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第2話 初めての選択肢


 ――意識が、ゆっくりと浮かび上がってくる。


 深い、深い水の底から。


 光の届かない暗い場所で、長いあいだ体を沈めていた何かが、ようやく水面の方へ引き上げられていくような感覚だった。


 重たい。


 ひどく、重たい。


 全身に見えない鉛でも括りつけられているみたいに、体が思うように動かない。


 まぶた一つ開けるのにも妙に時間がかかる。


 指先に神経を通わせようとしても、最初はその存在すら曖昧だった。自分の腕がどこにあって、肩がどういう角度で寝台に沈んでいるのか、その輪郭さえまだはっきりしない。


 どれくらい時間が経ったのかも、わからない。


 数秒なのか。


 数時間なのか。


 それとも、何日も経っているのか。


 時間の感覚がまるで霧の中に置き去りにされていて、自分がどこからどこまで眠っていたのかすら判然としなかった。


 眠っていた、という表現が正しいのかどうかも怪しい。


 ただ暗くて、重くて、何もない場所に沈んでいた。


 そんな印象だけが残っている。


 ぼんやりとした意識の中で、ひとつだけ、確かな違和感があった。


(……痛く、ない……?)


 本来なら、あるはずの感覚がなかった。


 あの衝撃を、湊ははっきり覚えている。


 夜の道路。


 迫ってくるライト。


 手を伸ばして、誰かを突き飛ばした感触。


 次の瞬間に全身を横殴りにされたような衝撃。


 骨が軋むような嫌な音。


 息が詰まるほどの苦しさ。


 視界の端で、世界そのものがひっくり返っていく感覚。


 あの痛みを、あの壊れる感じを、全部覚えている。


 なのに、今はそれが嘘みたいに遠かった。


 ――いや。


 消えてはいない。


 ただ、直前に感じていたような“死ぬほどの激痛”ではなく、もっと鈍く、もっと深い場所に沈んでいる。


 体の表面ではなく、骨の内側とか、筋肉の奥とか、そういうところに遅れて溜まっているような、不穏な感覚だった。


 表面は静かだ。


 けれどその静けさの下で、壊れたものがまだ黙って軋んでいる。


 ようやく、まぶたがゆっくりと持ち上がる。


 視界に入ってきたのは、白だった。


 白い天井。


 眩しすぎない照明。


 視界の端で淡く光るモニター。


 一定の間隔で鳴る、小さな電子音。


 鼻の奥に刺さる、消毒液の独特な匂い。


 腕に繋がれた管。


 胸元に貼られている何か。


 指先に挟まれた器具。


 ベッドの柵。


 仕切りの向こうで動く人の気配。


 ここが普通の病室ではないことくらい、湊にもすぐにわかった。


(……病院……?)


 いや。


 ただの病室ではない。


 もっと、機械が多い。


 もっと、空気が張り詰めている。


 清潔で、静かで、でもどこか落ち着かない。


 廊下の向こうで聞こえる足音も、声も、どれも抑えられているのに忙しない。


 まるで、命をつなぎ止めるためだけに作られた場所。


(……集中治療室、ってやつか……?)


 考えた瞬間、記憶が戻ってくる。


 あの白い空間。


 現実とは明らかに違う、境界の曖昧な場所。


 人の形をしているようで、していない“何か”。


 神々。


 リリス。


 そして、あの言葉。


 ――お前は死んだ。


 思い出した瞬間、背中の内側を冷たいものが這った。


 全部、夢じゃない。


 あれは悪い夢でも、事故のショックで見た幻でもない。


 少なくとも湊の中では、あまりにもはっきりしていた。


 “現実の延長”として、記憶に刻まれていた。


(……戻された、ってことか……)


 神だとか、転生だとか、恩恵だとか。


 普通なら笑い飛ばすような単語が、今は変に現実味を持って頭の中に残っている。


 理解したいわけじゃないのに、頭のどこかが勝手に「そういうものとして処理しろ」と命じてくる。


 喉が乾いていた。


 ひどく。


 口の中が張りつくようで、声を出そうとしても、息だけがかすれる。


「……み……ず……」


 自分の声が、思ったよりずっと弱かった。


 掠れていて、か細くて、今にも途切れそうだ。


 その瞬間。


 近くで、かすかに椅子が動く音がした。


「っ……え?」


 小さな声。


 驚きと戸惑いが混じった声だった。


 次の瞬間、仕切りの向こうから一人の女性が顔を出す。


「お、起き……? え、あ、あの……っ」


 白衣。


 少し大きめの制服。


 胸元の名札がほんの少しだけ曲がっている。


 肩までの黒髪ボブは毛先が少し跳ねていて、耳元の髪もわずかに乱れていた。


 目は大きく、どこか不安げで、それでも必死に落ち着こうとしているのがわかる表情。


 笑顔を作ろうとしているのに、その笑顔がまだうまく形になりきっていない。


 年齢は二十歳前後だろうか。


 若い、というより、まだ“慣れていない”感じが強い。


 それが仕草の端々から滲んでいた。


 見習い看護師。


 白石結衣。


 湊はもちろん、まだその名前を知らない。


 だが、彼女はこの集中治療室で、先輩看護師の補助として記録の確認をしていた。


 昨日まで。


 いや、ついさっきまで。


 湊はほとんど反応らしい反応を返さない患者だった。


 呼びかけにも、痛み刺激にも、わずかな変化しかない。


 救命の処置は続いていても、現場の空気は決して明るくなかった。


 その患者が、今、目を開けた。


 声を出した。


 水を求めた。


 結衣にとって、それは教科書の中に出てくる“意識回復”という言葉が、突然目の前で現実になったような瞬間だった。


(うそ……)

(起きた……?)

(ほんとに……?)

(いや、確認。確認しないと)

(先輩に報告)

(先生にも)

(えっと、まず意識……バイタル……報告……順番、順番……!)


 結衣の頭の中はぐちゃぐちゃだった。


 逃げたいわけではない。


 むしろ逆だ。


 ちゃんとしなければ、という思いが強すぎて、手順の一つ一つが頭の中で絡まってしまっている。


 彼女はベッド脇のモニターへ一瞬視線を走らせ、それからナースコールではなく、すぐ近くにある連絡用のボタンへ手を伸ばした。


「せ、先輩……! 黒瀬さんが、意識……意識戻りました! 発語あります!」


 声が少し裏返っている。


 けれど、言葉は届いた。


 少し離れたところで人の気配が動く。


 足音。


 抑えた声。


 すぐに誰かがこちらへ向かってくる気配。


 結衣はそれだけで少しだけ安心したように息を吐いた。


 だが、湊は別のものを見ていた。


 視界の端に、違和感が走る。


 世界がほんの一瞬だけノイズを走らせたみたいに、空間がわずかに歪んだ。


 目の錯覚かと思う暇もなく、そこに何かが“浮かび上がった”。


 そして。


 ――表示された。


『《対象を認識しました》』


『名前:白石結衣』

『年齢:20』

『職業:見習い看護師』


『レベル:7』

『レア度:★★』


『好感度:12%』


『状態:緊張/不安/安堵しかけ』


『特性:素直/空回りしやすい/努力家』


『備考:ミスが多く、先輩からの指導対象』


『攻略難易度:★☆☆☆☆』


「……は?」


 思わず、声が漏れた。


 掠れた声だった。


 でも、確かに漏れた。


 結衣がびくっと肩を震わせる。


「す、すみませんっ! えっと、急に覗き込むみたいになっちゃって……! あの、聞こえますか!? 黒瀬さん、聞こえますか!?」


 慌てている。


 完全に、慌てている。


 言葉が少し空回りしているし、視線も落ち着かない。


 次に何をすべきか頭の中で整理しようとしているのに、焦りの方が先に出てしまっている感じだ。


 でも、その慌て方は嫌なものではなかった。


 むしろ、ちゃんと心配してくれているからこその動揺だと伝わってくる。


 けれど――。


(……見えてる)


 湊の視界には、確かに“それ”が存在していた。


 ゲームのUIみたいなウィンドウ。


 透過された文字。


 現実にはありえない情報表示。


 白石結衣の顔の横あたりに、現実の風景に重なる形で、綺麗に浮かんでいる。


(これ……)


 心臓が、わずかに跳ねる。


(……本物、か)


 その瞬間、さらに表示が重なる。


『【選択肢が表示されます】』


『A:素直にお礼を言う』


『B:無言で頷く』


『C:状況を問い詰める』


『D:水を要求する』


 時間が、止まったような感覚がした。


 視界の中に、四つの選択肢。


 見慣れすぎている形。


 見慣れすぎている構造。


 湊がこれまで何百時間、何千時間と向き合ってきた、あの“ゲームの中の当たり前”が、よりにもよって現実の集中治療室に現れている。


 ――恋愛ゲーム。


(……嘘だろ)


 喉が鳴る。


 頭の中が、一気に冴えた。


 これは幻覚か。


 事故のショックで脳がバグっているのか。


 後遺症。


 薬の影響。


 頭を打ったせいで見えてはいけないものが見えているとか、そういう笑えないやつか。


 いや――。


(違う)


 あの白い空間。


 あの存在。


 あのスキル。


 あの時、自分は確かに望んだ。


 現実を恋愛ゲームみたいに攻略できる力を。


(……これが、《恋愛選択肢表示》)


 理解した瞬間、思考が一気に回り始める。


 分析。


 状況把握。


 仮説構築。


 脳の奥にしまい込んでいた“攻略思考”が、現実に向かって起動する。


(対象を認識……好感度……状態……レベル……レア度……)


 完全に、ゲームの仕様だ。


(選択肢……つまり、ここでの行動で結果が変わる)


 結衣はまだ焦っている。


 視線が泳いでいる。


 手元も少しだけ震えている。


 それなのに、湊の視界にはその状態がはっきりと可視化されている。


『状態:緊張/不安/安堵しかけ』


(……なるほど)


 理解する。


 これはもう、完全に。


(“攻略対象”として認識されてる……)


 その言葉を頭の中で口にした瞬間、自分でも少しだけ怖くなった。


 相手は現実の人間だ。


 ゲームの立ち絵じゃない。


 シナリオの中の存在じゃない。


 ちゃんと生きていて、ちゃんと息をしていて、ちゃんと不安そうな顔をしている一人の人間だ。


 なのに、自分の脳は即座に“攻略対象”として処理し始めていた。


 恋愛ゲームの中でだけ機能していたはずの思考。


 現実では使えなかったはずの技術。


 それが、今ここで――現実に接続される。


(選択肢は四つ)


(A:素直にお礼)

(B:無言で頷く)

(C:状況を問い詰める)

(D:水を要求する)


(……普通に考えればA)


 結衣の状態を見ればわかる。


 緊張。


 不安。


 安堵しかけ。


 つまり、今は“安心させる行動”が正解だ。


 目を覚ました患者が突然黙って頷くだけなら、看護師側としてはむしろ不安が増す。意識が混濁しているのか、会話が成立するのか、痛みを訴えられないだけなのか、判断材料が足りない。


 状況を問い詰めれば、結衣はさらに焦る。


 水を要求するのも悪くはないが、今この場では彼女に判断を迫ってしまう。


 見習いの彼女にとって、目覚めたばかりの重傷患者へ勝手に水を飲ませるかどうかは、かなり怖い判断のはずだ。


 だったら。


 今、必要なのは。


(……安心させること)


 湊は、ゆっくりと口を開いた。


「……ありがとう」


 少しだけ、声は掠れていた。


 でも、ちゃんと伝わるように。


 喉の乾きと弱さの向こう側から、言葉を押し出す。


「……起きた時」

「いてくれて……助かった」


 結衣の動きが止まる。


「え……?」


 きょとんとした顔。


 大きな目が丸くなって、次の言葉を忘れたみたいに口が半開きになる。


 そして、ほんの一瞬の沈黙。


 次の瞬間。


 ぱっと、表情が変わった。


「い、いえっ! そんな……! わ、私、何も……! ちゃんと対応したの、先輩たちと先生ですし、私、ほんとに何もしてないです……!」

「で、でも、その……起きてくれて、よかったです」


 後半になるほど声が小さくなる。


 でも、その顔はさっきより明らかに明るかった。


 不安の色が少し薄れて、代わりに安堵が混ざっている。


 患者がちゃんと話せた。


 意識がはっきりしている。


 しかも感謝までされた。


 その情報が、結衣の緊張を少しだけほどいたのだとわかる。


 その瞬間。


『《好感度:12% → 16%》』


『黒瀬湊』

『現在レベル:1』

『経験値:0/100 → 3/100』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』

『スキルレベル:1』

『スキル経験値:0/50 → 5/50』


『恋愛ポイント:0 → 2』


「――っ」


 息を呑む。


(上がった……)


 確実に。


 目の前で。


(……マジかよ)


 鳥肌が立つ。


 背中の奥から、ぞわっとしたものが這い上がってくる。


 これは本物だ。


 間違いなく。


 “現実に影響している”。


 ただ表示が見えているだけじゃない。


 選択した結果が、ちゃんと変化として反映されている。


 好感度の数字が上がった。


 経験値まで入った。


 恋愛ポイントという、いかにもゲームっぽい単語まで出てきた。


 あまりにも露骨で、あまりにもゲーム的で、それなのに目の前の結衣の表情の変化とぴたりと噛み合っている。


 偶然で片づけるには、出来すぎていた。


 結衣はまだ慌てている。


 でも、さっきとは違う。


 ほんの少しだけ、距離が縮まっている。


 患者と看護師というだけじゃない、会話がひとつ成立した後の空気がある。


(……成功した)


 理解した瞬間。


 湊の中で、何かがはっきりと形になる。


(これは――)


 ゆっくりと、息を吐く。


(攻略、できる……)


 現実が。


 人間関係が。


 恋愛が。


(……全部)


 攻略対象になる。


 その考えは、ひどく危うかった。


 なのに同時に、ひどく甘美でもあった。


 今までわからなかったものが、わかるようになる。


 今まで正解が見えなかった場面に、選択肢が出る。


 今まで勘違いして終わるしかなかった相手の感情が、数字として見える。


 そんなもの。


 そんなものがもし本当にあるなら――。


(もう、負けなくて済むのか)


 ふいに、そんな感情が胸の奥から浮かび上がる。


 嬉しい、というよりも。


 救われる、というよりも。


 もっと、暗くて切実な感情。


 もう二度と、わからないまま傷つかなくて済むのかもしれない。


 もう二度と、相手にとって何でもなかった関係を、自分だけが特別だと思い込んで壊れることはないのかもしれない。


 もう二度と、あの時みたいに。


 ――遅れて、本当の答えを知ることはないのかもしれない。


「く、黒瀬さん? 大丈夫ですか? 急に黙っちゃったので……」


 結衣の声で、意識が戻る。


「あ……」


 湊は視線を上げた。


「大丈夫……たぶん」


「た、たぶん……ですか?」


「……まだ、頭が追いついてない」


「あっ、それは、そうですよね……! 事故でしたし、目が覚めたばかりですし……!」


 結衣は慌てて頷き、それからすぐに自分の手元を確認した。


「水、ですよね。あ、でも勝手に飲ませちゃだめかも……先輩と先生に確認してから……」


 彼女はぶつぶつと自分に言い聞かせるように呟いた。


 その姿を見て、湊は思う。


(……本当に、見習いなんだな)


 動きに慣れがない。


 けれど、雑ではない。


 手順を間違えないように、必死に頭の中で確認しながら動いている感じが伝わってくる。


 たぶん、何度も注意されてきたのだろう。


 焦るな。


 確認しろ。


 勝手に動くな。


 報告を先にしろ。


 そういう言葉を、たくさん浴びてきたのかもしれない。


 でも、それでもここに立っている。


 逃げずに、目の前の患者に向き合っている。


 その不器用さは、少しだけ、眩しかった。


 その時、集中治療室の入口側から、静かな足音が響いた。


 コツ、コツ、と。


 静かで、無駄のない足音。


 忙しなくもなければ、迷いもない。


 決して大きな音ではないのに、その足音だけで周囲の空気がひとつ締まるような感じがした。


 結衣がびくっと背筋を伸ばす。


「っ……」


 その反応だけでわかる。


 来た人物は、彼女にとって少なからず“緊張する相手”だ。


 仕切りの向こうに、人影が差す。


 そして。


 ゆっくりと、現れる。


 長身。


 整った顔立ち。


 無駄のない動き。


 白衣を纏った、圧倒的な存在感。


 ただ立っているだけなのに、“場を支配する側の人間”だとわかる空気がある。


 髪は艶のある黒のストレートロング。


 前髪も乱れなく整えられ、白衣の下の服装も隙がない。


 姿勢は真っ直ぐで、視線は静かに鋭い。


 美人だ、という感想が最初に来る。


 だが、それ以上に先に来るのは、“近寄りがたい”という印象だった。


 神宮寺綾乃。


 その瞬間。


 再び、表示が浮かぶ。


『《対象を認識しました》』


『名前:神宮寺綾乃』

『年齢:28』

『職業:外科医』


『レベル:32』

『レア度:★★★★★』


『好感度:3%』


『状態:警戒/観察』


『特性:理知的/責任感強/自己抑制/他者に厳しく自分にもっと厳しい』


『備考:落ち度を見逃さないが、誰より自分を追い詰めるタイプ』


『攻略難易度:★★★★★』


 ――桁が違う。


 直感でわかる。


 さっきとは、まるで違う。


 白石結衣の時に感じた“チュートリアル感”なんて、影も形もない。


 好感度はほぼゼロに近い。


 状態は警戒と観察。


 しかも、難易度は五つ星。


 レア度も五つ星。


 レベルも高い。


(……なんだ、これ)


 湊の喉がわずかに鳴る。


(同じ人間相手で、ここまで違うのかよ)


 綾乃は湊を一瞥し、その視線をすぐに結衣へ向けた。


「白石さん」


「は、はいっ」


「覚醒の報告は?」


「あ、はいっ。先輩に連絡済みです。発語あり、呼名反応ありです。まだ詳細確認はこれからで……」


「水分は?」


「まだです。確認前なので、飲ませていません」


「いい判断です」


「……っ」


 結衣の目が、少しだけ見開かれる。


 怒られると思っていたのかもしれない。


 けれど、綾乃は必要なことだけを言った。


「次に意識確認とバイタル。焦る気持ちはわかるけれど、手順を飛ばさないこと」


「はい……!」


「それと、“自分で何とかしようとしすぎない”。迷った時は報告を先に。あなたはそこを何度も指摘されているはず」


「……はい」


 今度の返事は、少し小さかった。


 しょんぼりしているのがわかる。


 綾乃はそれに気づいているはずなのに、特別にフォローはしない。


 ただ、必要なことだけを言っている。


 そのぶん、冷たく見える。


 けれど、聞いている内容自体はかなり妥当だった。


 結衣の胸の内では、ぐさりと刺さる言葉だった。


(また言われた……)

(でも、今回は水、飲ませなかった)

(そこは間違えなかった)

(ちゃんとできたところもある)

(次、ちゃんとしないと)


 湊はそのやり取りを見ながら、率直に思った。


(……こわ)


 美人だ。


 めちゃくちゃ美人だ。


 たぶん病院の中でも相当目立つ。


 スタイルもいい。


 背も高い。


 白衣の着こなしすら絵になる。


 でも、無理だ。


 近づける空気じゃない。


 ゲームでいうなら、序盤の町の外にいきなり出てくるレベル99のボスみたいなものだ。


 綾乃は改めて湊へ視線を戻した。


 その目は冷静だった。


 けれど、冷たいだけでもない。


 生きているかどうかも怪しかった患者が目を覚ました。


 その事実を前にして、医師として驚いていないはずがない。


 ただ、その驚きを表へ出す前に、先に“確認すべきこと”を並べている。


 そういう人間なのだと、湊にはなんとなくわかった。


 綾乃はベッドサイドへ一歩近づく。


「黒瀬さん。聞こえますか?」


「……はい」


「ここがどこかわかりますか」


「病院……です」


「自分の名前は」


「黒瀬湊……です」


「今日が何月何日かはわかりますか」


 そこまで聞かれて、湊は少しだけ詰まる。


「……そこは……わかりません」


「構いません」


 即答だった。


「事故のあと意識障害が長く続いていました。時間感覚が曖昧でも不自然ではありません」


 その言い方は、落ち着いていた。


 不安を煽らない。


 でも、甘やかしもしない。


 必要なことだけを、正しい順序で言ってくる。


「痛みは?」


「……あります」

「でも……鈍い、感じで」


「鈍い?」


「全体的に……重い、です」

「動かせない……」


 長く喋ると息が少し苦しい。


 言葉が途切れる。


 綾乃はすぐにそれを見抜いたように、質問を短く切った。


「吐き気は?」


「……少し」


「視界の歪みは」


「ぼやける……くらい」


「手足のしびれ」


「右が……重い」


「わかりました」


 質問は簡潔で、返答しやすい形に切られている。


 事故後の患者に無駄な負荷をかけない聞き方だと、素人の湊でもなんとなくわかった。


 その間に結衣が、手元の器具とモニターの数値を確認していく。


 動きはまだ硬い。


 だが、さっきよりは落ち着いていた。


「白石さん」


「はい」


「深呼吸」


「……え」


「焦ると、逆に手順を落とします」


 結衣は一瞬きょとんとしたあと、慌てて小さく息を吸って、吐いた。


「……はい」


「そのまま」


「……はい」


 さっきまでの指摘は厳しかったのに、今の一言は少しだけ柔らかかった。


 ほんの少しだけ。


 でも、確かに。


(……あ)


 湊は内心で少し驚く。


(ちゃんと見てるんだな)


 冷たいだけじゃない。


 必要なら、ちゃんと支える。


 ただ、それを過剰に優しく見せないだけだ。


 結衣のステータス表示がちらりと変わる。


『状態:緊張/不安 → 緊張/安心しかけ』


(そんな細かく変わるのか……)


 湊がそんなことを考えている間にも、結衣は測定を続ける。


 やがて、結衣が測定結果を確認し、小さく報告する。


「先生、バイタル……」

 一拍。

「大きな乱れ、今のところないです」


 綾乃が一瞬だけ目を細める。


 その変化は、普通なら気づかない程度だった。


 だが、《恋愛選択肢表示》のせいか、湊にはそのわずかな驚きが妙に見えた。


『神宮寺綾乃』

『状態:警戒/観察/驚き(微)』


(……驚いてる)


 当然だ。


 事故の規模を考えれば、助かる見込みそのものが低かったのだろう。


 綾乃は表情を崩さないまま、結衣へ指示を出す。


「画像と神経所見の再確認を急ぎます」

「採血も追加」

「脳外科の確認が来る前に、この時点での反応と会話成立状況を記録しておいて」


「は、はい!」


 結衣がすぐに頷く。


 だが、その目にはさっきまでと違う色があった。


 ただ焦っているだけじゃない。


 “奇跡みたいな場面に立ち会っている”という興奮と緊張が、少し混ざり始めている。


 綾乃は改めて湊を見る。


「黒瀬さん」


「……はい」


「あなたは、かなり特殊な状態から戻ってきています」


 その言葉は、静かだった。


 けれど、ひどく重かった。


「事故による損傷は重く、受傷直後の段階では救命そのものが難しい状態でした」

「その後も長時間、意識回復の兆候は乏しかった」


 一拍。


「正直に言います」

「助かる見込みは、高くありませんでした」


 結衣の肩が、わずかに揺れる。


 たぶん、その説明をここまではっきり患者本人へするのか、と一瞬思ったのだろう。


 だが綾乃は続けた。


「それでも今、あなたは目を覚ましている」

「会話が成立している」

「これは、医学的に説明のつく範囲で整理していきますが――少なくとも現時点では、極めて稀な経過です」


 湊は黙って聞いていた。


 怖くないわけではない。


 助かったと言われても、それが“普通じゃない助かり方”だと知るのは、普通に怖い。


 けれど。


 それ以上に。


(……本当に、戻ってきたんだな)


 という妙な実感の方が先に来た。


 自分は、あの白い空間を経て、ここへ戻された。


 それはたぶん、医学的には説明できない。


 だが自分の中では、妙に筋が通っている。


 変に納得してしまっているのが、逆に気味が悪かった。


「……はい」


 ようやく、湊はそう返した。


 すると綾乃は、ほんの少しだけ視線を和らげた。


 ほんの少しだけ。


「今すぐすべてを理解する必要はありません」

「ただ、ここから先は厳密に検査を進めます」

「身体の痛みも、あとから強く出る可能性があります」

「“平気そうだから大丈夫”とは思わないでください」


「……はい」


「返事が素直ですね」


 不意に、そんな言葉が落ちた。


 湊が目を瞬かせる。


 綾乃自身も、少しだけ意外そうな顔をした。


 今のはたぶん、完全に業務だけの言葉ではなかった。


 それに先に反応したのは結衣だった。


「せ、先生、それ私も思いました……!」

「もっとこう、起きた瞬間って混乱したり、痛いって言ったりとか、いろいろあるのかなって……」


「白石さん」


「あ、すみません!」


 即座にしゅんとなる結衣。


 でも綾乃は、今度はそこで切らなかった。


「それ自体はおかしくありません」

「覚醒直後の反応には個人差があります」

「ただ、今は雑談ではなく記録を優先して」


「は、はいっ」


 結衣はまた慌てて端末へ入力を始める。


 その様子を見て、湊は少しだけ口元を緩めそうになった。


(……なんか、忙しいな、この人)


 ミスが多い。


 焦る。


 すぐ空回る。


 でも、悪い感じはしない。


 その不器用さが、むしろ親しみやすい。


 そしてその瞬間、また表示が揺れる。


『白石結衣』

『好感度:16% → 18%』


『黒瀬湊』

『経験値:3/100 → 5/100』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』

『スキル経験値:5/50 → 8/50』


(……え、今のでも上がるのかよ)


 もしかして、こちらが露骨に何かしなくても、相手側が勝手に感情を動かした時点で増減する仕様なのか。


 だとすると、想像以上に細かい。


 やばい。


 面白い。


 怖い。


 全部が同時に来る。


 一方で、綾乃の表示はまだ低いままだ。


『神宮寺綾乃』

『好感度:3%』


 微動だにしない。


(……硬っ)


 ちょっと感心するくらい硬い。


 だがその硬さが、逆に燃える自分がいることに気づいてしまって、湊は内心で引いた。


(いや、待て待て待て……)

(現実の女医相手に“燃える”とか、何考えてんだよ俺……)


 だが、もう遅かった。


 恋愛ゲームの神だった頃の思考が、現実の人間関係にまで流れ込み始めている。


 高難易度。


 高レベル。


 高レア。


 しかも、ただ美人なだけじゃない。


 責任感が強くて、他人にも自分にも厳しい。


 簡単には揺れない。


 ――攻略しがいがある。


 そんな、最低な言い方が頭に浮かんでしまう。


(……いや、違うだろ)


 自分を叱る。


 相手は人間だ。


 現実だ。


 ゲームじゃない。


 その境界は、絶対に忘れちゃいけない。


 だが同時に。


 その境界線の上に、確かに今、《恋愛選択肢表示》は存在している。


 境界はもう、完全には分かれていない。


 その時だった。


 再び、綾乃の方へ視線を向けた湊の前に、半透明の表示が重なる。


『【選択肢が表示されます】』


『対象:神宮寺綾乃』


『A:正直に「怖い」と言う』


『B:落ち着いたふりをして受け答えする』


『C:冗談めかして空気を軽くする』


『D:何も言わず目を逸らす』


 さっきとは違う。


 明らかに。


 どれが正解か、一目では決めにくい。


(……来たな)


 これだ。


 高難易度キャラ特有の、“どれもあり得るように見える”選択肢。


 チュートリアルでは出ないやつだ。


 結衣の時みたいに、相手の不安を和らげればそれでいい、みたいな単純さがない。


 Aなら弱さを見せることで“本音の共有”になる可能性がある。


 Bなら会話成立度を上げて、信用を損なわずに済むかもしれない。


 Cは、相手によっては場を和らげるが、綾乃にはたぶん軽薄に映る。


 Dは論外に見えて、重傷患者としては自然な反応でもある。


(……いや)


 湊は、思考の途中で止まった。


 今、自分は何をしている。


 集中治療室で、目を覚ましたばかりの重傷患者だ。


 医師が自分の状態を確認している。


 命が助かったかどうかの話をしている。


 そんな場面で、何を“攻略”しようとしている。


(違う)


 違う。


 これは選ばない。


 少なくとも、今は。


 選択肢が出たからといって、必ず押さなければいけないわけじゃない。


 ゲームなら、選択肢は進行のためにある。


 けれど現実は違う。


 選ばないことも、たぶん選択だ。


 湊は喉を鳴らし、視線を少しだけ逸らした。


「……その」


 綾乃の目が、わずかに細まる。


「正直……怖いです」


 Aに近い。


 だが、それだけでは終わらせない。


「でも……今は、ちゃんと聞きます」

「説明、してください」


 一瞬だけ、システム表示が揺れる。


『選択処理中……』


『補正行動を確認しました』


『警告:対象は高難易度です。好感度変動は限定的です』


 綾乃の表情は大きく変わらない。


 けれど、そのまま数秒、こちらを見たあと、静かに言った。


「それで十分です」


 一拍。


「怖くない方が不自然です」

「その上で、聞こうとしているなら問題ありません」


 その言葉は、思っていたよりずっとまっすぐだった。


 安心させるための綺麗事ではない。


 でも、切り捨てもしない。


 現実的で、ちゃんと人を立たせる言い方だった。


 その瞬間。


『神宮寺綾乃』

『好感度:3%』


 数字は変わらない。


 だが。


『状態:警戒/観察 → 観察/違和感(微)』


(……好感度は、動かない)


 けれど、状態は変わった。


 それが逆に怖かった。


 綾乃は惹かれていない。


 好意を抱いたわけでもない。


 でも、“何か”には気づき始めている。


 湊が普通の患者とは少し違うこと。


 反応の仕方。


 目線の動き。


 言葉の選び方。


 それらを、ほんのわずかに拾われた。


(……この人、やばい)


 高難易度キャラというより。


 もはや、攻略対象である前に、こちらの異常性を暴く観察者に近い。


 その時だった。


 視界の端で、今までより少しだけ強い青白い光が脈打つ。


 ただの表示ではない。


 好感度や状態が浮かんだ時の、あの淡い反応とは違う。


 もっと明確な、“システム側からの介入”みたいな光り方だった。


 集中治療室の白とは異質な、冷たい青の明滅。


 現実の中へ、ゲームのルールそのものが割り込んでくるみたいな、不気味で、けれど妙に見覚えのある演出。


 そして次の瞬間。


 視界の中央に、今までで一番大きなウィンドウが開いた。


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』


『使用開始を確認しました』


『現在ステージ:集中治療室』


『対象者登録:1名』


『登録対象:白石結衣』


『監視対象:神宮寺綾乃』


『注意:神宮寺綾乃は現時点で攻略推奨対象ではありません』


『チュートリアルイベントを開始します』


(…………は?)


 湊は、心の中でだけそう呟いたつもりだった。


 だが、あまりに唐突で、あまりに現実味がなくて、喉の奥でかすかに声が漏れたらしい。


 結衣がぴくっと反応する。


「く、黒瀬さん!? だ、大丈夫ですか!? どこか痛くなりましたか!? 気持ち悪いとか、視界が変とか――」


「あ、いや……」

「大丈夫、です」


 危ない。


 今ここで「チュートリアルが始まったんで」とか口走ったら、普通に脳の後遺症か何かを疑われる。


 いや、実際、疑われても仕方がない。


 視界にゲームのウィンドウが見えている時点で、客観的にはそっちの方が正しい判断だ。


 結衣はまだ不安そうな顔でこちらを見ていたが、綾乃が横から静かに言った。


「白石さん、追加の記録を先に」

「私は一度、画像確認と脳外科へ状況を共有してきます」


「は、はいっ」


 綾乃はそれから湊へ視線を向ける。


 まっすぐに。


 冷静に。


 だが、ただ冷たいだけではない、何かを見極めようとする視線で。


「黒瀬さん。すぐ戻ります」

「その間に状態が変わったら、無理せず白石さんへ伝えてください」


「……はい」


 それだけ言って、綾乃は踵を返す。


 白衣の裾が小さく揺れ、無駄のない足音が仕切りの向こうへ消えていく。


 その背中が見えなくなった瞬間、周囲の空気がほんの少しだけ軽くなる。


 結衣の肩も、同時にわずかに下がった。


 やっぱり緊張していたのだろう、と湊は妙に冷静に理解する。


 けれど結衣本人は、安堵した自分を少しだけ責めてもいた。


(だめだ、また先生がいるだけで固くなってる)

(ちゃんとしなきゃって思うと、余計に失敗しそうになる……)

(でも、今は黒瀬さんのこと優先)

(ちゃんと見ないと)


 その理解より先に。


 視界の中央に開いたウィンドウが、さらに形を変えた。


『《恋愛選択肢表示》 チュートリアル』


『ようこそ、現実恋愛攻略システムへ』


(いや、文面軽っ……)


 思わず内心で突っ込む。


 だが、表示は容赦なく続いた。


『本スキルは、対象女性の情報を認識し、好感度・状態・レベル・レア度・攻略難易度・選択肢を可視化します』


『また、行動結果に応じて経験値・スキル経験値・恋愛ポイントを獲得します』


『以下、基本仕様を確認してください』


 その下に、半透明の小ウィンドウがいくつも展開される。


『【現在ステータス】』


『黒瀬湊』

『レベル:1』

『経験値:5/100』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』

『スキルレベル:1』

『スキル経験値:8/50』


『恋愛ポイント:2』


『所持アイテム:なし』


『【基本情報】』


『レベル:対象の総合スペック』


『レア度:イベント価値・希少性・物語的重要度』


『好感度:対象があなたに抱く好意・関心・意識の割合』


『状態:対象の現在の心理状態』


『攻略難易度:対象を攻略する難しさ』


『【補足】』


『レベルが高い対象ほど、選択肢の精度が要求されます』


『レア度が高い対象ほど、イベント影響力が大きくなります』


『好感度が高くても、攻略成功とは限りません』


『好感度が低くても、攻略不能とは限りません』


『【重要】』


『現実の対象者はゲームキャラクターではありません』


『選択の結果は一回性です』


『セーブ&ロード機能は存在しません』


 最後の一文だけ、妙に重かった。


 湊は一瞬、呼吸を止める。


(……セーブ&ロード、なし)


 当たり前だ。


 現実なのだから。


 でも、恋愛ゲームの神として生きてきた自分にとって、その一文はかなり鋭く刺さった。


 やり直せない。


 このスキルがあっても。


 選択肢が見えても。


 現実であること自体は変わらない。


 それは救いであると同時に、脅しでもあった。


 答えが“見える”ようになったからといって、失敗の重さまで軽くなるわけではない。


 むしろ逆かもしれない。


 見えていたのに間違えた時、たぶん以前よりずっと痛い。


 画面はさらに続く。


『【行動評価】』


『対象の状態に適した選択を行った場合、好感度・信頼・イベント進行度が上昇します』


『不適切な選択を行った場合、好感度・警戒度・失敗フラグが変動します』


『【注意事項】』


『同一対象に対し、万能な正解は存在しません』


『前回の成功行動が、次回も成功するとは限りません』


『対象の性格・立場・状況・現在心理を読んでください』


『【攻略者心得】』


『相手を数値だけで見ないこと』


『表示は補助であり、答えの全てではありません』


『人間を“処理”し始めた時点で、攻略は破綻します』


 そこで、湊の喉が小さく鳴る。


(……そこまで言うのか)


 スキル自身が、自分の危うさを先回りして刺してくる。


 たしかにそうだ。


 さっきの自分は、結衣を“攻略対象”と処理しかけた。


 綾乃を“高難易度キャラ”と見かけた。


 その危うさは、もう自覚している。


 便利だ。


 でも便利すぎる。


 人間を人間のまま見なくなる危険が、このスキルには最初から組み込まれている。


 チュートリアルは、そこまでわかった上で使えと言っているのだ。


『【初回実践チュートリアル】』


『対象:白石結衣』


『イベント名:《はじめての選択肢》』


『目的:対象の心理を安定させる』


『成功条件:対象の状態から「不安」を除去する』


『追加条件:対象に「あなたの言葉が自然である」と認識させる』


『報酬:経験値/スキル経験値/恋愛ポイント/初回チュートリアルアイテム』


(……やっぱり結衣さんか)


 視線の先では、結衣が端末へ入力しながらも、ちらちらとこちらを気にしている。


 さっきよりは落ち着いた。


 でもまだ不安は消えていない。


 “奇跡みたいに目を覚ました患者”を前にして、完全に平静でいられるほど彼女は場慣れしていないのだろう。


 彼女の白衣の袖口が少し揺れるたびに、緊張がまだ抜けきっていないことが伝わってくる。


 記録端末へ指を伸ばす動作も、丁寧すぎるくらい慎重だ。


 ミスをしないように、何度も心の中で手順をなぞっているような、そんな硬さがある。


 しかもその不安は、ただ“患者が起きたから”だけではない。


 今さっき綾乃に注意されたばかりだ。


 報告はできた。


 水も勝手に飲ませなかった。


 それでも、次に間違えないかと不安になっている。


 そんな彼女の内側まで、湊にはなんとなく見えてしまう気がした。


『対象の心理を安定させてください』


『推奨:対象が欲している反応を返してください』


『制限時間:会話終了まで』


「……制限時間まであるのかよ」


 思わず本音が漏れそうになるのを、湊はぎりぎりで飲み込んだ。


 いや、飲み込めていたのかどうかは怪しい。


 結衣が「え?」とこちらを見た気がする。


「な、何か言いましたか?」


「……いや」

「ひとりごと……です」


「あ、そ、そうですよね……すみません、聞き返しちゃって」


「い、いや……」


 そのやり取りの横で、表示がさらに変わる。


『白石結衣』


『状態:緊張/不安/気になる』


(“気になる”増えてる……)


 細かい。


 細かすぎる。


 だが、その細かさこそが今はありがたい。


 結衣は今、業務としてこちらを見ているだけじゃない。


 “この患者さん、大丈夫かな”と、個人的にも気にしている。


 なら、必要なのはたぶん。


 安心だ。


 しかも、“自分はちゃんと対応できている”と思わせる形の安心。


 結衣は見習いで、ミスが多い。


 つまり、自分の対応が間違っていないか、どこかでずっと不安を抱えている。


 だったら。


 今この場で効くのは、単なる「大丈夫」じゃない。


 “あなたがいて安心した”という、彼女自身の存在を肯定する言葉だ。


 その瞬間、選択肢が表示される。


『【選択肢】』


『A:さっき、いてくれて安心した』


『B:もう少し水をもらえますか』


『C:無言で見つめる』


『D:白石さんは、ちゃんとできています』


(D、強すぎないか……?)


 内心で湊は息を呑む。


 Aは自然だ。


 Bは業務寄り。


 Cは地雷。


 Dは、おそらく一番刺さる。


 けれど、刺さりすぎる。


 見習いで、ミスを気にしていて、いま綾乃に指摘された直後の結衣に対して、「ちゃんとできています」は強い。


 強すぎる。


 それは攻略としては正解でも、現実としては少し危うい。


 今の関係性でそこまで踏み込めば、優しい言葉ではなく、妙に距離が近い言葉になる。


(……Aだ)


 今は、A。


 存在そのものへの感謝。


 自分が本当に思ったこと。


 嘘じゃない言葉。


 攻略ではなく、まず人として返せる言葉。


 湊は小さく息を吐いて、結衣を見る。


「白石さん」


「は、はいっ」


 結衣がぱっと顔を上げる。


「さっき……起きた時」

「いてくれて……安心した」


 一瞬。


 本当に一瞬だけ。


 結衣の表情が止まる。


「……え」


「一人だったら……たぶん」

「もっと、怖かったから」

「助かりました」


 言ってから、湊は少しだけ気まずくなる。


 こういうの、現実で口にするのはあまりにも慣れていない。


 ゲームなら選択肢を押すだけだ。


 でも現実は、自分の声で、自分の顔で、相手に届けなければいけない。


 その生々しさに、言った自分の方が妙に照れる。


 結衣の反応は、想像以上だった。


「そ、そんな……っ」

「わ、私、ほんとに、ちゃんとできてたわけじゃなくて……」

「でも、その……そう言ってもらえると、すごく、うれしいです……」


 頬がほんの少し赤くなっている。


 表情も、さっきより明らかにやわらかい。


 不安そうに寄っていた眉がほどけ、口元には小さな、でもはっきりとした笑みが浮かんでいた。


 その笑顔は、派手ではない。


 恋愛ゲームのヒロインがイベントスチルで見せるような、計算された華やかさもない。


 けれど、湊には妙に眩しく見えた。


 現実の人間が、少しだけ安心して、少しだけ嬉しそうに笑う。


 たったそれだけのことが、こんなに胸に残るのかと驚くくらいに。


 結衣の胸は少し騒がしくなっていた。


(うれしい……)

(なんでこんなにうれしいんだろ)

(患者さんにお礼言われるのなんて、別に初めてじゃないのに)

(でも今の、なんか……)

(ちゃんと“私”に向けて言われた感じがした)


 見習い看護師である結衣は、いつも誰かの“補助”として存在している。


 先輩の指示を受ける側。


 医師の補助をする側。


 怒られる時も、「まだできていない人」として怒られる。


 だからこそ、“自分がそこにいたことで安心した”と言われるのは、思っている以上に効いた。


『白石結衣』


『好感度:18% → 23%』


『状態更新:緊張/不安/気になる → 緊張/安心/好印象』


『イベント進行度:60%』


『黒瀬湊』

『経験値:5/100 → 15/100』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』

『スキル経験値:8/50 → 23/50』


『恋愛ポイント:2 → 7』


 湊は、その表示を見て、ほんのわずかに息を呑んだ。


(……成功、した)


 しかも、さっきより伸び幅が大きい。


 やはり“対象の状態に合わせた言葉”を選ぶのが重要らしい。


 その理解が、脳の奥で熱を持つ。


 ゲームで何度も経験してきた、正解を踏んだ時の感覚。


 フラグが繋がる感覚。


 好感度イベントが前進した時のあの確信。


 それが、今、現実に起きている。


 しかし。


 そこで終わりではなかった。


 青白いウィンドウが、さらに淡く明滅する。


『【連続選択】』


『対象の不安は軽減されました』


『追加会話でイベント達成率を上昇できます』


『ただし、過剰な言葉は誤解を生みます』


『【選択肢】』


『A:白石さんが慌ててくれたから、現実に戻れた感じがした』


『B:先生、怖い人なんですか?』


『C:俺、もしかして死にかけました?』


『D:何でもないです。記録、続けてください』


(また来た……)


 湊は目を細める。


 Aは胸キュン寄り。


 Bは結衣の内側を引き出せるが、陰口っぽくなる危険がある。


 Cは自分の不安を出す選択肢。


 Dは安全だが、距離は進まない。


(……ここでAは、ちょっと強い)

(でも、嘘ではない)


 綾乃がいなくなった今、結衣は少しだけ肩の力が抜けている。


 ここで結衣の不器用さを責めるのではなく、肯定する。


 しかも、軽く。


 重くしすぎない。


 湊は、喉の痛みを意識しながら、短く言葉を選ぶ。


「白石さんが……慌ててくれたから」


「え?」


「なんか……」

「現実に戻った感じ、しました」


「わ、私、慌てすぎですよね……!」


 結衣は恥ずかしそうに肩を縮めた。


 けれど、その頬にはまた少し赤みが差している。


「でも……その」

「そういうふうに言ってもらえるなら、ちょっとだけ……慌てたのも、無駄じゃなかったのかなって思えます」


 最後の方は、ほとんど独り言みたいだった。


 湊の胸が、なぜか少しだけ詰まる。


 それはゲームで好感度が上がった時の快感とは違った。


 もっと不器用で、もっとあたたかい。


 誰かの心に、言葉が届いた感覚。


 自分が選んだ言葉で、目の前の誰かの表情が変わる。


 それがこんなに生々しくて、こんなに照れくさくて、こんなに怖いものなのだと、湊は初めて知った気がした。


『白石結衣』


『好感度:23% → 27%』


『状態更新:緊張/安心/好印象 → 安心/好印象/照れ』


『イベント進行度:85%』


『黒瀬湊』

『経験値:15/100 → 25/100』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』

『スキル経験値:23/50 → 38/50』


『恋愛ポイント:7 → 12』


(上がりすぎ……ではない、か)

(でも、確実に進んでる)


 結衣は端末を持ったまま、少しだけ視線を泳がせる。


「あの……黒瀬さん」


「……はい」


「私、まだ見習いで」

「正直、失敗ばっかりで」

「さっきも先生に注意されましたし」

「たぶん、見てて危なっかしいと思うんですけど……」


 そこで結衣は一度、唇を結んだ。


 言っていいのか迷っている顔だった。


 でも、結局、続けた。


「でも、ちゃんと見てます」

「黒瀬さんのこと」

「もし苦しくなったり、痛くなったり、変だなって思ったら、すぐ言ってください」

「私一人じゃ何もできないかもしれないですけど、でも、すぐ先輩も先生も呼びますから」


 その声は、まだ頼りなかった。


 震えもあった。


 けれど、真剣だった。


 その真剣さが、湊には妙に刺さった。


 目の前にいるのは、完璧な看護師ではない。


 頼もしさだけで安心させてくれる人でもない。


 でも、自分が未熟だとわかっていて、それでも逃げずにそこに立っている人だ。


 そういう人の言葉は、不思議と信用できた。


 湊は短く息を吸う。


 答えを選ぶ前に、また選択肢が出る。


『【選択肢】』


『A:頼りにしています』


『B:白石さんなら大丈夫だと思います』


『C:じゃあ、痛くなったらすぐ呼びます』


『D:無理しないでください』


(……これは)


 湊は迷った。


 Aはかなり刺さる。


 Bは励ましだが、根拠が薄い。


 Cは現実的で自然。


 Dは優しいが、患者側が看護師を心配しすぎる構図になる。


(イベント達成だけならA)

(でも、今の結衣さんには、Aは重いかもしれない)


 “頼りにしています”。


それは、結衣が一番欲しがっている言葉かもしれない。


 でも、今の彼女にそれを言えば、嬉しさと同時にプレッシャーにもなる。


 見習いで、まだ自信がなくて、失敗を気にしている相手に、いきなり全幅の信頼を預けるのは、優しさに見えて負担かもしれない。


(Cだ)


 自然に。


 患者として。


 けれど、ちゃんと彼女の言葉を受け取る。


 湊は目を細め、ゆっくり言った。


「じゃあ……」

「痛くなったら、すぐ呼びます」


 結衣が目を丸くする。


「……はい」


「だから……」

「その時は、お願いします」


 その言葉を聞いた瞬間、結衣の表情がふわりと緩んだ。


 Aほど劇的ではない。


 けれど、確実に届いた。


 自分が言ったことを、患者がちゃんと受け取ってくれた。


 必要な時に呼ぶと言ってくれた。


 それは、医療者としての自分を信頼されたというより、目の前にいる一人の人間として、ちゃんと会話が成立したという感覚だった。


「……はい」

「任せてください」


 そう言ってから、結衣は自分で少し驚いたように目を瞬かせる。


 任せてください。


 そんな言葉を、自分が言えた。


 いつもなら、言う前に不安になる。


 本当に任されて大丈夫なのか。


 先輩みたいに動けるのか。


 また失敗しないか。


 でも今は、その言葉が自然に出た。


 湊が真っ直ぐにこちらを見て、痛くなったら呼ぶと言ってくれたから。


 それだけで、少しだけ背筋が伸びた気がした。


『白石結衣』


『好感度:27% → 30%』


『状態更新:安心/好印象/照れ → 安心/好印象/小さな自信』


『イベント進行度:100%』


『チュートリアルイベント《はじめての選択肢》クリア』


『報酬を獲得しました』


『黒瀬湊』

『経験値:25/100 → 50/100』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』

『スキル経験値:38/50 → 68/50』


『恋愛ポイント:12 → 25』


『アイテム獲得:初心者用恋愛メモリ×1』


『アイテム獲得:看護師の小さな信頼×1』


『条件達成:初回チュートリアル完全成功』


『追加報酬:スキル経験値+10』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』

『スキル経験値:68/50 → 78/50』


『スキルレベルが上昇しました』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』

『スキルレベル:1 → 2』


『余剰スキル経験値:28/150』


『新機能を解放しました』


『新機能:《状態変化ログ》』


『対象の心理状態が変化した際、簡易履歴を確認できます』


『新機能:《選択肢ヒント》』


『一部選択肢に対し、危険度・自然度・好感度影響の傾向を低精度で表示します』


『新スキルを獲得しました』


『《微表情解析 Lv1》』


『対象の表情変化から、感情の揺れを低確率で補足します』


(レベルアップした……!?)


 湊は思わず呼吸を忘れた。


 固有スキルのレベルが上がった。


 ただの表示だけじゃない。


 新機能。


 新スキル。


 アイテム。


 ポイント。


 経験値。


 完全にゲームだ。


 けれど、目の前で結衣が少しだけ自信を取り戻した表情をしているせいで、その“ゲームっぽさ”が逆に怖い。


 これは便利な機能じゃない。


 相手の感情を動かした結果として、報酬が手に入る仕組みだ。


 つまり、誰かの心が揺れるほど、自分は強くなる。


(……やっぱり、危ない)


 湊は小さく唇を噛んだ。


 嬉しい。


 面白い。


 でも、怖い。


 この力に慣れたら、自分は本当に人間を人間として見られるのか。


 それとも、好感度と報酬とイベント進行度の塊として見るようになるのか。


 わからない。


 わからないから、怖い。


 その時だった。


 廊下の向こうから、再びあの静かな足音が近づいてきた。


 コツ、コツ、と。


 無駄のない一定のテンポ。


 さっきよりも、少し早い。


 結衣がすぐに姿勢を正す。


 綾乃が戻ってきたのだと、音だけでわかった。


 次の瞬間、表示が切り替わる。


『【チュートリアル終了】』


『基本操作の習得を確認しました』


『次回以降、対象ごとに難易度の異なる選択肢が表示されます』


『高難易度対象には慎重に対応してください』


『ヒント:好感度より“状態”を読め』


『集中治療室ステージ 継続中』


 青白い光が、すっと薄れていく。


 それと入れ替わるように、仕切りの向こうから綾乃が姿を現した。


 その目は相変わらず鋭く、冷静で、どこか人の内側まで見透かしそうだった。


 結衣がぴんと背を伸ばす。


「せ、先生。追加記録、ここまで入りました」


「確認します」


 綾乃はそう言って端末へ視線を落とし、それからほんの一瞬だけ、湊と結衣の間に流れている空気を見た。


 空気、というほどのものではない。


 でも、たしかにさっきまでとは違う。


 患者が目を覚まし、見習い看護師がその対応をして、少しだけ会話が成立したあとの柔らかさ。


 綾乃の視線が、ほんのわずかに細くなる。


 その変化と同時に、表示がまたひとつだけ浮いた。


『神宮寺綾乃』


『状態:観察/違和感(微)』


(……え)


 湊は内心で息を呑む。


 もう来た。


 この人、勘が鋭いどころじゃない。


 ちょっとした空気の変化を、もう拾っている。


 やばい。


 面白い。


 怖い。


 この人だけ、攻略難易度が高い理由が、今の数秒で少しだけわかった気がした。


 一方で綾乃の方も、はっきりとは言語化できない違和感を覚えていた。


(……空気が変わってる)


 ほんの数分前まで、白石結衣は完全に慌てていた。


 患者の覚醒という異常事態に引っ張られ、手順を飛ばしかけてもおかしくないほど緊張していた。


 なのに今は違う。


 まだ硬さはある。


 だが、その硬さの中にわずかな柔らかさが混じっている。


 ただ業務をこなしているだけではない、“個人的な好印象”に近い何かが、空気に残っている。


 理由はわからない。


 だが、原因が目の前の患者にあることだけはわかる。


 黒瀬湊。


 事故から戻ってきたばかりの患者。


 本来なら、もっと混乱していてもおかしくないはずの状態なのに、会話の返し方が妙に落ち着いている。


 弱々しいのに、どこか人を見る視線が冷静だ。


 綾乃はそれを見て、ほんのわずかに警戒を深める。


(……この人)

(ただ混乱しているだけじゃない)


 けれど、今はそこを追う場面ではない。


 まずは検査と確認。


 現実を固めることが先だ。


 綾乃は何も言わない。


 けれど、その沈黙そのものが、次のゲームはさっきみたいに簡単じゃないと告げていた。


 その時。


 薄れかけていた青白いウィンドウが、最後にもう一度だけ揺れた。


『現在ステージ:集中治療室』


『登録対象:白石結衣』


『監視対象:神宮寺綾乃』


『注意:監視対象は異常検知能力が高い個体です』


『警告:不用意な選択は、攻略ではなく疑念を生みます』


(……監視対象って、なんだよ)


 湊がそう思った瞬間。


 神宮寺綾乃の視線が、まっすぐにこちらを射抜いた。


「黒瀬さん」


「……はい」


「今」


 一拍。


「何を見ていましたか?」


 息が止まった。


 結衣が不思議そうに二人を見る。


 モニターの電子音だけが、規則正しく鳴っている。


 チュートリアルは終わった。


 現実は、もうゲームのふりをしてくれない。

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