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第19話 軽口の奥にあるもの


 午後の光は、午前中のそれより少しだけ厚みがある。


 月曜日の病院は、昼を過ぎるとまた別の顔を見せる。


 午前中の慌ただしさがいったん収まり、外来の波がわずかに落ち着いて、病棟の空気にも、ほんの少しだけ息をつく隙間が生まれる時間帯だ。


 もちろん、静かになるわけではない。


 ナースステーションでは相変わらず紙の擦れる音が続いているし、端末の打鍵音も止まらない。ワゴンの車輪は白い床を滑り、どこかの病室ではテレビの音量を絞った低い声が流れている。遠くでは、看護師同士の短いやり取りが途切れ途切れに聞こえ、その合間を縫うように、規則正しい電子音が淡々と命の存在を刻み続けていた。


 白い壁。

 白い天井。

 消毒液の匂い。

 空調の低い唸り。

 窓から差し込む、少しだけやわらいだ昼の光。


 病院という場所は、日常と非日常の境目が曖昧だ。


 何も起きていないように見えて、誰かにとっては決定的な一日であり、何かが起きたように見えても、別の誰かにとってはいつも通りの勤務時間だったりする。


 その両方が、同じ廊下の上に重なっている。


 だからここでは、落ち着いた空気の中にも、いつも少しだけ緊張が混じっている。


 黒瀬湊は、ベッドの脇に置かれた車椅子へ移る準備をしながら、小さく息を吐いた。


(……まだちょっと残ってるな)


 朝比奈紬のことだ。


 第17話で終わったはずの期間限定・特別イベント。

 だが、イベントが終わったことと、気持ちの中で処理が終わることは別らしい。


 むしろ、終わったと表示されたからこそ、“終わっていない感覚”だけが妙にはっきり残っている。


 屋上庭園の風。

 近い距離。

 “私は覚えてるよ”という静かな声。

 “今の湊くん、けっこう好きだよ”という、軽く置かれたくせに胸に残りすぎる言葉。

 最後まで見えなかった好感度。

 最後までロックされた感情深度。


 あれを、まだ引きずっている。


 ただ、午前中のあいだに少し整理はできた。


 結衣にも。

 奈緒にも。

 桐谷にも。

 綾乃にも。


 違う形で見抜かれたことで、逆に自分の中の状態が少しだけ見えた部分もある。


 紬はもう、今この病棟にはいない。


 それでも、いないからこそ、逆に残っている。


 視界の端に、青白い表示が静かに浮かんだ。


『黒瀬湊』


『レベル:11』

『現在経験値:125/6100』

『現在スキル経験値:1700/2600』

『現在恋愛ポイント:2115』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.7』

『次回スキルレベルアップまで:900』


『現在ステータス』

・身体回復:中

・視力補正:安定

・行動範囲:病棟内/車椅子移動可

・疲労:軽度

・精神状態:思考過多/余韻/集中回復中


『所持スキル』

・《感情トレースLv.3》

・《言外読解Lv.3》

・《身体感覚補正Lv.2》

・《安心感付与Lv.2》

・《重心把握Lv.2》

・《疲労看破Lv.2》

・《関係負荷軽減Lv.2》

・《役割把握Lv.1》

・《優先順位把握Lv.1》

・《違和感感知Lv.1》


『所持アイテム』

・《微睡みミント》×1

・《メンタルリカバリーチケット》×1

・《リハビリサポートバンド》×1

・《ナースメモカード》×1

・《ミントタブレット》×1

・《栄養補助スープ》×1

・《暇つぶしカード》×1

・《非常用簡易メモ》×1

・《夜勤対応メモ》×1

・《小型ライト》×1

・《集中維持パッチ》×1

・《夜明けのメモリーカード》×1

・《完全回復アンプル(小)》×1

・《リスタートバンド》×1

・《温度のメモ》×1

・《売店チョコ》×1

・《食堂スープ予約券》×1


『現在進行中イベント』

・《朝比奈紬:再会したはずの距離》PHASE1完了/次回接続待ち

・《白峰紗雪:止まれなかった手》待機中

・《白石結衣:自信の芽》継続中

・《佐倉奈緒:背負い方の変化》継続中

・《神宮寺綾乃:信頼形成 初期》継続中

・《桐谷美月:連携ルート》継続中


『特殊フラグ』

・《白峰紗雪:止まれなかった手》

・《朝比奈紬:長期蓄積感情》

・《リリス観測補助:不明》


(……こうして見ると、完全にゲームの中盤ステータスだな)


 湊は心の中で呟いた。


 けれど、画面の情報とは裏腹に、胸の奥に残っているものは数値にならない。


 紬の声。

 ひなたの笑い。

 屋上庭園の風。

 そして、白峰紗雪という名前にまだ触れられていない違和感。


 第1話で助けた女性。

 自分が死にかけた原因であり、たぶん、このスキルが始まるきっかけになった人物。


 面会できるなら、いつか来るかもしれない。


 そう思った瞬間、胸の奥がほんの少しだけ重くなる。


(……白峰紗雪、か)


 名前だけはもう知っている。

 だが、ちゃんと会ってはいない。


 助けた相手。

 でも、自分から会いに行くには重すぎる相手。


 その存在が、まだイベント欄に“待機中”として残っている。


 つまり、いつか必ず動く。


 それも、おそらく軽くはない形で。


 その時だった。


「はい、黒瀬さん」


 軽い声と一緒に、車椅子のブレーキ音がかすかに鳴った。


 桐谷美月が、当たり前みたいな顔で病室に入ってくる。


 リハビリ用のウェア姿。

 白衣ではないぶん、病院の白さの中では少しだけ“動く人”の色を持って見える。


 細身で無駄のない立ち方。

 動きやすさを最優先にした格好なのに、不思議と雑には見えない。

 目元にはいつもの余裕があり、その余裕の奥に、相手の身体を一瞬で読む理学療法士の視線がきちんとある。


『《桐谷美月》』

『年齢:25』

『職業:理学療法士』


『レベル:21』

『レア度:★★★★☆』


『好感度:36%』


『状態:観察/興味(強)/余裕』

『補足:黒瀬湊の回復具合と精神残響を把握』


「午後のリハ、始めるよ」

 桐谷は湊を見るなり、口元だけで少し笑った。

「午前中より顔戻ってるね」

「よかった。さすがに昼までずっと“外のヒロイン引きずってる人の顔”だったら、私もちょっと対応考えた」


「まだその言い方するのかよ」


「だってわかりやすいんだもん」

 桐谷は肩をすくめる。

「朝の黒瀬さん、完全に“イベントCLEARしたのに未回収CGが残ってる人”の顔だったし」

「今はちゃんと現実に戻ってる」

「でも、完全にゼロにはなってない」

「そういう顔」


 この人は、本当に余計なところまで見抜く。


 いや、余計というより、身体を見ている人間だからこそ、表情や反応の遅れを“身体の一部”として拾ってしまうのかもしれない。


「今日のメニュー、どうします?」

 結衣の声が後ろから重なった。


 白石結衣が、記録用のタブレットと小さなメモを持って病室へ入ってくる。


 今日は午前中より少し落ち着いた顔をしていた。

 朝に少し拗ねて、少し安心して、それでもまだ気になるところは気になる、という複雑な感情をどうにか制服の下へ押し込めている顔だ。


 白衣の袖口は整っている。

 髪も崩れていない。

 声の出し方も、少し前のような過剰な緊張がなくなってきていた。


 けれど、目だけは正直だった。


 湊がどういう顔をしているのか。

 午前中のやり取りから少しでも変わったのか。

 そういうところを、かなり細かく見ている。


『《白石結衣》』

『年齢:20』

『職業:見習い看護師』


『レベル:18』

『レア度:★★★☆☆』


『好感度:88%』


『状態:信頼/安堵/期待(微)』

『補足:患者優先モード強め/対抗心を隠蔽中』


(隠蔽できてないんだよな……)


 湊は思ったが、言わなかった。


 言えば結衣が真っ赤になる。

 そして桐谷が絶対に面白がる。


 それは見えている。


「歩行、少し長めに見る?」

 桐谷が言う。

「それとも先に売店まで行って、水分補給してからにする?」


「売店?」

 湊が聞き返すと、桐谷はうん、と頷いた。


「今日は売店の前まで行く」

「病室とリハビリ室の往復だけだと飽きるでしょ」

「それに、実際の生活動線に近い方が練習になる」

「廊下の曲がり角とか、人の流れとか、視線の置き方とか」

 一拍。

「あと、今の黒瀬さんには、ちょっと気分転換も必要そうだし」


 その最後の一言は、からかい半分、気遣い半分だった。


 結衣が少しだけ目を瞬かせる。


「それ、先生に言ってますか?」


「言ってない」

 桐谷はあっさり答えた。

「でも別に悪いことじゃないし」

「ちゃんと範囲内でやるなら、実用練習の一部」

「むしろ“病室とリハ室だけ”の方が、本当は偏るんだよね」

「実際の生活って、もっと雑音が多いし、人もいるし、誘惑もあるし」


「誘惑って……売店ですか」

 結衣が少し呆れたように言う。


「そう。売店」

 桐谷は笑った。

「プリンとか、炭酸とか、甘い飲み物とか、そういう意味での誘惑」

「あと、会話イベントも転がってるかもしれないし」


「桐谷さん」

 結衣の声がわずかに低くなる。

「そういう言い方やめてください」


「ごめんごめん」

 全然悪びれていない口調で、桐谷はひらひらと手を振った。

「でも神宮寺先生に見つかったら怒られません?」


 結衣はまだ少し心配そうに聞く。


「見つかったらその時は私が言い訳する」

 桐谷は平然と言う。

「大丈夫。半分は本当だから」

「半分は本当にリハビリ」

「もう半分は、今の黒瀬さんにちょっと外の空気吸わせたい」


 その雑な自信が逆に頼もしい。


 湊は少しだけ考え、それから言った。


「……じゃあ、行く」


 言った瞬間、自分の中で何かが少しだけ動いた気がした。


 ただ病室を出るだけ。

 ただ売店まで行くだけ。


 それだけのことなのに、“前へ行く”という実感がある。


 桐谷は満足そうに頷いた。


「よし」

「じゃあ今日は、“売店まで行って、ちゃんと戻ってくる”」

「シンプルだけど、今の黒瀬さんにはちょうどいい目標」

「上の空で転んだら一発で中止だから、そこだけ注意ね」


「何回も言うな」


「何回も言わないと忘れそうだから」


 軽口を交わしながら、湊はゆっくりと車椅子へ身体を移した。


 重心を確認する。

 手の位置。

 足の置き方。

 肘掛けに触れる指先の力加減。

 太腿の上に落ちる腕の重さ。

 骨盤の傾き。


 以前よりはずっと自然にできる。


 でも、まだ完全に“何も考えなくてもできる”ところまでは戻っていない。

 だからこそ、桐谷の言う“気持ちの置き方”がそのまま身体に出るのだろう。


 病室を出ると、廊下の光が少し広く感じた。


 白い床に午後の光が浅く落ちている。

 平日の病棟らしい、人の流れ。

 看護師のすれ違う足音。

 紙カルテを抱えて歩く職員。

 遠くの病室から漏れる生活音。

 リネンの匂いに混ざる、少しだけ温かい昼の空気。


 湊は車椅子のリムに手を添えながら、ゆっくりと廊下を進む。


 結衣が右後ろ。

 桐谷が少し前で歩調を見ている。


 その配置が、今の自分の回復段階そのものみたいで、少しだけ苦笑したくなった。


「……今日、ほんとに売店までなんですね」

 結衣が小声で言う。


「何?」

 桐谷が振り向く。


「いえ、その……」

 結衣は少しだけためらってから言った。

「黒瀬さん、たぶん病室から出るだけでまだ少し気を張ってるので」

「売店って、意外と人いるじゃないですか」

「ちょっとした方向転換でも、誰かとすれ違ったりしますし」


「いるね」

 桐谷は頷く。

「だからいいんだよ」

「病室の中だけじゃ、もう足りない時期」

「人の流れの中で、自分の身体をどう扱うかも練習しないと」

「誰かが前から来る時、どう避けるか」

「棚に目を向けながらでも、重心をどう残すか」

「そういうのって、リハ室のまっすぐな床だけじゃ覚えきれないから」

 一拍。

「まあ、今日はあくまで軽め」

「本番はまだ先だから安心して」


 その“安心して”には、ちゃんとした計算がある。


 無茶はさせない。

 でも甘やかしもしない。


 桐谷の距離感は、そこが上手かった。


 その会話の途中で、ナースステーションの前を通る。


 奈緒が、書類を抱えたまま顔を上げた。


『《佐倉奈緒》』

『年齢:26』

『職業:看護師』


『レベル:23』

『レア度:★★★★☆』


『好感度:48%』


『状態:平静/実務集中/観察』

『補足:黒瀬湊の移動と白石結衣の立ち位置を確認中』


「……売店ですか」

 奈緒が静かに言う。


「リハビリの一環」

 桐谷が先に答えた。

「ちゃんと範囲内」


 奈緒は一瞬だけ湊の手元と足元を見る。


 車椅子のブレーキ。

 足の置き方。

 肩の入り方。

 湊の視線が廊下の先へ向いているか、手元に落ちているか。


 その全部を一瞬で見ている。


 それから、短く頷いた。


「わかりました」

「ただ、長くならないようにしてください」

「今日は人の出入りも多いので」

「普段より廊下の流れが速いですし、売店前も混みやすい時間です」


 その言い方は業務的だ。


 でも、その奥に“ちゃんと見ている”温度がある。


「すぐ戻ります」

 結衣が言うと、奈緒は彼女の方を見た。


「白石さん」


「はい」


「黒瀬さんだけじゃなくて、周囲も見て」

「今日の廊下、人の流れが少し速いので」

「正面だけじゃなくて、横から来る人も気にしてください」

「あと、声をかける前に立ち位置を先に取って」

「患者さんを守ろうとして自分が塞がる位置に立つと、逆に動線が詰まります」


「はい……!」


 結衣が小さく背筋を伸ばす。


 そのやり取りを見て、湊は少しだけ目を細めた。


 奈緒はもう、結衣を“支えないと危ない後輩”としてだけは見ていない。


 ちゃんと役割を渡している。

 ちゃんと、任せる前提で指示を出している。


 それが短いやり取りの中にも出ていた。


 その時、ナースステーションの奥を、白衣の裾がよぎった。


 綾乃だ。


 神宮寺綾乃は歩きながらこちらを見て、ほんの一瞬だけ足を止める。


『《神宮寺綾乃》』

『年齢:28』

『職業:外科医』


『レベル:31』

『レア度:★★★★★』


『好感度:31%』


『状態:平静/観察/制御』

『補足:不必要な寄り道を警戒』


「売店?」

 短い問い。


「リハビリです」

 桐谷が答える。

「実用導線確認」


 綾乃は無言で湊を見る。


 その視線には、相変わらず逃げ道がない。


「五分」

 それだけ言った。


「厳しくないですか」

 湊が返すと、綾乃は淡々と答える。


「寄り道しないで」

「戻る」

「それなら十分です」


 一拍。


「……転ばないで」


 それだけ残して、また歩き去っていく。


 桐谷が小さく笑う。


「出た。短いのにちゃんと見てるやつ」


 結衣も、少しだけほっとしたような顔をした。

 奈緒は何も言わないが、その表情はわずかにやわらかかった。


 売店までは、病棟の端をひとつ曲がった先にある。


 小さなスペースだ。

 けれど、入院患者や付き添い、職員の休憩にも使われるから、時間帯によって意外と人の出入りがある。


 午後の売店前は、ちょうどいいくらいに人がいる。

 多すぎず、少なすぎず。


 その“ちょうどいい現実感”が、今の湊には少し新鮮だった。


 棚に並ぶ飲み物。

 お菓子。

 雑誌。

 日用品。

 小さなレジカウンター。

 冷蔵ケースの冷気。

 レジ袋のこすれる音。


 病院の中にある、小さな外の世界。


 そのカウンターの奥で、ひとりの女性が顔を上げた。


「いらっしゃいませ――」


 軽い声。

 明るすぎず、でもよく通る。


 そして、その目が湊で止まる。


「あ」

 少しだけ口元が上がる。

「黒瀬さん。今日はリハビリ遠征ですか?」


 西野あかりだった。


 第9話から何度か売店で顔を合わせている。

 病院停電事件の時にも、売店周りで職員や患者の動きに巻き込まれながら、さりげなく人を誘導していた人物だ。


 派手な活躍をしたわけではない。

 けれど、あの夜の病院には、そういう“目立たない場所で空気を支えた人”も確かにいた。


 湊はそれを覚えている。


『《西野あかり》』

『年齢:22』

『職業:売店店員』


『レベル:13』

『レア度:★★☆☆☆』


『好感度:37%』


『状態:興味/空気読み/観察』

『特性:場を柔らかくする/距離の取り方が上手い』


『▼既知対象イベント発生』

『名称:軽口の奥に残るもの』

『分類:関係補強イベント』

『推定難易度:低〜中』

『成功条件:軽口の奥にある気遣いを受け取る』

『失敗条件:誤魔化しすぎ/身体負荷の見落とし/白石結衣の不安増幅』


(……既知対象、か)


 前回までと違い、今回は“新規対象”ではない。


 ちゃんと知っている相手。

 すでに何度か言葉を交わした相手。

 停電の夜も、この病院のどこかで同じ緊張の中にいた相手。


 それだけで、イベントの質が少し違って見えた。


「遠征ってほどじゃない」

 湊が返すと、西野は楽しそうに笑った。


「患者さんが売店まで来るの、けっこう立派な遠征ですよ」

「少なくとも、病室と廊下だけの世界から一歩出るわけですし」

「それに、黒瀬さんの場合は、周りがすごく見てますからね」


 そう言って、西野はちらりと結衣と桐谷を見る。


 結衣は少しだけ背筋を伸ばした。

 桐谷は面白そうに片手を上げる。


「見守り隊です」

 桐谷が言う。


「監視隊の間違いじゃないですか」

 湊が返す。


「黒瀬さんに関しては、わりとどっちも正解」

 西野が即答した。


 軽い。

 だが、間がいい。


 言葉の置き方が、売店の人というより、病院の中をよく見ている人間のそれだった。


「で、今日は何にします?」

 西野が言った。

「水?」

「お茶?」

「それとも、見た目だけヘルシーな甘い飲み物?」


「最後の言い方ひどくないですか」


「ひどくないですよ」

 西野は笑う。

「わりと本当です」

「あと、黒瀬さん、そういうの選びそうな顔してます」


「どういう顔だよ」


「ちょっと疲れてるのに、ちゃんとしたもの選ぼうとして、結局よくわかんない中間を取る顔」


「分析が細かい」

 桐谷が横で吹き出す。

「西野さん、やっぱ見るタイプだね」


「売店ってそういう仕事でもあるので」

 西野は肩をすくめた。

「迷ってる人に、だいたいちょうどいいの勧めるのも込みで」

「病院の売店って、普通のコンビニと少し違うんです」

「“欲しいものを買う場所”でもあるけど、“何を買えばいいかわからない人が、とりあえず立ち寄る場所”でもあるので」


 その言葉に、湊は少しだけ目を細める。


 軽口の奥に、妙に実感があった。


 売店の前の空気が、少しだけ柔らかくなる。


 その時だった。


 湊が棚の上のペットボトルへ手を伸ばした瞬間、車椅子の重心がほんの少しだけ前へ流れた。


 自分では取れると思った。

 距離も、手の長さも、たぶん届くと計算した。


 でも、身体はまだ完全じゃない。


 車椅子の位置。

 足の置き方。

 上半身の傾き。

 肘掛けに残した重さ。


 その全部がわずかにずれて、一瞬だけ身体が不安定になる。


「……っ」


 ぐらり、と視界が揺れた。


 その瞬間。


「ちょ、危なっ」


 西野が反射的にカウンターから身を乗り出した。


 細い指が、湊の手首を掴む。

 もう片方の手が肩口を支える。


 距離が、一気に近くなる。


 売店の棚の匂い。

 甘い香りが少し混ざった空気。

 西野の髪が揺れる気配。

 彼女の目が、一瞬だけ驚きで見開いて、それでもすぐに冷静さを取り戻していく流れ。


『▼一時感情反応検出』


『対象:西野あかり』


『状態:驚き/反射行動/接触』

『本音接触率:32%』


 湊は、一瞬呼吸を止めた。


(……近い)


 西野の顔がすぐ目の前にある。


 近いのに、変に慌てていない。

 反射で動いたあと、そのまま冷静に距離を制御している感じがある。


「黒瀬さん!」

 結衣の声がほとんど悲鳴みたいに飛んだ。

「だ、大丈夫ですか!?」


 そして、そのまま西野の方を見て、ほとんど無意識に続ける。


「西野さん、離れてくださいっ」


 一瞬だけ、空気が止まった。


 結衣自身も、言ってから気づいたらしい。

 顔が一気に赤くなる。


「あ、ち、違っ……その……!」

「離れてっていうか、えっと、もう大丈夫なら、って意味で……!」

「近いのがダメとかじゃなくて、いや近いのは近いんですけど、それは今関係なくて……!」


 桐谷が隣で吹き出しかけている。


「結衣ちゃん、わかりやす……」


「桐谷さんっ」


 売店の中にいた年配の患者が一瞬だけこちらを見て、何も言わずに目を逸らした。


 気を遣わせてしまった。


 湊は少しだけ申し訳ない気持ちになった。


 西野はそんな結衣を見て、一瞬だけ目を丸くして――それから、ふっと笑った。


「はいはい」

「大丈夫そうなら離れます」

「でも今のは普通に危なかったですよ、黒瀬さん」

「あと白石さん、反応正直すぎます」


 手首から、やわらかく力が抜かれる。

 肩に触れていた手も離れる。


 けれど、その一瞬で距離感が変わったのは確かだった。


「……悪い」

 湊は小さく息を吐いた。

「届くと思った」


「そういう顔してました」

 西野はカウンター越しに戻りながら言う。

「“たぶんいける”って思ってる人の伸び方だったので」

「でも、その“たぶん”で転ぶのが一番危ないやつです」

「届くかどうかじゃなくて、届いたあと崩れないかまで見ないとダメですよ」


 その言い方が、看護師でも理学療法士でもないのに妙に的確だった。


 桐谷がすかさず口を挟む。


「はい、だから言ったでしょ」

「上の空って身体に出るんだって」


「今のは違う」


 湊が言い返す。


「違わないです」

 結衣が珍しく強めに言った。

「今の、完全に考え事してた時の動きでした」

「手だけ先に出て、身体の位置ちゃんと見てなかったです」

「しかも戻る準備のない伸び方でした」

「それ、普通に危ないです」


 さっきまで少し拗ねていたくせに、こういう時は一気に看護師側へ戻るのが結衣らしい。


 西野はそんな三人を見ながら、口元だけで笑った。


「仲いいですね」


「よく言われます」

 桐谷が即答する。


「まだそんな段階じゃないです!」

 結衣も即答する。


 湊は頭を抱えたくなった。


 その空気の中で、西野だけがやけに落ち着いていた。


 軽い。

 でも、軽いだけではない。


 さっき咄嗟に伸びた手の速さも、離れるタイミングの自然さも、相手を変に気まずくさせない笑い方も、全部“慣れている”。


 彼女はレジ横の小さな冷蔵ケースを開けて、ミント系の炭酸を一本取り出した。


「はい」

 そう言って、湊の前へ置く。


「これ、今日の黒瀬さんにちょうどよさそう」


「……なんで」


「顔がちょっと重いから」

 西野はさらっと言う。

「眠いとかじゃなくて、考え事してる人の重さ」

「そういう時、甘すぎるのより、ちょっとすっきりするやつの方が合うんですよ」

「あと、さっきみたいな無茶しそうな時って、頭の中リセットしないとまたやるので」


 その言い方が、また妙に自然だった。


『《西野あかり》』

『状態更新:興味/空気読み/観察 → 観察/興味(強)/微気遣い』


(……この人もか)


 軽い。

 でも、ちゃんと見ている。


 そのタイプだ。


「今日ちょっと違いますよね」

 西野がペットボトルをレジへ通しながら言った。

「昨日までより、反応が半拍遅い」

「考え事してる人の顔してる」


 湊が少しだけ目を細める。


「そんなにわかるか?」


「接客やってるとわかるんですよ」

 西野は笑った。

「“今日、別のこと考えてる人”って」

「会計の時、商品より頭の中の方が忙しい感じになるので」

「しかも、そういう人ってだいたい手元おろそかになりがちです」

「今みたいに」


「それ、病院の売店で鍛えられるスキルなんですか」


「意外と」

 西野は肩をすくめる。

「患者さんも、付き添いの人も、職員さんも、みんな違う顔して来るので」

「元気なふりしてる人とか」

「平気な顔して全然平気じゃない人とか」

「自分では普通のつもりなのに、買い物かごの持ち方だけ変な人とか」

「そういうの、毎日少しずつ見てると、何となくわかるようになります」


 軽い会話のはずなのに、少しだけ空気が変わる。


 ここで、視界の端に選択肢が浮かんだ。


『▼西野あかり 関係補強イベント』

『名称:軽口の奥に残るもの』


『A:ごまかす』

『B:少しだけ話す』

『C:逆に西野の観察眼を聞く』

『D:結衣を安心させる方向に話題をずらす』


(……Bだな)


 湊は、ほんの一拍だけ考えてから口を開いた。


「まあ、ちょっとな」


 その答えに、西野は少しだけ目を細めた。


「“ちょっと”って言う人、だいたいちょっとじゃないんですよね」

「本当にちょっとの人は、“まあちょっと”って前置きしないので」

「“いや別に”で済ませるか、逆にすごく長く言い訳するかのどっちかです」


「接客しながらそういう分類してるのか」


「してます」

 西野は即答した。

「売店って、意外と人間観察に向いてるんです」

「立場が微妙に外側だから」

「職員みたいに踏み込みすぎないし、家族みたいに近すぎないし」

「でも、短い時間で相手の顔色は見ないといけないので」


 そして、レジから顔を上げる。


「でも、いいと思いますよ」

 一拍。

「ちゃんと引きずれる人」


 湊は少しだけ息を止めた。


 予想していた返しではなかったからだ。


「普通、引きずるのって面倒だし」

「しんどいし」

「さっさと切り替えたいって思うじゃないですか」

 西野は言う。

「だから、みんな無理にでも切り替えようとする」

「仕事だから、とか」

「今は考えても仕方ないから、とか」

「そういうちゃんとした理由つけて、いったん置く」


 一拍。


「でも、ちゃんと引っかかったまま考えられる人って、私はそんなに嫌いじゃないです」


 その言い方は軽い。


 けれど、軽さの奥にちゃんと体温がある。


 湊は、少しだけ言葉を失った。


 紬の時みたいな、胸を締めつける重さじゃない。


 でも、西野の言葉は別の角度から静かに入ってくる。


 軽いのに、残る。


 それがこの人の強さなのだと、湊は思った。


「……そういうもんか」

 やっとそれだけ返すと、西野は笑った。


「そういうもんです」

「たぶん、ですけど」

「私、重い話を重く受け止めるのあんまり得意じゃないんですよ」

「でも、軽く流すだけなのも違うなって思うので」

「だったら、少しだけ笑える形で残す方がいいかなって」


 その“たぶん”の置き方が、少しだけ優しい。


 横で、結衣が複雑そうな顔をしていた。


『《白石結衣》』

『状態:観察/軽い警戒/複雑』

『補足:売店店員に対する対抗意識(微)』


 わかりやすい。

 すごくわかりやすい。


 桐谷は完全に面白がっている。


「はいはい、既存キャラの関係イベント進行中」

「病院ステージ忙しいねえ」


「やめてください、その言い方」

 結衣がすぐさま言う。


「いや、でも事実じゃん」

 桐谷は笑う。

「しかも西野さんタイプ違うし」

「これ絶対、黒瀬さんに効く系」

「重くならないのにちゃんと残るやつ」


「桐谷さん」

 結衣の声が少しだけ低くなる。


「ごめんごめん」

 全然悪びれていない声で桐谷が笑った。


 その時、売店の奥の冷蔵棚から別の客が近づいてきた。


 一瞬だけ西野はそちらへ笑顔を向け、会計を済ませる。


「袋いります?」

「ありがとうございます、ではこちらで」

「お大事になさってください」


 その切り替えの滑らかさに、湊は少し感心した。


 接客の顔。

 会話の顔。

 軽口の顔。


 全部が自然に繋がっている。


 戻ってきた西野が、レジ台に肘をつかないぎりぎりの軽さで身を寄せる。


「今度来た時は」

 一拍。

「もう少し余裕ある顔で来てください」


「今、そんなにひどい顔してる?」


「ひどいっていうか」

 西野は少し考えてから言った。

「もったいない顔」

「ちゃんと考えてるのはわかるけど、それで顔まで重くなるのはもったいないです」

「せっかく話しかけやすい顔してるのに」

「今の黒瀬さん、ちょっとだけ“話しかけたら悪いかな”寄りになってるので」

「それ、売店的にも損です」


「売店的にも、って何だよ」


「売店店員は、話しかけやすいお客さんの方が好きなので」

「あと、個人的にも」

 そこまで言って、西野はほんの少しだけ笑う。

「重い顔より、もうちょっとだけ普通に笑ってる方が似合うと思うので」


 その言葉に、湊の胸の奥が少しだけ動く。


 結衣が聞こえるか聞こえないかの声で「売店の人なのに……」と呟き、桐谷がまた笑いを堪えた。


 そこへ、背後から静かな足音が近づいてくる。


 奈緒だ。


 書類を持ったまま、売店の前で止まる。


「……予想より長かったですね」

 奈緒が言う。


 声は落ち着いている。

 でも、完全な事務連絡ではない。


「必要な時間でしたか」


 それは西野に向けた言葉ではなく、湊へ向けた問いだった。


『《佐倉奈緒》』

『状態更新:平静/実務集中/観察 → 牽制(微)/静かな違和感』


 奈緒らしい。


 表面は崩さない。

 でも、気になっていないわけでもない。


「長すぎないですよ」

 西野が先に笑って言った。

「ちゃんと売り上げにもなってますし」

「あと、転倒未遂ひとつ防いでるので、むしろ働いてます」


 その返しがうまくて、奈緒は一瞬だけ言葉を止めた。


 それから短く頷く。


「……なら、よかったです」


 大人だ。


 だが、その一瞬の間に、売店前の空気がほんの少しだけピンと張ったのを、湊は感じ取った。


 奈緒は西野の方を改めて見た。


 責めるわけでもなく、敵意を出すわけでもなく、ただ静かに相手を見ている。


「ありがとうございます」

 奈緒は言った。

「支えていただいて」


「どういたしまして」

 西野は軽く答える。

「でも次は、もう少し普通に買い物してもらえると助かります」

「毎回これだと、私が変な意味で覚えちゃうので」


 その一言に、結衣の肩がぴくっと揺れた。


 湊は内心で苦笑する。


 この人、本当に軽いのに要所で効く。


 その緊張を、さらに斜めから切ったのは桐谷だった。


「はい、みんな終了」

「黒瀬さん、五分どころかもう十分近いから戻るよ」

「先生に見つかったら全員巻き添えで怒られる」


 それはたしかに困る。


「じゃあ」

 湊が言うと、西野は軽く手を振った。


「また来てください」

「今度はもうちょっと普通に商品選べる状態で」

「倒れそうになりながら選ばれると、こっちもびっくりするので」


「……善処します」


「善処じゃなくて実行で」

 西野は笑った。

「その方が、安心して話せるので」

「あと、重い顔のままより、少し戻った顔の方がたぶんこっちも話しやすいです」


 その一言が、最後にまた小さく残った。


 売店を離れて病棟の廊下へ戻る途中、結衣は明らかに何か言いたそうな顔をしていた。


 だが、奈緒がそばにいる手前なのか、すぐには口を開かない。


 桐谷はそれを見て、楽しそうに笑う。


「結衣ちゃん、わかりやすすぎるよ」


「な、何がですか」


「全部」


「全部って何ですか!」


「顔」

「声」

「歩幅」

「あと、“売店の人なのに”って三回くらい思ってる感じ」


「思ってません!」

 一拍。

「……二回くらいです」


 言ってから、結衣が自分で顔を赤くした。


 桐谷が吹き出す。

 湊まで少し笑ってしまう。


 奈緒は呆れたように、でも少しだけやわらかい声で言った。


「歩きながら騒がないでください」

「黒瀬さんの気が散るので」

「今は戻るまでがリハビリです」


「ほら奈緒さんも気にしてる」

 桐谷がすかさず言う。


「私は安全面の話です」

 奈緒は即答する。


 だが、その言葉のあとにほんの一拍だけ間が空いたのを、湊は見逃さなかった。


 気が散るのが危ない。

 それは正しい。


 でも、湊が誰との会話でどういう顔をしたのか、そのこと自体も奈緒の意識のどこかには残っている。


 そういう、静かな気になり方をする人だ。


 ナースステーションの前へ戻ると、ちょうど綾乃が端末を見ながら歩いていた。


 視線だけでこちらの人数と動きを確認し、短く言う。


「遅い」


「すみません」

 結衣が即座に頭を下げる。


「戻ったならいいです」

 綾乃はそれだけ言って、それから湊を見る。

「転んでない?」


「転んでないです」


「なら、次」

 一拍。

「寄り道は終わり」

「ここから先は、ちゃんと戻して」


 相変わらず短い。


 でも、その一言だけで病棟の空気へ戻される感覚があった。


 午後のリハビリは、そのあときっちり行われた。


 売店での一瞬のぐらつきのせいか、最初の立位では少しだけ身体が硬かった。


 だが桐谷はそれをすぐに見抜き、「余計な力入ってる」と指摘し、呼吸のタイミングから整え直す。


「考えるのは悪くない」

「でも、立つ時にまで全部持ち込まない」

「今、足がやる仕事と、頭がやる仕事は分けて」

「売店の会話も、紬ちゃんの余韻も、全部ゼロにしなくていいから」

「ただ、今この瞬間に必要な分だけ脇へ置く」


 その言葉に従って、湊はゆっくりと重心を整える。


 足の裏にかかる体重。

 膝の位置。

 背中の軸。

 呼吸。

 手すりに触れる手の圧。

 床を踏む足の角度。


 病院の日常と、屋上庭園の余韻と、売店前の軽口と。


 それら全部を無理に消すのではなく、いったん脇へ置く。


 そうすると、意外なくらい身体は素直に応えてくる。


「うん」

 桐谷が言う。

「その方がいい」

「今の黒瀬さん、考えごと全部消すのは無理でも、分けるのはできるから」

「“持ってるけど、今は使わない”ってやつ」

「それができるようになると、一気に身体の戻り方変わるよ」


 その言葉は、身体の話でありながら、たぶんそれだけではなかった。


 リハビリの途中、結衣がタオルを渡すタイミングで少しだけ視線を合わせる。


 奈緒が通りがかりに歩容を見て、小さく「午前よりいいです」と言う。


 綾乃は遠くから一度だけ確認して、何も言わずに去っていく。


 桐谷は、その全部を見たうえで、変にからかいすぎず、でも軽さは失わずに進行する。


 この病棟の空気が、今はそういうバランスでできているのだと、湊は少しずつ実感していた。


 リハビリを終えて病室へ戻った頃には、西の方へ少しだけ光が傾き始めていた。


 午後の明るさはまだ残っている。

 でも、窓から差し込む光の角度が少しだけ変わり、白い床の上に伸びる影がゆるやかに長くなっている。


 ベッドへ戻る前、視界の端に青白い表示が広がる。


『▼西野あかり 関係補強イベント CLEAR』


『名称:軽口の奥に残るもの』


『▼経験値+320』

『▼スキル経験値+260』

『▼恋愛ポイント+160』


『▼アイテム獲得』

《リフレッシュミント》×1

《売店おすすめメモ》×1


『▼スキル熟練』

《不可視感情検知》使用経験を獲得しました

《言外読解》使用経験を獲得しました


『▼スキル経験値加算』

1700 → 1960 / 2600


『▼経験値加算』

125 → 445 / 6100


『▼恋愛ポイント加算』

2115 → 2275


『▼レベルアップ判定』

必要経験値に未達


『黒瀬湊 Lv.11 継続』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.7』

『次回スキルレベルアップまで:640』


 情報が流れ込む。


 今回はレベルアップしない。


 新機能も解放されない。


 ただ、確かに積み重なった。


(……こっちの方が、それっぽいな)


 湊は思う。


 毎回劇的に変わるわけじゃない。

 毎回レベルが上がるわけじゃない。

 でも、会話をして、誰かの言葉を受け取って、少しずつ経験値が増えていく。


 それは、ゲームっぽいのに、妙に現実っぽかった。


 軽く見えて、でもちゃんと会話の流れを整える。

 深く潜りすぎず、それでいて相手の呼吸を読む。


 西野あかりは、そういう人だった。


(……軽いのに、残るんだよな)


 紬とは真逆だ。


 紬は見えなくて重かった。

 西野は見えているのに軽く処理できない。


 タイプが違う。

 でも、どちらもちゃんと残る。


 そのことが、少しだけ面白かった。


 その時、リハビリ室へ続く廊下の向こう、食堂の方から明るい声が聞こえてきた。


「え、もう終わりですか?」

「今ちょうど、いい感じのプリン残ってたのにー」

「もったいなっ……!」


 聞き覚えのない、でも妙に勢いのある声。


 視界の端に、青白い表示が小さく揺れる。


『▼既知対象候補を検出』


『《宮本奈々》』

『年齢:24』

『職業:食堂スタッフ』


『レベル:15』

『レア度:★★★☆☆』


『好感度:36%』


『状態:世話焼き/心配/興味』

『特性:食で支える/人の空腹と疲労に敏感』


『イベント候補:食堂スープ予約券』


(……食堂方面も動くのか)


 湊は小さく息を吐いた。


 さらに、その声の向こう。


 廊下の端にある談話スペースの椅子で、ひとりの少女が雑誌を閉じるのが見えた。


 吉岡沙織。


 何度かすれ違っている入院患者だ。

 年齢は自分より少し上か下か、そのくらい。

 病室にいる時間が長いせいか、いつも少しだけ人の会話へ耳を傾けているような雰囲気がある。


『《吉岡沙織》』

『年齢:17』

『職業:入院患者』


『レベル:10』

『レア度:★★☆☆☆』


『好感度:36%』


『状態:興味/寂しさ/少しの羨望』

『特性:共感型/ひとり時間が長いと沈みやすい』


 沙織は、湊たちの方を見ていた。


 でも、声はかけてこない。


 楽しそうな空気を羨ましそうに見て、でもその輪に入る勇気まではまだない。

 そんな顔だった。


 そして、もう一つ。


 ナースステーションの電話が鳴る。


 奈緒が受話器を取り、何かを聞いて、小さく表情を引き締めた。


「……白峰さんのご家族ではなく、ご本人からですか」

「はい」

「面会希望……」

「確認します」


 その名前を聞いた瞬間、湊の胸が小さく跳ねた。


 白峰。


 白峰紗雪。


 視界の端で、青白い表示が震える。


『特殊フラグ反応』


『《白峰紗雪:止まれなかった手》』

『待機状態 → 接続準備中』


『警告:高負荷感情イベントの可能性があります』


(……来るのか)


 湊は息を止めた。


 紬の余韻。

 西野の軽口。

 奈々の食堂イベント候補。

 沙織の静かな視線。


 そして、白峰紗雪。


 自分が助けた女性。

 自分が死にかけた理由。

 このスキルが始まる前の、最初の選択。


 第五節は、どうやら本格的に動き始めているらしい。


 病院の白い廊下。

 午後のやわらいだ光。

 まだ少しだけ胸の奥に残る、紬の見えない余韻。

 軽いのに残る、西野の言葉。

 食堂から届く明るい声。

 談話スペースに残る、ひとりの寂しさ。

 そして、まだ顔を合わせていない白峰紗雪の気配。


 やっぱり、病院ステージは思ったよりずっと忙しい。


 でも、たぶん。


 だからこそ、面白いのだ。


 湊は車椅子の肘掛けに手を置き、静かに息を吐いた。


(……次は、逃げられなさそうだな)


 視界の端で、最後の表示が結ばれる。


『第五節』

『次イベント候補を更新しました』


『▼宮本奈々:食堂の世話焼き』

『▼吉岡沙織:ひとりの談話スペース』

『▼白峰紗雪:止まれなかった手』


『選択肢は、まだ表示されません』


 それが、何より不穏だった。

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