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第17話 見えない好感度と、触れた温度


 土曜日の午後。


 病院という場所は、本来なら、日常から切り離された白い箱であるはずだった。


 朝も昼も夜も、そこにあるのは消毒液の匂いと、一定の温度に整えられた空気と、規則正しさを装った無機質な音だけ。人が生きている気配は濃いのに、生活の色だけが薄く削り取られている。そんな不思議な場所だ。


 けれど、その日の病棟には、ほんの少しだけ“外の空気”が入り込んでいた。


 午前中の見舞いの余韻。


 妹のひなたが残していった、遠慮のない明るさ。


 そして、その隣にいた朝比奈紬が置いていった、説明のつかないざわつき。


 白い廊下。

 白い壁。

 白いカーテン。

 遠くから聞こえるワゴンの車輪の音。

 ナースステーションで紙をめくる音。

 低く鳴り続ける空調の駆動音。

 病室のどこかから漏れてくる、小さな咳払い。


 景色は何も変わっていない。


 なのに、空気の温度だけが違った。


 休日の午後らしい穏やかさがある。平日のように外来患者の流れが密ではなく、廊下を歩く足音にも、どこか急ぎすぎない間がある。見舞いに来た家族が抑えた声で話し、売店の袋を持った子どもが親に手を引かれながら歩いていく。


 病院なのに。


 少しだけ、普通の生活の匂いがする。


 その普通が、今の黒瀬湊には妙に落ち着かなかった。


 湊は車椅子の背にもたれ、窓の外から差し込む午後の光をぼんやりと見た。


 光はやわらかい。

 強すぎない。


 病室の床に淡い四角を落とし、点滴スタンドの金属の輪郭を静かに浮かび上がらせている。窓の外には高い空が広がっていて、薄くちぎれた雲がゆっくり流れていた。病院の中にいると時間の流れが妙に曖昧になるが、外の空だけは、それでもちゃんと午後の色をしていた。


(……落ち着かねえな)


 原因は、はっきりしている。


 朝比奈紬。


 妹の親友。

 昔から知っているはずの相手。

 けれど、知っている記憶より、知らない印象の方がずっと強い相手。


 そして何より――見えない。


 《恋愛選択肢表示》が、見せてくれない。


 視界の端に、青白いウィンドウが静かに浮かぶ。


『黒瀬湊』


『レベル:10』

『現在経験値:4895/5200』

『現在スキル経験値:1180/2600』

『現在恋愛ポイント:1875』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.7』


『現在ステータス』

・身体回復:中

・視力補正:安定

・行動範囲:病棟内/車椅子移動可

・疲労:軽度

・精神状態:思考過多/警戒/興味


『所持スキル』

・《感情トレースLv.3》

・《言外読解Lv.3》

・《身体感覚補正Lv.2》

・《安心感付与Lv.2》

・《重心把握Lv.2》

・《疲労看破Lv.2》

・《関係負荷軽減Lv.2》

・《役割把握Lv.1》

・《優先順位把握Lv.1》


『所持アイテム』

・《微睡みミント》×1

・《メンタルリカバリーチケット》×1

・《リハビリサポートバンド》×1

・《ナースメモカード》×1

・《ミントタブレット》×1

・《栄養補助スープ》×1

・《暇つぶしカード》×1

・《非常用簡易メモ》×1

・《夜勤対応メモ》×1

・《小型ライト》×1

・《集中維持パッチ》×1

・《夜明けのメモリーカード》×1

・《完全回復アンプル(小)》×1

・《リスタートバンド》×1


『解放済み機能』

・イベント危険度表示

・会話相性表示

・選択肢リスク予測

・ステータス詳細表示

・軽会話ログ保存

・食事相性表示

・患者心理補正

・感情隠蔽補正表示

・イベント危険度表示・強化

・選択肢リスク予測・拡張

・連携相性表示

・緊急時優先対象抽出

・複数対象同時補正

・本音接触率表示


『現在進行中イベント』

・《朝比奈紬:再会したはずの距離》PHASE1

・《白峰紗雪:止まれなかった手》待機中

・《白石結衣:自信の芽》継続中

・《佐倉奈緒:背負い方の変化》継続中

・《神宮寺綾乃:信頼形成 初期》継続中

・《桐谷美月:連携ルート》継続中


『特殊フラグ』

・《白峰紗雪:止まれなかった手》

・《朝比奈紬:長期蓄積感情》

・《リリス観測補助:不明》


 その下に、もう一つ。


『▼特別イベント 進行中』


『対象:朝比奈 紬』


『現在進行率:12%』


『《朝比奈 紬》』

『年齢:16』

『職業:高校生』


『レベル:24』

『レア度:★★★★★』


『好感度:測定不能』

『感情深度:ロック中』


『状態:興味/観察/平静擬装』

『補足:長期蓄積感情を検出』

『警告:通常対象と異なる挙動を確認』


(……ほんとに見えないままかよ)


 湊は小さく息を吐いた。


 今まで、このスキルは“わかりやすさ”の象徴だった。


 相手の状態が出る。

 好感度が見える。

 難易度が表示される。

 どこで踏み込み、どこで引くべきかの手がかりがある。


 だから読めた。

 だから攻略できた。


 奈緒も、結衣も、桐谷も、綾乃でさえ、全部難しくはあっても“盤面としては見えていた”。


 けれど、紬だけは違う。


 会話は成立している。

 距離も近い。

 手応えもある。


 なのに、いちばん大事なところが欠けている。


 好感度が見えない。

 感情深度もロック中。

 状態表示の言葉は出ていても、その“底”が見えない。


(……これ、普通にやる相手じゃねえだろ)


 そう思った瞬間だった。


「ねえ」


 不意に、背後から声がした。


 やわらかくて、自然で、でも妙に逃げ場のない声。


 湊が振り向くと、そこにいたのは紬だった。


 午前中、ひなたと一緒に帰ったはずの少女が、当たり前みたいな顔で病室の入り口に立っている。


 やわらかな色のワンピースの上から薄手のカーディガンを羽織っていて、髪は肩より少し下で静かに揺れていた。病院の白い空気の中にいると、その存在だけが妙に“外の人間”に見える。


「……戻ってきたのか」


 湊が言うと、紬は少しだけ肩をすくめた。


「ひなた、売店で飲み物選ぶって張り切っちゃって」

「どうせ長くなるから、先に戻ってきた」


 一拍。


「それで……」

 紬は少しだけ視線をずらしてから、また湊を見る。

「ちょっとだけ、話したくて」


 その言い方が、妙に自然で、でも逃げ場がない。


 “話したくて”なんて、ただの言葉だ。


 それだけなら軽い。


 でも今の紬の声には、その軽さがなかった。


 湊の胸の奥が、ほんのわずかに揺れる。


 その時、カーテンの外側から、妙に明るい声が響いた。


「あ、黒瀬さん。ミント補充しに来たんですけど……って、あれ?」


 西野あかりだった。


 売店の制服の上に薄いカーディガンを羽織り、手には小さな紙袋を持っている。いつも通り軽い笑顔を浮かべているが、紬を見た瞬間、その目だけがすっと細くなった。


『《西野あかり》』

『年齢:22』

『職業:売店店員』


『レベル:13』

『レア度:★★☆☆☆』


『好感度:37%』


『状態:興味/空気読み/観察』

『特性:場を柔らかくする/距離の取り方が上手い』


「お見舞いの方ですか?」


「あ、はい」

 紬が丁寧に頭を下げる。

「朝比奈紬です。湊くんの妹の友達で」


「湊くん」


 西野がにやっと笑う。


 湊は即座に嫌な予感がした。


「黒瀬さん、いつの間にそんな距離感の女の子を病室に連れ込んでるんですか」

「これは売店店員としてではなく、病棟の空気を見守る一般人として、少し事情を聞きたいところですね」


「連れ込んでないです」

「勝手に来ただけです」


「言い方ひどくない?」

 紬が笑う。


「ほら、ツッコミが自然」

 西野は楽しそうに頷いた。

「これは距離がある人の会話じゃないですね」


「西野さんまで何言ってるんですか」


「いや、私こういう空気好きなので」

 西野は紙袋をベッド脇の棚に置く。

「ミントと、あと小さい飴。午後ってちょっと眠くなるので」

「でも、話すなら食べながらはダメですよ。むせるので」


 軽い。

 でも、邪魔はしない。


 その距離感が、西野あかりという人だった。


 紬はその様子を見て、小さく笑った。


「湊くん、病院でちゃんと人に見られてるんだね」


「見られすぎて困ってる」


「それ、少し安心する」

 紬は静かに言った。

「入院って、ひとりになる時間が長いでしょ」

「だから、こういう人が周りにいるなら、ちょっとだけ安心できる」


 その言葉は、軽くなかった。


 西野もそれを感じ取ったのか、茶化すのをやめて、少しだけ目をやわらかくする。


「大丈夫ですよ」

「黒瀬さん、わりと放っておけない顔してるので」

「みんな、なんだかんだ見ちゃうんです」


「それ褒めてます?」


「半分くらい」


「残り半分は?」


「問題児認定です」


「ひどい」


 紬がくすっと笑う。


 その笑い方を見て、湊は少しだけ胸の奥がざわついた。


 病院側の人間と、外から来た紬が、自然に会話している。


 その光景は不思議だった。


 自分の中で別々に分かれていた世界が、静かに繋がっていくような感覚がある。


 その時、さらに廊下の方から温かい匂いがした。


「黒瀬さん、午後のスープ……って、あら?」


 宮本奈々だった。


 小さな保温ポットと紙コップを持ったまま、病室の入り口で足を止める。


『《宮本奈々》』

『年齢:24』

『職業:食堂スタッフ』


『レベル:15』

『レア度:★★★☆☆』


『好感度:36%』


『状態:世話焼き/心配/興味』

『特性:食で支える/人の空腹と疲労に敏感』


「お見舞い中でしたか?」

「ごめんなさい、邪魔ならあとで来ます」


「いえ、大丈夫です」

 紬がすぐに答える。

「むしろ、すごくいい匂いですね」


 奈々の表情がぱっと明るくなる。


「わかります?」

「今日は薄めの野菜スープです」

「胃に重くないようにしてるんですけど、香りだけはちゃんと立つようにしてて」


「そういうの、いいですね」

 紬は微笑む。

「食べるって、安心しますし」


「ですよね!」


 奈々が嬉しそうにうなずく。


 その瞬間、湊は思った。


(……この子、ほんとに人の懐に入るのうまいな)


 西野には軽さで合わせる。

 奈々には食の温度で合わせる。


 相手が何を大事にしているかを、自然に拾っている。


 それは計算か。

 癖か。

 それとも、ずっと誰かを見てきた人間の距離の取り方なのか。


 スキルは答えを出さない。


『感情深度:ロック中』


(……使えねえ)


 湊は胸の中で呟いた。


 だが、前ほど苛立ちは強くなかった。


 見えないからこそ、目の前の表情を見るしかない。


 それが、不思議と悪くないと思い始めている自分がいた。


「じゃあ、私はスープ置いていきますね」

 奈々は紙コップを置きながら言った。

「お見舞いのあとって、意外と疲れるんですよ」

「楽しくても、人に会うのは体力使うので」


「……それ、今の俺にめちゃくちゃ刺さるんですけど」


「刺さるように言いました」

 奈々はにこっと笑う。

「黒瀬さん、考えすぎる顔してますから」


「俺、そんなに顔に出てます?」


「出てます」

 西野と奈々が同時に言った。


 紬が少しだけ笑う。


「昔より、わかりやすくなったかも」


「お前まで言うな」


「うん」

 紬は楽しそうに頷く。

「でも、今の方がいいと思う」


 一瞬。


 空気が変わる。


 軽い会話の中に、不意に本音が落ちる。


 西野が「あ」と目だけで笑い、奈々が少しだけ口元を押さえた。


 湊は、言葉を返せない。


 紬は何でもないみたいな顔をしている。


 でも、その頬がほんの少しだけ赤いことを、湊の回復した視力はちゃんと拾ってしまった。


(……そういうの、反則だろ)


 その時、視界に選択肢が浮かぶ。


『【選択肢】』


『A:紬に「そういうこと軽く言うな」と返す』

『B:紬に「昔よりマシならよかった」と返す』

『C:西野と奈々に助けを求める』

『D:何も言わずスープを飲む』


(ここでCは逃げだな)

(Dも逃げ)

(Aは照れ隠しで雑すぎる)


 なら。


「……昔よりマシなら」

 一拍。

「まあ、よかった」


 湊がそう言うと、紬はほんの少しだけ目を見開いた。


 そして、静かに笑う。


「うん」

「すごく」


 その“すごく”が、思っていたより深く刺さった。


 西野が小さく拍手しそうな顔になり、奈々は「青春ですねえ」と言いたそうな顔を必死に抑えている。


「……じゃあ、私たちは退散します」

 西野が紙袋を軽く持ち上げる。

「黒瀬さん、ミントはあとで」

「あと、朝比奈さん」


「はい?」


「この人、考えすぎると顔が死ぬので」

「適度に突っ込んであげてください」


「わかりました」

 紬は真面目に頷く。

「得意です」


「得意なのかよ」

 湊が思わず突っ込む。


 奈々も笑いながら言う。


「スープは冷める前に一口だけでも飲んでくださいね」

「話すのは大事ですけど、食べるのも大事ですから」


 そう言って二人は去っていった。


 病室に、少しだけ静けさが戻る。


 けれど、完全な静けさではない。


 さっきまでの軽いやり取りの温度が、まだ空気に残っていた。


「……じゃあ」

 湊は少し考えてから言った。

「ここじゃなくて、外、出るか」


「外?」

 紬が首を傾げる。


「病院の中だけどな」

「屋上庭園あるらしい」

「前に桐谷さんが、リハビリの息抜きに使う人もいるって言ってた」


 紬は一瞬だけ目を丸くして、それから小さく笑った。


「へえ」

「いいじゃん、それ」


 その笑顔に、湊はほんの少しだけ息を詰める。


(……なんだよ、この感じ)


 ただの再会じゃない。

 ただの雑談でもない。


 何かが、一歩先にある。


 その時だった。


「ちょっと待って」


 病室の外から、呆れたような声が飛んできた。


 黒瀬ひなただ。


 いつの間に戻ってきていたのか、カーテンの隙間から顔を覗かせている。手にはペットボトルと小さな紙袋。どうやら本当に売店に行っていたらしい。


「何、自然に二人で消えようとしてんの」

「私、完全に置いていかれてるんだけど」


「いや、置いていくっていうか……」


 湊が言葉を濁すと、ひなたはじとっとした目を向けた。


『《黒瀬ひなた》』

『年齢:15』

『職業:中学生』


『レベル:18』

『レア度:★★★☆☆』


『好感度:家族判定』

『状態:心配/からかい/空気読み』

『補足:兄への信頼と不満が混在』


「その顔やめて」

「お兄ちゃん、自覚ないときがいちばん厄介だから」


「何の自覚だよ」


「そういうとこ」

 ひなたは即答した。


 紬がそこで、少しだけ困ったように笑う。


「ひなた、別にそんな大げさな感じじゃないって」


「いや、大げさにしといた方がちょうどいいの」

「紬、昔からお兄ちゃん相手だと自然に距離バグるし」


「ひなた」


 紬が小さくたしなめる。


「はいはい」

 ひなたは肩をすくめた。

「でも、せっかくなら行ってくれば?」

「屋上庭園」

「私、下で待ってるより売店でもう一周してくるし」


 その言い方は軽い。


 でも、軽すぎるくらいだった。


 湊はその顔を見て、少しだけ眉を上げる。


「お前、わざとだろ」


「何が?」


「空気読んでるだろ」


「読んでないですー」

 ひなたはわざとらしく視線を逸らしたあと、ふっと真顔になる。

「……でも」

 一拍。

「紬が来たの、たぶん今日だけじゃ意味ないから」


 その言葉に、湊は一瞬だけ息を止める。


 ひなたは普段は遠慮がない。

 言葉も雑だし、からかいも多い。

 けれど、たまにこうして核心だけをまっすぐに置いてくる。


「行ってきなよ」

 ひなたはいつもの調子に戻るように言う。

「どうせ今のお兄ちゃん、病室で一人で考え込んでてもロクなことにならないし」


 紬が小さく笑う。


「ひなたって、たまにすごいよね」


「たまにじゃなくて、いつもすごいの」

「で、私の分までちゃんと話してきて」

「紬、あとで内容全部聞くから」


「それはやだ」


 紬が即答して、ひなたが吹き出した。


 そのやり取りの軽さに、湊の肩から少しだけ力が抜ける。


 ひなたは、全部を知っているわけじゃない。

 でも、何かがあることには気づいている。

 そしてたぶん、それを壊す気はない。


(……ほんと、こういうとこだけ妙に勘がいいんだよな)


「じゃあ、行こうか」

 紬が言った。


 湊は短く頷く。


 そのタイミングで、病室の奥のカーテンが少しだけ揺れた。


「……黒瀬さん?」


 小さな声。


 吉岡沙織だった。


 同じ病棟に入院している女子高生で、午前中から少しだけ様子を見に来ていたらしい。カーテン越しに顔だけを覗かせるようにして、湊と紬を見ている。


『《吉岡沙織》』

『年齢:17』

『職業:入院患者』


『レベル:10』

『レア度:★★☆☆☆』


『好感度:36%』


『状態:興味/寂しさ/少しの羨望』

『特性:共感型/ひとり時間が長いと沈みやすい』


「屋上、行くんですか?」


「ああ」

「ちょっとだけな」


「……いいですね」

 沙織は小さく笑った。

「外の空気、私も好きです」

「病室にいると、時間が全部白くなっちゃうから」


 その言葉に、湊は少しだけ息を止める。


 時間が全部白くなる。


 沙織らしい表現だと思った。


 病院にいる時間は、確かに白い。


 同じ天井。

 同じ壁。

 同じカーテン。

 同じ検温。

 同じ食事。

 同じ夜。


 その中にいると、自分だけが世界から取り残されているような気がする時がある。


 沙織は、そんな感覚を知っている。


「戻ったら」

 沙織は少しだけ遠慮がちに言った。

「屋上、どんな感じだったか教えてください」


「わかった」

 湊は頷く。

「ちゃんと報告する」


「約束ですよ」


 沙織の表情が、ほんの少しだけ明るくなった。


 その顔を見て、紬が静かに目を細める。


 湊の周りには、こうやって彼を待つ人がいる。


 そのことを、彼女はたぶん今、初めてはっきり見たのだ。


――――――――――


 屋上庭園。


 そこは、病院の中とは思えない場所だった。


 白い建物の上に切り取られた、静かな小さな庭。

 低い木々と花壇、芝生に似たやわらかな緑、白いベンチ。

 高い柵の向こうには、午後の街並みが遠くまで広がっている。


 風はやさしい。


 強すぎず、でもちゃんと外の空気だとわかる程度に吹いていて、頬をなでるたびに病室の匂いを薄めていく。どこかから土と葉の匂いが混ざり、空調の均一な空気とは違う“流れ”がそこにはあった。


 空は広い。

 青い。


 薄い雲がゆっくり流れていて、その向こうに時間がちゃんと進んでいることを思い出させる。


 病院の中なのに、病院ではないみたいな場所。


 湊は車椅子を止め、ゆっくりと空を見上げた。


「……ここ、いいな」


「うん」

 紬が隣に立つ。

「病院っぽくない」


 一拍。


「ちょっとだけ、普通の場所みたい」


 その言葉に、湊は小さく頷いた。


(……普通、か)


 今の自分にとって、その言葉は少しだけ遠い。


 事故に遭って、神に会って、スキルをもらって、生き返って、病院でイベントをこなし続けている今の自分に、“普通”という言葉は少しだけ眩しすぎる。


 紬はそんな湊の横顔を、しばらく何も言わずに見ていた。


 風が吹く。

 髪が揺れる。

 カーディガンの裾が少しだけなびく。


 病院の白さから切り離されたこの空間では、紬の存在そのものがさっきよりずっと近く感じられた。


 その時、視界に選択肢が浮かぶ。


『【選択肢】』


『A:紬に「何を話したかったんだ」と聞く』

『B:紬に「午前中の続きか」と軽く振る』

『C:屋上の景色の話を続ける』

『D:黙って紬が話し出すのを待つ』


(……Dだな)


 今の紬は、言葉を探している。


 無理に急かせば、たぶん逃げる。

 軽く振れば、軽く返される。

 景色の話で逃げることもできる。


 でも、ここまで来た意味はそれじゃない。


 湊は黙った。


 紬も黙った。


 数秒。


 風の音だけが二人の間を通り抜ける。


 その沈黙は、気まずくはなかった。


 むしろ、何かを置くために必要な間だった。


「ねえ、湊くん」

 紬が不意に言う。


「ん?」


「さっきさ」

「変わったって言ったけど」


 一歩、近づく。


「どうして変わったの?」


 その問いは軽くない。


 ただの雑談じゃない。

 答えを求める声だ。


 湊は少しだけ視線を落とす。


 正直に言うなら、この問いは怖い。


 なぜ変わったのか。

 どうして今の自分がこうなったのか。

 それをまっすぐ聞かれること自体が、少し久しぶりだった。


「……たぶん」

 一拍。

「ちゃんと見えるようになったからだと思う」


「何が?」


「人のこと」


 紬の目が、ほんの少しだけ細くなる。


 否定しない。

 急かさない。

 ただ続きを待つ。


「前は、あんまり見てなかった」

 湊はゆっくりと言葉を選んだ。

「見ても流してたし、深く考えないようにしてた」

「面倒だったし、どうでもいいって思ってたし……」

「正直、人の気持ちにまともに向き合う方が、疲れるって思ってた」


 言いながら、湊は苦笑する。


「でも今は違う」

「見えるし、無視できないし」

「……逃げられない」


 紬は何も言わない。

 ただ、じっと湊を見ている。


 その視線には、同情も押しつけもない。

 ただ、“ちゃんと聞いている”だけの静けさがある。


「だから」

 湊は続ける。

「変わったっていうより、戻された感じかもな」

「昔の方が、まだちゃんと見てたのかもしれない」

「途中で色々あって、そこ閉じてたのが、また開かされたっていうか」


 沈黙。


 風が吹く。


 紬の前髪が少し揺れて、彼女はそれを押さえもせずに小さく息を吐いた。


「……そっか」


 一歩、さらに近づく。


 距離が、近い。


 近すぎるわけじゃない。

 けれど、“ただの親友の兄”との距離ではない。


「じゃあさ」

 紬が言う。


「今の私、どう見えてる?」


 その問いに、湊は言葉を失う。


 スキルを見る。


 何も変わらない。


『好感度:測定不能』


『感情深度:ロック中』


『状態:興味/観察/平静擬装』


(……わからない)


 正直に、そう思う。


 見えているのに、見えていない。

 距離が近いのに、核心に届かない。

 こんな相手は初めてだった。


『【選択肢】』


『A:見えている範囲だけを言う』

『B:綺麗になった、と正直に言う』

『C:わからない、とそのまま伝える』

『D:逆に紬へ聞き返す』


(……C)


 飾ると、この子にはたぶん届かない。


 逃げると、たぶん見抜かれる。


「……わからない」

 湊は、そのまま言った。


 一瞬。

 空気が止まる。


 風の音だけが、やけに大きく聞こえる。


 紬は少しだけ目を見開いて、それから小さく笑った。


「……だよね」


 その笑いは、どこか安心したようだった。


「湊くん、そういうとこある」

「ちゃんとわからないって言うとこ」

「わかったふりしないで、そこはそのまま出すとこ」


「褒められてるのか、それ」


「半分くらいは」

 紬は言う。

「あと半分は、ずるいって思ってる」


「なんで」


「そういう答え方されると、こっちが余計に言いたくなるから」


 一歩。

 さらに近づく。


 そして、ゆっくりとしゃがむ。


 視線の高さが合う。


 屋上庭園の風の中で、紬の顔が思っていたより近い。

 睫毛の影まで見える。

 少しだけ色づいた唇が、何かを言いかけて止まるのもわかる。


 心臓が、少しだけ忙しくなる。


「ねえ」

 紬の声が、少しだけ低くなる。


「覚えてる?」


「何を」


「私が、最初に湊くんのこと呼んだとき」


 湊は少し考える。

 記憶を探る。

 けれど、出てくるのは断片ばかりだ。


 ひなたの隣。

 ランドセル。

 リビング。

 夕方。

 宿題。


 でも、“最初に呼んだとき”なんて、そこまでは思い出せない。


「……覚えてないな」


「そっか」

 紬は小さく頷いた。


 寂しそうな顔はしない。

 責めるような顔もしない。

 ただ、その事実を静かに受け取っている。


「私は覚えてるよ」

 紬は言う。


 一拍。


「ずっと」


 その言葉に、湊の心臓がわずかに強く打つ。


 だが、スキルは何も示さない。

 何も、見せない。


 それがもどかしいのに、今はそれ以上に、紬の声そのものが気になる。


「ひなたがまだ来る前に、おばさん家で待ってた日」

 紬は少しだけ目を細めて、遠くを見るみたいに言う。

「私、宿題わかんなくて、泣きそうなくらいイライラしてたの」

「でも言えなくて、ずっと黙ってて」

「ひなたもいないし、帰りたいし、でも帰れないし、最悪って思ってた」


 湊は静かに聞いていた。


「その時、湊くんがね」

 紬は少し笑う。

「“なあ、朝比奈、そこ違う”って言ったの」

「すごい普通に」

「初めて名前呼ばれたの、その時だった」


 湊は目を瞬かせる。


 そんな些細なこと。


 たぶんその時の自分にとっては、何でもなかった一言だ。


 でも紬は、それを覚えている。


 十年以上前のたった一度の呼び方を、今も。


「別に優しかったわけじゃないよ」

 紬は笑った。

「むしろちょっと雑だった」

「でも、私、その時すごく嬉しかった」


 その“嬉しかった”が、まっすぐすぎて、湊は言葉を返せない。


 スキルを見る。


 それでも何も変わらない。


『好感度:測定不能』


(……こういう時に、役立たずかよ)


 だが、役立たずな表示の代わりに、目の前の紬の表情がある。


 それだけは、嘘じゃないとわかる。


「ねえ、湊くん」

 紬が言う。


「私ね」


 一瞬、言葉を止める。


 ほんの一瞬。

 でも、その“間”が長い。


「……たぶん、ずっと――」


 そこで、止まる。


 空気が張り詰める。


 風が一度、途切れた気がした。


 そして。


「……やっぱりいいや」


 紬はそう言って笑った。


 軽く。

 何でもないみたいに。


 でも、その“言わなかった言葉”は、確かにそこに残っていた。


(……今の)


 湊は理解する。


 言わなかっただけで、消えたわけじゃない。

 むしろ、言わなかったからこそ、濃く残る。


「でも」

 紬が続ける。


「今の湊くん」


 一拍。


「けっこう好きだよ」


 静かな声。


 でも、逃げ場がない。


 軽く言ったふうに聞こえる。

 冗談みたいにも聞こえる。


 なのに、そのどちらでもないことが、声の震えないまっすぐさでわかってしまう。


 湊は言葉を失う。


 スキルを見る。


 変わらない。


 何も、変わらない。


『好感度:測定不能』


『感情深度:ロック中』


(……ふざけんな)


 こんな時に、何も出ない。

 何も示さない。

 いつもなら得意げに選択肢を出してくるくせに、今はいちばん大事なところで沈黙したままだ。


 だが、その瞬間。


 別の表示が、ほんの一瞬だけ視界の端に滲んだ。


『《不可視感情検知》未解放条件に接触』


『対象:朝比奈紬』


『検知結果:温度あり』


『注意:数値化不可』


(……温度あり?)


 数値ではない。


 好感度でもない。


 でも、確かにそこに何かがあると、システムが認めた。


 湊は、ゆっくり息を吸う。


『【選択肢】』


『A:「そうか」とだけ受け止める』

『B:「俺も嫌いじゃない」と返す』

『C:「そういう言い方はずるい」と言う』

『D:「ちゃんと聞かせてくれ」と踏み込む』


(……Dは早い)

(Bは逃げに近い)

(Cは照れ隠し)


 なら。


「……そうか」

 湊は、やっとそれだけ言う。


 紬は少しだけ満足したように笑った。


「うん」

「それでいいよ」


 その“それでいい”が、妙に優しかった。


 答えを求めていない。

 でも、投げてもいない。

 ちゃんと届いたことだけ確かめて、そこで止まっている。


 それが、かえって胸に残る。


 紬はゆっくり立ち上がる。


「じゃあ、そろそろ戻ろっか」

「ひなた、待ってるし」


 背を向ける。


 その背中が、やけにあっさりして見えて、湊は反射的に口を開いていた。


「紬」


 紬が振り向く。


 風が吹いて、髪がふわりと揺れる。


「……またな」


 一瞬。


 ほんの一瞬だけ、紬の表情が変わる。


 強がりでも余裕でもない、本当の年相応の顔。


 嬉しいのを隠しきれない、でも見せすぎたくない、そんな曖昧な揺れ。


 それから、いつもの笑顔に戻った。


「うん」


 一拍。


「次は、ちゃんと最初からね」


 その言葉が、静かに落ちる。


――――――――――


 屋上庭園を出て、病棟へ戻る途中だった。


 ひなたは本当に売店でもう一周していたらしく、紙袋をひとつ増やして戻ってきた。


「遅っ」

 開口一番、それだった。

「二人で何してたの」


「別に」

 湊が答えると、ひなたはじとっとした目を向ける。


「“別に”で済ませるときほど別にじゃないんだよ、この人」


「ひなた」

 紬が小さく笑いながら止める。


「だって気になるじゃん」

 ひなたは唇を尖らせる。

「私が空気読んで消えてあげたんだから、そのくらい報告義務あるでしょ」


「何その義務」

 紬が苦笑する。


「あるの」

 ひなたはそう言ってから、少しだけ真面目な顔で湊を見た。

「……でも」

「顔、ちょっと違うね」


「は?」


「さっきより、考えてる顔」

「あと、ちょっとだけ困ってる顔」


 図星だった。


 湊が言い返せずにいると、ひなたは小さく笑う。


「まあ、いいけど」

「紬が変な顔してないなら」


 その“変な顔”には、きっと色々な意味が含まれている。


 泣いていないか。

 無理していないか。

 ちゃんと自分の気持ちを置いてこれたか。


 ひなたは全部を知っているわけじゃない。

 でも、親友の機微には敏い。


「変な顔してる?」

 紬がわざと聞くと、ひなたは少しだけ目を細めた。


「……してない」

「でも、ちょっと満足してる顔」


「何それ」


「何となく」


 その会話に、湊は言葉を挟めなかった。


 ひなたの勘の良さは、こういう時に妙に怖い。


 たぶん今の自分より、ひなたの方が状況を正しく掴んでいる。


 病室の前まで戻ると、結衣がちょうど中から出てきた。


「あ……!」


 白衣のポケットにメモを差しながら、結衣はぱっと顔を上げる。


「お帰りなさい」


 その“お帰りなさい”が、思っていたより自然で、思っていたよりも少しだけ私的に聞こえた。


 結衣自身もそれに気づいたのか、ほんの少しだけ頬を染める。


『《白石結衣》』

『状態:待機/緊張/安心 → 安堵/警戒(微)/照れ』


「その……屋上、どうでしたか」

「風、強くなかったですか?」


「大丈夫だった」

 湊が答える。


「そうですか」

 結衣は小さく頷いたあと、紬の方を見る。

「朝比奈さんも、ありがとうございます」

「車椅子……押してもらって」


 その言い方は丁寧だ。

 でも、午前中より少しだけ力が入っている。


 紬もそれを感じたのか、やわらかく笑って返した。


「こちらこそ」

「ちょっとだけ借りちゃいました」


 “借りちゃいました”という言い方がうまい。


 踏み込みすぎず、でも距離を引きすぎない。


 結衣の目が少しだけ揺れる。


 ひなたが横で、内心面白がっているのが見えた。


 そこへ、廊下の向こうから奈緒が戻ってくる。


 手には紙ファイル。


 歩き方は静かで、表情もいつものように落ち着いている。けれど、病室の前の空気が午前中とは違うことを、彼女は一目で察したらしい。


「……戻られたんですね」

 奈緒が言う。


「はい」

 結衣が少しだけ背筋を伸ばして答える。


『《佐倉奈緒》』

『状態:平静/観察 → 平静/牽制(微)』


 奈緒の視線は、湊、紬、ひなた、そして結衣へ順番に流れる。

 業務的に見ているようでいて、それだけではない。


「屋上でしたか」

 奈緒は静かな声で言った。

「風が冷えすぎなくてよかったです」

「まだ完全には回復していないので」


 言葉はあくまで患者への注意だ。


 だが、その中に紬への牽制が一滴だけ混ざっているのを、湊は感じ取った。


(わかりやすくないのに、ちゃんとわかるな……)


 紬はその小さな棘を、そのまま受け取って笑う。


「すみません」

「ちゃんと無理させないように見てました」


 それに対して奈緒は短く頷くだけだった。


 そして、少し遅れて――


「……なら、よかったです」


 その一言を足した。


 短い。

 だが、それで十分だった。


 “見張っていた”のではなく、“見ていた”と言われたことに対して、奈緒も完全には否定しなかったのだ。


 ひなたはその空気を横目で見ながら、ものすごく小さく、湊にだけ聞こえるくらいの声で囁いた。


「……思ったよりすごいね、お兄ちゃんの周り」


「何が」


「女の人の空気」


「やめろ」


「いや、ほんとに」

 ひなたは半分呆れたように言う。

「病院なのに何でこうなるの」


「俺が聞きたい」


 その返答に、ひなたが吹き出す。


 紬も小さく笑う。

 結衣は少し困ったように、でもどこか恥ずかしそうに視線を下げる。

 奈緒だけが、表情を崩さないまま、それでもほんのわずかに肩の力を抜いた。


 その時。


 少し離れた廊下の向こうを、白衣の人影が通る。


 綾乃だった。


 歩きながらこちらへ視線だけを向ける。

 短い、一瞬だけの観察。


『《神宮寺綾乃》』

『状態:平常/観察/特別認識(微) → 観察/警戒(微)』


「騒ぎすぎないで」


 それだけ言う。


 クールで短い。

 だが、その言葉はこの場の全員に向いていた。


「はい」

 結衣がすぐに返事をし、


「すみません」

 ひなたも素直に頭を下げる。


 綾乃はそれ以上何も言わない。

 ただ最後に、湊へだけ短く視線を置いた。


「疲れたら、すぐ戻って」


「……はい」


 それだけで、また去っていく。


 白衣の裾が角を曲がって消えるまで、ひなたはぽかんとしていた。


「……今の人」

「めっちゃ怖いんだけど」


「神宮寺先生だからね」

 桐谷がいつの間にか戻ってきて、面白そうに笑った。

「でも今日はかなりソフトな方」


『《桐谷美月》』

『状態:観察/興味(強)/からかい準備』


「え、あれで?」

 ひなたが本気で引いた顔をする。


「うん」

「わりと黒瀬さん特別扱いされてるよ」


「やめてください」

 湊が即座に止める。


 だが、その一言が妙に場をやわらかくした。


 病棟の白い空気の中に、病院らしくない空気が混ざる。


 見舞いの時間は、もうそろそろ終わりに近い。


 ひなたが時間を確認して、小さく息を吐いた。


「……じゃ、私たちもそろそろ帰るね」

「さすがにあんまり長いと、今度はお母さんがうるさいし」


 紬は静かに頷く。


 それから、湊の方を向く。


 午前中とは違う。

 屋上庭園へ行く前とも違う。


 何かをちゃんと置いてきた顔をしていた。


 それが良いのか悪いのか、湊にはまだわからない。


「また来る」

 紬が言う。


 ひなたがすかさず横から突っ込む。


「それ、私も来る前提だからね?」


「わかってる」

 紬は笑う。

「ひなたが来ないと、たぶんここまで自然に来られないし」


「……自然に来てるつもりなんだ」

 ひなたが少しだけじとっとした目を向ける。


「つもり」

 紬は平然と答えた。


 そのやり取りに、湊の胸の奥がまた少しだけざわつく。


 自然。

 不自然。


 その境界が、この子は妙に曖昧だ。


「じゃあな」

 湊が言う。


「うん」

 紬が返す。


 一拍置いて、ひなたも小さく手を振る。


「ちゃんと寝なよ」

「あと、変なこと考えすぎないでね」


「余計なお世話だ」


「余計じゃないの」

 ひなたは言って、それから少しだけやさしい顔になった。

「……元気そうでよかった」


 その言葉は、午前中よりずっと静かだった。


 家族の言葉だ。

 妹の言葉だ。

 だからこそ、変に飾らない。


「……おう」

 湊が短く返すと、ひなたは満足したように頷いた。


 紬とひなたが病室を出ていく。

 足音が遠ざかる。


 カーテンの向こうに、その気配だけが残る。


 そして、その瞬間。


 視界いっぱいに青白い光が広がった。


『▼期間限定・特別イベント PHASE1 CLEAR』


『対象:朝比奈 紬』


『補足:完全解析不可のまま終了』

『再接続フラグを確認』

『ステージ未開放』


『結果』

・朝比奈紬との個別会話に成功

・好感度測定不能状態を継続

・長期蓄積感情の存在を確認

・不可視感情への接触を確認

・朝比奈紬:再訪問フラグ成立

・白石結衣/佐倉奈緒/桐谷美月の外部ヒロイン認識を確認

・黒瀬ひなた:支援者ポジションを確認


『▼報酬』


『経験値+420』

『スキル経験値+260』

『恋愛ポイント+220』


『▼レアアイテム』

『《未解決の感情ログ》×1』

『《再会フラグタグ》×1』


『▼新機能解放』

『《不可視感情検知》』

『《既知関係補正》』


『▼新スキル獲得』

『《違和感感知Lv.1》』


『現在経験値:4895/5200 → 5315/5200』


『▼レベルアップ』

『黒瀬湊 Lv.10 → Lv.11』


『現在経験値:5315/5200 → 115/6200』

『現在スキル経験値:1180/2600 → 1440/2600』

『現在恋愛ポイント:1875 → 2095』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.7 維持』

『固有スキル経験値が上昇しました』

『次回レベルアップまで:1160』


 情報が流れ込む。


 頭の奥が、熱を持つ。

 視界がほんのわずかに澄む。

 空気の層みたいなものが、一段深く読めるようになる感覚。


 だが、それよりも――胸の奥に残るものの方が、大きかった。


(……攻略したのに)


 終わったはずなのに。

 まだ、終わっていない感じがする。


 それが、妙に心地よくて。

 妙に、引っかかる。


 屋上の空の青さ。

 紬がしゃがんだ時の距離。

 “私は覚えてるよ”という声。

 “けっこう好きだよ”という言葉。

 そして、最後まで見えなかった好感度。


 あれだけ数値に頼ってきたのに、最後まで数値がなくても、確かに何かは届いたのだとわかってしまう。


 それが、妙に悔しい。


 でも同時に、少しだけ嬉しい。


 結衣が、おそるおそる口を開いた。


「……黒瀬さん」


「ん?」


「朝比奈さん」

 一拍。

「……すごく、綺麗な人でしたね」


 その言い方は褒めているのに、どこか少しだけ複雑だった。


「そうだな」

 湊は正直に答える。


「……はい」

 結衣は小さく頷く。

「でも」

 そこから先を言うのに少し勇気が必要だったらしい。

「ちょっとだけ……ずるいです」


「何が?」


「空気の入り方、です」

 結衣は頬を少し赤くして言った。

「昔から知ってる人って、それだけで……なんていうか、入ってこれる場所がある感じがして」

「私たちが頑張って作ってきた距離と、最初から持ってる距離って、やっぱり違うんだなって」


 その言葉に、奈緒が静かに視線を落とした。


 結衣だけじゃない。


 奈緒もまた、同じことを少し感じていたのだろう。


 病棟で積み上げた関係と、昔からそこにあった関係。


 種類が違う。

 優劣ではなく、質が違う。


「でも」

 奈緒が静かに言う。

「それはそれ、だと思います」


 結衣がそちらを見る。


 奈緒はいつもの落ち着いた口調のまま続けた。


「昔からある距離は、昔からある距離です」

「今ここで作ったものとは、別です」

「だから、比べる必要はないです」


 一拍。


「……たぶん」


 最後にその言葉を足すところが、奈緒らしかった。


 完全な正解として断言しない。

 でも、自分の考えとしてちゃんと置く。


 結衣の表情が少しだけやわらぐ。


「……はい」


 桐谷がそこで、くすっと笑う。


「なんかいいねえ」

「みんな、前よりちゃんと人のこと言葉にするようになってる」


「桐谷さんは元からでしょ」

 湊が言うと、桐谷は肩をすくめた。


「私は元からそういうタイプだからね」

「でも黒瀬さんは違ったじゃん」

「結衣ちゃんも、奈緒さんも、先生も」

「この病棟、停電事故の前よりたぶん面倒くさいくらい人間関係濃くなってるよ」


 それは否定できなかった。


 濃くなった。

 間違いなく。


 白い病棟。

 白い壁。

 白い天井。


 何も変わっていないようでいて、その中を流れる人間同士の温度だけが変わっている。


 その時だった。


 ナースステーションの方から、控えめな声が聞こえた。


「……あの」


 結衣が振り向く。

 奈緒も顔を上げる。


 受付側にいた看護師が、少し困ったようにこちらを見ていた。


「黒瀬さんに、もう一名……面会希望の方が」


 湊の胸が、なぜか一瞬だけ嫌な音を立てた。


 ひなたと紬はもう帰った。

 家族なら連絡があるはずだ。

 友人らしい友人は、今の湊にはほとんどいない。


 なら。


 誰だ。


「お名前は?」


 奈緒が静かに聞く。


 看護師は手元のメモを確認した。


「白峰紗雪さん、とのことです」


 その名前が落ちた瞬間。


 世界の音が、一つ薄くなった。


 白峰紗雪。


 その名前は、何度も表示だけは見ていた。


 止まれなかった手。

 夜間急変。

 届かなかった選択。


 そして。


 第1話の事故で、自分が助けた女性。


 湊の視界に、赤みを帯びたウィンドウが浮かび上がる。


『特殊フラグ更新』


『《白峰紗雪:止まれなかった手》』


『対象接近を確認』


『現在位置:病棟受付付近』


『状態:面会希望/迷い/罪悪感/感謝/恐怖』


『注意:対象は事故当事者です』


『イベント種別:因果接触』


『推定危険度:不明』


『警告:現在の精神状態での接触は、双方に強い感情負荷を与える可能性があります』


 湊は、呼吸を忘れた。


(……来た)


 紬の声がまだ胸に残っている。


 見えない好感度。

 触れた温度。

 数値にならない感情。


 その余韻が消えないうちに、今度は別の名前が現実に現れた。


 白峰紗雪。


 自分が助けた女性。


 自分が死にかけた理由。


 神と出会うきっかけになった人。


 まだ一度も、ちゃんと会っていない人。


 結衣が不安そうに湊を見る。


「黒瀬さん……?」


 奈緒は表情を引き締める。


「無理なら、今日はお断りできます」


 桐谷も、さっきまでの軽さを消していた。


「今の黒瀬さん、ちょっと顔色変わったよ」

「会うなら、座ったまま。時間も短く」

「無理そうなら止める」


 西野が廊下の向こうから様子を見ていて、奈々も少し離れたところで足を止めている。


 沙織はカーテンの向こうから、息を殺すようにこちらを見ていた。


 病棟の空気が、また変わった。


 土曜日の午後のやわらかさが、急に薄くなる。


 白い廊下。

 白い壁。

 白い光。


 その奥に、まだ見ぬ女性がいる。


 白峰紗雪。


 彼女は、どんな顔でここへ来たのだろう。


 何を言うつもりなのだろう。


 何を抱えて、ここまで来たのだろう。


 湊は車椅子の肘掛けに置いた手に、静かに力を込める。


 視界の端で、新しく獲得した機能表示が小さく瞬いた。


『《不可視感情検知》起動可能』


 けれど、湊はすぐにそれを使おうとは思わなかった。


 紬との会話が、まだ胸に残っているからだ。


 見えなくても、届くものはある。


 見えるからといって、軽く扱っていいものではない。


 白峰紗雪も、たぶん同じだ。


 湊はゆっくりと息を吐いた。


(……面倒で)


 そう思う。


(重くて)


 視界の奥で、赤い表示が静かに揺れる。


(でも、逃げられない)


 結衣が心配そうに一歩近づく。


 奈緒が、判断を待つように静かに立っている。


 桐谷は軽口を封じたまま、湊の顔色を見ている。


 綾乃は廊下の向こうから戻ってきて、状況を一瞬で読み取った。


「黒瀬さん」


 短い声。


 でも、今はその短さがありがたかった。


「会いますか」


 湊は少しだけ目を閉じる。


 紬の言葉が浮かぶ。


 ――次は、ちゃんと最初からね。


 最初から。


 きっと、それは白峰紗雪にも必要なことだ。


 事故の続きではなく。

 罪悪感の続きでもなく。

 命を助けた側と助けられた側という重い関係だけでもなく。


 ちゃんと、一人の人間として会うこと。


「……会います」


 湊は、静かに言った。


 綾乃が一度だけ頷く。


「五分だけ」

「無理なら止めます」


「はい」


 その瞬間、視界に青白い文字が浮かぶ。


『次回イベント予告』


『第18話』

『白峰紗雪:止まれなかった手』


『因果接触イベントを開始します』


 湊はその文字を見つめながら、細く息を吐いた。


 土曜日の午後。


 病院に差し込むやわらかな光。

 病棟に残る見舞いの余韻。

 見えないまま終わった紬との特別イベント。


 そして今。


 もう一つの選択が、白い廊下の向こうから近づいていた。


 朝比奈紬という存在だけが、数値にならないまま心に残っている。


 だがそのすぐ隣で。


 白峰紗雪という名前が、過去から現在へ、静かに歩いてきていた。

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