第3話 正解だけでは、届かない相手
白衣の女は、静かにそこに立っていた。
ただ立っているだけなのに、空気が変わる。
それは比喩でもなんでもなく、本当に“変わった”としか言いようのない感覚だった。
ついさっきまで聞こえていたはずの廊下の足音や、遠くの話し声や、機械の電子音が、まるで一枚薄い膜を挟んだ向こう側に追いやられたように遠くなる。
音が消えたわけじゃない。
ただ、“意識の外側”に押し出された。
集中治療室という閉じた空間の中で、見えない境界線が一本引かれたような感覚。
その中心にいるのが、神宮寺綾乃だった。
白衣の裾は乱れひとつなく、長い黒髪は肩から背中にかけてまっすぐに流れている。照明の白い光を受けて、わずかに艶が浮かぶ。白い空間の中にいるはずなのに、その人だけが別の密度を持っているように見えた。
顔立ちは整っている。
というより、“整いすぎている”。
目元も口元も、どこを切り取っても絵になる。
なのに、近づきがたい。
綺麗だと感じるより先に、“踏み込んではいけない領域”だと本能的に理解させられる。
集中治療室は、白い。
白い壁。
白い天井。
白いシーツ。
半透明の白い仕切り。
そのどこにも余計なものはない。
清潔で、機能的で、感情の入り込む余地を意図的に削ぎ落としたみたいな空間だ。消毒液の匂いが鼻の奥を刺し、空調の風が一定の温度で皮膚を撫でる。電子モニターの規則正しい音だけが、ここが“生きているかどうかを見張る場所”だと教えてくる。
そんな白の真ん中で、綾乃だけがやけに輪郭を持っていた。
「……黒瀬さん」
低く、落ち着いた声。
決して強くはないのに、耳の奥にすっと入り込んでくる。
無駄な抑揚がないからこそ、逆に逃げ場がない。
「聞こえますか」
「あ……はい」
湊はゆっくりと頷く。
声は出る。
喉の乾きはまだ残っているが、言葉はちゃんと形になる。
意識もはっきりしている。
さっきまで体を支配していた重さが、少しずつ引いていくのがわかる。
指先に感覚が戻る。
視界も、ぼやけていた輪郭が徐々に鮮明になっていく。
それでも、完全じゃない。
右腕の奥に残る鈍い痛み。
胸の深いところに引っかかったような圧迫感。
首を少し動かしただけで走る違和感。
生きている、ということは、ちゃんと壊れてもいるということだ。
「ここがどこかわかりますか」
「……病院、ですよね」
「はい。天城総合医療センターです。あなたは交通事故で搬送されました。現在、意識は清明。会話も成立しています」
淡々とした確認。
そこに感情はほとんど乗っていない。
だが、それは冷たいというより、“必要なものだけを残した音”という印象だった。
余計な言葉が一切ない。
余計な共感も、余計な慰めもない。
ただ、事実を確認し、整理し、次へ進む。
綾乃の視線が動く。
湊の目。
瞳孔の反応。
呼吸のリズム。
手のわずかな動き。
指先の力の入り方。
まるでチェックリストでもなぞるように、順番に確認していく。
観察されている。
評価されている。
そんな感覚があった。
(……この人)
湊は内心で息を飲む。
(完全に“仕事モード”だな)
白石結衣の時のような、わかりやすい感情はない。
焦りもない。
優しさも、少なくとも表面には出ていない。
あるのは――判断。
正確さ。
合理性。
その時だった。
視界の端に、再び“それ”が浮かぶ。
現実の風景に重なるように、半透明のウィンドウ。
『【選択肢が表示されます】』
『対象:神宮寺綾乃』
『A:落ち着いて質問に答える』
『B:助けてくれたことへの礼を言う』
『C:自分の状態より事故相手の女性を気にする』
『D:何も言わず、綾乃の指示を待つ』
(……来たか)
湊の思考が一瞬で加速する。
さっきまでのぼんやりした感覚が嘘みたいに消える。
結衣の時とは違う。
明らかに違う。
選択肢の“重さ”が違う。
(どれも正解に見える)
Aは安定。
医師として求めているのは、正確な情報。
患者が冷静に受け答えできるかどうかは、診断に直結する。
Bも間違いではない。
むしろ人としては正しい。
助けられたなら礼を言う。
それは自然な行動だ。
Cは、自分より他人を気にする湊らしい選択だ。
しかし、今ここで事故相手の女性を気にすれば、綾乃には“自己状態の把握より他者情報を優先する患者”として映るかもしれない。
Dは受動的だ。
無難に見えるが、意識確認の場面では情報不足になる。
(この人は“人としての正しさ”を優先するタイプじゃない)
綾乃の視線。
声の温度。
結衣への指示の出し方。
そこから読み取れるのは、
(“感情より情報”)
という明確なスタンス。
(なら……)
湊は、ほんの一瞬だけ呼吸を整える。
胸の奥で、スイッチが入る。
恋愛ゲームで何度も繰り返してきた、“最適解を探す思考”。
(ここはA)
結論は早かった。
余計な感情は挟まない。
今この場で求められているのは、“感じのいい人間”じゃない。
“ちゃんとした患者”だ。
「……はい。名前は黒瀬湊です。日付は……ちょっと自信ないです。事故に遭ったのは夜だったと思います。そこから記憶が途切れてます」
ゆっくりと、はっきりと。
言葉を選びながら、間を意識しながら話す。
「体は……さっきよりは動く感じがあります。痛みはあります。でも、会話できないほどじゃないです」
「右腕が重いです。胸のあたりも、少し苦しい感じがあります」
「あと……頭は、ぼんやりしてます。でも、話している内容はわかります」
言い終えて、綾乃を見る。
視線が交差する。
ほんの一瞬だけ。
だが、その一瞬が妙に長く感じられた。
綾乃はわずかに目を細めた。
「……なるほど」
短い一言。
それだけ。
だが、その沈黙には、“評価”が含まれていた。
次の瞬間。
『神宮寺綾乃』
『好感度:3% → 4%』
『状態:観察/違和感(微)』
『選択評価:安全』
『黒瀬湊』
『経験値:50/100 → 58/100』
『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』
『スキルレベル:2』
『スキル経験値:28/150 → 34/150』
『恋愛ポイント:25 → 27』
(……低っ)
内心で思わずツッコむ。
上がってはいる。
確かに上がっている。
だが、たった1%。
しかも劇的な変化ではない。
(結衣さんの時と全然違うぞ……)
あの時は一気に上がった。
空気も変わった。
距離も縮まった。
でも今は違う。
何もかもが慎重だ。
ただ、“最低限の評価を通過した”だけ。
(これが……★5か)
湊は内心で苦く笑う。
綾乃は軽く頷き、淡々と続けた。
「受け答えは問題ありませんね。認知機能も保たれています。外傷の回復速度も、現時点では予想以上です」
そして、ほんの一瞬だけ、湊の目をまっすぐ見る。
その視線は鋭いというより、“奥まで見通してくる”ような感覚だった。
「……運がいいですね」
「……そう、ですね」
湊は曖昧に返す。
本当に“運”なのかは、正直わからない。
あの白い空間。
あの存在。
あのスキル。
それを思い出すと、“運がよかった”の一言では片付けられない。
だが、説明するわけにもいかない。
説明したところで、信じてもらえるとも思えない。
綾乃はそれ以上踏み込まなかった。
「吐き気、めまい、視界の歪みは」
「吐き気は少し。めまいは……今はないです。視界は少しだけぼやけます」
「わかりました。異常があればすぐに伝えてください。無理に会話を続ける必要はありません」
そこで一拍置く。
ほんのわずかな間。
そして、続ける。
「あと」
視線が少しだけ鋭くなる。
「感謝は不要です」
「……え?」
思わず声が漏れる。
「私は医師として必要な処置をしただけです。そこに個人的な感情は含まれていません」
淡々とした口調。
だが、その言葉ははっきりと線を引いていた。
ここから先に踏み込むな、と。
「それより、自分の状態を正確に伝えてください」
「今のあなたに必要なのは、礼儀より情報です」
それだけ言うと、綾乃は視線を外す。
完全に“終了”の動きだった。
(……なるほどな)
湊は内心で苦笑する。
(これは……キツい)
正解は選んだ。
間違ってはいない。
でも。
(全然“攻略した感”がない)
数字は上がった。
けど、それだけだ。
距離はほとんど縮まっていない。
むしろ、一定の距離を明確に保たれている。
(この人は……)
理解する。
(“正解”だけじゃ動かないタイプだ)
綾乃は結衣に指示を出す。
「白石さん、バイタルの再確認。カルテ更新」
「追加で神経所見を取ります」
「は、はいっ!」
結衣が慌てて頷く。
綾乃はそれを確認すると、もう一度だけ湊を見た。
「安静に」
それだけ言って、背を向ける。
迷いなく集中治療室を出ていく。
コツ、コツ、と足音が遠ざかる。
その音が完全に消えた時――空気が、ふっと緩んだ。
「はぁぁ……」
結衣が小さく息を吐く。
「び、びっくりしました……起きたタイミングで先生来るなんて……」
「……あの人、いつもあんな感じなんですか」
「えっ、あ、はい……でも、あれでも優しい方なんです……」
「優しい……?」
思わず聞き返す。
結衣は少し困ったように笑う。
「言葉はちょっと厳しいですけど……ちゃんと患者さんのこと見てますし、すごく的確で……みんな、信頼してるんです」
「あと、その……怒ってるように見えても、ほんとに怒ってるわけじゃないことも多くて」
「私、けっこうミスするんですけど、そのたびに何がダメだったかはちゃんと教えてくれるので……」
そこで結衣は、自分の胸元の名札をそっと直した。
さっきから何度も曲がっていたそれを、今度こそまっすぐにしようとするみたいに。
「怖くないって言ったら嘘です」
「先生に見られてると、手が震えることもあります」
「でも……見てくれてるんです」
「私みたいな見習いでも、ちゃんと失敗したところを見て、直すところを言ってくれる」
「だから、怖いけど……嫌いじゃないです」
その言葉は、少しだけ眩しかった。
怖い相手を、ただ怖いで終わらせない。
厳しさの奥にあるものを、ちゃんと見ようとしている。
結衣は不器用だけど、たぶんそういうところがまっすぐなのだ。
(……なるほど)
確かに、無駄は一切なかった。
余計なことは言わない。
必要なことだけを、正確に。
(だから好感度低いのか……)
いや、違う。
(そもそも“恋愛の土俵”にいない)
その時。
廊下の向こうから、少しだけ慌ただしい足音が近づいてきた。
ぱたぱたと、急ぎながらも転ばないように抑えたような足音。
次いで、少し控えめで、それでも急いでいるのがわかる足音が重なる。
さらに少し遅れて、重く速い足音。
カーテンの向こうで人影が止まる。
結衣が顔を上げる。
そして、柔らかくも緊張した声で言った。
「黒瀬さんのご家族、いらっしゃいました」
その瞬間。
湊の胸が、わずかに強く脈打つ。
(……家族)
そうだ。
いるに決まっている。
事故に遭って、病院に運ばれて、連絡が行っていないはずがない。
頭では当然わかっていたことなのに、実際に“来た”と知らされた瞬間、湊の中で何かが一気に現実味を帯びた。
ゆっくりと、三つの人影が病室に入ってくる。
先に入ってきたのは、女性だった。
柔らかい色のカーディガンに、少し急いで羽織ってきたのがわかる上着。髪は後ろでひとつにまとめられているが、慌てて家を出たのだろう、いつもより少しだけ崩れていた。
その顔を見た瞬間、湊の胸がわずかに詰まる。
母親。
黒瀬美咲。
その後ろから、制服の上から薄手のパーカーを羽織った少女が、病室を覗き込むように入ってくる。
セミロングの髪が肩のあたりで揺れて、目元にはあからさまな心配が浮かんでいるのに、それを全部そのまま出すのが少し恥ずかしいのか、唇がわずかに尖っている。
妹。
黒瀬ひなた。
さらに最後に入ってきたのは、スーツ姿の男だった。
ネクタイは少しだけ緩んでいて、額にはうっすら汗が滲んでいる。たぶん、本当に仕事の途中で抜けてきたのだろう。いつもより呼吸も少しだけ荒い。
父。
黒瀬恒一。
その瞬間。
視界の中に、新しい表示が重なった。
『《対象を認識しました》』
『名前:黒瀬美咲』
『年齢:46』
『関係:母』
『レベル:18』
『レア度:★★★』
『信頼値:78%』
『状態:心配/安堵/限界寸前』
『特性:情に厚い/家族第一/抱え込みやすい』
『特殊属性:家族補正』
続けて。
『《対象を認識しました》』
『名前:黒瀬ひなた』
『年齢:15』
『関係:妹』
『レベル:14』
『レア度:★★★』
『信頼値:67%』
『状態:心配/強がり/泣く寸前』
『特性:兄に甘い/口が悪い/感情が顔に出る』
『特殊属性:家族補正』
さらに。
『《対象を認識しました》』
『名前:黒瀬恒一』
『年齢:49』
『関係:父』
『レベル:21』
『レア度:★★★』
『信頼値:61%』
『状態:動揺/抑制/言葉不足』
『特性:不器用/責任感/感情表現が下手』
『特殊属性:家族補正』
(……出るのかよ)
一瞬、湊の思考が止まる。
好感度、ではない。
表示されているのは“信頼値”。
関係も、職業や年齢だけではなく、“母”“妹”“父”と明確に出ている。
家族補正。
しかも、状態の文言がいちいち生々しい。
(家族まで対象なのかよ)
ぞくりとした。
怖さとも違う。
気味の悪さと、納得と、そして少しの嫌悪感が混ざったような感覚だった。
恋愛対象として見ることはない。
そんなのは当然だ。
だが、スキルはこの三人すら“数値化”している。
しかも、恋愛値ではなく信頼値。
その違いが妙に生々しかった。
「湊……!」
母の声は、抑えようとしても抑えきれない震えを含んでいた。
ベッドのそばまで来て、そこでようやく立ち止まる。
飛びつきたいのを、病院だからと無理にこらえたみたいな動きだった。
だが、その次の瞬間にはもう耐えきれなかった。
「よかった……よかった……っ、ほんとによかった……!」
美咲はベッド脇に崩れるように膝をつき、シーツの端を握ったまま泣き出した。
ぼろぼろと、という言葉がそのまま当てはまる泣き方だった。
静かに涙を流すのではない。
今まで必死に耐えて、張り詰めて、もう助からないかもしれないと言われてもどこかで信じたくなくて、それでも覚悟しなければいけない時間を何日も抱えた人間が、ようやく“生きている”という現実に触れて、堰が切れたみたいに泣いている。
「だって……だって、もう……っ」
「もう起きないかもって……っ、先生たち、そういう言い方はしなかったけど……でも、そういう感じで……っ」
「なのに、湊、あんた、ちゃんと目開けて……ちゃんと喋って……」
言葉が途中で切れる。
嗚咽が邪魔をする。
それでも美咲は笑おうとしていた。
泣きながら。
ぐちゃぐちゃになりながら。
それでも“よかった”を伝えようとしていた。
湊の胸が、ぎゅっと痛んだ。
この人を、ここまで泣かせたのか。
事故そのものより、その事実の方が胸に来る。
一方で、ひなたはベッドの少し横に立ったまま、じっと湊を見ていた。
唇を噛んでいる。
強がろうとしている。
でも、限界だというのがわかる。
「……バカ兄貴」
最初に出たのは、それだった。
「なに勝手に死にかけてんの」
「意味わかんないんだけど」
「こっちは普通に学校どころじゃなかったし、お母さんずっと泣いてるし、お父さんも変な顔してるし、家の中ずっと最悪だったんだけど」
口調はきつい。
でも声は震えている。
怒っているのではなく、怒っている形を借りないと泣けないのだと、すぐにわかった。
「ほんと、バカ」
「意味わかんない」
「なんでそんなことになるわけ」
そこで、ひなたの目から涙が落ちた。
ひと粒。
次に、もうひと粒。
あとは早かった。
「っ……ばか……っ」
「ほんとに、ばか兄貴……!」
泣き崩れる、という言葉が一番近かった。
ベッドに縋りつくほどではない。
でも、その場に立ったまま耐えきれなくなって、涙を止められなくなって、声までぐしゃぐしゃになっていく。
いつもは強気で、兄に対しても容赦なくて、どちらかといえば兄妹の主導権を握っている側のひなたが、今はただの“妹”になっていた。
大事な兄が死にかけたことに、今さら追いついた妹。
その姿だった。
父の恒一は、二人より少し後ろで立ち尽くしていた。
言葉を探している。
でも、うまく見つからない。
その沈黙が、いつもの父らしかった。
強くも弱くも出られない。
感情がないわけじゃないのに、出し方がわからない。
そんな沈黙だ。
湊は三人を見て、喉の奥が詰まるのを感じた。
視界の端に、また表示が揺れる。
『《家族イベント発生》』
『黒瀬家との信頼関係を維持してください』
『イベント対象:母/妹/父』
『ミニイベント3件を確認しました』
『先に開始するイベントを選択してください』
『A:母イベント《ただいまを伝える》』
『B:妹イベント《怒りの奥にある涙》』
『C:父イベント《言葉にならない心配》』
『D:結衣イベント《この場にいる意味》』
『※複数イベントの同時進行が可能です』
(……同時進行ってなんだよ)
こんな場面で出すな、と本気で思う。
けれど、表示は消えない。
目の前で母が泣いている。
妹も泣いている。
父は黙ったまま立っている。
現実は容赦なく進んでいるのに、その上にゲームみたいなシステムが平然と重なっている。
気持ち悪い。
でも、見えてしまう。
だったら、無視できない。
湊はゆっくりと息を吸った。
今ここで必要なのは、たぶん“攻略”なんて言葉じゃない。
でも、スキルが補助してくれるなら、使わない理由もない。
家族相手にそれを使うことへの抵抗はある。
かなりある。
それでも。
(……間違えたくない)
今だけは、その気持ちの方が強かった。
家族に心配をかけた。
もう助からないと思わせた。
その事実だけは、どう言い訳しても消えない。
だからせめて、ここでちゃんと向き合いたかった。
今の病室には、まだ結衣がいる。
記録端末を抱えたまま、家族の再会の場に入り込みすぎないよう少し距離を取りつつ、それでも必要ならすぐ動ける位置にいる。
彼女もまた、この場の空気に飲まれていた。
泣く母。
泣く妹。
黙る父。
そしてそれを見て固まっている患者。
自分は何をすればいいのか。
ここで声をかけるべきか、少し離れているべきか。
そんな迷いが顔に出ている。
湊は先に結衣へ視線を向けた。
「白石さん」
「は、はいっ」
結衣がびくっとする。
「……その、家族、呼んでくれて……ありがとうございました」
一瞬、結衣の目が丸くなる。
「え……あ、い、いえっ、私は、連絡の流れがあっただけで……!」
「それでも」
「今、いてくれて助かってる……です」
「なんか……家族だけだと、逆に頭真っ白になりそうだったから」
言っていて、自分でもひどく不器用だと思った。
でも、それは本音だった。
家族の感情が重い。
重いからこそ、そこに“病院側の人”がひとり冷静にいてくれることが、今の自分にはありがたかった。
結衣はその言葉を受け取って、目をぱちぱちさせたあと、ふっと力を抜く。
「……そ、そういうことなら」
「ちゃんと、ここにいます」
「邪魔にならないところで、でも、何かあったらすぐ動けるようにしてますから」
その返事は小さい。
でも、さっきよりずっと落ち着いていた。
自分の立ち位置をもらえたからだろう。
患者のそばにいていい。
今ここにいる意味がある。
その確認が、彼女の不安を少しだけほどいた。
『《結衣イベント:進行》』
『白石結衣』
『好感度:30% → 34%』
『状態:安心/好印象/小さな自信 → 安心/好印象/やる気』
『黒瀬湊』
『経験値:58/100 → 73/100』
『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』
『スキル経験値:34/150 → 49/150』
『恋愛ポイント:27 → 35』
『結衣イベント《この場にいる意味》第一段階クリア』
(……まず一個)
湊は心の中でそう呟く。
そして、次に母へ向き直った。
ミニイベント1。
母。
今の美咲に必要なのは、たぶん“ちゃんと生きて戻ってきた実感”だ。
ただ謝るだけでは足りない。
言葉だけではなく、“今ここにいる”ことを伝えないといけない。
「母さん」
湊が呼ぶと、美咲は涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま顔を上げた。
「……ん、なに」
「……心配かけて、ごめん」
「ほんとに、ごめん」
それだけでは終わらせず、湊は続ける。
「でも」
「ちゃんと戻ったから」
「まだ痛いし、たぶんしばらくいろいろあるけど……ちゃんと、ここにいる」
その言葉が、美咲の胸に落ちる。
今ここにいる。
それが欲しかった。
ただ謝罪ではなく、“生きている息子の声”としてその言葉を聞きたかった。
美咲は顔を覆って、また泣いた。
でも今度の涙は、さっきより少しだけ穏やかだった。
「……うん」
「うん……」
「それでいいの……それでいいから……」
『《母イベント:クリア》』
『黒瀬美咲 信頼値:78% → 84%』
『状態:心配/安堵/限界寸前 → 安堵/保護欲』
『黒瀬湊』
『経験値:73/100 → 93/100』
『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』
『スキル経験値:49/150 → 69/150』
『恋愛ポイント:35 → 45』
『アイテム獲得:母の安堵×1』
次は、ひなた。
ミニイベント2。
妹には、謝るだけでは足りない。
この子は感情をぶつけている。
怒っている形で泣いている。
だから必要なのは、真正面から受け止めることだ。
「ひなた」
「……なに」
目元を拭いながらも、声はまだ尖っている。
「バカ兄貴で悪かった」
「ほんとだよ」
「うん」
「ほんとに、その通りだと思う」
ひなたが少しだけ黙る。
たぶん、ここで言い返されると思っていたのだろう。
軽口で返すでもなく、素直に受け取られると、勢いが少し削がれる。
湊はそこで、もう一歩踏み込む。
「泣かせたのも、悪かった」
「……ごめん」
ひなたの呼吸が止まる。
そして、次の瞬間、顔をくしゃっと歪めた。
「……それ言うの、ずるくない?」
「今それ言われたら、もう怒れないじゃん」
「怒っていいよ」
「怒るけど」
「でも、もう、死にかけるのはなし」
「ぜったい、なし」
「それだけは、ほんとに無理」
「……うん」
ひなたはそこでようやく一歩近づいて、ベッドの端を軽く叩いた。
「次やったら、ほんと許さないから」
その叩き方は弱かった。
怒りよりも、確認に近かった。
本当にいるのか。
生きて戻っているのか。
それを確かめるみたいな、小さな接触だった。
『《妹イベント:第一段階クリア》』
『黒瀬ひなた 信頼値:67% → 73%』
『状態:心配/強がり/泣く寸前 → 安堵/照れ隠し/まだ怒っている』
『黒瀬湊』
『経験値:93/100 → 108/100』
『レベルアップ条件を満たしました』
『黒瀬湊』
『レベル:1 → 2』
『余剰経験値:8/250』
『身体補正:微小上昇』
『精神耐性:微小上昇』
『新機能を解放しました』
『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』
『新機能:《関係値分類》』
『好感度/信頼値/警戒値/依存値など、対象との関係性に応じた数値分類が表示されます』
『新スキルを獲得しました』
『《会話ログ保存 Lv1》』
『直近の重要会話を短文ログとして記録できます』
『恋愛ポイント:45 → 55』
『アイテム獲得:妹の涙×1』
(レベル……上がった)
湊は一瞬、息を忘れた。
妹に謝っただけだ。
ちゃんと向き合っただけだ。
なのに、経験値が入り、レベルが上がった。
自分の中に、何か薄い膜が張られたような感覚がある。
体の痛みが消えたわけではない。
急に元気になったわけでもない。
ただ、思考の奥に一本、細い芯が通ったような感じがした。
(……人の感情を動かすことで、俺は強くなる)
その事実が、改めて怖かった。
湊は最後に、父へ視線を向けた。
ミニイベント3。
いちばん難しいのは、たぶん父だった。
この人は言葉が少ない。
少ないくせに、何も感じていないわけじゃない。
だからこちらも、長い言葉では届かない。
たぶん必要なのは、短く、でも真正面からの言葉だ。
「父さん」
恒一がわずかに顔を上げる。
「……なんだ」
「心配かけた」
「ごめん」
父は数秒、何も言わなかった。
その沈黙に、湊は少しだけ昔を思い出す。
小さい頃、転んで泣いた時も、テストでひどい点を取った時も、父はこうやって少し黙ってから言葉を選ぶ人だった。
不器用で。
わかりにくくて。
でも、たぶんずっと同じように家族を見ていたのだ。
「……そうだな」
父は低く言った。
「心配はした」
「うん」
「かなり、した」
そこまで言って、恒一は小さく息を吐いた。
「だが」
「戻ったならいい」
短い。
本当に短い。
けれど、その一言に込められているものは重かった。
戻ったならいい。
責めるより先に、そこを言うのが父だった。
湊は少しだけ笑う。
「……うん」
「次はないようにしろ」
「努力します」
「努力じゃなく、そうしろ」
「……はい」
そのやり取りのあと、父の口元がほんの少しだけ動いた気がした。
笑った、まではいかない。
でも、ほんのわずかに表情が緩んだ。
それだけで十分だった。
『《父イベント:進行中》』
『黒瀬恒一 信頼値:61% → 65%』
『状態:動揺/抑制/言葉不足 → 安堵/不器用な安心』
『備考:父イベント《言葉にならない心配》は未完了です』
『黒瀬湊』
『経験値:8/250 → 18/250』
『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』
『スキル経験値:69/150 → 84/150』
『恋愛ポイント:55 → 60』
『アイテム獲得:父の不器用な頷き×1』
視界の端で、青白い表示が更新される。
『《家族イベント:第一接触完了》』
『母イベント:クリア』
『妹イベント:第一段階クリア/継続中』
『父イベント:進行中』
『黒瀬家との信頼関係を維持しました』
『ボーナス:家族補正強化(微)』
『進行中イベント』
・結衣イベント
・妹イベント
・父イベント
・病院ステージ本編
(……終わった、わけじゃないんだな)
ほんの数分の会話。
でも、妙に疲れた。
ゲームなら選択肢を選んで終わりだ。
でも現実は違う。
一言ずつ、自分の声で、自分の顔で、相手の反応を受け止めなければいけない。
数字は上がった。
状態も変わった。
でも、それ以上に大きいのは、目の前の三人の表情がほんの少しずつ落ち着いたことだった。
それが、なにより“現実”だった。
母はまだ涙を拭いている。
ひなたは鼻をすすりながら、もう泣いていないふりをしている。
父は相変わらず無口だが、さっきより肩の力が少し抜けている。
その様子を見て、湊はようやく実感する。
(……ほんとに、心配かけたんだな)
あたりまえのことだ。
でも、自分が死にかけた事実より、こっちの方がずっと重かった。
その時、結衣が少しだけ申し訳なさそうに声を挟んだ。
「あの……黒瀬さん」
「実は、もう一つだけ」
「……はい?」
「事故の時に助けられた女性の方が、何度か病院に来ていたそうです」
「でも、黒瀬さんは集中治療室でしたし、ご家族以外の面会はできなくて……受付でお帰りいただいていたみたいで」
湊は一瞬、言葉を失った。
あの女性。
雨上がりの横断歩道で、スマートフォンを落とした人。
名前も知らない。
顔も、はっきり覚えているか怪しい。
ただ、肩を押した感触だけが残っている。
「……そう、ですか」
「はい」
「すごく、心配されていたみたいです」
「その……何度も頭を下げていたって、聞きました」
結衣の声は優しかった。
けれど、その言葉は湊の胸に重く落ちた。
(助かったんだな)
それは、第1話の白い空間で聞いた答えと同じだった。
でも今、病院の中で結衣の口から聞くと、改めて現実味がある。
彼女は助かった。
そして、自分のことを気にしている。
その事実が、湊の中に新しい重みを作った。
『《未登録イベント予兆》』
『対象:???』
『イベント名:《命を救われた女性》』
『解放条件:一般病棟移動後』
『現在:ロック中』
(……またイベントか)
湊は目を伏せる。
でも、不思議と嫌ではなかった。
怖い。
面倒だ。
けれど、会うべきなのだろうと思った。
自分が命をかけて動いた結果、助かった相手なのだから。
その時、病室の外から再び規則正しい足音が近づいてきた。
コツ、コツ、と。
あの歩き方だ。
綾乃が戻ってきたのだと、音だけでわかった。
カーテンの向こうに影が差す。
結衣がぴんと背筋を伸ばす。
母もひなたも父も、自然と視線をそちらへ向ける。
綾乃が病室へ入ってきた。
白衣のポケットに手を入れることもなく、まっすぐこちらを見る。
家族が揃っている状況を一瞬で把握し、その上で必要以上の感情を一切見せない。
「ご家族の方」
「面会は短時間でお願いします」
短い。
クールで、無駄がない。
だが、病院として必要な線引きはきっちりしている。
それから綾乃は湊へ視線を向けた。
その一瞬、また表示が浮かぶ。
『神宮寺綾乃』
『レベル:32』
『レア度:★★★★★』
『好感度:4%』
『状態:観察/違和感(微)/興味(微)』
(……違和感、残ったままか)
当然かもしれない。
この人は簡単には流されない。
結衣とも、家族とも違う。
正解を積み重ねても、まだ“興味(微)”程度。
たぶんこの先も、簡単には動かない。
だが――
(だから面白いんだよな……)
そう思ってしまう自分に、湊はまた少しだけ苦笑した。
綾乃は短く告げる。
「追加検査に入ります」
「会話は一度ここまでで」
「はい」
母が立ち上がる。
ひなたも少し名残惜しそうにしながら、一歩引く。
父は最後に一度だけ湊を見て、小さく頷いた。
三人が少しずつ病室を出る準備をする。
その途中で、ひなたが湊にだけ聞こえるくらいの小さな声で言った。
「……ほんと、無事でよかったから」
それだけ言って、すぐに顔を背ける。
美咲は「あとでまた来るからね」と何度も言い、恒一は「ちゃんと休め」とだけ残した。
三人がカーテンの向こうへ消えていく。
その背中を見送りながら、湊はゆっくり息を吐いた。
胸の奥が、少しだけ痛い。
怪我の痛みじゃない。
たぶん、反省とか、安堵とか、そういう名前のつく痛みだ。
その時、青白い表示が最後に重なった。
『《第3話リザルト》』
『黒瀬湊』
『レベル:2』
『経験値:18/250』
『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』
『スキルレベル:2』
『スキル経験値:84/150』
『恋愛ポイント:60』
『獲得アイテム』
・母の安堵×1
・妹の涙×1
・父の不器用な頷き×1
『新機能:《関係値分類》解放済み』
『新スキル:《会話ログ保存 Lv1》獲得済み』
『進行中イベント』
・結衣イベント
・妹イベント
・父イベント
・病院ステージ本編
・命を救われた女性《ロック中》
『次の対象を攻略しますか?』
(攻略、ね……)
湊は白い天井を見上げる。
病室は相変わらず白い。
静かで、清潔で、現実的で、逃げ場がない。
その中で、スキルだけがあまりにもゲームじみている。
けれど、今の家族の涙も、結衣の照れも、綾乃の違和感も、全部本物だった。
数字は補助だ。
状態はヒントだ。
でも、それだけじゃ届かない相手がいる。
正解を選んだ。
それでも、神宮寺綾乃の心にはほとんど届かなかった。
数字は、たった一つ動いただけ。
けれど湊は、なぜかその一%が、結衣の十%よりも重く感じた。
家族には、最適解だけでは意味がない。
結衣には、正しさより先に“存在を肯定する言葉”が効いた。
そして綾乃には、正解だけでは届かない。
現実は、たぶんゲームよりずっと面倒で。
ずっと痛くて。
でも、ずっと面白い。
そう思ってしまった時点で、もう後戻りはできないのかもしれなかった。
神々から押しつけられたスキル。
白い病室。
始まったばかりの病院ステージ。
見習い看護師のファーストイベント。
高難易度の女医。
数値化された家族の信頼。
そして、まだ顔も名前も知らない“命を救われた女性”。
全部まとめて、黒瀬湊の現実はもう、以前の現実ではなくなっていた。
――正解だけでは、届かない相手がいる。
その事実を、黒瀬湊はこの日、初めて知った。




