第19話 軽口の奥にあるもの
午後の光は、午前中のそれより少しだけ厚みがある。
月曜日の病院は、昼を過ぎるとまた別の顔を見せる。
午前中の慌ただしさがいったん収まり、外来の波がわずかに落ち着いて、病棟の空気にも、ほんの少しだけ息をつく隙間が生まれる時間帯だ。
もちろん、静かになるわけではない。
ナースステーションでは相変わらず紙の擦れる音が続いているし、端末の打鍵音も止まらない。ワゴンの車輪は白い床を滑り、どこかの病室ではテレビの音量を絞った低い声が流れている。遠くでは、看護師同士の短いやり取りが途切れ途切れに聞こえ、その合間を縫うように、規則正しい電子音が淡々と命の存在を刻み続けていた。
白い壁。
白い天井。
消毒液の匂い。
空調の低い唸り。
窓から差し込む、少しだけやわらいだ昼の光。
病院という場所は、日常と非日常の境目が曖昧だ。
何も起きていないように見えて、誰かにとっては決定的な一日であり、何かが起きたように見えても、別の誰かにとってはいつも通りの勤務時間だったりする。
その両方が、同じ廊下の上に重なっている。
だからここでは、落ち着いた空気の中にも、いつも少しだけ緊張が混じっている。
黒瀬湊は、ベッドの脇に置かれた車椅子へ移る準備をしながら、小さく息を吐いた。
(……まだちょっと残ってるな)
朝比奈紬のことだ。
第17話で終わったはずの期間限定・特別イベント。
だが、イベントが終わったことと、気持ちの中で処理が終わることは別らしい。
むしろ、終わったと表示されたからこそ、“終わっていない感覚”だけが妙にはっきり残っている。
屋上庭園の風。
近い距離。
“私は覚えてるよ”という静かな声。
“今の湊くん、けっこう好きだよ”という、軽く置かれたくせに胸に残りすぎる言葉。
最後まで見えなかった好感度。
最後までロックされた感情深度。
あれを、まだ引きずっている。
ただ、午前中のあいだに少し整理はできた。
結衣にも。
奈緒にも。
桐谷にも。
綾乃にも。
違う形で見抜かれたことで、逆に自分の中の状態が少しだけ見えた部分もある。
紬はもう、今この病棟にはいない。
それでも、いないからこそ、逆に残っている。
視界の端に、青白い表示が静かに浮かんだ。
『黒瀬湊』
『レベル:11』
『現在経験値:125/6100』
『現在スキル経験値:1700/2600』
『現在恋愛ポイント:2115』
『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.7』
『次回スキルレベルアップまで:900』
『現在ステータス』
・身体回復:中
・視力補正:安定
・行動範囲:病棟内/車椅子移動可
・疲労:軽度
・精神状態:思考過多/余韻/集中回復中
『所持スキル』
・《感情トレースLv.3》
・《言外読解Lv.3》
・《身体感覚補正Lv.2》
・《安心感付与Lv.2》
・《重心把握Lv.2》
・《疲労看破Lv.2》
・《関係負荷軽減Lv.2》
・《役割把握Lv.1》
・《優先順位把握Lv.1》
・《違和感感知Lv.1》
『所持アイテム』
・《微睡みミント》×1
・《メンタルリカバリーチケット》×1
・《リハビリサポートバンド》×1
・《ナースメモカード》×1
・《ミントタブレット》×1
・《栄養補助スープ》×1
・《暇つぶしカード》×1
・《非常用簡易メモ》×1
・《夜勤対応メモ》×1
・《小型ライト》×1
・《集中維持パッチ》×1
・《夜明けのメモリーカード》×1
・《完全回復アンプル(小)》×1
・《リスタートバンド》×1
・《温度のメモ》×1
・《売店チョコ》×1
・《食堂スープ予約券》×1
『現在進行中イベント』
・《朝比奈紬:再会したはずの距離》PHASE1完了/次回接続待ち
・《白峰紗雪:止まれなかった手》待機中
・《白石結衣:自信の芽》継続中
・《佐倉奈緒:背負い方の変化》継続中
・《神宮寺綾乃:信頼形成 初期》継続中
・《桐谷美月:連携ルート》継続中
『特殊フラグ』
・《白峰紗雪:止まれなかった手》
・《朝比奈紬:長期蓄積感情》
・《リリス観測補助:不明》
(……こうして見ると、完全にゲームの中盤ステータスだな)
湊は心の中で呟いた。
けれど、画面の情報とは裏腹に、胸の奥に残っているものは数値にならない。
紬の声。
ひなたの笑い。
屋上庭園の風。
そして、白峰紗雪という名前にまだ触れられていない違和感。
第1話で助けた女性。
自分が死にかけた原因であり、たぶん、このスキルが始まるきっかけになった人物。
面会できるなら、いつか来るかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥がほんの少しだけ重くなる。
(……白峰紗雪、か)
名前だけはもう知っている。
だが、ちゃんと会ってはいない。
助けた相手。
でも、自分から会いに行くには重すぎる相手。
その存在が、まだイベント欄に“待機中”として残っている。
つまり、いつか必ず動く。
それも、おそらく軽くはない形で。
その時だった。
「はい、黒瀬さん」
軽い声と一緒に、車椅子のブレーキ音がかすかに鳴った。
桐谷美月が、当たり前みたいな顔で病室に入ってくる。
リハビリ用のウェア姿。
白衣ではないぶん、病院の白さの中では少しだけ“動く人”の色を持って見える。
細身で無駄のない立ち方。
動きやすさを最優先にした格好なのに、不思議と雑には見えない。
目元にはいつもの余裕があり、その余裕の奥に、相手の身体を一瞬で読む理学療法士の視線がきちんとある。
『《桐谷美月》』
『年齢:25』
『職業:理学療法士』
『レベル:21』
『レア度:★★★★☆』
『好感度:36%』
『状態:観察/興味(強)/余裕』
『補足:黒瀬湊の回復具合と精神残響を把握』
「午後のリハ、始めるよ」
桐谷は湊を見るなり、口元だけで少し笑った。
「午前中より顔戻ってるね」
「よかった。さすがに昼までずっと“外のヒロイン引きずってる人の顔”だったら、私もちょっと対応考えた」
「まだその言い方するのかよ」
「だってわかりやすいんだもん」
桐谷は肩をすくめる。
「朝の黒瀬さん、完全に“イベントCLEARしたのに未回収CGが残ってる人”の顔だったし」
「今はちゃんと現実に戻ってる」
「でも、完全にゼロにはなってない」
「そういう顔」
この人は、本当に余計なところまで見抜く。
いや、余計というより、身体を見ている人間だからこそ、表情や反応の遅れを“身体の一部”として拾ってしまうのかもしれない。
「今日のメニュー、どうします?」
結衣の声が後ろから重なった。
白石結衣が、記録用のタブレットと小さなメモを持って病室へ入ってくる。
今日は午前中より少し落ち着いた顔をしていた。
朝に少し拗ねて、少し安心して、それでもまだ気になるところは気になる、という複雑な感情をどうにか制服の下へ押し込めている顔だ。
白衣の袖口は整っている。
髪も崩れていない。
声の出し方も、少し前のような過剰な緊張がなくなってきていた。
けれど、目だけは正直だった。
湊がどういう顔をしているのか。
午前中のやり取りから少しでも変わったのか。
そういうところを、かなり細かく見ている。
『《白石結衣》』
『年齢:20』
『職業:見習い看護師』
『レベル:18』
『レア度:★★★☆☆』
『好感度:88%』
『状態:信頼/安堵/期待(微)』
『補足:患者優先モード強め/対抗心を隠蔽中』
(隠蔽できてないんだよな……)
湊は思ったが、言わなかった。
言えば結衣が真っ赤になる。
そして桐谷が絶対に面白がる。
それは見えている。
「歩行、少し長めに見る?」
桐谷が言う。
「それとも先に売店まで行って、水分補給してからにする?」
「売店?」
湊が聞き返すと、桐谷はうん、と頷いた。
「今日は売店の前まで行く」
「病室とリハビリ室の往復だけだと飽きるでしょ」
「それに、実際の生活動線に近い方が練習になる」
「廊下の曲がり角とか、人の流れとか、視線の置き方とか」
一拍。
「あと、今の黒瀬さんには、ちょっと気分転換も必要そうだし」
その最後の一言は、からかい半分、気遣い半分だった。
結衣が少しだけ目を瞬かせる。
「それ、先生に言ってますか?」
「言ってない」
桐谷はあっさり答えた。
「でも別に悪いことじゃないし」
「ちゃんと範囲内でやるなら、実用練習の一部」
「むしろ“病室とリハ室だけ”の方が、本当は偏るんだよね」
「実際の生活って、もっと雑音が多いし、人もいるし、誘惑もあるし」
「誘惑って……売店ですか」
結衣が少し呆れたように言う。
「そう。売店」
桐谷は笑った。
「プリンとか、炭酸とか、甘い飲み物とか、そういう意味での誘惑」
「あと、会話イベントも転がってるかもしれないし」
「桐谷さん」
結衣の声がわずかに低くなる。
「そういう言い方やめてください」
「ごめんごめん」
全然悪びれていない口調で、桐谷はひらひらと手を振った。
「でも神宮寺先生に見つかったら怒られません?」
結衣はまだ少し心配そうに聞く。
「見つかったらその時は私が言い訳する」
桐谷は平然と言う。
「大丈夫。半分は本当だから」
「半分は本当にリハビリ」
「もう半分は、今の黒瀬さんにちょっと外の空気吸わせたい」
その雑な自信が逆に頼もしい。
湊は少しだけ考え、それから言った。
「……じゃあ、行く」
言った瞬間、自分の中で何かが少しだけ動いた気がした。
ただ病室を出るだけ。
ただ売店まで行くだけ。
それだけのことなのに、“前へ行く”という実感がある。
桐谷は満足そうに頷いた。
「よし」
「じゃあ今日は、“売店まで行って、ちゃんと戻ってくる”」
「シンプルだけど、今の黒瀬さんにはちょうどいい目標」
「上の空で転んだら一発で中止だから、そこだけ注意ね」
「何回も言うな」
「何回も言わないと忘れそうだから」
軽口を交わしながら、湊はゆっくりと車椅子へ身体を移した。
重心を確認する。
手の位置。
足の置き方。
肘掛けに触れる指先の力加減。
太腿の上に落ちる腕の重さ。
骨盤の傾き。
以前よりはずっと自然にできる。
でも、まだ完全に“何も考えなくてもできる”ところまでは戻っていない。
だからこそ、桐谷の言う“気持ちの置き方”がそのまま身体に出るのだろう。
病室を出ると、廊下の光が少し広く感じた。
白い床に午後の光が浅く落ちている。
平日の病棟らしい、人の流れ。
看護師のすれ違う足音。
紙カルテを抱えて歩く職員。
遠くの病室から漏れる生活音。
リネンの匂いに混ざる、少しだけ温かい昼の空気。
湊は車椅子のリムに手を添えながら、ゆっくりと廊下を進む。
結衣が右後ろ。
桐谷が少し前で歩調を見ている。
その配置が、今の自分の回復段階そのものみたいで、少しだけ苦笑したくなった。
「……今日、ほんとに売店までなんですね」
結衣が小声で言う。
「何?」
桐谷が振り向く。
「いえ、その……」
結衣は少しだけためらってから言った。
「黒瀬さん、たぶん病室から出るだけでまだ少し気を張ってるので」
「売店って、意外と人いるじゃないですか」
「ちょっとした方向転換でも、誰かとすれ違ったりしますし」
「いるね」
桐谷は頷く。
「だからいいんだよ」
「病室の中だけじゃ、もう足りない時期」
「人の流れの中で、自分の身体をどう扱うかも練習しないと」
「誰かが前から来る時、どう避けるか」
「棚に目を向けながらでも、重心をどう残すか」
「そういうのって、リハ室のまっすぐな床だけじゃ覚えきれないから」
一拍。
「まあ、今日はあくまで軽め」
「本番はまだ先だから安心して」
その“安心して”には、ちゃんとした計算がある。
無茶はさせない。
でも甘やかしもしない。
桐谷の距離感は、そこが上手かった。
その会話の途中で、ナースステーションの前を通る。
奈緒が、書類を抱えたまま顔を上げた。
『《佐倉奈緒》』
『年齢:26』
『職業:看護師』
『レベル:23』
『レア度:★★★★☆』
『好感度:48%』
『状態:平静/実務集中/観察』
『補足:黒瀬湊の移動と白石結衣の立ち位置を確認中』
「……売店ですか」
奈緒が静かに言う。
「リハビリの一環」
桐谷が先に答えた。
「ちゃんと範囲内」
奈緒は一瞬だけ湊の手元と足元を見る。
車椅子のブレーキ。
足の置き方。
肩の入り方。
湊の視線が廊下の先へ向いているか、手元に落ちているか。
その全部を一瞬で見ている。
それから、短く頷いた。
「わかりました」
「ただ、長くならないようにしてください」
「今日は人の出入りも多いので」
「普段より廊下の流れが速いですし、売店前も混みやすい時間です」
その言い方は業務的だ。
でも、その奥に“ちゃんと見ている”温度がある。
「すぐ戻ります」
結衣が言うと、奈緒は彼女の方を見た。
「白石さん」
「はい」
「黒瀬さんだけじゃなくて、周囲も見て」
「今日の廊下、人の流れが少し速いので」
「正面だけじゃなくて、横から来る人も気にしてください」
「あと、声をかける前に立ち位置を先に取って」
「患者さんを守ろうとして自分が塞がる位置に立つと、逆に動線が詰まります」
「はい……!」
結衣が小さく背筋を伸ばす。
そのやり取りを見て、湊は少しだけ目を細めた。
奈緒はもう、結衣を“支えないと危ない後輩”としてだけは見ていない。
ちゃんと役割を渡している。
ちゃんと、任せる前提で指示を出している。
それが短いやり取りの中にも出ていた。
その時、ナースステーションの奥を、白衣の裾がよぎった。
綾乃だ。
神宮寺綾乃は歩きながらこちらを見て、ほんの一瞬だけ足を止める。
『《神宮寺綾乃》』
『年齢:28』
『職業:外科医』
『レベル:31』
『レア度:★★★★★』
『好感度:31%』
『状態:平静/観察/制御』
『補足:不必要な寄り道を警戒』
「売店?」
短い問い。
「リハビリです」
桐谷が答える。
「実用導線確認」
綾乃は無言で湊を見る。
その視線には、相変わらず逃げ道がない。
「五分」
それだけ言った。
「厳しくないですか」
湊が返すと、綾乃は淡々と答える。
「寄り道しないで」
「戻る」
「それなら十分です」
一拍。
「……転ばないで」
それだけ残して、また歩き去っていく。
桐谷が小さく笑う。
「出た。短いのにちゃんと見てるやつ」
結衣も、少しだけほっとしたような顔をした。
奈緒は何も言わないが、その表情はわずかにやわらかかった。
売店までは、病棟の端をひとつ曲がった先にある。
小さなスペースだ。
けれど、入院患者や付き添い、職員の休憩にも使われるから、時間帯によって意外と人の出入りがある。
午後の売店前は、ちょうどいいくらいに人がいる。
多すぎず、少なすぎず。
その“ちょうどいい現実感”が、今の湊には少し新鮮だった。
棚に並ぶ飲み物。
お菓子。
雑誌。
日用品。
小さなレジカウンター。
冷蔵ケースの冷気。
レジ袋のこすれる音。
病院の中にある、小さな外の世界。
そのカウンターの奥で、ひとりの女性が顔を上げた。
「いらっしゃいませ――」
軽い声。
明るすぎず、でもよく通る。
そして、その目が湊で止まる。
「あ」
少しだけ口元が上がる。
「黒瀬さん。今日はリハビリ遠征ですか?」
西野あかりだった。
第9話から何度か売店で顔を合わせている。
病院停電事件の時にも、売店周りで職員や患者の動きに巻き込まれながら、さりげなく人を誘導していた人物だ。
派手な活躍をしたわけではない。
けれど、あの夜の病院には、そういう“目立たない場所で空気を支えた人”も確かにいた。
湊はそれを覚えている。
『《西野あかり》』
『年齢:22』
『職業:売店店員』
『レベル:13』
『レア度:★★☆☆☆』
『好感度:37%』
『状態:興味/空気読み/観察』
『特性:場を柔らかくする/距離の取り方が上手い』
『▼既知対象イベント発生』
『名称:軽口の奥に残るもの』
『分類:関係補強イベント』
『推定難易度:低〜中』
『成功条件:軽口の奥にある気遣いを受け取る』
『失敗条件:誤魔化しすぎ/身体負荷の見落とし/白石結衣の不安増幅』
(……既知対象、か)
前回までと違い、今回は“新規対象”ではない。
ちゃんと知っている相手。
すでに何度か言葉を交わした相手。
停電の夜も、この病院のどこかで同じ緊張の中にいた相手。
それだけで、イベントの質が少し違って見えた。
「遠征ってほどじゃない」
湊が返すと、西野は楽しそうに笑った。
「患者さんが売店まで来るの、けっこう立派な遠征ですよ」
「少なくとも、病室と廊下だけの世界から一歩出るわけですし」
「それに、黒瀬さんの場合は、周りがすごく見てますからね」
そう言って、西野はちらりと結衣と桐谷を見る。
結衣は少しだけ背筋を伸ばした。
桐谷は面白そうに片手を上げる。
「見守り隊です」
桐谷が言う。
「監視隊の間違いじゃないですか」
湊が返す。
「黒瀬さんに関しては、わりとどっちも正解」
西野が即答した。
軽い。
だが、間がいい。
言葉の置き方が、売店の人というより、病院の中をよく見ている人間のそれだった。
「で、今日は何にします?」
西野が言った。
「水?」
「お茶?」
「それとも、見た目だけヘルシーな甘い飲み物?」
「最後の言い方ひどくないですか」
「ひどくないですよ」
西野は笑う。
「わりと本当です」
「あと、黒瀬さん、そういうの選びそうな顔してます」
「どういう顔だよ」
「ちょっと疲れてるのに、ちゃんとしたもの選ぼうとして、結局よくわかんない中間を取る顔」
「分析が細かい」
桐谷が横で吹き出す。
「西野さん、やっぱ見るタイプだね」
「売店ってそういう仕事でもあるので」
西野は肩をすくめた。
「迷ってる人に、だいたいちょうどいいの勧めるのも込みで」
「病院の売店って、普通のコンビニと少し違うんです」
「“欲しいものを買う場所”でもあるけど、“何を買えばいいかわからない人が、とりあえず立ち寄る場所”でもあるので」
その言葉に、湊は少しだけ目を細める。
軽口の奥に、妙に実感があった。
売店の前の空気が、少しだけ柔らかくなる。
その時だった。
湊が棚の上のペットボトルへ手を伸ばした瞬間、車椅子の重心がほんの少しだけ前へ流れた。
自分では取れると思った。
距離も、手の長さも、たぶん届くと計算した。
でも、身体はまだ完全じゃない。
車椅子の位置。
足の置き方。
上半身の傾き。
肘掛けに残した重さ。
その全部がわずかにずれて、一瞬だけ身体が不安定になる。
「……っ」
ぐらり、と視界が揺れた。
その瞬間。
「ちょ、危なっ」
西野が反射的にカウンターから身を乗り出した。
細い指が、湊の手首を掴む。
もう片方の手が肩口を支える。
距離が、一気に近くなる。
売店の棚の匂い。
甘い香りが少し混ざった空気。
西野の髪が揺れる気配。
彼女の目が、一瞬だけ驚きで見開いて、それでもすぐに冷静さを取り戻していく流れ。
『▼一時感情反応検出』
『対象:西野あかり』
『状態:驚き/反射行動/接触』
『本音接触率:32%』
湊は、一瞬呼吸を止めた。
(……近い)
西野の顔がすぐ目の前にある。
近いのに、変に慌てていない。
反射で動いたあと、そのまま冷静に距離を制御している感じがある。
「黒瀬さん!」
結衣の声がほとんど悲鳴みたいに飛んだ。
「だ、大丈夫ですか!?」
そして、そのまま西野の方を見て、ほとんど無意識に続ける。
「西野さん、離れてくださいっ」
一瞬だけ、空気が止まった。
結衣自身も、言ってから気づいたらしい。
顔が一気に赤くなる。
「あ、ち、違っ……その……!」
「離れてっていうか、えっと、もう大丈夫なら、って意味で……!」
「近いのがダメとかじゃなくて、いや近いのは近いんですけど、それは今関係なくて……!」
桐谷が隣で吹き出しかけている。
「結衣ちゃん、わかりやす……」
「桐谷さんっ」
売店の中にいた年配の患者が一瞬だけこちらを見て、何も言わずに目を逸らした。
気を遣わせてしまった。
湊は少しだけ申し訳ない気持ちになった。
西野はそんな結衣を見て、一瞬だけ目を丸くして――それから、ふっと笑った。
「はいはい」
「大丈夫そうなら離れます」
「でも今のは普通に危なかったですよ、黒瀬さん」
「あと白石さん、反応正直すぎます」
手首から、やわらかく力が抜かれる。
肩に触れていた手も離れる。
けれど、その一瞬で距離感が変わったのは確かだった。
「……悪い」
湊は小さく息を吐いた。
「届くと思った」
「そういう顔してました」
西野はカウンター越しに戻りながら言う。
「“たぶんいける”って思ってる人の伸び方だったので」
「でも、その“たぶん”で転ぶのが一番危ないやつです」
「届くかどうかじゃなくて、届いたあと崩れないかまで見ないとダメですよ」
その言い方が、看護師でも理学療法士でもないのに妙に的確だった。
桐谷がすかさず口を挟む。
「はい、だから言ったでしょ」
「上の空って身体に出るんだって」
「今のは違う」
湊が言い返す。
「違わないです」
結衣が珍しく強めに言った。
「今の、完全に考え事してた時の動きでした」
「手だけ先に出て、身体の位置ちゃんと見てなかったです」
「しかも戻る準備のない伸び方でした」
「それ、普通に危ないです」
さっきまで少し拗ねていたくせに、こういう時は一気に看護師側へ戻るのが結衣らしい。
西野はそんな三人を見ながら、口元だけで笑った。
「仲いいですね」
「よく言われます」
桐谷が即答する。
「まだそんな段階じゃないです!」
結衣も即答する。
湊は頭を抱えたくなった。
その空気の中で、西野だけがやけに落ち着いていた。
軽い。
でも、軽いだけではない。
さっき咄嗟に伸びた手の速さも、離れるタイミングの自然さも、相手を変に気まずくさせない笑い方も、全部“慣れている”。
彼女はレジ横の小さな冷蔵ケースを開けて、ミント系の炭酸を一本取り出した。
「はい」
そう言って、湊の前へ置く。
「これ、今日の黒瀬さんにちょうどよさそう」
「……なんで」
「顔がちょっと重いから」
西野はさらっと言う。
「眠いとかじゃなくて、考え事してる人の重さ」
「そういう時、甘すぎるのより、ちょっとすっきりするやつの方が合うんですよ」
「あと、さっきみたいな無茶しそうな時って、頭の中リセットしないとまたやるので」
その言い方が、また妙に自然だった。
『《西野あかり》』
『状態更新:興味/空気読み/観察 → 観察/興味(強)/微気遣い』
(……この人もか)
軽い。
でも、ちゃんと見ている。
そのタイプだ。
「今日ちょっと違いますよね」
西野がペットボトルをレジへ通しながら言った。
「昨日までより、反応が半拍遅い」
「考え事してる人の顔してる」
湊が少しだけ目を細める。
「そんなにわかるか?」
「接客やってるとわかるんですよ」
西野は笑った。
「“今日、別のこと考えてる人”って」
「会計の時、商品より頭の中の方が忙しい感じになるので」
「しかも、そういう人ってだいたい手元おろそかになりがちです」
「今みたいに」
「それ、病院の売店で鍛えられるスキルなんですか」
「意外と」
西野は肩をすくめる。
「患者さんも、付き添いの人も、職員さんも、みんな違う顔して来るので」
「元気なふりしてる人とか」
「平気な顔して全然平気じゃない人とか」
「自分では普通のつもりなのに、買い物かごの持ち方だけ変な人とか」
「そういうの、毎日少しずつ見てると、何となくわかるようになります」
軽い会話のはずなのに、少しだけ空気が変わる。
ここで、視界の端に選択肢が浮かんだ。
『▼西野あかり 関係補強イベント』
『名称:軽口の奥に残るもの』
『A:ごまかす』
『B:少しだけ話す』
『C:逆に西野の観察眼を聞く』
『D:結衣を安心させる方向に話題をずらす』
(……Bだな)
湊は、ほんの一拍だけ考えてから口を開いた。
「まあ、ちょっとな」
その答えに、西野は少しだけ目を細めた。
「“ちょっと”って言う人、だいたいちょっとじゃないんですよね」
「本当にちょっとの人は、“まあちょっと”って前置きしないので」
「“いや別に”で済ませるか、逆にすごく長く言い訳するかのどっちかです」
「接客しながらそういう分類してるのか」
「してます」
西野は即答した。
「売店って、意外と人間観察に向いてるんです」
「立場が微妙に外側だから」
「職員みたいに踏み込みすぎないし、家族みたいに近すぎないし」
「でも、短い時間で相手の顔色は見ないといけないので」
そして、レジから顔を上げる。
「でも、いいと思いますよ」
一拍。
「ちゃんと引きずれる人」
湊は少しだけ息を止めた。
予想していた返しではなかったからだ。
「普通、引きずるのって面倒だし」
「しんどいし」
「さっさと切り替えたいって思うじゃないですか」
西野は言う。
「だから、みんな無理にでも切り替えようとする」
「仕事だから、とか」
「今は考えても仕方ないから、とか」
「そういうちゃんとした理由つけて、いったん置く」
一拍。
「でも、ちゃんと引っかかったまま考えられる人って、私はそんなに嫌いじゃないです」
その言い方は軽い。
けれど、軽さの奥にちゃんと体温がある。
湊は、少しだけ言葉を失った。
紬の時みたいな、胸を締めつける重さじゃない。
でも、西野の言葉は別の角度から静かに入ってくる。
軽いのに、残る。
それがこの人の強さなのだと、湊は思った。
「……そういうもんか」
やっとそれだけ返すと、西野は笑った。
「そういうもんです」
「たぶん、ですけど」
「私、重い話を重く受け止めるのあんまり得意じゃないんですよ」
「でも、軽く流すだけなのも違うなって思うので」
「だったら、少しだけ笑える形で残す方がいいかなって」
その“たぶん”の置き方が、少しだけ優しい。
横で、結衣が複雑そうな顔をしていた。
『《白石結衣》』
『状態:観察/軽い警戒/複雑』
『補足:売店店員に対する対抗意識(微)』
わかりやすい。
すごくわかりやすい。
桐谷は完全に面白がっている。
「はいはい、既存キャラの関係イベント進行中」
「病院ステージ忙しいねえ」
「やめてください、その言い方」
結衣がすぐさま言う。
「いや、でも事実じゃん」
桐谷は笑う。
「しかも西野さんタイプ違うし」
「これ絶対、黒瀬さんに効く系」
「重くならないのにちゃんと残るやつ」
「桐谷さん」
結衣の声が少しだけ低くなる。
「ごめんごめん」
全然悪びれていない声で桐谷が笑った。
その時、売店の奥の冷蔵棚から別の客が近づいてきた。
一瞬だけ西野はそちらへ笑顔を向け、会計を済ませる。
「袋いります?」
「ありがとうございます、ではこちらで」
「お大事になさってください」
その切り替えの滑らかさに、湊は少し感心した。
接客の顔。
会話の顔。
軽口の顔。
全部が自然に繋がっている。
戻ってきた西野が、レジ台に肘をつかないぎりぎりの軽さで身を寄せる。
「今度来た時は」
一拍。
「もう少し余裕ある顔で来てください」
「今、そんなにひどい顔してる?」
「ひどいっていうか」
西野は少し考えてから言った。
「もったいない顔」
「ちゃんと考えてるのはわかるけど、それで顔まで重くなるのはもったいないです」
「せっかく話しかけやすい顔してるのに」
「今の黒瀬さん、ちょっとだけ“話しかけたら悪いかな”寄りになってるので」
「それ、売店的にも損です」
「売店的にも、って何だよ」
「売店店員は、話しかけやすいお客さんの方が好きなので」
「あと、個人的にも」
そこまで言って、西野はほんの少しだけ笑う。
「重い顔より、もうちょっとだけ普通に笑ってる方が似合うと思うので」
その言葉に、湊の胸の奥が少しだけ動く。
結衣が聞こえるか聞こえないかの声で「売店の人なのに……」と呟き、桐谷がまた笑いを堪えた。
そこへ、背後から静かな足音が近づいてくる。
奈緒だ。
書類を持ったまま、売店の前で止まる。
「……予想より長かったですね」
奈緒が言う。
声は落ち着いている。
でも、完全な事務連絡ではない。
「必要な時間でしたか」
それは西野に向けた言葉ではなく、湊へ向けた問いだった。
『《佐倉奈緒》』
『状態更新:平静/実務集中/観察 → 牽制(微)/静かな違和感』
奈緒らしい。
表面は崩さない。
でも、気になっていないわけでもない。
「長すぎないですよ」
西野が先に笑って言った。
「ちゃんと売り上げにもなってますし」
「あと、転倒未遂ひとつ防いでるので、むしろ働いてます」
その返しがうまくて、奈緒は一瞬だけ言葉を止めた。
それから短く頷く。
「……なら、よかったです」
大人だ。
だが、その一瞬の間に、売店前の空気がほんの少しだけピンと張ったのを、湊は感じ取った。
奈緒は西野の方を改めて見た。
責めるわけでもなく、敵意を出すわけでもなく、ただ静かに相手を見ている。
「ありがとうございます」
奈緒は言った。
「支えていただいて」
「どういたしまして」
西野は軽く答える。
「でも次は、もう少し普通に買い物してもらえると助かります」
「毎回これだと、私が変な意味で覚えちゃうので」
その一言に、結衣の肩がぴくっと揺れた。
湊は内心で苦笑する。
この人、本当に軽いのに要所で効く。
その緊張を、さらに斜めから切ったのは桐谷だった。
「はい、みんな終了」
「黒瀬さん、五分どころかもう十分近いから戻るよ」
「先生に見つかったら全員巻き添えで怒られる」
それはたしかに困る。
「じゃあ」
湊が言うと、西野は軽く手を振った。
「また来てください」
「今度はもうちょっと普通に商品選べる状態で」
「倒れそうになりながら選ばれると、こっちもびっくりするので」
「……善処します」
「善処じゃなくて実行で」
西野は笑った。
「その方が、安心して話せるので」
「あと、重い顔のままより、少し戻った顔の方がたぶんこっちも話しやすいです」
その一言が、最後にまた小さく残った。
売店を離れて病棟の廊下へ戻る途中、結衣は明らかに何か言いたそうな顔をしていた。
だが、奈緒がそばにいる手前なのか、すぐには口を開かない。
桐谷はそれを見て、楽しそうに笑う。
「結衣ちゃん、わかりやすすぎるよ」
「な、何がですか」
「全部」
「全部って何ですか!」
「顔」
「声」
「歩幅」
「あと、“売店の人なのに”って三回くらい思ってる感じ」
「思ってません!」
一拍。
「……二回くらいです」
言ってから、結衣が自分で顔を赤くした。
桐谷が吹き出す。
湊まで少し笑ってしまう。
奈緒は呆れたように、でも少しだけやわらかい声で言った。
「歩きながら騒がないでください」
「黒瀬さんの気が散るので」
「今は戻るまでがリハビリです」
「ほら奈緒さんも気にしてる」
桐谷がすかさず言う。
「私は安全面の話です」
奈緒は即答する。
だが、その言葉のあとにほんの一拍だけ間が空いたのを、湊は見逃さなかった。
気が散るのが危ない。
それは正しい。
でも、湊が誰との会話でどういう顔をしたのか、そのこと自体も奈緒の意識のどこかには残っている。
そういう、静かな気になり方をする人だ。
ナースステーションの前へ戻ると、ちょうど綾乃が端末を見ながら歩いていた。
視線だけでこちらの人数と動きを確認し、短く言う。
「遅い」
「すみません」
結衣が即座に頭を下げる。
「戻ったならいいです」
綾乃はそれだけ言って、それから湊を見る。
「転んでない?」
「転んでないです」
「なら、次」
一拍。
「寄り道は終わり」
「ここから先は、ちゃんと戻して」
相変わらず短い。
でも、その一言だけで病棟の空気へ戻される感覚があった。
午後のリハビリは、そのあときっちり行われた。
売店での一瞬のぐらつきのせいか、最初の立位では少しだけ身体が硬かった。
だが桐谷はそれをすぐに見抜き、「余計な力入ってる」と指摘し、呼吸のタイミングから整え直す。
「考えるのは悪くない」
「でも、立つ時にまで全部持ち込まない」
「今、足がやる仕事と、頭がやる仕事は分けて」
「売店の会話も、紬ちゃんの余韻も、全部ゼロにしなくていいから」
「ただ、今この瞬間に必要な分だけ脇へ置く」
その言葉に従って、湊はゆっくりと重心を整える。
足の裏にかかる体重。
膝の位置。
背中の軸。
呼吸。
手すりに触れる手の圧。
床を踏む足の角度。
病院の日常と、屋上庭園の余韻と、売店前の軽口と。
それら全部を無理に消すのではなく、いったん脇へ置く。
そうすると、意外なくらい身体は素直に応えてくる。
「うん」
桐谷が言う。
「その方がいい」
「今の黒瀬さん、考えごと全部消すのは無理でも、分けるのはできるから」
「“持ってるけど、今は使わない”ってやつ」
「それができるようになると、一気に身体の戻り方変わるよ」
その言葉は、身体の話でありながら、たぶんそれだけではなかった。
リハビリの途中、結衣がタオルを渡すタイミングで少しだけ視線を合わせる。
奈緒が通りがかりに歩容を見て、小さく「午前よりいいです」と言う。
綾乃は遠くから一度だけ確認して、何も言わずに去っていく。
桐谷は、その全部を見たうえで、変にからかいすぎず、でも軽さは失わずに進行する。
この病棟の空気が、今はそういうバランスでできているのだと、湊は少しずつ実感していた。
リハビリを終えて病室へ戻った頃には、西の方へ少しだけ光が傾き始めていた。
午後の明るさはまだ残っている。
でも、窓から差し込む光の角度が少しだけ変わり、白い床の上に伸びる影がゆるやかに長くなっている。
ベッドへ戻る前、視界の端に青白い表示が広がる。
『▼西野あかり 関係補強イベント CLEAR』
『名称:軽口の奥に残るもの』
『▼経験値+320』
『▼スキル経験値+260』
『▼恋愛ポイント+160』
『▼アイテム獲得』
《リフレッシュミント》×1
《売店おすすめメモ》×1
『▼スキル熟練』
《不可視感情検知》使用経験を獲得しました
《言外読解》使用経験を獲得しました
『▼スキル経験値加算』
1700 → 1960 / 2600
『▼経験値加算』
125 → 445 / 6100
『▼恋愛ポイント加算』
2115 → 2275
『▼レベルアップ判定』
必要経験値に未達
『黒瀬湊 Lv.11 継続』
『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.7』
『次回スキルレベルアップまで:640』
情報が流れ込む。
今回はレベルアップしない。
新機能も解放されない。
ただ、確かに積み重なった。
(……こっちの方が、それっぽいな)
湊は思う。
毎回劇的に変わるわけじゃない。
毎回レベルが上がるわけじゃない。
でも、会話をして、誰かの言葉を受け取って、少しずつ経験値が増えていく。
それは、ゲームっぽいのに、妙に現実っぽかった。
軽く見えて、でもちゃんと会話の流れを整える。
深く潜りすぎず、それでいて相手の呼吸を読む。
西野あかりは、そういう人だった。
(……軽いのに、残るんだよな)
紬とは真逆だ。
紬は見えなくて重かった。
西野は見えているのに軽く処理できない。
タイプが違う。
でも、どちらもちゃんと残る。
そのことが、少しだけ面白かった。
その時、リハビリ室へ続く廊下の向こう、食堂の方から明るい声が聞こえてきた。
「え、もう終わりですか?」
「今ちょうど、いい感じのプリン残ってたのにー」
「もったいなっ……!」
聞き覚えのない、でも妙に勢いのある声。
視界の端に、青白い表示が小さく揺れる。
『▼既知対象候補を検出』
『《宮本奈々》』
『年齢:24』
『職業:食堂スタッフ』
『レベル:15』
『レア度:★★★☆☆』
『好感度:36%』
『状態:世話焼き/心配/興味』
『特性:食で支える/人の空腹と疲労に敏感』
『イベント候補:食堂スープ予約券』
(……食堂方面も動くのか)
湊は小さく息を吐いた。
さらに、その声の向こう。
廊下の端にある談話スペースの椅子で、ひとりの少女が雑誌を閉じるのが見えた。
吉岡沙織。
何度かすれ違っている入院患者だ。
年齢は自分より少し上か下か、そのくらい。
病室にいる時間が長いせいか、いつも少しだけ人の会話へ耳を傾けているような雰囲気がある。
『《吉岡沙織》』
『年齢:17』
『職業:入院患者』
『レベル:10』
『レア度:★★☆☆☆』
『好感度:36%』
『状態:興味/寂しさ/少しの羨望』
『特性:共感型/ひとり時間が長いと沈みやすい』
沙織は、湊たちの方を見ていた。
でも、声はかけてこない。
楽しそうな空気を羨ましそうに見て、でもその輪に入る勇気まではまだない。
そんな顔だった。
そして、もう一つ。
ナースステーションの電話が鳴る。
奈緒が受話器を取り、何かを聞いて、小さく表情を引き締めた。
「……白峰さんのご家族ではなく、ご本人からですか」
「はい」
「面会希望……」
「確認します」
その名前を聞いた瞬間、湊の胸が小さく跳ねた。
白峰。
白峰紗雪。
視界の端で、青白い表示が震える。
『特殊フラグ反応』
『《白峰紗雪:止まれなかった手》』
『待機状態 → 接続準備中』
『警告:高負荷感情イベントの可能性があります』
(……来るのか)
湊は息を止めた。
紬の余韻。
西野の軽口。
奈々の食堂イベント候補。
沙織の静かな視線。
そして、白峰紗雪。
自分が助けた女性。
自分が死にかけた理由。
このスキルが始まる前の、最初の選択。
第五節は、どうやら本格的に動き始めているらしい。
病院の白い廊下。
午後のやわらいだ光。
まだ少しだけ胸の奥に残る、紬の見えない余韻。
軽いのに残る、西野の言葉。
食堂から届く明るい声。
談話スペースに残る、ひとりの寂しさ。
そして、まだ顔を合わせていない白峰紗雪の気配。
やっぱり、病院ステージは思ったよりずっと忙しい。
でも、たぶん。
だからこそ、面白いのだ。
湊は車椅子の肘掛けに手を置き、静かに息を吐いた。
(……次は、逃げられなさそうだな)
視界の端で、最後の表示が結ばれる。
『第五節』
『次イベント候補を更新しました』
『▼宮本奈々:食堂の世話焼き』
『▼吉岡沙織:ひとりの談話スペース』
『▼白峰紗雪:止まれなかった手』
『選択肢は、まだ表示されません』
それが、何より不穏だった。




