特別なことはしていません」
「患者さんが不安にならないように話すのは、看護師として当然のことです」
模範解答。
でも、今度は少しだけ違った。
さっきまでの“何もない返事”より、声の奥がほんの少しだけ揺れている。
湊はそこを逃さなかった。
「当然でも」
「助かるものは、助かるので」
短く。
押しつけないように。
でも、取り消さないように。
奈緒の瞳が、ほんのわずかに揺れた。
その揺れは、言葉にすればきっと小さい。
でも、湊の視界でははっきり表示されていた。
『佐倉奈緒』
『状態:自己否定/疲労蓄積/精神不安定 → 疲労蓄積/警戒/戸惑い』
『好感度:12% → 14%』
『奈緒イベントLv.1』
『進行率:20% → 32%』
『警告:注意域 継続』
『本音:未解放』
(……よし)
小さい。
たった二パーセント。
進行率も三十二。
でも、確かに動いた。
しかも、警戒はある。
だが、“自己否定”が一瞬だけ表から引いた。
それだけでも、意味がある。
奈緒は端末に記録を入れながら、静かな声で言った。
「眠れない時は、無理に目を閉じ続けなくても大丈夫です」
「病院の夜は、慣れない方には長く感じますから」
「長いですね」
「かなり」
「そうでしょうね」
奈緒は淡々と頷いた。
「でも、夜は必ず明けます」
「当たり前のことですが」
「病院で不安になる方には、その当たり前が意外と支えになります」
その言葉は、患者に向けられた説明だった。
でも、湊には少しだけ違って聞こえた。
夜は必ず明ける。
それはきっと、奈緒自身が自分に言い聞かせている言葉でもある。
夜勤の長さ。
疲労。
終わらない仕事。
言えない弱音。
それでも朝は来る。
だから、そこまで持たせる。
そのための言葉。
(……この人、自分にも同じこと言ってるんだろうな)
湊は、そう思った。
奈緒が一礼し、病室を出ようとする。
その瞬間。
足元が、ほんのわずかに揺れた。
誰が見ても転びそうというほどではない。
でも、湊の目にははっきり映った。
重心が、一瞬だけ流れた。
結衣も気づいたらしい。
「佐倉さん?」
「……大丈夫」
奈緒は即答する。
「少し立ちっぱなしだっただけ」
そう言いながらも、呼吸はほんの少しだけ浅い。
(……大丈夫じゃないだろ)
だが、今ここで追うのは違う。
さっきの反応を見る限り、今はこれ以上踏み込むと硬化する。
綾乃も同じ判断をしたのか、口を開かなかった。
ただ、奈緒の背中を見送る視線だけが少し鋭い。
奈緒はそのまま出ていった。
白衣の裾がカーテンの向こうへ消える。
足音が遠ざかる。
静けさが戻る。
湊は天井を見上げた。
白い。
何も変わらない、病院の白。
でも自分の中では、はっきりと何かが動いていた。
(届いたわけじゃない)
わかっている。
(でも、拒絶されなかった)
それで十分だ。
今はまだ、入口だけでいい。
大事なのは、次があることだ。
結衣が、おずおずと口を開く。
「……黒瀬さん」
「ん?」
「さっきの、佐倉さんに言ったこと……」
少し言いづらそうに視線を揺らしながら、
「その……すごく、良かったと思います」
「そう?」
「はい」
「たぶん、“大丈夫ですか”だったら、佐倉さんは大丈夫って言って終わってたと思います」
「でも今のは……」
「佐倉さんのしんどさじゃなくて、佐倉さんがちゃんとやってることを見てた言葉だったから」
湊は少し驚いた。
結衣がそこまで言語化できると思っていなかった。
いや、違う。
見くびっていたのかもしれない。
この子は、自分に自信がないだけだ。
人のことは、ちゃんと見ている。
湊は静かに頷いた。
「白石さんのヒントがあったからな」
「え?」
「“大丈夫ですか”って聞いても、大丈夫って言う人だって」
「あれ、かなり助かった」
結衣の頬が少しだけ赤くなる。
「い、いえ……」
「私、そんな大したことは……」
「ある」
「俺ひとりだったら、たぶん普通に聞いてた」
「で、失敗してたと思う」
結衣は、目をぱちぱちさせた。
それから、少しだけ嬉しそうに笑う。
「……黒瀬さん、そういうところ、ずるいです」
「今日、それ何回目だよ」
「何回でも言います」
「ちゃんと人の言葉を受け取って返してくれるところ」
「それ、たぶん……すごく大きいので」
その言葉に、湊は少しだけ黙った。
人の言葉を受け取って返す。
それは、簡単なようで案外難しい。
自分も昔はできていたのかもしれない。けれど、現実の恋愛で傷ついてからは、たぶんずっと、そこを怖がっていた。
受け取ったら、返さなきゃいけない。
返したら、また何かが動く。
それが怖くて、ずっと距離を取ってきた。
なのに今は、スキルが見せる数字や状態のせいで、逆に真正面から人の感情に触ることになっている。
皮肉だな、と思う。
恋愛をゲームにしたくて手に入れた力なのに、やっていることはむしろ、人間の面倒くささに向き合うことばかりだ。
その時、綾乃が静かに言った。
「黒瀬さん」
「はい」
「今の言葉は、悪くありませんでした」
湊は、少しだけ目を見開いた。
綾乃がそんなふうに言うとは思わなかった。
「ただし」
やっぱり続きがあった。
「次からは慎重に」
「佐倉さんは、心配されることを負担に感じる段階です」
「褒め言葉も、角度を間違えれば“期待”としてのしかかります」
「……はい」
「助けることと、介入することは違います」
「相手の荷物を勝手に持とうとすることが、必ずしも救いになるとは限りません」
静かな声だった。
だが、その言葉は深いところへ落ちた。
助けることと、介入することは違う。
良かれと思って踏み込んだ結果、相手の立場や呼吸を壊すことだってある。
奈緒みたいに、今ぎりぎりの形で自分を保っている相手なら、なおさらだ。
だから必要なのは、正しい優しさじゃない。
相手にとって邪魔にならない形の優しさだ。
「……難しいですね」
湊が言うと、綾乃はほんのわずかに息を吐いた。
「簡単なら、誰も苦労しません」
その声には、本当に少しだけ疲れが混じっていた。
湊はその疲れに気づいてしまう。
綾乃もまた、全部を背負っている。
奈緒のことも。
結衣のことも。
患者のことも。
自分自身の疲れも。
たぶん、この人は“自分は大丈夫”と言ってしまう側の人間だ。
奈緒とは別の形で、抱え込む人間。
湊の視界に、また選択肢が浮かんだ。
『【選択肢】』
『A:神宮寺先生も無理しないでください、と言う』
『B:ありがとうございます、とだけ返す』
『C:佐倉さんを助けたい、と宣言する』
『D:白石さんを褒めて話題を逸らす』
(……Aは危ない)
綾乃にそれを言うのは、今はまだ早い。
この人は、自分の弱さに触れられるのを嫌う。
Cは論外だ。
患者がそんな宣言をしても、警戒されるだけ。
Dも違う。
逃げになる。
なら。
(B)
「ありがとうございます」
「覚えておきます」
それだけ言った。
綾乃は数秒、湊を見た。
そして、小さく頷く。
「それで十分です」
『神宮寺綾乃』
『好感度:8% → 9%』
『状態:観察/興味(微)』
(……一パーセント)
でも、上がった。
綾乃はそれ以上何も言わず、カーテンの外へ出ていった。
結衣も次の業務へ戻る時間だったのだろう。トレーを持ち直し、少し名残惜しそうに湊を見る。
「黒瀬さん」
「ん?」
「本当に、無理はしないでくださいね」
「わかってる」
「……たぶん、わかってないです」
「そんなに?」
「はい。だいぶ」
即答だった。
少しだけ空気がやわらぐ。
結衣は小さく笑い、それから真面目な顔になる。
「でも」
「何か考える時、ひとりで全部抱え込まないでください」
「私でよければ……その、話くらいは聞けるので」
その声は、少し震えていた。
でも、ちゃんと前を向いていた。
湊は、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
「じゃあ、また話聞いて」
「はい……!」
結衣は嬉しそうに笑った。
『白石結衣』
『好感度:72% → 74%』
『状態:信頼/期待/照れ』
『イベント更新:結衣イベントLv.2 解放条件 3/3達成』
『《白石結衣 結衣イベントLv.2が解放されました》』
『解放イベント:結衣イベントLv.2』
『副題:白衣の裏側と、見習いの本音』
『開始条件:一般病棟移動後、夕方以降』
(……来た)
結衣イベントLv.2解放。
ただし、開始条件は一般病棟移動後。
つまり、今すぐではない。
ちゃんと段階がある。
湊は内心で頷いた。
そして同時に、別の表示が静かに浮かび上がる。
『《佐倉奈緒 奈緒イベントLv.1》』
『進行率:20% → 35%』
『状態:注意域 継続』
『本音:未解放』
『報酬』
『経験値:+35』
『スキル経験値:+20』
『恋愛ポイント:+15』
『現在経験値:195/250』
『現在スキル経験値:55/250』
『現在恋愛ポイント:150』
『レベルアップ条件:未達成』
『スキルレベルアップ条件:未達成』
(……まだ上がらないか)
でも、かなり近づいている。
経験値は百九十五。
あと五十五でレベルアップ。
スキル経験値は五十五。
こちらはまだ遠い。
毎回都合よくレベルが上がるわけではない。
それが逆に、現実に馴染んでいる気がした。
結衣が病室を出ていく。
カーテンが閉じる。
白い空間が戻る。
湊は、ひとりになった病室でゆっくりと息を吐いた。
白い天井。
白い壁。
窓の外の夜。
遠くの足音。
ナースステーションの低い気配。
世界は相変わらず病院のままだ。
でも、自分の中は少しずつ変わっている。
白石結衣は、もうただのチュートリアル相手ではない。
ちゃんと結衣イベントLv.2へ続く相手になった。
佐倉奈緒は、まだ届かない。
けれど、奈緒イベントLv.1は確かに進んでいる。
拒絶されなかった。
神宮寺綾乃は、相変わらず遠い。
でも、こちらの選択を少しだけ認めた。
そして。
視界の端に、さらに別の表示が浮かんだ。
今までよりも薄い。
まるで、まだ開いてはいけない扉の向こうから漏れてくる光のような表示。
『《未解放イベント》』
『対象:白峰紗雪』
『状態:面会希望/罪悪感/感謝』
『現在位置:病院内別区域』
『イベント解放条件:一般病棟への移動』
『注意:現在は面会制限により接触不可』
(……白峰、紗雪)
湊は、その名前を見つめた。
聞き覚えはない。
だが、すぐに理解する。
自分が助けた女性。
事故の夜、横断歩道でスマートフォンを落とし、車に轢かれかけていた人。
彼女の名前だ。
白峰紗雪。
今はまだ会えない。
重傷患者である湊は、面会制限もある。
身内でもない相手がICUや管理病棟へ自由に来られる方がおかしい。
だから、接触は一般病棟へ移ってから。
筋は通っている。
通っているのに――。
(罪悪感、か)
その一語が、少しだけ胸に残った。
感謝だけなら、まだわかる。
けれど罪悪感。
助かった側の罪悪感。
自分が助かった代わりに、誰かが死にかけたという重さ。
それを、彼女は抱えている。
また、重いイベントが増えた。
湊は薄く苦笑する。
(病院ステージ、序盤から重すぎるだろ)
でも、目は離せなかった。
結衣。
奈緒。
綾乃。
家族。
白峰紗雪。
それぞれの感情が、白い病院の夜の中で、静かに動き始めている。
これはもう、ただ恋愛を楽にするゲームではない。
誰を見るか。
誰に関わるか。
誰を助けようとするか。
その責任ごと、押しつけてくる現実だ。
湊はもう一度だけ、カーテンの向こうを見た。
夜の病院はまだ起きている。
誰かが働いていて、誰かが痛みに耐えていて、誰かが眠れず、誰かが笑顔を作っている。
その白い空間のあちこちで、見えないイベントが進んでいる。
その中で、自分はどこに踏み込むのか。
どこまで関わるのか。
そして――誰を助けるという選択を、どこまで引き受けるのか。
視界の端で、青白い表示が小さく明滅する。
『次の選択に備えてください』
その文字を見つめながら、湊は細く息を吐いた。
もう、知らないふりはできない。
見えてしまった以上。
関わってしまった以上。
この病院ステージは、思っていたよりずっと重くて、ずっと面白かった。
そして、次に来る選択肢は。
きっと今までよりも、さらに深く踏み込むものになる。




