第4話 やさしい選択肢
病室の中に、ゆっくりとした時間が流れていた。
白い天井。
白い壁。
白いシーツ。
白いカーテン。
白い照明。
どこを見ても同じ色に塗りつぶされたような空間の中で、心電図モニターの電子音だけが、一定のリズムで現実を刻み続けている。
ピッ、ピッ、と。
その単調な音が、妙に鮮明だった。
昼間には気づかなかった細かな音まで、今はやけにはっきり耳に入ってくる。
空調の風が天井の吹き出し口を抜けるかすかな擦れ音。
廊下の向こうを通るカートの車輪の低い振動。
遠くのナースステーションから微かに聞こえる、端末のキーを叩く乾いた連打。
病院という場所が巨大な機械のように、休むことなく、正確に、淡々と動き続けていることを思い知らせる音だった。
(……静かすぎるな)
さっきまでここには、家族がいた。
母の涙。
妹の強がり。
父の短い言葉。
全部が一気に押し寄せて、そして嵐みたいに過ぎていった。
今は、その余韻だけが残っている。
静かなのに、どこか満ちているような空気。
人がいた場所にだけ残る温度。
言葉が終わった後なのに、まだ何かが部屋の中に漂っているような感覚。
湊はベッドの上で浅く息を吐いた。
身体はまだ本調子じゃない。
表面の痛みは抑えられているが、少し姿勢を変えるだけで、肋のあたりや肩口、腰の奥に鈍い重さが走る。
怪我そのものは消えていない。
ただ、命に届くほどの鋭さを失って、深い場所へ沈んでいるだけだ。
それでも意識は驚くほどはっきりしていた。
いや、正確には、事故の前より変な意味ではっきりしている。
人の気配。
声の揺れ。
言葉の間。
そして、自分の視界にだけ浮かび上がる、あまりにも現実離れした半透明の表示。
湊が軽く瞬きをすると、視界の端に青白いウィンドウが浮かび上がった。
『《現在ステータス》』
『黒瀬湊』
『レベル:2』
『経験値:18/250』
『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』
『スキルレベル:2』
『スキル経験値:84/150』
『恋愛ポイント:60』
『所持アイテム』
・母の安堵×1
・妹の涙×1
・父の不器用な頷き×1
『進行中イベント』
・白石結衣イベント
・妹イベント
・父イベント
・病院ステージ本編
・命を救われた女性《ロック中》
(……並列処理、完全にゲーム仕様だな)
思わず、口元に薄く苦笑が滲んだ。
恋愛ゲームなら普通だ。
複数ヒロイン同時進行なんて当たり前。
メインシナリオを走りながら個別イベントを挟んで、条件を踏み外さないようにサブイベントも拾い、特定タイミングでフラグを回収していく。
そういう“整理された面倒くささ”は、湊にとってはむしろ慣れたものだった。
でも、これは現実だ。
しかも対象が――。
(看護師と家族って、どういうゲームだよ)
軽く頭を振る。
だが、思考はすぐに切り替わる。
これが今の自分の“仕様”だ。
なら、使うしかない。
現実がどうであれ、自分の目にはもうこう見えてしまう。
だったら拒否するより、読んで、考えて、選んだ方がいい。
何も見えなかった頃みたいに、勘違いしたまま突っ走って、全部終わった後で「そうじゃなかった」と知らされるよりは、ずっとましだ。
そう思った瞬間、胸の奥に少しだけ苦いものが沈む。
便利だ。
あまりにも便利だ。
だからこそ、怖い。
自分は今、目の前の相手をちゃんと人間として見ているのか。
それとも、数値とイベント名と選択肢の集合として見始めているのか。
その境界が、時々ひどく曖昧になる。
あの神々は、きっとこういう気分で人間を見ていたのだろうか。
恋も、涙も、怒りも、家族の心配も、全部“観測対象”として眺めていたのだろうか。
(……それは、嫌だな)
湊は、ゆっくりと息を吐く。
嫌だと思えるうちは、まだ大丈夫。
そう思うことにした。
その時。
「あ、あの……黒瀬さん」
控えめな声。
カーテンの向こうで、柔らかな気配が揺れた。
白石結衣が、再びベッドの横に立っていた。
小さなトレーを両手で持ちながら、少しだけ覗き込むようにして立っている。
昨日よりも髪の跳ねは少ない。
制服もきちんと整えている。
名札も真っ直ぐだ。
本人なりに「今日はちゃんとしよう」と思って来たのが伝わってくる。
でも、その真っ直ぐな名札を見た瞬間、湊は少しだけ笑いそうになった。
前回は曲がっていた。
今日は真っ直ぐ。
たったそれだけのことなのに、妙に結衣らしかった。
「お水……今なら、少し飲めそうですか?」
声はまだ遠慮がちだ。
だが、昨日のような完全な空回りではない。
「ああ、うん。頼む」
「は、はいっ」
結衣はほっとしたように笑った。
けれど、その笑顔にはまだ少し硬さがある。
手元も微妙に落ち着かない。
視線も、ほんの少しだけ泳いでいる。
“元気なふりをしている人間”特有の微妙な硬さが残っていた。
その瞬間、表示が浮かぶ。
『《白石結衣》』
『年齢:20』
『職業:見習い看護師』
『レベル:7』
『レア度:★★』
『好感度:34%』
『状態:安心/好印象/小さな自信』
『状態補足:自己評価不安定/褒め言葉に弱い』
『特性:素直/努力家/自己評価が低い』
『進行中イベント:この場にいる意味』
(……まだ三十四か)
湊は内心で数値を確認する。
第3話の終わりから大きくは変わっていない。
結衣は確かに少し前に進んだ。
でも、まだ“自信が根づいた”わけじゃない。
昨日と今日で積み上げた安心感を、“一時的な救い”じゃなく、“本人の自信”に変えるには、もう少し必要だ。
結衣みたいなタイプは、すぐ揺り戻す。
少し気持ちが楽になっても、次に先輩に一言注意されたり、自分で小さなミスを見つけたりした瞬間に、「やっぱり私はだめだ」に戻ってしまう。
つまり今必要なのは、慰めじゃない。
“実感”だ。
自分はちゃんと役に立っていた。
それを患者本人が覚えている。
しかも、その場しのぎじゃなく、具体的に見ていた。
そこまで伝われば、おそらく結衣は一段だけ前へ行ける。
結衣はストロー付きのコップを差し出す。
「ゆっくりで大丈夫ですからね」
「まだ、一気に飲むのはきついかもしれないので……あっ、でも、飲みにくかったらすぐ言ってください」
「角度とか、変えますから」
「ああ」
湊は少しだけ上体を起こそうとして、肋の奥に鈍い痛みが走った。
「……っ」
「く、黒瀬さん!?」
結衣の顔色が変わる。
すぐにトレーを置き、ベッド脇へ近づく。
動きは早い。
でも、昨日より慌てすぎてはいない。
「無理に起き上がらなくて大丈夫です」
「私が支えます」
「あ、でも触りますね。痛かったらすぐ言ってください」
そう言って、結衣は湊の肩の下にそっと手を入れた。
その手つきはまだ少しぎこちない。
けれど、雑ではなかった。
怖がっている。
失敗したくないと思っている。
でも、ちゃんと患者を楽にしようとしている。
その真剣さが、触れられた肩越しに伝わってくる。
(……こういうところなんだろうな)
湊は思う。
結衣は完璧ではない。
でも、手を抜かない。
怖くても逃げない。
患者に触れる時、ちゃんと緊張している。
それは、相手を“作業”にしていないということでもある。
コップのストローが口元に近づく。
湊は少しだけ水を含んだ。
冷たい。
喉の奥へゆっくり流れていく。
それだけで、体が少し現実へ戻ってくる気がした。
「……助かる」
湊が小さく言うと、結衣の肩から力が抜けた。
「よかったです……」
その声に、心底の安堵が混じっている。
その瞬間、選択肢が表示された。
『【選択肢が表示されます】』
『対象:白石結衣』
『A:さっきの手つき、安心できたと伝える』
『B:水がおいしいと軽く笑う』
『C:もっと自信を持てと強めに励ます』
『D:何も言わず、休む』
(……来た)
湊は視界の端で選択肢を読む。
Aは具体的な肯定。
Bは軽い空気作り。
Cは強いが、今の結衣には負担になる可能性がある。
Dは安全だが、イベントは進まない。
(Aだな)
今必要なのは、ふわっとした褒め言葉じゃない。
具体的な肯定。
何が良かったのか。
どう安心できたのか。
そこを伝えること。
湊は少し息を整えてから、言った。
「白石さん」
「は、はい」
「今の、安心できた」
「え?」
「肩、支えてくれた時」
「痛いところに気をつけてくれてるの、わかったから」
「だから……普通に、安心できた」
結衣の動きが止まった。
まるで予想していなかった場所に言葉を置かれたみたいに、目を丸くする。
「……そ、そんな」
「私、まだ全然で……手つきも、たぶん先輩たちに比べたらぎこちないですし……」
「先生にも、もっと落ち着いてって何度も言われてますし……」
「でも、雑じゃなかった」
湊は遮るように、けれど強すぎない声で続けた。
「それ、けっこう大事だと思う」
「俺、今、体あちこち痛いから」
「適当に動かされたら、たぶんすぐわかる」
そこで少しだけ笑う。
「でも、白石さんのは怖くなかった」
「ちゃんと気をつけてくれてる感じがした」
結衣の唇が、小さく震えた。
言い返そうとして、言葉が見つからない。
否定したい。
でも、否定しきれない。
患者本人がそう言っている。
自分の手つきが、少なくとも目の前の人を安心させた。
それは、教科書の評価でも、先輩の指導でもなく、患者から直接返ってきた実感だった。
「……そう、ですか」
「うん」
「……ほんとに?」
「ほんと」
「お世辞とかじゃなくて?」
「この状態でお世辞言う余裕、あんまりない」
「そ、それはそうかもしれないですけど……!」
結衣は少しだけ頬を赤くした。
困ったように笑う。
でもその笑顔は、さっきより柔らかい。
「……ずるいです」
「何が?」
「そういう言い方……」
「患者さんに言われたら、嬉しくなるに決まってるじゃないですか……」
小さく笑う。
でもその笑顔は、もう崩れていない。
しっかりとした、自分のものだった。
「だったら、嬉しくなればいいだろ」
「……もう」
「黒瀬さんって、たまにすごく困る言い方しますよね」
「困る?」
「はい」
「なんか……受け取らないと失礼かなって思うくらい、まっすぐ言うので」
「それ、褒めてる?」
「……たぶん」
結衣は照れたように視線を落とす。
その瞬間、ウィンドウが淡く光った。
『白石結衣』
『好感度:34% → 39%』
『状態:小さな自信 → 自信の芽生え』
『イベント《この場にいる意味》進行度:70% → 85%』
『黒瀬湊』
『経験値:18/250 → 38/250』
『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』
『スキル経験値:84/150 → 104/150』
『恋愛ポイント:60 → 70』
『アイテム獲得:結衣の小さな自信×1』
(……完全攻略ではない、か)
湊は表示を見て、逆に少し安心した。
一気に終わらない。
それでいい。
結衣の自信は、たった一言で完成するものではない。
今は芽が出たくらいでいい。
その方が現実らしい。
結衣はまだ少し照れたまま、でもしっかりとした声で言う。
「……ありがとうございます」
「ん?」
「その……ちゃんと見てくれて」
「しかも、ああいうふうに言ってくれて」
小さく、でもまっすぐに。
「嬉しかったです」
(……これは)
少しだけドキッとする。
ストレートすぎる。
初心者ヒロイン、強い。
ゲームだと、こういう子は最初に好感度がぐっと伸びる分、あとで“自分ばっかり舞い上がってたかも”って不安に落ちるターンも来る。
だからこそ、今の一言は大事に受け取らなきゃいけない。
「そっか」
それだけ返すのが精一杯だった。
結衣は少しだけもじもじしながら、ストローの位置を整える。
「……黒瀬さんって、なんか……」
「思ったより、ちゃんと人のこと見てますよね」
「思ったより、って何だよ」
「え、あっ、すみません、変な意味じゃなくて……!」
「なんていうか、その、最初に見た時は、もう少し……」
「もう少し?」
「……無口で、近寄りにくい感じなのかなって」
結衣は言い終えてから慌てて付け足す。
「で、でも今は違います!」
「今は全然そんなことなくて、その、むしろ……」
「むしろ?」
「……優しいです」
最後だけ、声が小さい。
だが、しっかり聞こえた。
その一言のあと、病室に少しだけ気まずい沈黙が落ちる。
でも嫌な沈黙じゃない。
むしろ、互いに相手の言葉をどう受け取るか、少し慎重になっているような空気だった。
その時だった。
カーテンが、静かに開いた。
「……楽しそうですね」
低く、落ち着いた声。
神宮寺綾乃だった。
空気が、変わる。
一瞬で。
結衣の背筋がぴんと伸びる。
「せ、先生っ」
綾乃は無駄な動きなく歩み寄る。
白衣が静かに揺れる。
髪は相変わらず乱れなく整っていて、照明の白い光の下で黒が際立っていた。
何度見ても顔立ちは整いすぎていて、けれど綺麗さに見惚れるより先に、“簡単には踏み込ませない人だ”という印象が前へ来る。
その視線が、まっすぐ湊へ向けられる。
『《神宮寺綾乃》』
『年齢:28』
『職業:外科医』
『レベル:32』
『レア度:★★★★★』
『好感度:4%』
『状態:観察/違和感(微)/興味(微)』
『特性:理知的/完璧主義/感情抑制/責任感過多』
(……相変わらず硬いな)
だが、前より少し違う。
“興味”が残っている。
好感度は動かない。
でも、状態には変化がある。
この人は、たぶんそういう相手だ。
好き嫌いではなく、観察対象として、異常値として、少しずつこちらを見ている。
「黒瀬さん」
「はい」
「簡単な確認をします」
短い。
無駄がない。
「手、動かせますか」
湊は指を動かす。
「問題なさそうです」
「足は」
「少し重いですけど、動きます」
「頭痛」
「少しだけ。強くはないです」
「吐き気」
「ないです」
「視界の歪み」
「今のところは」
綾乃は一瞬だけ頷く。
質問は短いが、順序が正確だ。
事故患者への確認として必要な項目だけを、迷いなく切り出している。
「経過は良好です」
それだけ言う。
だが、その一言に重みがある。
「……ただし」
視線が少し鋭くなる。
「“良好だから問題ない”とは思わないこと」
「……はい」
「回復には段階があります」
「今はまだ“戻り始めた段階”です」
一拍。
「無理をすれば、簡単に崩れます」
静かな警告。
だが、怖くはない。
むしろ――。
(ちゃんと見てるな)
という感覚の方が強い。
その時、表示が揺れる。
『【選択肢が表示されます】』
『対象:神宮寺綾乃』
『A:指示に素直に従う』
『B:少し軽く返して距離を縮める』
『C:今の自分の状態を追加で伝える』
『D:心配してくれているのかと尋ねる』
(……これは)
少しだけ考える。
だが結論はすぐ出る。
(今はまだ、攻める段階じゃない)
この相手は、段階を飛ばすと即アウトだ。
それに、今は“患者としての信用”を積むフェーズだ。
ここで無理に軽口へ寄せると、せっかく残っている興味が“軽薄”に変わる可能性がある。
ただ、Aだけだと完全に受け身だ。
Cを混ぜる。
自分の状態を正確に伝える。
それが綾乃に対する今の正解だ。
「わかりました。無理はしません」
「あと、今のところ痛みは増えてません」
「さっき水を飲む時に少し肋のあたりが重かったですけど、息苦しさが強くなった感じはないです」
綾乃の目が、わずかに細くなる。
「……いい判断です」
短い一言。
でも、そこには確かに評価があった。
『神宮寺綾乃』
『好感度:4%』
『状態:観察/違和感(微)/興味(微)』
『評価:情報提供を確認』
『黒瀬湊』
『経験値:38/250 → 45/250』
『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』
『スキル経験値:104/150 → 111/150』
『恋愛ポイント:70 → 72』
(好感度、動かないか)
けれど、それでいい。
この人は、そういう相手だ。
正解を踏んでも、簡単には届かない。
綾乃は湊から視線を外し、結衣へ向き直った。
「白石さん」
「は、はいっ」
「水分介助の判断は適切です」
「ただし、上体を起こす時の支えはもう少し低い位置から。肩だけを支えると、肋部に負担がかかります」
「は、はい……!」
結衣の顔が少しだけ強張る。
注意された。
その反射的な痛みが、表情に出る。
だが、綾乃は続けた。
「でも、患者さんの反応を確認しながら動けていました」
「そこは良くなっています」
「……え?」
「その調子で」
それだけ。
だが――。
結衣の目が一気に見開かれる。
「は、はいっ!」
顔が明るくなる。
しかも今度は、さっきよりちゃんと受け取っている。
注意と評価。
両方をもらったからだ。
(……なるほどな)
湊は理解する。
この人なりの“褒め方”だ。
わかりにくいが、確実に届く言葉。
『白石結衣』
『好感度:39% → 42%』
『状態:自信の芽生え/緊張/嬉しい』
『結衣イベント《この場にいる意味》進行度:85% → 90%』
『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』
『スキル経験値:111/150 → 116/150』
『恋愛ポイント:72 → 75』
(そっちも上がるのかよ)
思わず笑いそうになる。
綾乃はそのまま病室を出ていった。
静けさが戻る。
結衣はまだ少しぼーっとしていた。
「……先生に、褒められた……」
「よかったじゃん」
「はい……!」
その笑顔は、さっきよりずっと自然だった。
照れもある。
でもそれ以上に、胸を張っていいんだという実感がそこにあった。
その時だった。
新しいウィンドウが開く。
『《イベント更新》』
『白石結衣イベントLv.1』
『進行度:90%』
『状態:継続中』
『黒瀬家 信頼イベント』
『ミニイベント発生』
『対象を選択してください』
『A:黒瀬美咲』
『B:黒瀬ひなた』
『C:黒瀬恒一』
『D:保留する』
(……来たな)
家族イベント。
次の段階。
母親と妹については、今日の時点で無理に何かを進める必要はない。
状態も安定寄りだ。
過剰に働きかけると、むしろ“不自然に気を遣っている”と映る可能性がある。
だから今回は、父だ。
最も距離がある。
最も変化が見えにくい。
でも、少し触れただけで関係が変わる余地がある。
(全部、一気には無理だな)
(優先順位をつける)
そう考えたところで、結衣が小さく首を傾げた。
「黒瀬さん?」
「ん?」
「さっきから、ときどき急に難しい顔しますよね」
ぎくりとする。
だが、表には出さない。
「……まだちょっと、頭の中整理してるだけ」
「そっか……」
結衣はそこで少しだけ考えてから、ふわっと笑った。
「でも、あんまり一人で考え込みすぎないでくださいね」
「え」
「その、さっきから見てると……」
「黒瀬さん、平気そうに見せるのは上手いのに、ほんとは結構いろいろ考え込むタイプっぽいので」
(……鋭いな、この人)
初心者ヒロインっぽいのに、見るところは見ている。
「白石さん」
「はい?」
「それ、誰にでも言ってる?」
「言ってませんよっ」
顔を赤くして即答する。
「ちゃんと見て、思ったから言ったんです」
その言葉が、妙に真っ直ぐで。
少しだけ胸の奥に残る。
その時、表示が小さく更新される。
『白石結衣』
『好感度:42% → 44%』
『状態:自信の芽生え/信頼/特別視(微)』
(……うわ)
結衣イベントLv.1はまだ終わっていない。
けれど、それで関係が止まるわけじゃない。
イベント進行は、終わりじゃなくて積み重なりだ。
そういうことらしい。
「……ありがとうございます」
湊は、少しだけ真面目に返した。
「はい」
結衣は嬉しそうに笑う。
その笑顔には、もう最初の頃みたいな不安定さは少ない。
ちゃんと、自分の立ち位置を掴み始めている顔だった。
やがて結衣は次の業務のために病室を出ていった。
そして、夕方。
病室の明かりが少し落とされ、窓の外の色が白から淡い灰色へ変わる頃。
湊はベッドの上で、スマートフォンを持っていた。
母と妹には今日はもう十分だ。
母にはこれ以上安心を重ねるより、休んでもらう方が先。
妹には、変に言葉を重ねると照れて逆効果の可能性がある。
だから、父。
短い言葉でいい。
この人には、それが合う。
(……問題は、どう書くか)
《恋愛選択肢表示》は、家族相手には“信頼イベント”として働いている。
だから重要なのは、感情の派手さじゃない。
“ちゃんと届く形”だ。
画面の上に、半透明の選択肢が浮かぶ。
『【選択肢が表示されます】』
『対象:黒瀬恒一』
『A:昨日、来てくれて助かった。ありがとう』
『B:心配かけてごめん。もう大丈夫』
『C:父さんも無理しないで』
『D:何も送らない』
(……Bは、たぶん違う)
もう大丈夫。
それは父を安心させる言葉に見える。
でも、今の状態で言えば嘘に近い。
まだ大丈夫ではない。
父は、そういう嘘っぽい安心を好まない気がした。
Cは優しい。
だが、父に向けるには少し柔らかすぎる。
Dは、いつも通りだ。
でも、いつも通りで流すには、今回のことは大きすぎる。
(Aだ)
短い。
余計な飾りがない。
ちゃんと言えていなかった礼を伝える。
それでいい。
湊は指を動かした。
『昨日、来てくれて助かった』
『ちゃんと言えてなかったから』
『ありがとう』
送信。
直後、表示が揺れる。
『黒瀬恒一』
『信頼値:65% → 68%』
『状態:安堵/不器用な安心 → 受容/言葉を探している』
『父イベント《言葉にならない心配》進行度:35% → 45%』
『黒瀬湊』
『経験値:45/250 → 60/250』
『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』
『スキル経験値:116/150 → 126/150』
『恋愛ポイント:75 → 82』
『アイテム獲得:短い感謝×1』
(……六十八か)
高くはない。
でも、悪くない。
むしろ父相手なら、かなり大きい。
数分後。
スマホが震える。
返信。
『気にするな』
『休め』
短い。
あまりにも短い。
でも、その短さに、父らしい精一杯が入っているのがわかる。
湊はその画面をしばらく見つめた。
短い二行。
たったそれだけ。
けれど、父の言葉としては十分すぎるほどだった。
昔からそうだった。
父は多くを語らない。
褒める時も、心配する時も、怒る時も、どこか言葉が足りない。
だから昔の湊は、その足りなさを“関心の薄さ”だと勘違いしたこともあった。
けれど、今なら少しわかる。
言えないだけだ。
言葉にする前に、たぶん考えすぎてしまう。
感情を出すことに慣れていない。
だから短くなる。
でも、短いからといって、何もないわけじゃない。
(……十分だな)
湊は小さく息を吐いた。
これで今日はいい。
無理に一気に近づく必要はない。
家族との距離は、たぶんヒロイン攻略みたいに急加速させるものじゃない。
ゆっくりでいい。
でも、“言わないまま”で終わらせないことがたぶん大事なんだろう。
その時だった。
スマホにもう一件、通知が入った。
母からだった。
『今日はもう休んでね』
『ひなたも少し落ち着いたよ』
『お父さん、帰ってからずっと黙ってたけど、あなたのメッセージ見て、少しだけ笑ってた』
湊は、指を止めた。
(……笑ってたのか)
想像すると、少しだけ胸の奥が熱くなる。
父が、あの短い返信を打つ前に、スマホを見て少しだけ笑った。
それだけで、妙に救われた気がした。
『黒瀬恒一』
『状態追加:不器用な安堵』
『会話ログ保存 Lv1:重要会話を記録しました』
『ログ名:《父への短い感謝》』
(……会話ログ、こういう風に使うのか)
湊はスマホを伏せる。
そして目を閉じた。
病室は静かだった。
外は少しずつ夜へ近づいている。
廊下の照明が、白く淡く、床に伸びている。
その時、カーテンの向こうで結衣の声がした。
「黒瀬さん、少しだけ失礼します」
「ん」
戻ってきた結衣は、記録端末を持っていた。
夕方の確認らしい。
だが、その顔はさっきより少し落ち着いている。
自信が芽生えたことで、動きにわずかな芯が出ていた。
「痛み、変化ありますか?」
「さっきよりは少し楽かな」
「動かなければ、だけど」
「よかったです」
「でも、痛みが増えたらすぐ言ってくださいね」
「黒瀬さん、たぶん我慢しそうなので」
「そんなに?」
「はい」
「たぶん、けっこう」
「……否定できないな」
結衣は小さく笑った。
その笑い方が自然だった。
最初の頃のような慌てた笑顔ではない。
自分の言葉を、ちゃんと相手に届けようとしている人の笑顔だった。
そして、ふと何かを思い出したように「あ」と声を漏らす。
「そういえば……黒瀬さん」
「何?」
「事故の時に助けられた女性の方なんですけど」
湊の意識が、そこで止まる。
あの女性。
雨上がりの横断歩道で、スマートフォンを落とした人。
名前も知らない。
顔も、はっきり覚えているか怪しい。
ただ、肩を押した感触だけが残っている。
「……その人、助かったんだよな」
「はい」
「命に別状はないそうです」
結衣は少しだけ声を柔らかくした。
「白峰紗雪さん、という方だそうです」
「受付に何度か来られていたみたいです」
「黒瀬さんにどうしてもお礼が言いたいって」
「白峰……紗雪……」
名前を口にした瞬間、視界の端に青白い表示が走った。
『《未登録対象情報を取得しました》』
『名前:白峰紗雪』
『状態:罪悪感/感謝/会いたい』
『イベント名:《命を救われた女性》』
『現在:ロック中』
『解放条件:一般病棟移動後』
『備考:対象は複数回、面会を希望しています』
(……名前、出た)
湊はしばらく、その表示を見つめる。
助けた女性。
白峰紗雪。
助かった。
自分に会いたがっている。
その事実が、胸の奥へゆっくり沈んでいく。
「……そうか」
「はい」
「でも、まだ集中治療室なので、身内以外の面会は難しいみたいです」
「一般病棟に移って、先生の許可が出たら……会えると思います」
「……わかった」
結衣は湊の顔を見て、少しだけ眉を下げた。
「気になりますよね」
「……まあ」
「俺が助けたって言っても、正直、その時のこと、はっきり全部覚えてるわけじゃないし」
「でも……助かったなら、よかった」
その言葉を聞いて、結衣はほんの少しだけ目を細めた。
「黒瀬さんって」
「やっぱり、優しいです」
「またそれか」
「だって、そう思うので」
結衣は今度は逃げなかった。
まっすぐにそう言った。
その素直さに、湊の方が少しだけ視線を逸らす。
『白石結衣』
『好感度:44% → 45%』
『状態:信頼/好印象/やさしさを確認』
『結衣イベントLv.1:進行度90%』
(……少しずつ、か)
それでいい。
急がなくていい。
結衣との距離は、今はそれくらいでいい。
やがて結衣は「また後で来ますね」と言って、病室を出ていった。
そして、夜。
病室の明かりがさらに落とされ、窓の外が完全に暗くなった頃。
病室の外で、少し重い足音が近づいてきた。
昨日とも今日の昼とも違う足音。
一定ではあるが、軽くない。
疲労を引きずるみたいな歩幅。
カーテンが、ゆっくり開く。
「……失礼します」
低い声。
どこか疲れている。
現れたのは――別の看護師だった。
長めの髪を後ろでまとめている。
顔立ちは整っているのに、今は目元の疲れの方が先に目に入る。
まぶたが少し重い。
頬には薄い疲労の影。
立ち姿は崩れていないが、それが逆に無理をしている感じを強くしていた。
きっちり仕事をしている人間の顔だ。
でも、それ以上に――“限界に近いのに止まれない人”の顔だった。
『《対象を認識しました》』
『名前:佐倉奈緒』
『年齢:26』
『職業:看護師』
『レベル:21』
『レア度:★★★★』
『好感度:12%』
『状態:疲労/自己否定/限界』
『特性:責任感/抱え込み/弱音を吐けない』
『イベント:未解放』
(……来たな)
空気が違う。
結衣とはまるで別物。
軽い不安じゃない。
もっと深いところで崩れかけている。
でも表には出さない。
出せない。
そういうタイプだ。
奈緒は手元の記録ファイルに目を落としながら言う。
「夜間の確認です」
「痛み、変化ありますか」
声も、短い。
必要なことだけ。
綾乃ほど研ぎ澄まされてはいないが、同じ“業務優先”の匂いがある。
ただ、その奥に余裕がない。
「……鈍い痛みはあるけど、増えてはないです」
「そうですか」
それだけ返す。
愛想がないわけではない。
ただ、余白がない。
その瞬間、新しいウィンドウが静かに開く。
『【選択肢が表示されます】』
『対象:佐倉奈緒』
『A:無理してませんか、と聞く』
『B:夜勤、大変ですねと労う』
『C:痛みは大丈夫ですとだけ答える』
『D:何も言わず、確認を受ける』
(……いきなり重いな)
湊は奈緒の横顔を見る。
疲れている。
それはわかる。
けれど、初対面の患者に「無理してませんか」は踏み込みすぎだ。
Bも労いとしては自然だが、相手によっては“患者に気を遣われた”と感じて、逆に壁を作る可能性がある。
Cは安全。
Dも安全。
ただし、何も始まらない。
(ここは……まだ選ばない)
湊は、軽く息を吐く。
今は奈緒を攻略する場面ではない。
結衣とのイベントも、家族イベントもまだ途中だ。
新しい相手に無理に踏み込めば、全部が散らかる。
だから、今は“患者として自然に”対応する。
「痛みは、今のところ大丈夫です」
「増えたら、すぐ言います」
Cに近い。
余計に踏み込まない。
奈緒は小さく頷いた。
「お願いします」
「夜は痛みが強く感じる方もいるので」
その声は事務的だった。
けれど、ほんの少しだけ、気遣いが混じっていた。
『佐倉奈緒』
『好感度:12%』
『状態:疲労/自己否定/限界』
『選択評価:保留』
『イベント:未解放のまま維持』
(……今は、これでいい)
湊は目を伏せる。
奈緒は手際よく確認を終えると、記録ファイルに視線を落としたまま、静かにカーテンを閉めていく。
その背中は、どこか危うかった。
倒れそうではない。
でも、倒れることを自分で許していない人間の背中だった。
その背中を見送りながら、湊の視界に最後のウィンドウが浮かぶ。
『《第4話リザルト》』
『黒瀬湊』
『レベル:2』
『経験値:60/250』
『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』
『スキルレベル:2』
『スキル経験値:126/150』
『恋愛ポイント:82』
『獲得アイテム』
・結衣の小さな自信×1
・短い感謝×1
『進行中イベント』
・白石結衣イベントLv.1《進行度90%》
・父イベント《言葉にならない心配》
・妹イベント《怒りの奥にある涙》
・命を救われた女性《ロック中》
・佐倉奈緒イベント《未解放》
『レベルアップ:なし』
『スキルレベルアップ:なし』
『次回イベント候補』
・白石結衣イベントLv.1 完了条件
・白峰紗雪 初対面イベント
・佐倉奈緒 夜勤イベント
湊は、白い天井を見上げた。
正解を選ぶことは、できる。
けれど、正解がいつも誰かを救うとは限らない。
結衣には、具体的な肯定が必要だった。
父には、短い感謝が必要だった。
綾乃には、踏み込まない距離が必要だった。
白峰紗雪には、まだ会う時が来ていない。
そして、疲れ切った佐倉奈緒には――たぶん、正論ではなく、やさしい選択肢が必要だった。
現実とゲームが、少しずつ混ざり合っていく。
病院ステージ。
その白い世界の中で、黒瀬湊の“選択”は、まだ始まったばかりだった。
そして次に必要なのは――。
ただ正しい言葉じゃない。
届く言葉を、選ぶことだった。




