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第18話 残った温度の行き先


 月曜日の朝だった。


 土曜日と日曜日のあいだに、ほんの少しだけやわらいでいた病院の空気は、週明けになるとまた静かに引き締まる。


 外来が始まる前の気配が、建物全体の奥の方からゆっくりと満ちてくるのがわかる。ナースステーションでは朝の申し送りの声が低く重なり、紙カルテをめくる乾いた音と、端末のキーボードを叩く小さな打鍵音が、規則的な心電図の電子音と混ざり合っている。ワゴンの車輪は白い床の上を平日らしい一定の速度で転がり、誰かの靴音が、必要な分だけの速さで廊下を横切っていく。


 白い壁。

 白い天井。

 消毒液の匂い。

 空調の低い唸り。

 冷たすぎない朝の光。

 規則正しさを装う、無数の小さな音。


 病院という場所は、何も変わらないふりがうまい。


 真夜中の停電事故があったことも。

 救命センターまで巻き込む緊急対応があったことも。

 誰かが限界を越えそうになり、誰かがその手を支えたことも。

 夜明けまで張り詰め続けた空気も。


 そして。


 土曜日の午後、妹の親友が残していった、数値にならない温度も。


 そういう全部を、月曜日の朝の白さは平然と飲み込んでしまう。


 けれど、実際には何も元通りではなかった。


 少なくとも、黒瀬湊の中では。


 病室の窓から差し込む朝の光は、やわらかく、しかし迷いのない色をしていた。白いシーツやベッド柵の輪郭を淡く浮かび上がらせ、窓辺の金属の縁に細い線を描く。外の空は高く、今日は雲が少ない。夜明けや夕方みたいに感情を強く揺らす色ではない。ただ、はっきりとした“朝の青”が、そこにあるだけだ。


 その光を見ながら、湊はベッドの背に身体を預け、小さく息を吐いた。


(……戻れねえな)


 何に、とは自分でもすぐには言えない。


 ただ、昨日までの自分とも違うし、紬に会う前の自分にも戻れていない。


 朝比奈紬。


 妹の親友。

 昔から知っているはずの相手。

 なのに、最後まで好感度が見えなかった相手。


 屋上庭園で、紬は言った。


『私は覚えてるよ』


『今の湊くん、けっこう好きだよ』


 軽く言ったように聞こえた。

 けれど、軽くなかった。


 スキルは沈黙していた。

 好感度は見えなかった。

 感情深度もロックされたままだった。


 それなのに、届いた。


 数字としてではなく。

 攻略ログとしてではなく。

 ただ、声として。

 温度として。

 湊の中に残った。


(……めんどくせえ)


 そう思うのに、嫌じゃない。


 そのことがまた、少しだけ厄介だった。


 視界の端に、いつもの青白い表示が静かに浮かぶ。


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』


『黒瀬湊』


『レベル:10』

『現在経験値:4895/5200』

『現在スキル経験値:1180/2600』

『現在恋愛ポイント:1875』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.7』


『現在ステータス』

・身体回復:中

・視力補正:安定

・行動範囲:病棟内/車椅子移動可

・疲労:軽度

・精神状態:思考過多/警戒/興味


『所持スキル』

・《感情トレースLv.3》

・《言外読解Lv.3》

・《身体感覚補正Lv.2》

・《安心感付与Lv.2》

・《重心把握Lv.2》

・《疲労看破Lv.2》

・《関係負荷軽減Lv.2》

・《役割把握Lv.1》

・《優先順位把握Lv.1》


『所持アイテム』

・《微睡みミント》×1

・《メンタルリカバリーチケット》×1

・《リハビリサポートバンド》×1

・《ナースメモカード》×1

・《ミントタブレット》×1

・《栄養補助スープ》×1

・《暇つぶしカード》×1

・《非常用簡易メモ》×1

・《夜勤対応メモ》×1

・《小型ライト》×1

・《集中維持パッチ》×1

・《夜明けのメモリーカード》×1

・《完全回復アンプル(小)》×1

・《リスタートバンド》×1


『解放済み機能』

・イベント危険度表示

・会話相性表示

・選択肢リスク予測

・ステータス詳細表示

・軽会話ログ保存

・食事相性表示

・患者心理補正

・感情隠蔽補正表示

・イベント危険度表示・強化

・選択肢リスク予測・拡張

・連携相性表示

・緊急時優先対象抽出

・複数対象同時補正

・本音接触率表示


『現在進行中イベント』

・《朝比奈紬:再会したはずの距離》PHASE1

・《白峰紗雪:止まれなかった手》待機中

・《白石結衣:自信の芽》継続中

・《佐倉奈緒:背負い方の変化》継続中

・《神宮寺綾乃:信頼形成 初期》継続中

・《桐谷美月:連携ルート》継続中


『特殊フラグ』

・《白峰紗雪:止まれなかった手》

・《朝比奈紬:長期蓄積感情》

・《リリス観測補助:不明》


(……白峰紗雪)


 その名前を見ると、胸の奥が別の角度で重くなる。


 朝比奈紬が残した温度は、甘くて、厄介で、どこか胸をざわつかせるものだった。


 けれど、白峰紗雪の名前が持つ温度は違う。


 もっと重い。

 もっと生々しい。

 もっと、触れ方を間違えれば簡単に壊れそうな温度だ。


 第1話の事故で、自分が助けた女性。


 湊は、あの夜の記憶をまだ完全には整理できていない。


 濡れたアスファルト。

 落ちたスマートフォン。

 横断歩道。

 迫るライト。

 肩に触れた感触。

 突き飛ばした瞬間の、細い身体の軽さ。

 そして、その直後に自分を襲った衝撃。


 紬の好感度が見えなかったこととは、まったく別の意味で、白峰紗雪もまた“普通に攻略できる対象”ではない。


(……会えるのか)


 妹や紬が面会できるのなら、白峰紗雪も面会できる。


 それは理屈としては当然だった。


 けれど、湊の中では、その可能性をどこかで避けていたのだと思う。


 会えば、事故が現実になる。

 彼女が生きていることを確認できる。

 同時に、自分が死にかけたことも、もう一度はっきり形を持ってしまう。


 助けた。

 助かった。

 それだけで済めばいい。


 でも、たぶん済まない。


 視界の端で、青白い文字が小さく揺れた。


『《白峰紗雪:止まれなかった手》』

『待機中』


『補足:事故当事者ルート』

『警告:精神負荷を伴う可能性があります』


(……だよな)


 湊は小さく息を吐いた。


 身体も未完成。

 気持ちも未整理。

 そういう朝だった。


 病室の外で、軽い足音が止まった。


「おはようございます、黒瀬さん」


 やわらかい声。


 白石結衣だった。


 白衣の襟元はきちんと整えられ、名札もまっすぐで、髪もいつもより少しだけ綺麗にまとめられている。週明けだから気合いが入っているのか、それとも最近ずっとそういうところまで気を配る余裕が出てきたのか。たぶん、その両方だ。


 病室へ入ってきた瞬間の空気が、以前よりも少しだけ落ち着いている。


 ただ慣れたわけじゃない。

 この子なりに“ちゃんとしよう”を積み重ねた結果の落ち着きだと、今の湊にはわかる。


『《白石結衣》』

『年齢:20』

『職業:見習い看護師』


『レベル:18』

『レア度:★★★☆☆』


『好感度:88%』


『状態:信頼/期待/心配(微)』

『補足:観察強化/患者優先』


 結衣はいつものようにまず湊の顔色を見た。

 それから点滴、ベッド周り、記録用の端末へと視線を走らせる。


「朝、どうですか?」

「気分悪かったり、夜のうちに眠れなかった感じはありませんか?」

「身体の痛みも、昨日より増えてたりしないですか?」


「……いや、大丈夫」


 湊が返すと、結衣は一度だけ頷いた。


 けれど、その頷きは完全には納得していなかった。


 彼女はもう一度湊の顔を見て、少しだけ間を置いた。


「黒瀬さん」

「今日、ちょっと変じゃないですか?」


 湊が目を瞬かせる。


「変って何だよ」


「えっと……具合が悪いっていう感じではないんです」

「顔色はそんなに悪くないですし、返事もちゃんとしてるし、ぼんやりしてるわけでもないんですけど……」

 一拍。

「なんていうか、朝からずっと、一回考えてから返事してるっていうか」

「ちゃんとここにいるのに、少しだけ、別のこと考えてる感じがして」


 図星だった。


 そこまで見抜かれると、湊も笑うしかない。


「そんなにわかるか?」


「わかります」

 結衣は珍しく即答した。

「だって、ここ最近ずっと見てるので」


 一瞬だけ、言った本人が自分の言葉に気づいたのか、頬が少し赤くなる。

 けれど、それでも目は逸らさなかった。


「……患者さんのことは、ちゃんと見ないといけないですし」

 結衣はあわてて少しだけ言い足した。

「その、だから……」


「うん、まあ、わかってる」


 湊が苦笑すると、結衣は少しだけむくれた。


「今の、ちょっと流しましたよね」


「いや、流してないって」


「流しました」

 結衣は言う。

「だって今、絶対ちゃんと受け取ってない顔でした」

「黒瀬さん、そういう時ちょっとだけ笑って誤魔化すので」


 湊はそこで、思わず言い返せなくなる。


 また、見抜かれている。


「昨日から、たぶん朝比奈さんのこと考えてるんですよね」

 結衣は思い切るように言った。


 ド直球だった。


 湊の肩がぴくっと揺れる。

 その反応だけで、結衣は「あ」と小さく声を漏らした。


「やっぱり……」


『《白石結衣》』

『状態更新:信頼/期待/心配(微) → 心配/拗ね(微)/観察』


(そこまで出るのかよ)


 新機能《不可視感情検知》の影響なのか、以前より状態の揺れ方が少しだけ細かい。


 便利だ。

 便利だが、便利なぶん逃げ場がない。


「別に、ずっと考えてるわけじゃない」

 湊は一応そう言う。


「でも、少しは考えてますよね?」


「……まあ」


「ですよね」

 結衣は小さく息を吐いた。


 そのため息は責めるものではなく、少しだけ拗ねたような、でも仕方ないと自分で納得しようとするような音だった。


「朝比奈さん、すごく自然でしたもんね」

 結衣はベッド脇のテーブルを整えながら言う。

「昔から知ってる人って、ああいう感じなんだなって思って」

「病院の中にいても、最初から入ってこれる場所があるみたいで」

「私たちがここで少しずつ作ってきた距離と、最初からある距離って、やっぱり違うんだなって……」


 昨日も似たようなことを言っていた。


 けれど、今日はその言葉に少しだけ熱がある。

 土日を挟んだぶん、自分の中でも反芻してしまったのだろう。


 結衣は、自分が何にひっかかっているのかをうまく言えないまま、それでも言葉にしようとしている。


 その不器用さが、今の彼女らしさでもあった。


「結衣さん」


 湊が呼ぶと、結衣は少しだけ肩を揺らした。


「はい」


「それ、比べるもんじゃないだろ」

 湊は、思ったより自然にそう言えた。

「昔からある関係と、ここでできた関係って、たぶん種類が違うだけで」

「どっちが上とか下とか、そういう話じゃないし」

「朝比奈とは昔の時間がある。でも、それは今ここで一緒にいる人たちが積み上げてきたものとは、別だろ」


 結衣は、一瞬だけ目を見開いた。


 それから、ほんの少しだけ視線を落として、口元をゆるめる。


「……そうやって、ちゃんと返してくるんですよね」

「やっぱり、ちょっと変わりました」

「前だったらもっと、適当に誤魔化してた気がします」

「うまく笑って、何となく終わらせてたというか……」


「ひなたにも同じこと言われた」


「ですよね」

 結衣は小さく笑う。

「妹さん、すごくよく見てるんだなって思いました」

「なんか……家族だなって感じがします」


 その笑いの裏で、まだ少しだけ拗ねが残っていることを、湊は新機能のおかげで感じ取る。


 見えないものを感じる。

 それは便利だが、便利なぶんしんどい。


(これ、以前より余計に誤魔化せなくないか?)


 その時だった。


「おはよ」


 軽い声が病室の入り口から飛んできた。


 桐谷美月だった。


 リハビリ用のウェア姿。白衣ではないぶん、朝の病棟の中では少しだけ色が違って見える。動きやすそうな格好と、いつものように余裕を感じさせる立ち方。だがその目は、やはり人を見る職業の目をしていた。


『《桐谷美月》』

『年齢:25』

『職業:理学療法士』


『レベル:21』

『レア度:★★★★☆』


『好感度:36%』


『状態:興味(強)/観察/面白がり』

『補足:黒瀬湊の変化を認識』


「うわ」

 桐谷は病室に入るなり、湊の顔を見て笑った。

「まだ引きずってる」


「何をですか」


「外のヒロインの余韻」

 即答だった。

「完全に昨日の続きみたいな顔してる」


 結衣が少しだけ頬を引きつらせる。


「桐谷さん……」


「いや、だって本当じゃん」

 桐谷は悪びれもせず言う。

「今日の黒瀬さん、反応が一テンポ遅いし」

「目線の置き方も、ここ見てるようで、ちょっと違うところ行ってるし」

「身体はベッドの上にあるのに、頭だけ屋上庭園にまだ半分残ってる感じ」


「そこまでわかるのかよ」


「わかるよ」

 桐谷はベッドの足元に立って、じっと湊を見る。

「こういうの、身体にも出るから」

「考え事してる人って、重心がちょっと鈍るの」

「黒瀬さんみたいにまだ回復途中の人は、余計に」

「本人は普通にしてるつもりでも、立ち上がる時の一瞬とか、足を出す前の呼吸とか、そういうところに出る」


 その言い方は軽い。

 けれど内容は理学療法士らしくかなり実践的だ。


「今日の午後のリハ、ちゃんと集中してよ」

 桐谷は笑いながら言う。

「じゃないと、“外のヒロインの余韻のせいで立位ふらつきました”って最悪にダサい記録が心の中に残るから」


「そんな記録残さないでください」


「書類には残さないよ」

 桐谷は肩をすくめる。

「でも私の記憶には残る」


 結衣がそこで少しだけ吹き出し、湊は苦い顔をする。


 だが、そのやり取りで朝から張っていた肩の力が少しだけ抜けるのも事実だった。


「それに」

 桐谷は少しだけ真面目な目になる。

「見えないものの方が残るの、普通だと思う」

「身体でもそうだし」

「痛みって、ちゃんと原因わかってるやつより、よくわからない違和感の方が気になるでしょ?」

「感情も似たようなもんじゃない?」


 軽く言っているようでいて、そこには彼女なりの観察がある。


 理学療法士は身体を見る。

 でも、身体だけを見ているわけではないのだと、今の言葉でよくわかった。


 その時、病室の外から静かな足音が近づいてきた。


「失礼します」


 奈緒だった。


 看護師服をきっちり着こなし、手には紙ファイル。停電事故のあとから少しだけ変わった落ち着きをまといつつ、それでも病棟の中心に立つ人間らしい緊張感を失っていない。


『《佐倉奈緒》』

『年齢:26』

『職業:看護師』


『レベル:23』

『レア度:★★★★☆』


『好感度:48%』


『状態:平静/観察/違和感』

『補足:黒瀬湊の反応差を認識』


「おはようございます」

 奈緒は病室へ入ると、まず結衣の持っている記録を確認し、それから湊を見る。

「今朝のバイタル、問題ありません」

「食事量も昨日とほぼ同じで、睡眠時間も記録上は大きな問題なしです」

「ただ……」


 一拍。


「今日、少し反応が遅いですね」


 結衣と桐谷が、同時に笑いを堪えるような顔をした。

 湊は眉を寄せる。


「奈緒さんまで言うのか」


「言います」

 奈緒は落ち着いた声で返した。

「わかるので」

「視線の止まり方が、昨日までと違います」

「考え事をしている時の反応ですか」

「返事の前に、一度別のところを見に行ってから戻ってくる感じがあります」


 そこまで言われると、さすがに逃げられない。


「……まあ、少し」


「昨日の見舞いの方ですか」

 奈緒はさらりと言った。


 さらりと言っているが、内容はかなり核心に近い。

 しかも声の温度が一定だから、余計に逃げ場がない。


『《佐倉奈緒》』

『状態更新:平静/観察/違和感 → 観察/静かな圧』


(なんだよ、静かな圧って)


 新機能の表現まで地味に鋭い。


「奈緒さん」

 結衣が少しだけ気まずそうに言う。

「そんなに追い詰めなくても……」


「追い詰めてはいません」

 奈緒は即座に答える。

「確認しているだけです」

「ただ、病棟内で上の空だと危ないので」

「患者さんが転倒したり、指示を聞き逃したり、リハビリ中に判断が遅れたりするのは、普通に困ります」


 それは正論だった。


 しかも奈緒の場合、その正論の中にほんの少しだけ個人的な感情が混ざっているのを、湊は《不可視感情検知》で感じ取れてしまう。


 心配。

 違和感。

 少しだけ、気になる。

 それから、言葉にしない程度の小さな引っかかり。


 そこまでわかるのに、数値では見えない。

 この機能、便利なのか不便なのか、まだ判断がつかない。


「……わかってるよ」

 湊は小さく息を吐いて言う。

「別に何かあったわけじゃない」

「ただ、ちょっと……残ってるだけだ」


「何がですか?」

 結衣が聞く。


「空気」

 湊は答えた。

「昨日の」

「言われたこととか、その時の感じとか」

「数値が見えない相手って、こんなに残るのかと思って」

「終わったはずなのに、頭の中で整理できなくて」

「ちゃんと答えが出てないのに、一回終わったことになってる感じが、ずっと引っかかってる」


 三人が、一瞬だけ黙る。


 その沈黙は、否定ではない。

 それぞれが自分の立場から、その言葉を咀嚼している沈黙だった。


 最初に口を開いたのは桐谷だった。


「へえ」

 少しだけ目を細める。

「じゃあ昨日のイベント、ちゃんと効いてるんだ」

「単なる特別ゲスト回じゃなくて、ちゃんと黒瀬さんの中のどっか持ってったんだ」


「イベントって言い方するなよ」


「でも、黒瀬さんの中ではそういう整理してる部分あるでしょ」

 桐谷は肩をすくめた。

「ただ今回は、その整理が最後までできなかったから残ってる」

「それって普通にかなり大きいんじゃない?」

「前の黒瀬さんなら、たぶん見えないままのものって、最初から考えないようにしたでしょ」


 図星だった。


 見えないなら、捨てる。

 わからないなら、近づかない。

 昔の湊はそういうやり方をしていた。


 奈緒も、静かに続ける。


「見えないから気になる、というのはわかります」

「医療でも、情報が足りない方が意識に残ることはあります」

「全部見えている時より、見えていない一部分の方がずっと気になって、そこに思考が引っ張られることもあるので」

「確認できないものほど、想像で埋めようとしてしまうことはあります」


 さすがにその例えは看護師すぎる、と湊は思った。

 だが、妙に納得してしまう。


 奈緒は続ける。


「ただ」

「見えないからこそ、見ようとすること自体は、悪くないと思います」

「最初から切り捨てるよりは」

「……たぶん、その方がずっと誠実です」


 その最後の一言だけ、少しだけ声の角度が変わった。


 結衣も少し考えてから、おそるおそる言った。


「でも……それって」

「悪いことじゃないのかもしれないです」


 湊がそちらを見ると、結衣は少しだけ緊張した顔で続ける。


「見えないから、ちゃんと考えるんですよね?」

「いつもみたいに数字があって、状態が見えて、正解を選ぶんじゃなくて」

「自分で、相手の言葉とか、顔とか、沈黙とか……そういうのから考えるっていうか」

「それって、むしろ……ちゃんとしてる感じがします」

「ちゃんと、その人を見ようとしてるっていうか」


 結衣らしい言い方だった。


 少し遠回りで、不器用で、でもちゃんと本音がある。

 湊はその言葉を聞いて、胸の奥がほんの少しだけやわらぐのを感じた。


「……ありがとう」

 自然とそう言うと、結衣は少しだけ目を丸くして、それから頬を赤くした。


『《白石結衣》』

『状態更新:心配/拗ね(微)/観察 → 照れ/安堵/信頼』


 わかりやすい。

 そしてそのわかりやすさが、妙に今はありがたかった。


「じゃあ結論」

 桐谷がぱん、と軽く手を打つ。

「今日の黒瀬さんは、外のヒロインの余韻を引きずってるけど、それは別に悪いことではない」

「ただし、リハビリ中にふらつくのはダメ」

「よって、午前中のうちに頭を整理しといてください」

「できないなら、午後のリハで私が無理やり現実に戻す」


「無茶言うな」


「無茶じゃない」

 桐谷は笑う。

「そういうのもリハビリだから」

「身体だけ戻しても、気持ちが別のところに飛んでたら意味ないし」

「結局、立つのも歩くのも、その人の頭と感情ごと使うんだから」


 その言葉は軽いようでいて、かなり本質的だった。


 結局、人間は全部で一つなのだ。

 身体だけ、心だけ、なんて綺麗に分けられない。

 だからこそ、今の湊の状態はリハビリにも影響する。


 その時だった。


 廊下の向こうから、一定のリズムで近づいてくる足音が聞こえた。


 神宮寺綾乃だ。


 白衣をきっちり着こなし、相変わらず無駄のない歩き方で病室の前を通りかかる。だが、今回はそのまま通り過ぎず、一瞬だけ足を止めた。


『《神宮寺綾乃》』

『年齢:28』

『職業:外科医』


『レベル:31』

『レア度:★★★★★』


『好感度:31%』


『状態:平静/観察/違和感(微)』


 綾乃の視線が、病室の中の全員を一巡する。


 桐谷。

 結衣。

 奈緒。

 そして最後に、湊。


「……朝から賑やかですね」

 短い。

 クールだ。

 でも完全に冷たいわけではない。


「すみません」

 結衣がすぐに背筋を伸ばす。


 綾乃はそれに小さく頷いてから、湊を見る。


「上の空」


 それだけだった。


 だが、その一言で全員が少しだけ黙る。


「危ないです」

 綾乃は続ける。

「回復途中の人が、考え事をしながら動くのは」

「転びます」

「理由が何であっても、結果は同じなので」


「……はい」


 湊が返すと、綾乃は数秒だけこちらを見たまま沈黙した。


 そして、ほんの少しだけ声の角度を変える。


「気になることがあるなら」

「先に整理して」

「中途半端が一番危ないので」

「動きながら考えないで」

「考えるなら、止まって考えて」


 一瞬だけ、病室の空気が止まる。


 桐谷が少しだけ目を細める。

 結衣が目を見開く。

 奈緒は何も言わないが、その静かな視線がわずかに揺れた。


 綾乃本人はたぶん、そこまで意識していない。


 けれど、今の言葉はただの注意ではなかった。

 ちゃんと見ているからこそ出る、一歩踏み込んだ助言だった。


「……わかりました」


 湊が言うと、綾乃は短く頷く。


「なら、いいです」


 それだけ言って、また廊下の向こうへ歩き出す。


 白衣の裾が見えなくなってから、桐谷がぽつりと呟いた。


「いや、今のはだいぶ優しくない?」


「ですよね……」

 結衣も小さく同意する。

「神宮寺先生、最近ちょっとだけ、言い方が……」

「その、前より……」


「柔らかいです」

 奈緒が静かに言った。

「先生なりに、かなり言ってる方だと思います」

「昔なら、もっと短く切って終わっていたので」


 湊は返事をしなかった。

 できなかった、と言った方が近いかもしれない。


 綾乃の短い言葉が、予想以上に残っていたからだ。


 気になることがあるなら、先に整理して。

 中途半端が一番危ない。

 動きながら考えないで。

 考えるなら、止まって考えて。


(……ほんと、こういう時だけ刺さること言うんだよな)


     ◇


 その後、午前の時間は平常通りに流れていった。


 結衣はいつものように病室を出入りしながら記録と確認をこなし、奈緒は他病室との往復の合間に短く状況を見に来る。桐谷は昼前にもう一度顔を出して、「午後のリハ、本当に集中してよ」と念押ししていった。


 その途中で、売店へ向かうことになった。


 理由は単純だ。

 桐谷に「頭を切り替えたいなら、ちょっと車椅子で売店まで行ってこい」と言われたからである。


「気分転換もリハビリの一部」

 桐谷はそう言った。

「ただし一人では行かないこと。白石さんか、私か、誰かについてもらうこと」


「過保護すぎないですか」


「過保護じゃない」

「黒瀬さんの信用が低いだけ」


「言い方」


「事実」


 結局、結衣が付き添うことになった。


 エレベーターへ向かう廊下は、平日らしく人の流れがある。車椅子の高さから見る病院は、ベッドから見る病室とも、車椅子で夜の病棟を動いた時とも違っていた。見舞い客の紙袋、職員の白衣の裾、患者用スリッパの歩幅、清掃用カートの端に引っかかった布の揺れ。どれも小さな生活の断片だ。


 売店の前は、思っていたより賑わっていた。


 菓子パン。

 飲み物。

 雑誌。

 歯ブラシやタオル。

 入院生活に必要な細々としたもの。


 白い病棟の中で、そこだけ少しだけ色が多い。


「いらっしゃいませー」


 明るい声がした。


 レジにいた女性が、湊たちを見るなり、ふっと笑う。


『《西野あかり》』

『年齢:22』

『職業:売店店員』


『レベル:13』

『レア度:★★☆☆☆』


『好感度:37%』


『状態:興味/空気読み/観察』

『特性:場を柔らかくする/距離の取り方が上手い』


「黒瀬さん、今日は付き添いありなんですね」

 西野あかりは、手元の品出しを続けながら、軽く言った。


「今日は、って何ですか」


「この前、ひとりで来ようとして看護師さんに止められてませんでした?」


「……見てたんですか」


「売店店員なので」

 あかりはにっこり笑う。

「病院内の小さなドラマはだいたい見えます」


「嫌な特性ですね」


「便利な特性です」

 あかりは即答した。

「それに、黒瀬さんって目立つんですよ」

「本人は目立たないつもりっぽいですけど、なんか周りの人がやたら黒瀬さんの方を見るので」


 結衣の肩がぴくっと揺れた。


「そ、そうですか?」


「はい」

 あかりは楽しそうに頷く。

「白石さんも、今ちょっと反応しましたし」


「えっ、あ、いえ……!」


 結衣が慌てる。

 あかりはそれ以上突っ込まず、ふふっと笑うだけだった。


(空気読みって、そういうことか)


 湊は思う。


 西野あかりは、踏み込みすぎない。

 でも、ちゃんと見ている。

 見たうえで、場が硬くならないように言葉の角度を変えている。


 売店という場所に立つ人間らしい強さだ。


「で、今日は何を買います?」

 あかりが聞く。

「ミントタブレット? 飲み物? それとも、考え事が多そうな顔してるので、甘いもの?」


「顔で売るもの決めないでください」


「でも当たってません?」


「……まあ、少し」


 湊が認めると、あかりはにやっと笑った。


「じゃあ、これ」

 そう言って小さなチョコ菓子を差し出す。

「甘すぎないやつです」

「考え事してる時に、ちょっとだけ戻ってくるのに向いてます」


 その言い方に、湊は少しだけ目を細める。


「戻ってくる?」


「はい」

 あかりは軽く言う。

「病院って、考えすぎる人多いので」

「患者さんも、家族の人も、職員さんも」

「みんな何かしら頭の中で抱えてるんですよ」

「だから、売店くらいは少しだけ現実に戻れる場所でいいかなって」


 その言葉は、思っていたより優しかった。


 結衣も静かに聞いていた。

 看護師としてではなく、一人の人間として。


「……いい場所ですね」

 結衣が小さく言う。


 あかりは少しだけ照れたように笑った。


「ありがとうございます」

「そう言ってもらえると、売店店員冥利に尽きます」


 その時、視界に選択肢が浮かぶ。


『【軽会話イベント:売店の戻る場所】』


『対象:西野あかり/白石結衣』


『A:チョコ菓子を買い、素直に礼を言う』

『B:ミントタブレットを選び、軽く茶化す』

『C:結衣に選んでもらう』

『D:何も買わず、早めに戻る』


(ここは……Aだな)


 変に茶化すより、素直に受け取った方がいい。

 この場を柔らかくしてくれたことも含めて。


「じゃあ、それ買います」

 湊は言った。

「あと……ありがとうございます」

「ちょっと、戻ってこれそうです」


 一瞬、あかりが目を丸くした。


 それから、少しだけ柔らかく笑った。


「どういたしまして」

「戻ってきたい時は、売店へどうぞ」

「白石さんも、黒瀬さんが考えすぎてたら連れてきてください」


「は、はい」

 結衣は真面目に頷く。

「連れてきます」


「いや、そこ即答するのか」


「します」

 結衣は少しだけ胸を張った。

「必要なら」


 あかりが楽しそうに笑う。


『《西野あかり》』

『好感度:37% → 40%』

『状態:興味/好印象/観察継続』


『《白石結衣》』

『状態:照れ/安堵/信頼 → 安心/小さな独占欲(微)』


(独占欲って出すな)


 湊は心の中で突っ込む。

 だが、口には出さなかった。


     ◇


 売店から戻る途中、今度は食堂の前を通った。


 昼食準備の時間らしく、奥から味噌汁の匂いと、出汁の温かい香りが漂ってくる。病院の食堂らしい控えめな匂いなのに、それでも空腹を思い出させるには十分だった。


「あ、黒瀬くん」


 食堂のカウンターの奥から声がした。


 宮本奈々だった。


『《宮本奈々》』

『年齢:24』

『職業:食堂スタッフ』


『レベル:15』

『レア度:★★★☆☆』


『好感度:36%』


『状態:世話焼き/心配/興味』

『特性:食で支える/人の空腹と疲労に敏感』


 奈々は湊を見るなり、ほんの少しだけ眉を寄せた。


「今日、顔が考え事してる」

「ちゃんと朝ごはん食べた?」


「食べました」


「量は?」


「普通に」


「普通って言う人ほど怪しいんだよね」

 奈々は腕を組む。

「白石さん、食事量どうでした?」


「記録上は昨日とほぼ同じです」

 結衣が答える。

「ただ、今朝は少し考え事が多そうで……」


「なるほど」

 奈々は納得したように頷く。

「じゃあ、お昼は温かいものちゃんと食べて」

「気持ちがふわふわしてる時って、胃に温度入れた方が戻るから」


「みんな戻す話しますね」


「だって戻ってなさそうな顔してるから」


「そんなに?」


「そんなに」

 奈々は即答した。


 湊は肩を落とす。


 月曜の朝から、全員に同じことを言われている気がする。


 けれど、嫌ではなかった。

 むしろ少しだけ、ありがたい。


 見ている。

 気づいている。

 戻そうとしてくれている。


 それは、以前の湊なら面倒くさいと思っていた類の関わりだった。


 だが今は、その面倒くささを完全には拒めない。


「今日のおすすめ、栄養スープ」

 奈々は言った。

「味は地味だけど、こういう時には効くよ」

「心が疲れてる時に派手なもの入れても、逆に疲れるから」


 湊が黙っていると、奈々はにっと笑った。


「これ、食堂スタッフの勘」

「食べ物はね、心を一発で治せるわけじゃないけど、沈みすぎないように支えることはできるから」


 結衣が小さく頷く。


「……そういう支え方もあるんですね」


「あるよ」

 奈々は明るく答える。

「白石さんたちが薬とか処置とかで支えるなら、私はご飯で支える」

「役割が違うだけ」


 その言葉に、湊は奈緒の言葉を思い出す。


 昔からある距離と、今ここで作ったものは別。

 役割が違うだけ。

 比べる必要はない。


 同じだ。


 病院という場所は、いろんな支え方でできている。


「じゃあ、昼はそれにします」

 湊が言うと、奈々は満足げに笑った。


「よし」

「黒瀬くん、そういう素直さ増えたよね」

「前はもうちょっと、斜めに返してきそうな顔してた」


「顔の話ばっかりですね、今日」


「顔は大事だよ」

 奈々は笑う。

「食欲も、疲れも、寂しさも、だいたい顔に出るから」


『《宮本奈々》』

『好感度:36% → 39%』

『状態:世話焼き/安心/応援』


     ◇


 食堂の前を離れて、病棟へ戻る途中。


 談話スペースのソファに、一人の少女が座っていた。


 吉岡沙織。


 同じ病棟に入院している患者だ。


 窓際のソファに腰かけ、膝の上に文庫本を開いている。けれど、ページは進んでいないようだった。視線は本の上に落ちているのに、意識はそこにない。外の光を見ているようにも、どこか内側へ沈んでいるようにも見えた。


『《吉岡沙織》』

『年齢:17』

『職業:入院患者』


『レベル:10』

『レア度:★★☆☆☆』


『好感度:36%』


『状態:興味/寂しさ/少しの羨望』

『特性:共感型/ひとり時間が長いと沈みやすい』


(……羨望)


 その表示を見て、湊は少しだけ動きを止めた。


 沙織が顔を上げる。


「あ」

「黒瀬さん」


「おはよう」

 湊は軽く返す。


 沙織は結衣を見て、少しだけ笑った。


「白石さんと一緒なんですね」

「いいなあ、黒瀬さんは」


「いいなって何が?」


「いろんな人が来るところ」

 沙織は本を閉じながら言った。

「看護師さんも、リハビリの人も、売店の人も、食堂の人も」

「それに土曜日は、妹さんと、そのお友達も来てたでしょ?」


 結衣がほんの少しだけ反応する。

 湊はそれを横目で見つつ、沙織の方を見る。


「見てたのか」


「見えたんです」

 沙織は少しだけ肩をすくめる。

「病室にいると、廊下の声とか足音とか、結構わかるので」

「誰かが誰かを待ってる声とか、ちょっと楽しそうな話し声とか」

「そういうの、聞こえちゃうんです」


 その声には、責める色はなかった。


 ただ、少しだけ寂しさがあった。


 湊は、言葉を選ぶ。


 ここで軽く流すこともできる。

 でも、今の湊はそれをしたくなかった。


『【選択肢】』


『A:沙織に「寂しいのか」と直接聞く』

『B:軽く冗談で流す』

『C:結衣に話題を振る』

『D:自分も病室では似たようなことを考える、と伝える』


(……D)


 直接聞きすぎると、沙織はたぶん引く。

 冗談で流すのは違う。

 結衣に任せるのも違う。


 今は、自分の側から少しだけ出す方がいい。


「俺も、病室にいるとそういうの聞く」

 湊は言った。

「廊下の足音とか、誰かが笑う声とか」

「別に聞こうとしてるわけじゃないのに、入ってくる」

「で、たまに思う」

「外ってまだ普通に続いてるんだなって」


 沙織の目が、少しだけ見開かれた。


「……わかります」

 小さな声だった。

「病院にいると、自分だけ止まってるみたいになるんです」

「外は動いてるのに、自分だけ白いところに置いていかれてるみたいで」

「だから、誰かの声が楽しそうだと、ほっとする時もあるし」

「ちょっとだけ、寂しくなる時もあります」


 結衣が静かに聞いていた。


 看護師として、患者の話を聞く顔。

 でも、それだけではなく、一人の人間として痛みを受け取る顔。


「吉岡さん」

 結衣がやさしく言う。

「寂しくなったら、ナースステーションに声をかけても大丈夫です」

「何か用事がないと呼んじゃいけないって思うかもしれませんけど……」

「でも、そういう気持ちも、ちゃんと理由になります」


 沙織は少しだけ目を伏せる。


「……迷惑じゃないですか?」


「迷惑じゃないです」

 結衣は言い切った。

「少なくとも、私はそう思いません」


 その言葉は、以前の結衣なら少し震えていたかもしれない。


 でも今は違った。

 まだ不慣れさはある。

 けれど、ちゃんと芯がある。


 沙織はしばらく黙ったあと、小さく笑った。


「白石さん、前より頼もしくなりましたね」


「えっ」

 結衣が赤くなる。

「そ、そうですか?」


「はい」

 沙織は頷く。

「前は、優しいけど、ちょっと慌ててる感じがしました」

「今は、優しいのは同じだけど、少しだけ安心します」


 結衣の目が揺れる。


 その言葉は、きっと今の結衣にとってかなり大きい。

 患者からの、直接の肯定。


 湊はそれを見て、少しだけ口元を緩めた。


『《吉岡沙織》』

『好感度:36% → 39%』

『状態:寂しさ 緩和/安心/共感』


『《白石結衣》』

『状態:照れ/安堵/信頼 → 自信(微)/喜び』


     ◇


 病室へ戻ったあと、湊はしばらく何も言わなかった。


 売店の西野あかり。

 食堂の宮本奈々。

 入院患者の吉岡沙織。


 それぞれが、それぞれの場所から、何かを見ていた。

 支えていた。

 距離を測っていた。


 紬が残した“見えない温度”の余韻はまだ消えない。


 けれど、病院の中にも確かに温度はある。

 見えやすいものも、見えにくいものも。


 そう思った時、視界の端で表示が揺れた。


『《不可視感情検知》起動しますか?』


『YES / NO』


(YES)


 次の瞬間、視界の色がほんの少しだけ変わった気がした。


 劇的な変化ではない。

 だが、人の気配の“密度”みたいなものが、わずかに浮かび上がる。


 カーテンの向こうを通る足音。

 ナースステーションで交わされる声。

 そのどれにも、以前より少しだけ感情の輪郭がある。


 焦り。

 集中。

 日常の疲れ。

 職員同士の短い気遣い。

 患者の不安。

 見舞い客の緊張。

 それらが、数値ではなく温度として近づいてくる。


(……見えるっていうより、感じるな)


 前より曖昧だ。

 数値ほど明確ではない。


 でも、だからこそ人間っぽい。


 そして――


 廊下の向こう。


 遠い足音が一つ。


 病棟の中に入ってくる足音ではない。

 まだ受付側。

 まだ遠い。

 でも、湊の意識にかすかに引っかかる。


 ためらい。

 罪悪感。

 怖さ。

 会いたい気持ち。

 会ってはいけないのではないかという思い。


 その温度が、かすかに届いた。


(……え)


 視界の端で、青白い表示が小さく震える。


『特殊フラグ反応』


『対象候補:白峰紗雪』


『距離:院内』


『イベント接続準備中……』


 湊の呼吸が、一瞬だけ止まる。


 白峰紗雪。


 来ている。


 この病院に。


 まだ病室には来ていない。

 けれど、近くにいる。


 それがわかった瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。


 紬とは違う。

 結衣たちとも違う。

 白峰紗雪は、湊が命を賭けて助けた相手だ。


 会えば、あの夜のことが動き出す。


 止まっていたものが、動いてしまう。


 その時、結衣が病室へ戻ってきた。


「黒瀬さん」

「午後のリハ、そろそろです」


 いつも通りの声。

 けれど、湊の顔を見た瞬間、結衣の表情が変わった。


「……どうしました?」


 湊はすぐには答えられなかった。


 結衣は一歩近づく。


「黒瀬さん?」


「……白峰さんが」

 湊は小さく言った。

「来てるかもしれない」


 結衣の表情が、はっきりと変わる。


 白峰紗雪。

 その名前を、結衣も知っている。


 第1話の事故で、湊が助けた女性。

 湊がこの病院にいるきっかけになった人。


 結衣は息を呑み、それからすぐに看護師の顔へ戻ろうとした。

 だが、完全には戻りきらない。


 心配。

 緊張。

 どう声をかけるべきか迷う感情。


 それが、湊にはわかってしまう。


「……会いますか?」


 結衣は静かに聞いた。


 その問いに、視界が青白く揺れる。


『【重要選択肢】』


『イベント:《白峰紗雪:止まれなかった手》接続前』


『A:今すぐ会う』

『B:今日は会わない』

『C:結衣に同席を頼む』

『D:まず相手の状態だけ確認する』


(……D)


 すぐに会うのは怖い。

 会わないのも違う。

 結衣に同席を頼むのは、たぶん悪くない。

 でもその前に、白峰紗雪がどんな状態なのか知りたい。


 彼女が謝りたいだけなのか。

 会う覚悟ができているのか。

 それとも、ただ来てしまっただけなのか。


 そこを間違えると、たぶん互いに傷つく。


「まず」

 湊は言った。

「白峰さんの状態を確認してほしい」

「会うかどうかは、そのあとで決める」


 結衣は一瞬だけ目を見開いた。


 それから、ゆっくり頷く。


「……わかりました」

「佐倉さんに確認します」

「でも、黒瀬さん」

 一拍。

「一人で抱えないでください」

「会うにしても、会わないにしても」

「それは、黒瀬さんが冷たいとか、弱いとか、そういうことじゃないです」

「ちゃんと決めるために、少し時間を置くのは……大事だと思います」


 その言葉が、まっすぐ胸に入った。


 結衣は以前より、ずっと強くなっている。


 ただ優しいだけではない。

 ただ慌てるだけでもない。

 相手の怖さを見て、その上で言葉を置けるようになっている。


「……ありがとう」

 湊はもう一度言った。


 結衣は頬を赤くしながらも、今度は逃げなかった。


「はい」

「ちゃんと、戻ってきてくださいね」

「白峰さんの方にも」

「こっちにも」


 それは、看護師としての言葉で。

 同時に、白石結衣という一人の女性としての言葉でもあった。


『《白石結衣》』

『好感度:88% → 90%』

『状態:信頼/決意/支援意識』


『イベント進行』

『《白石結衣:自信の芽》進行率上昇』


 視界の端で、さらに表示が重なる。


『《小イベント:残った温度の行き先》CLEAR』


『▼経験値+430』

『▼スキル経験値+520』

『▼恋愛ポイント+240』


『▼アイテム獲得』

《温度のメモ》×1

《売店チョコ》×1

《食堂スープ予約券》×1


『▼スキル熟練』

《不可視感情検知》使用経験を獲得しました


『▼レベルアップ』

黒瀬湊 Lv.10 → Lv.11


『現在経験値:125/6100』

『現在スキル経験値:1700/2600』

『現在恋愛ポイント:2115』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.7』

『次回スキルレベルアップまで:900』


 情報が流れ込む。


 頭の奥が、ほんの少し熱を持つ。

 視界が澄む。

 人の感情の温度が、ほんの少しだけ輪郭を持つ。


 だが、湊はすぐにそれを追いかけなかった。


 今、重要なのは報酬ではない。


 白峰紗雪が来ている。


 朝比奈紬が残した見えない温度。

 病院の人たちが戻してくれた温度。

 そして、事故の夜から止まったままだった温度。


 その全部が、月曜日の白い病院の中で、少しずつ行き先を変え始めている。


(……面倒で)


 湊はゆっくり息を吐く。


(重くて)


 病室の外では、平日の午後が静かに動き出していた。


 白い廊下。

 白い光。

 日常へ戻っていく病棟の空気。

 誰かが歩き、誰かが働き、誰かが言葉をかける。


 その中で、数値にならない感情の余韻だけが、まだ湊の胸の奥にやわらかく残り続けていた。


 けれど、そのやわらかい引っかかりを抱えたままでも、前へ進むことはできるのだと。


 この病棟の人たちは、たぶんもう、湊にそう教え始めていた。


 そして次に進むべき相手は、もうすぐそこまで来ている。


『次回イベント接続候補』


『《白峰紗雪:止まれなかった手》』


『PHASE0:面会前確認』


『次の選択に備えてください』

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