第1話 選択肢のない選択
夜の街は、昼間とはまるで別の顔をしている。
昼のあいだ、学生や会社員や買い物客で賑わっていた通りは、夜になると急に息を潜める。さっきまで当たり前のようにあふれていた人の声も、店先から流れていた軽い音楽も、信号待ちのざわめきも、気づけばどこか遠くへ退いていた。
道路脇に並ぶ街灯の白い光が、雨上がりのアスファルトにぼんやりと滲んでいる。濡れた路面には信号機の赤と青が揺れていて、通り過ぎる車のヘッドライトが細く長く伸び、すぐに崩れて消えていった。小さな水たまりの表面が、車の振動に合わせてかすかに震え、そのたびに街の光が歪む。
空を見上げても、星はほとんど見えない。
薄い雲が夜空を覆っているのか、街の明かりが強すぎるのか。
どちらにしても、見えるのは鈍く暗い色の天井みたいな空だけだった。
吐く息は白くならない。けれど、空気は少しだけひやりとしていて、肌の上を湿った冷たさが這っていく。雨上がり特有の、アスファルトと鉄と土が混ざった匂いが、かすかに鼻の奥へ残っていた。
そんな夜道を、黒瀬湊は一人で歩いていた。
肩から提げたバッグは少しくたびれていて、制服の着こなしもひどく地味だった。ブレザーは一応ちゃんと着ている。シャツも出してはいない。けれど、全体として妙に野暮ったい。ネクタイはほんの少しだけ曲がっていて、襟元にもわずかな崩れがある。本人はたぶん気にしていないし、仮に気づいたとしても、いちいち直すことはしないだろう。
長めの前髪が目元にかかり、丸型のメガネの奥にある表情は外から見えにくい。
身長はそこそこある。細身で、痩せていて、顔立ちだけ切り取れば別に悪くない。だが、姿勢が悪かった。肩はわずかに落ち、背中は少しだけ丸まっている。視線は常に少し下を向いていて、自分から存在感を消そうとしているような歩き方をしていた。
言ってしまえば、完璧な“陰キャ”だった。
しかも、その陰キャっぽさに本人の強い美学やこだわりがあるわけではない。ただ昔からこうしているうちに、気づけばもう修正のきかないところまで来てしまった――そんな、生活習慣みたいな陰キャだった。
(……いや、ほんと、ひど……。見た目だけ切り取ったら、どっからどう見ても“話しかけるなオーラ全開のオタク”じゃん。こわ……。いや自分なんだけど……)
自分で自分をそう評して、湊は小さく内心で苦笑する。
髪はボサボサ。メガネは丸型。服は地味。おしゃれの欠片もない。流行に乗る気配もない。身体も細くて、頼りなさそうに見える。せめて背筋くらい伸ばせばまだ違うのかもしれないが、そんなことを意識するのも面倒だった。
どうせ誰も見ていない。
そう思うようになったのは、いつからだったか。
右手にはスマートフォン。
画面に映っているのは、色鮮やかな恋愛ゲームのホーム画面だった。
可愛らしいヒロインたちの立ち絵が並び、その中心にはイベントバナーが表示されている。期間限定イベント。追加ルート解放。新規ヒロイン実装。ランキング更新。復刻シナリオ。好感度ボーナスアップ。どれも見慣れた文字で、見慣れた情報で、見慣れた世界だった。
湊は無言のまま画面をタップする。
ホームからイベント画面へ。イベント画面から報酬一覧へ。報酬一覧から交換所へ。必要ポイントを確認し、残り日数を見て、自然回復でどこまで行けるかを頭の中で計算する。スタミナ効率のいい周回先を確認し、限定シナリオの未回収差分が本当にないか念のため再チェックする。
次にどのルートを回れば最も効率がいいか。
どのタイミングで石を砕けば無駄がないか。
どこで好感度イベントを挟めば回収率が最大化するか。
どの選択肢が実質的な罠で、どのセリフが内部好感度に補正をかけるのか。
イベントスチル解放条件、隠し分岐、限定ボイスの発生条件、真エンド到達に必要なフラグ数。
そういうことが、湊には自然にわかった。
努力して覚えたというより、考えるまでもなく体に染みついている感じだった。
(……今日のデイリーは終わった。ランキングのボーダー、昨日の伸び方ならまだ余裕。限定シナリオの分岐も回収済み。隠し条件、たぶんこれで埋まる。明日の更新までにスタミナ吐き切って、自然回復分で朝の新規分岐触って……あ、でも明日の昼ボーダーちょっと上がるかも。いや、上がっても石一回で足りる……)
画面の遷移に合わせて、湊の脳内では淡々と情報処理が進んでいく。
誰にも見せない顔だった。
学校ではほとんど喋らない。
話しかけられれば返す。必要なことなら答える。グループワークで完全に無視されたりはしない。けれど、自分から会話を始めることはほぼない。
話題を振ることもない。
笑いの中心に入ることもない。
そもそも、そういう輪の中に自分から近づくことがない。
クラスメイトの中には、たぶん湊の名前をきちんと覚えていない者もいるだろう。席順や出席番号で何となく認識されている程度だ。別にいじめられているわけではない。悪意が向けられているわけでもない。ただ単純に、存在感が薄いのだ。
いても困らないし、いなくてもすぐには気づかれない。
そんな立ち位置。
(……まあ、その方が楽だし……。いや、楽っていうか、その……楽ってことにしとかないと、いろいろ面倒だし……)
そう思い込むのは、もう癖だった。
人の輪に入ろうとして、変に空気を壊すよりはましだ。
話しかけて、微妙な沈黙を生むよりはましだ。
気を遣われるくらいなら、最初から視界の端で薄くなっている方がいい。
傷つくことも少ないし、余計な期待もしなくて済む。
――少なくとも、そういうことにしておいた方が、自分の気持ちの辻褄が合った。
だが、そんな湊も、恋愛ゲームの世界に限れば話は別だった。
攻略掲示板。
有志Wiki。
イベント最適化ルート。
隠し好感度分岐の検証。
高難易度ヒロインの同時攻略。
複雑すぎるフラグ管理。
条件の厳しい真エンド。
バグみたいな隠しイベント。
恋愛ゲームをやり込む者たちの間では、ある名前が半ば伝説のように語られている。
どんな難易度のヒロインでも最短手順で攻略する。
選択肢の最適解を一目で見抜く。
複雑すぎる分岐条件も一晩で解読する。
誰も到達できなかった最難関ヒロインの真エンドを、実装初日に攻略した。
公式が数週間後に公開する予定だった隠し分岐を、たった一晩で見つけ出した。
複数ヒロイン同時攻略による特殊ルートすら発掘し、“運営の想定を超えた男”とまで呼ばれた。
そして、公式攻略班すら気づかなかった内部フラグ構造を暴き、攻略Wikiの仕様そのものを書き換えた。
恋愛ゲーム界隈では、もはや知らぬ者はいない。
誰も正体を知らない、恋愛ゲーム界の“神”。
その正体が、こんな夜道を猫背で歩いている黒瀬湊だと知る者は、当然いない。
(……現実もこれくらいわかりやすければ、まあ……その、もうちょいだけ、マシなんだけどな)
心の中で呟き、湊は小さく息を吐いた。
ゲームは簡単だ。
少なくとも、現実よりはずっと。
好感度がある。
フラグがある。
選択肢がある。
正解がある。
このタイミングでこの言葉を選べば、相手は喜ぶ。
ここで一歩踏み込めばイベントが進む。
逆にここは待つべきだとわかる。
ここで無理に好感度を上げようとすれば失敗する。
そういうのが、全部“見える”。
いや、見えるようにできている。
すべてが明確だ。
努力すれば届くし、間違えたとしてもやり直せる。
最悪、セーブからやり直せばいい。
分岐を知っていれば対策もできる。
現実みたいに、たった一度の失敗で、関係ごと全部壊れて取り返しがつかなくなることはない。
(……まあ、現実に好感度なんか見えたら、それはそれで地獄かもだけど……。いやでも、見えないよりはマシか……? うーん……いや、でもゼロ見えたら普通に死ぬし……)
皮肉のつもりで考えたのに、胸の奥が少しだけ痛んだ。
湊は無意識に歩く速度をわずかに落とす。
夜の静けさは、余計なことを思い出しやすい。
だから嫌いだった。
人通りが減り、周囲の音が薄くなると、自分の頭の中の声だけがはっきり聞こえてしまう。
考えないようにしても、ふとした拍子に過去が浮かんでくる。
三人でいた時間。
笑っていた記憶。
夕方まで一緒に遊んだ帰り道。
どうでもいい話をして、くだらないことで笑って、それがずっと続くものだと、子どもの頃は本気で思っていた。
幼馴染みという言葉を、勝手に特別なものだと思っていた。
自分だけが。
(……やめろやめろやめろ、今それは……。夜道ってほんと最悪だな……)
湊は内心で自分を止めた。
だが、一度緩んだ意識は簡単には戻ってくれない。
脳裏に浮かぶのは、一人の少女の笑顔だった。
橘ひより。
昔からずっと一緒にいた幼馴染み。
明るくて、よく笑って、誰にでも優しかった。
小さい頃は髪を二つに結んでいて、転んだ時には泣きながら湊の袖を掴んだりもしていたくせに、気づけば誰よりも人付き合いが上手くなっていた。男女問わず人気があって、クラスの中心にいても不思議じゃないような子になっていた。
そして、湊にとっては初恋の相手だった。
もう一人の幼馴染みの顔も浮かぶ。
神城陸。
何をやっても様になる、昔から中心にいる側の人間。
明るくて、自然と人が集まる。運動もできて、勉強もそこそこできて、気遣いもできる。何もかもが“自然”で、努力してそう見せている感じがしない。自分とは違う世界の住人みたいなやつだった。
三人でいるのが当たり前だった。
少なくとも、湊はそう思っていた。
あの日までは。
(……なんで、今さら思い出すんだよ……)
喉の奥がひどく乾く。
あの時の自分は、本気だった。
笑われてもいい覚悟なんて、もちろん最初からあったわけじゃない。
怖かった。
怖くてたまらなかった。
断られるかもしれない、避けられるかもしれない、今までの関係が壊れるかもしれない。そんなこと、考えないはずがない。
それでも勇気を出した。
言わなければ、一生後悔すると思ったから。
このまま何も伝えないまま、ただ“いい幼馴染み”で終わるのだけは嫌だったから。
好きだと、伝えた。
ずっと好きだったと、伝えた。
震える声で。
情けない顔で。
格好悪いぐらい必死に。
ちゃんと彼女の目を見ようとして、でも途中で怖くなって、何度も視線が揺れて、それでも最後まで言い切った。
――本気だった。
本気で、あの時の自分は、人生の中で一番勇気を出した。
けれど結果は、あまりにもあっけなかった。
『ごめん』
たったそれだけなら、まだよかった。
好きになってもらえなかったのなら、それは仕方のないことだ。
誰かを好きになる気持ちを強制できないことくらい、湊にだってわかっていた。
傷つくのは当然でも、誰が悪いわけでもない。
泣きたくなるのも、みっともなくなるのも、自分の中でどうにか消化するしかない。
――本来なら、それで終わるはずだった。
だが、現実はそこでは終わらなかった。
ひよりはもう、陸を選んでいた。
湊が想いを伝えるより前に。
しかも、それを湊は“あとから知った”。
自分だけが遅れていて、自分だけが何も知らなくて、自分だけが勝手に希望を持っていたのだと、そういう形で知ってしまった。
そして、それ以上に湊を壊したのは、その後だった。
教室の扉の向こう。
放課後。
まだ誰かが残っているとは思っていなかったのだろう。
笑い混じりの声が、開ききっていない扉の隙間から聞こえた。
『黒瀬ってさ、なんか勘違いしてたよね』
『幼馴染みってだけで、あんなふうに思われても困るんだけど』
『そもそも、あいつのこと友達って思ったことないし』
あの時の声色を、湊は今でも忘れられない。
悪意で刺しにきた言葉ではなかった。
だからこそ、きつかった。
むしろ軽かった。
なんでもない雑談みたいに、笑い混じりに零された言葉だった。
その軽さが、どうしようもなく残酷だった。
向こうにとっては、その程度だったのだとわかってしまったから。
自分にとっては長い時間をかけて積み上げてきたものが、相手にとっては最初からそんなものですらなかった。
幼馴染みだと思っていた。
友達だと思っていた。
大事な関係だと思っていた。
その全部が、勝手な思い込みだった。
(……やめろ、ほんとに……。今さら反芻しても、なんにもなんないだろ……)
湊はスマートフォンを持つ手に、少し力を入れた。
爪が掌に食い込む。
痛みで意識を戻そうとする。
過去は変わらない。
もう終わったことだ。
何度思い返したところで、何も変わらない。
あの時、失ったものは戻ってこない。
戻ってきてほしいとも、もう思えないところまで来てしまった。
だから湊は、現実の恋愛を捨てた。
代わりに、恋愛ゲームの世界へ逃げた。
いや、逃げたまま、そこで生き延びる術を覚えた。
好感度の上げ方を知った。
選択肢の最適解を覚えた。
裏切られない距離感を知った。
傷つかない方法を身につけた。
相手の言葉の裏を読む必要もない。
正解を選べばいい。
失敗したらやり直せばいい。
そこでは、自分は負けない。
そこでは、自分は“神”でいられる。
――現実では、何ひとつ役に立たなかったけれど。
「……はぁ」
小さく息をつく。
湿った夜気が肌を少しだけ冷やした。
街灯の光がメガネのレンズに反射して、一瞬だけ前が見えにくくなる。
その時だった。
視界の端で、何かが落ちるのが見えた。
反射的に顔を上げる。
前方の横断歩道の手前。
一人の女性が歩いている。
年齢は二十代前半くらいだろうか。淡いベージュのコートを羽織り、肩にレザーバッグをかけている。黒髪のセミロングは夜気に少しだけ揺れていて、仕事帰りらしい疲れの色が横顔に薄く差していた。
この時点で、湊が彼女の名を知ることはない。
ただ、見知らぬ誰かだった。
けれど、その“見知らぬ誰か”が、後に湊の人生へもう一度現れることを、今の湊はまだ知らない。
彼女は、深夜にもかかわらず鳴り続けるスマートフォンの通知に意識を取られていた。
何か急ぎの連絡なのだろう。
画面を見つめる横顔には、疲れと焦りが薄く滲んでいた。
その手からスマートフォンが滑り落ち、濡れた路面の上を小さく跳ねた。
「あ……」
女性は小さく声を漏らし、その場でしゃがみ込む。
信号は変わりかけていた。
歩行者用の青が点滅し始めている。
それ自体は、よくある光景だった。
誰かが落とし物をすることも。
拾おうとして少し立ち止まることも。
夜道で信号が変わりかけることも。
何も珍しくない。
問題は、その先だ。
道路の向こうから、車が来る。
ヘッドライトの光が、異様に速かった。
(……え)
一瞬、現実感が消えた。
いや、消えたというより、目の前の情報を脳が受け入れるのを拒んだ。
だが次の瞬間には理解してしまう。
まずい。
あのままじゃ、ぶつかる。
女性はまだ気づいていない。
しゃがんだ姿勢のまま、落としたスマートフォンに手を伸ばしている。
車は減速していない。
ブレーキランプの気配もない。
間に合わない。
いや、普通に考えれば無理だ。
ここから走っても、自分まで巻き込まれる可能性が高い。
助けに入るには距離がある。
間に合う保証なんてない。
むしろ、自分まで死ぬかもしれない。
(ど、どうする……)
頭の中で考えが走る。
距離。
速度。
タイミング。
叫ぶだけならできるかもしれない。
でも、あの女性が即座に反応できるとは限らない。
声が届いたとしても、状況を理解して動くまでに一拍遅れるかもしれない。
その一拍が致命的だ。
(無理だろ……普通に考えて、無理……)
普通なら、無理だ。
見て見ぬふりをしても、責められる筋合いはない。
関係のない他人だ。
自分の命を賭けてまで助ける理由なんてない。
誰だって怖い。
自分だって怖い。
死にたくない。
痛いのも嫌だ。
こんなところで終わるのも嫌だ。
頭の中では、そんな当たり前の感情が次々に浮かぶ。
足がすくみそうになる。
心臓が嫌な音を立てる。
喉の奥がひくつく。
見捨てろ、とまでは言わない。
でも、関わるな、と。
せめて、自分だけは守れ、と。
そういう声が、自分の中のどこかで確かにした。
ない、はずだ。
そういう理屈は、ちゃんとある。
あるのに。
「……っ」
気づけば、湊の足は地面を蹴っていた。
考えるより先に、体が動いていた。
バッグが大きく揺れる。
スマートフォンを握ったまま走る。
濡れた路面が滑りそうになる。靴底が水を散らし、足を取られそうになる。けれど止まれない。
「危な、っ……あぶないっ!!」
喉が裂けるくらいの声を出した。
自分でも驚くほど大きな声だった。
女性がはっと顔を上げる。
車のライトが迫る。
時間が妙に引き伸ばされたように感じる。
あと数歩。
あと少し。
間に合え。
間に合え。
間に合ってくれ。
頼むから。
ここで間に合わなかったら、走った意味がない。
怖いとか、無理だとか、そんなことを振り切って飛び出した意味がなくなる。
湊は腕を伸ばした。
女性の肩に触れる。
細い。
温かい。
生きている人間の感触がある。
そのまま、全力で突き飛ばす。
軽い悲鳴。
体が傾く。
女性が歩道側へ倒れる。
助かったかどうかを確認する余裕はない。
次の瞬間には、強烈な衝撃が湊の身体を横から叩きつけていた。
何が起きたのか理解するより先に、視界が弾ける。
音がする。
骨の軋む音なのか、車の音なのか、自分でもわからない。
体が宙に浮いた気がした。
胃の中がひっくり返るような浮遊感。
次の瞬間には、世界がぐるりと回る。
痛みが来る。
遅れて、どうしようもない痛みが来る。
「……あ、」
声にならない声が漏れた。
冷たい。
いや、熱い。
どっちだかわからない。
体が自分のものじゃないみたいだ。
世界が回る。
地面が近づく。
濡れたアスファルトの光が、やけに綺麗だった。
(……ああ)
そこでようやく、湊は思った。
(死ぬのか、これ)
不思議と、強い恐怖はなかった。
もちろん痛い。
苦しい。
体はうまく動かない。
呼吸もしづらい。
なのに、頭の中だけが妙に静かだった。
あの人は助かっただろうか。
そんなことを考える。
自分でも呆れる。
最後に考えることがそれか、と。
(……いや、まあ……助かってなかったら、意味ないし……)
自嘲する力すら残っていない。
視界の端で人影が動く。
誰かが叫んでいる。
悲鳴か、助けを呼ぶ声か、ブレーキの音か、何もかもが遠い。
音が水の中から聞こえるみたいに曖昧だ。
意識が沈んでいく。
暗い水の底に引きずられるみたいに、ゆっくりと。
その沈みゆく感覚の中で、最後に浮かんだのは、ひどく間の抜けた考えだった。
(……選択肢、出なかったな)
もしこれがゲームなら。
もし現実にも選択肢が表示されていたなら。
きっと、こんなふうにはならなかったのだろうか。
A:助ける
B:見て見ぬふりをする
そんな馬鹿みたいな二択が、目の前に出ていたら。
自分はどちらを選んだだろう。
(……いや)
薄れていく意識の中で、湊はぼんやりと思う。
(たぶん、同じか……)
結局、自分は選んでしまっただろう。
考えるより先に、走っていた気がするから。
怖かった。
怖かったはずなのに。
それでも、見捨てる方がもっと嫌だったのだと思う。
そこで、意識は途切れた。
◇
――静かだった。
次に目を開けた時、そこにあったのは、何もない白だった。
「……は?」
湊は、間の抜けた声を漏らした。
痛みがない。
さっきまで全身を引き裂いていたはずの苦痛が、綺麗さっぱり消えている。
立っているのか、浮いているのかもわからない。
上下の感覚が曖昧だ。
足元に床があるのかすら怪しい。なのに落ちる感じはしない。
空もなければ地面もない。
ただ白い。
ひたすら白い。
どこを見ても同じ色で、同じ明るさで、距離感すら狂っている。
「……ど、どこだよ、ここ……」
自分の声が、変に小さく聞こえる。
いや、小さいのではない。反響しないのだ。
声がどこにもぶつからず、ただその場で消えていくような、不気味な感覚。
夢かと思った。
だが、妙に意識ははっきりしていた。
こんな明晰な夢があるだろうか、と考える程度には。
しかも、直前の記憶があまりにも鮮明だ。
車の光。
衝撃。
痛み。
地面の冷たさ。
全部覚えている。
なのに今は、何も痛くない。
それが逆に気味悪かった。
白い空間の奥に、気配が揺れる。
ひとつではない。
複数だ。
目で見えているというより、理解の手前で“いる”とわかる存在感。
息が詰まる。
(……無理無理無理、これ絶対人間じゃないやつ……)
「気づいたか」
不意に、声がした。
「っ!」
湊は反射的に振り向く。
だが、そこに“誰か”がいたと断言していいのか、自信が持てなかった。
人の形をしているように見える。
けれど、完全には人ではない。
輪郭が曖昧で、存在感だけが異様に重い。
目があるのかもわからないのに、見られているとわかる。
口が動いているようにも見えないのに、声は確かに届く。
その瞬間、湊の背中を冷たいものが走った。
(なんだ、これ……こわ……いや、普通にこわいって……)
怖い。
さっきまで死にかけていたくせに、今さら何をと思うが、それでもこれは種類の違う恐怖だった。
理解できないものが、目の前にいる。
人間の形に見えるのに、人間だと認識したくない何かがいる。
「……だ、誰だよ、お前……」
思ったよりも、声は震えていなかった。
たぶん、恐怖が現実感を追い越していないからだ。
頭がまだ、状況を“現実の危機”として処理しきれていない。
「問いの順序が違うな」
その存在は淡々と言った。
「まず理解すべきことは一つだ」
わずかな間。
白い空間が、さらに静まり返る。
そして。
「お前は死んだ」
あまりにもあっさりと、そう告げられた。
湊は言葉を失った。
頭の中が空白になる。
死んだ。
自分が。
その単語の意味はわかる。
小学生でもわかる単語だ。
でも、なぜか現実味だけが追いついてこない。
「……死んだ?」
「正確には、死の結果へ至った」
「だが、意味としては同じだ」
湊はしばらく黙った。
否定しようと思えばできたかもしれない。
夢だとか、冗談だとか、意味不明すぎて逆に笑えるとか、そういう反応もできたかもしれない。
けれど、できなかった。
あの衝撃を覚えている。
あの痛みを覚えている。
体が壊れる感覚を、はっきり覚えている。
夢だと言い切るには、生々しすぎた。
「……あの人は」
口をついて出たのは、自分のことではなかった。
横断歩道にいた、見知らぬ女性。
「あの人、た、助かったのか」
自分でも馬鹿だと思う。
死んだと告げられた直後に、最初に気にすることがそれなのかと。
普通、もっとあるだろう。
自分のこととか。
家族とか。
これからどうなるとか。
でも、最初に出たのは、それだった。
あの女性が助かっていなかったら、何の意味もない。
せめて助かっていてくれなければ、あまりにも報われない。
「生存している」
短い返答。
それを聞いた瞬間、湊の肩から力が抜けた。
「……そっか」
よかった、と。
本当に、それだけを思った。
その反応が意外だったのか、目の前の存在はわずかに沈黙した。
その白の奥、さらに遠いところから、別の気配がざわめく。
『へえ』
『自分の死より先にそこか』
『おもしろ』
『やっぱり行動型だな』
声、というより、直接頭へ理解が落ちる。
複数。
見えない位置から、自分を見ている何かが、複数いる。
(……なにこれ、めちゃくちゃ嫌なんだけど……)
「自らの死よりも、他者の生を優先するか」
「……いや、別に。優先とかじゃない」
湊は視線を逸らす。
「ただ……目の前で助けようとして、助かってなかったら、さすがに嫌だろ」
「なんていうか、それじゃ……ほ、ほんとに、意味ないし……」
言ってから、自分の言葉の情けなさに苦笑したくなる。
もっと格好いいことを言える人間なら、ここで綺麗な台詞の一つでも吐けたかもしれない。
だが湊は、そういう人間ではなかった。
根が優しいと言われることはあっても、それを綺麗に言語化できるタイプじゃない。
むしろ、自分の行動に自分で戸惑う側の人間だ。
その時だった。
「それでいいよ」
今までとは違う声が差し込んだ。
少しだけ明るくて、少しだけ軽くて、でも不思議と耳に残る声。
白の向こう側から、一人の少女が姿を現す。
他の存在たちと同じく完全には人ではないはずなのに、不思議と一番“人らしく”見える存在だった。
長い髪のように流れる揺らぎ。
瞳だけがやけに印象的に鮮明で、その中には白い空間に似つかわしくないくらい豊かな感情が宿っている。
好奇心。
共感。
興奮。
そして、ちょっとしたオタク特有の早口になりそうな熱量。
「意味ないし、って思えるの、すごく大事だよ」
「助けようとしたのに助かってなかったら嫌だって、ちゃんとそこまで考えるの、いいと思う」
「格好つけてないし、ヒーローぶってもないし、そのくせ体だけ先に動いてるし」
「うん、かなり良い」
湊は目を瞬かせた。
(……誰だこの人……いや人じゃないけど……なんか一人だけ距離感おかしくない?)
「……えっと」
「あ、ごめん。急に話しかけると怖いよね」
「わたしはリリス」
「まあ……神、みたいなもの」
「み、みたいなものって、そこ曖昧なんだ……」
「細かいことは今いいの」
「それより、黒瀬湊」
「君、恋愛ゲーム好きでしょ?」
一瞬。
湊の思考が止まる。
「……は?」
「しかも、かなりガチの方」
「攻略掲示板で名前伏せて検証投下してるタイプでしょ」
「好感度管理、分岐回収、真ルート最短攻略、隠しヒロイン同時進行、得意だよね?」
「恋愛ゲーム界隈で、正体不明の“神”って呼ばれてるやつ」
「ちょ、ま、え、いや、なんで知って……」
湊が一歩引く。
いや、引いたつもりだった。
この空間に距離が存在するのかはわからないが、気持ちとしては確かに引いた。
「……いや待って、なにそれ、こわ……」
「情報抜かれてるんだけど……」
リリスの目が、きらきらと輝く。
「だって観測してたし」
「というか、めっちゃ面白かったんだもん、君の攻略」
「え、あの条件で真ヒロイン最短入る? 普通」
「しかも裏好感度まで読んでるし、限定分岐の解像度高すぎだし」
「わたし、あのシリーズ全部読んでるけど、あそこまで綺麗に拾う人そんなにいないよ?」
「や、やめて……なんか急にめちゃくちゃ恥ずかしい……」
今まで死んだとか神とか白い空間とかでいっぱいいっぱいだったのに、突然一番隠したい趣味領域を正面から殴られて、湊の顔がじわっと熱くなる。
「……え、なに……神にオタク趣味バレるとか、そんな辱めある……?」
「あるよ」
リリスは即答した。
「しかもわたしもラブコメヲタクだから、たぶんかなり深く語れる」
「最悪だ……」
「なんで!?」
「最高でしょ普通に!」
白い空間の別の位置から、呆れた気配が落ちる。
「リリス、私語が長い」
最初に話しかけてきた低い声の存在が、わずかに気配を強めた。
それがこの場の進行役なのだと、湊はなんとなく理解する。
「黒瀬湊。お前には特例が与えられる」
「……特例?」
「人を救って命を落とした者に与えられる救済措置だ」
救済。
その言葉に、湊は眉をひそめる。
「……まさか、転生とか言わないよな」
「近い」
「うわ……」
思わず本音が漏れた。
自分でも失礼だとは思うが、仕方がない。
だって、あまりにもそのまんまだ。
白い空間。
神っぽい存在。
死んだ宣告。
そして特例。
どこからどう見ても、そういう流れだ。
「なんだ、その反応は」
「いや……もっとこう……あるだろ。死後の世界とか、三途の川とか、そういうの」
「なんか、もっと雰囲気あるやつ。順番ってもんがあるだろ」
「それらは人間側の認識を整えるためのイメージにすぎん」
「うわ、説明が妙にメタい……」
「いや、神ってもっとこう……もったいぶるもんじゃないのかよ」
リリスが横からすっと口を挟む。
「ちなみに三途の川演出とか、わりと人間向けUIみたいなものだよ」
「UIって言うなよ! 夢壊れるだろ!」
「でも君、ゲームわかるからこっちの方が説明早いかなって」
「早いけど……なんか嫌だな……」
湊が顔をしかめると、リリスは少しだけ楽しそうに笑った。
その笑い方は、この白い空間の中ではひどく異質だった。
他の神々が“観る側”の温度しか持たないのに対し、彼女だけは妙に近い。
それが少しだけ救いで、同時にちょっと怖い。
「転生の権利を与える」
低い声の神は淡々と続ける。
「新たな生を得る機会だ」
湊は、しばらく黙り込んだ。
転生。
生まれ変わり。
普通の人間なら、喜ぶのかもしれない。
もう一度やり直せるチャンス。
新しい人生。
新しい環境。
過去を知らない世界。
失敗も、傷も、全部置いていけるかもしれない。
……普通なら、魅力的な話だ。
でも。
「……いらない」
答えは、驚くほどあっさり出た。
言った本人が一番驚くくらい、迷いのない声だった。
白い空間の奥で、気配が少し揺れる。
『ほう』
『断るのか』
『珍しい』
『未練が薄いわけではないだろうに』
リリスだけが、少しだけ目を細めた。
意外そうでもあり、でもどこか“そう言うかもしれないと思っていた”ような顔でもある。
「なんでだよ、って顔してるな」
「概ねその通りだ」
「……別に、大した理由じゃない」
湊は白い空間を見回した。
何もない。どこを見ても、何もない。
その何もなさが、妙に今の自分に似合っている気がした。
「やり直したいわけじゃないんだよ」
ぽつりと、言葉が零れる。
「もう一回やったところで、たぶん俺は俺だし」
「また誰かに期待して、また勝手に勘違いして、また勝手に傷つくかもしれないし」
「そういうの、もう……いい」
最後の方は、少しだけ声が掠れた。
過去を語ったわけじゃない。
具体的に何か言ったわけでもない。
それでも、その一言の中には、湊の諦めが滲んでいた。
期待するのが怖い。
信じるのが怖い。
もう一度同じように傷つくくらいなら、最初から何も持たない方がましだ。
そうやって、自分で自分を納得させてきた時間が、そのまま声の奥に沈んでいた。
リリスの表情が、ほんの少しだけ変わる。
茶化しも、軽さも消えていた。
(……この子、ほんとに一回、深く折れてる)
その痛みの形が、リリスにはなんとなくわかった。
恋愛中毒でラブコメヲタクの神である彼女は、人間の恋の“楽しいところ”だけでなく、“心が決定的に引いてしまう瞬間”もまた、山ほど観てきた。
期待が恐怖へ変わる瞬間。
好きだったはずなのに、もう踏み出せなくなる瞬間。
恋に負けたというより、“自分が期待していた世界そのもの”へ失望してしまう瞬間。
黒瀬湊は、たぶんそこにいる。
そして、その状態でなお、さっき見知らぬ誰かのために動いた。
それがリリスには、どうしようもなく強く見えた。
「なら、どうする」
「……戻れるなら、元の世界でいい」
「現世への帰還を望むか」
「そっちの言い方、ちょっとかっこいいな」
「質問に答えろ」
「……戻れるなら、それでいい」
湊は肩をすくめるように言った。
「転生とか別にいらない。知らない世界で新しい人生とか、そういうのも別に興味ない」
「今さら知らない場所で知らない自分になるのも、なんか……疲れそうだし」
「面白みに欠けるな」
「は?」
今、なんて言った。
湊は思わず顔を上げた。
「面白みに欠ける、って言ったか?」
「言った」
「いや、そこは神っぽく厳かにやるところじゃないのかよ」
「なんだよ面白みに欠けるって。こっちは一応、死んだ直後なんだけど」
別の位置から、くすくすと笑う気配がした。
『いいぞ』
『そのままやれ』
『もっと困らせろ』
湊の顔が引きつる。
(……絶対、ろくでもない観客席だここ……)
「お前は観測対象として興味深い」
「観測対象?」
「それ以上はまだ不要な情報だ」
「なんだよそれ……」
「説明不足にも程があるだろ」
意味がわからない。
だが、相手は説明する気が薄いらしい。
その時、リリスが一歩前へ出た。
「じゃあ、わたしがちょっとだけ補足するね」
「いや、ありがたいけど……なんか、君が補足に入ると別方向に脱線しそうなんだけど」
「するよ?」
「でも、その方がわかりやすいかもしれない」
「不安しかない……」
リリスは、どこか楽しそうに笑ったあと、少しだけ真面目な顔になる。
「黒瀬湊。君、現実の恋愛は嫌い?」
唐突な問いだった。
だが、妙に核心を突いてくる。
「……嫌い、っていうか」
「まあ……得意じゃないし、好きでもない……と思う」
「でも恋愛ゲームは好き」
「そりゃ……まあ」
「なんで?」
湊は少しだけ黙った。
答えたくない。
でも、ここで誤魔化しても仕方ない気もした。
「……わかるから」
「うん」
「正解があるから」
「何を選べばいいか、どうすればいいか、見えるから」
「現実みたいに、気づいた時には終わってたとか、あとから全部わかるとか、そういうの……ないし」
リリスは静かに聞いていた。
途中で茶化さない。
軽口も挟まない。
そのことが、かえって湊には意外だった。
「君、現実の恋愛そのものが嫌いなんじゃないんだね」
「“わからないまま負けること”が嫌いなんだ」
一瞬。
湊は答えられなかった。
言われてみれば、その通りだったからだ。
現実の恋愛が気持ち悪いわけじゃない。
誰かを好きになることそのものを否定したいわけでもない。
ただ、何もわからないまま、気づいた時には全部終わっているあの感じが嫌だった。
勘違いしていたのが自分だけだったと知る瞬間が嫌だった。
だから、ゲームに逃げた。
ゲームは裏切らない。
少なくとも、ルールを理解していれば。
「……まあ、たぶん」
ようやく、湊はそう答えた。
リリスは少しだけ微笑んだ。
「なら、まだ大丈夫だよ」
「何が」
「恋そのものを捨てたわけじゃないってこと」
「ちょっと怖くなってるだけ」
「……神に、そんなこと言われるの、なんか複雑なんだけど」
「わたしラブコメヲタクだから、そのへんはかなり詳しいよ」
「すごい嫌な説得力あるな……」
白い空間の奥で、別の神が冷たく告げる。
「私語はそこまでにしろ」
リリスが少しだけ頬を膨らませる。
「はーい」
だが、その目はまだ湊から離れない。
「現世へ戻すことは可能だ」
低い声の神が、改めて言った。
「じゃあ、それで」
「ただし、そのままでは味気ない」
「味気ないってなんだよ」
「俺の人生、勝手に娯楽作品みたいな扱いされてないか?」
返答はない。
だが、否定もされなかった。
その沈黙が逆に嫌だった。
「故に、お前に恩恵を与える」
空気が変わる。
いや、空気なんて最初から存在しないはずなのに、そう感じた。
白の奥に、別の意志が混じる。
何かが始まる気配。
「一つ、望め」
「……望め?」
「能力だ。力だ。お前が望むものを与えよう」
湊は目を瞬かせた。
能力。
力。
そう言われてすぐに思い浮かぶものなんて、普通は決まっている。
強い力。
戦う力。
金になる力。
誰にも負けない才能。
人生をひっくり返せる何か。
でも、湊の頭の中には、それらがまるで浮かばなかった。
(力、って言われてもな……)
戦いたいわけじゃない。
世界をどうこうしたいわけでもない。
大金持ちになりたいかと言われると、それも違う。
モテたいかと言われれば、昔の自分なら即答したかもしれない。けれど今は、その言葉すら妙に空虚だった。
そもそも、自分はそんな大層な人間じゃない。
「早くしろ」
「雑だな神……」
「もうちょっとこう、厳かな雰囲気で待つとかないのかよ」
だが、急かされても困る。
考える。
自分が本当に欲しかったものは何だろう。
やり直しの人生ではない。
無双できる戦闘力でもない。
金でもない。
権力でもない。
もっと根っこのところ。
もっと、自分らしいところ。
(……現実は、面倒なんだよな)
唐突に、そんな考えが浮かぶ。
好感度が見えない。
何を考えているかわからない。
どの言葉が正解かもわからない。
フラグも見えないし、間違えてもやり直せない。
ゲームみたいに攻略情報もなければ、好感度ゲージもない。
だから怖い。
だから、失敗する。
だから――負ける。
現実は、いつもそうだ。
相手の言葉を信じていいのかわからない。
笑顔をそのまま受け取っていいのかわからない。
優しさが本物なのか、ただの社交辞令なのかもわからない。
何を言えば正解だったのか、失ってからでないとわからない。
その瞬間、湊の中で一つの答えが形になった。
「……恋愛ゲーム」
「何?」
「だから、恋愛ゲームみたいなやつ」
白い空間の奥が、わずかにざわめく。
リリスの目が、一気に輝いた。
明らかに“来た”という顔だった。
「現実を……恋愛ゲームみたいに攻略できるような、そういうの」
「好感度とか、選択肢とか、フラグとか……そういうのが見えるやつ」
「何を言えばいいのか、どこで踏み込めばいいのか、どこで引けばいいのか……そういうのが、わかる力」
「そういうの、あれば……その」
「いや、別に無双したいとかじゃなくて……もう、わかんないまま終わるのが嫌っていうか……」
言いながら、自分でもひどい願いだと思った。
もっと壮大な願いはいくらでもあっただろうに。
死にかけた人間が、神に向かって願うのがそれか、と。
でも、それが一番自分らしい願いだった。
自分が一番欲しかったのは、きっと。
――もう二度と、わからないまま負けないための力だ。
「……なるほど」
しかし、その存在は笑わなかった。
むしろ、どこか愉しげですらあった。
「いいだろう」
「え、いいのかよ」
「お前の望みだ」
「いや、もっとこう……本当にそれでいいのか、とか確認しないのか?」
「俺、今けっこう雑に言ったぞ?」
「望みは明確だった」
「神の基準、軽くない?」
「そうでもない」
リリスが、楽しそうに両手を合わせる。
「うわ、いいなそれ」
「現実恋愛ゲーム化ってことじゃん」
「好感度可視化、選択肢表示、分岐認識、フラグ管理……」
「え、ちょっと待って、それかなりラブコメとして強くない?」
「君はほんとに何なんだよ……」
「ラブコメヲタクの神」
「自己紹介としては最悪だな……」
次の瞬間。
白い空間の中に、眩い光が走った。
湊は思わず目を細める。
視界の前に、半透明の何かが浮かび上がる。
見覚えのある形だった。
ウィンドウ。
ゲームで見慣れた、システム表示のような画面。
『スキル付与を確認』
『個体名:黒瀬湊』
『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』
『スキルレベル:1』
『対象認識範囲:女性』
『経験値システム:起動待機中』
『各種ステージシステム:ロック』
『追加機能:未解放』
『注意:当スキルは対象の感情を完全解析するものではありません』
『表示される選択肢は、恋愛値変動の可能性を持つ行動候補のみです』
『選択結果を保証するものではありません』
『対象個体の感情・人格・価値観・状況により、結果は変動します』
『なお、本スキルには観測補助機能が含まれます』
「……は?」
湊はしばらく、それを見つめた。
頭が追いつかない。
けれど、見れば見るほど、それは現実だった。
少なくとも、この白い空間の中では。
表示の仕方も。
フォントの雰囲気も。
ウィンドウの透過具合も。
どれも嫌になるほど“ゲームっぽい”。
「お前が望んだ力だ」
「いや、いやいやいや……」
「通るのかよ、そんな雑な願い」
「もっと確認とかあるだろ普通」
「それで人生決まる系のやつだろ、これ」
「望みは明確だった」
「いや、そうかもしれないけどさ……」
「本当にくれるんだな、こういうの」
「冗談じゃなくて?」
「冗談で死者を呼び止めはしない」
「それはそうだけど……」
湊は言葉を失う。
恋愛ゲームみたいな力。
それはさっき自分で願ったものだ。
願ったはずなのに、いざ実物を見せられると、現実味がなさすぎて逆に怖い。
でも同時に、胸の奥のどこかが、妙にざわついていた。
期待、なのか。
好奇心、なのか。
それとも、もっと歪んだ何かか。
これがあれば。
もし本当に、現実で好感度や選択肢が見えるなら。
もう、わからないまま傷つかなくて済むのだろうか。
もう、誰かの言葉の裏に怯えなくていいのだろうか。
もう、自分だけが勘違いしていたなんて結末を、避けられるのだろうか。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎる。
その時、リリスが少しだけ身を寄せるようにして言った。
「黒瀬湊」
「……なに」
「その力があっても、たぶん恋は簡単にならないよ」
「……え」
「だって恋って、正解が見えても、その通りに動けるとは限らないから」
「好感度が見えても、相手を本当に好きになったら、それだけじゃ済まなくなるし」
「選択肢が出ても、自分で選びたくなる瞬間って絶対ある」
一拍。
「でも」
「わからないまま傷つくのが怖い君には、きっと必要な力なんだと思う」
湊は少しだけ黙る。
その言葉は、妙にまっすぐで。
他の神々の“観測対象”を見る目とは、明らかに違っていた。
「……君さ」
「うん?」
「なんで、そんなにこっち側なんだよ」
リリスは少しだけ笑って、でも本気の声で答えた。
「ラブコメ、大好きだから」
「現実でも、ちゃんと恋してほしいから」
その返答は、あまりにも意味不明で。
なのに不思議と、少しだけ納得できてしまった。
この神は、たぶん変だ。
でも、完全に嫌なわけじゃない。
むしろ、このわけのわからない白い世界の中で、唯一少しだけ“話が通じる”側の存在に思えた。
その時。
白い空間の奥で、誰にも聞こえないほど小さく、誰かが笑った。
『――これで盤面が動く』
それが誰の声だったのか、湊にはわからない。
だが、その声音には確かな期待が混じっていた。
まるで、“この力が誰かのために用意された”かのような。
ただし、その願いが誰の都合で叶えられたのかを、この時の湊はまだ知らない。
直後。
白い世界が、急激に遠ざかっていく。
足元が抜けるような感覚。
意識が引きずり込まれる。
「ちょ、待――」
その直前、いくつもの声が重なった。
『楽しませろ』
『観測価値を示せ』
『次は日常の盤面だ』
『どう壊れるか、見ものだな』
そして、その中で、リリスだけが違う言葉をくれた。
「ちゃんと好きになってね!」
「いや、その送り出し方なに――!」
最後までツッコミきる前に。
湊の意識は、再び闇へ沈んだ。




