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第16話 妹の親友は、だいたい想定外


 土曜日の午前中だった。


 病院という場所は、曜日が変わったからといって、まるごと表情を変えるわけではない。


 白い壁は白いままだ。

 廊下の消毒液の匂いも変わらない。

 空調の低い駆動音も、ナースステーションの奥で紙とペンとキーボードが立てる乾いた音も、大きくは変わらない。

 磨かれた床に落ちる光の色だって、平日も休日もそう違いはない。


 それでも、土曜日には土曜日の空気がある。


 外来の流れが平日ほど密ではなく、面会に来る家族の足音が少し増える。

 病棟を歩く人の服装にも、どこか外の生活の匂いが混じる。

 看護師の声の置き方も、ほんの少しだけやわらかい。


 病院という非日常の中に、外の“普通の生活”が細く流れ込んでくるような感じがあった。


 まして今日は、あの停電事故から数日が経った土曜日だ。


 夜中の停電。

 電子カルテの停止。

 モニター機器の不全。

 ブルーコール。

 救命センターへの応援。

 病棟での急変。

 夜明けまで続いた緊張。


 それらを越えたあとだからこそ、戻ってきた平穏は妙に眩しかった。


 もちろん、すべてが元通りになったわけではない。


 病棟の空気の奥には、あの夜を通り抜けた人間だけが共有する張りつめた記憶が、まだ薄く残っている。


 佐倉奈緒は、以前より少しだけ周囲へ目を預けるようになった。

 白石結衣は、目の前のことだけではなく、全体の流れを意識するようになった。

 桐谷美月は、もともとの距離の近さに加えて、病棟の“内側”へ半歩踏み込んだような気安さを見せるようになった。

 神宮寺綾乃に至っては、変わったと言い切るにはあまりにも微細だが、それでも確かに“人へ任せる”ことを一度知ってしまった。


 人間同士の距離は、そう簡単には元へ戻らない。


 あの夜を挟んだことで、病棟の人間関係そのものが少しだけ組み替わったのだ。


 だからこそ、今日のような静かな午前は余計に印象深い。


 窓の外には、初夏へ向かう光が広がっていた。


 白いカーテンを透かして入ってくる陽射しはやわらかく、けれど十分に明るい。

 床の上に淡い長方形の光を落とし、ベッド柵や点滴スタンドの輪郭をやさしく浮かび上がらせている。

 空は高く、雲は薄い。

 病室の窓から見える世界なんてほんの一角にすぎないのに、そのわずかな切り取りの向こうに、外の生活がちゃんと続いていることが感じられた。


 黒瀬湊は、ベッドの背を少し起こした姿勢のまま、その光をぼんやりと見ていた。


 身体は、確実に戻ってきている。


 もちろん、まだ完全ではない。


 車椅子への移乗はできる。

 短い距離なら自走もできる。

 リハビリの時間には、立位保持や数歩程度の歩行訓練にも入っている。


 けれど、それで“普通に動ける”わけではない。


 腰の奥には鈍い重さが残る。

 長く同じ姿勢でいれば、背中から肩にかけてじわじわと張りが出る。

 少し気を抜けば重心がずれて、自分の身体なのに借り物みたいな違和感が生まれる。


 それでも、事故直後の自分と比べれば雲泥の差だった。


 何より大きいのは、視界だ。


 恋愛ポイントを使って視力回復へ振った効果は、想像以上に大きかった。

 カーテンの繊維の重なり。

 制服の縫い目。

 誰かが言葉を飲み込む時のまぶたの揺れ。


 そういう細かいものが、以前よりずっとはっきり見える。


 そのことがリハビリにも活きているし、当然、《恋愛選択肢表示》の精度とも噛み合う。


 視界の端で、青白い光が静かに瞬いた。


『黒瀬湊』


『レベル:10』

『現在経験値:435/5200』

『現在スキル経験値:1840/3200』

『現在恋愛ポイント:1495』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.7』


『現在ステータス』

・身体状態:回復期/車椅子移動可/短距離立位訓練中

・視力補正:改善済み

・精神状態:安定傾向/イベント後疲労残存

・観察精度:上昇中

・対人反応:慎重/選択肢依存傾向あり


『所持スキル』

・《感情トレースLv.2》

・《言外読解Lv.2》

・《身体感覚補正Lv.2》

・《安心感付与Lv.1》

・《重心把握Lv.1》

・《疲労看破Lv.1》

・《関係負荷軽減Lv.1》

・《役割把握Lv.1》

・《優先順位把握Lv.1》


『所持アイテム』

・《微睡みミント》×1

・《メンタルリカバリーチケット》×1

・《リハビリサポートバンド》×1

・《ナースメモカード》×1

・《ミントタブレット》×1

・《栄養補助スープ》×1

・《暇つぶしカード》×1

・《非常用簡易メモ》×1

・《集中維持パッチ》×1

・《夜勤対応メモ》×1

・《小型ライト》×1

・《夜明けのメモリーカード》×1

・《完全回復アンプル(小)》×1

・《リスタートバンド》×1


『解放済み機能』

・イベント危険度表示

・会話相性表示

・選択肢リスク予測

・ステータス詳細表示

・軽会話ログ保存

・食事相性表示

・患者心理補正

・感情隠蔽補正表示

・連携相性表示

・緊急時優先対象抽出

・複数対象同時補正

・本音接触率表示


『現在進行中イベント』

・佐倉奈緒 イベントLv.3《支えられる先輩》

・白石結衣 イベントLv.3《自信の芽》

・桐谷美月 イベントLv.2《外側から支える人》

・神宮寺綾乃 個別イベント《特別認識の入口》


『特殊フラグ』

・《白峰紗雪:止まれなかった手》

・《未接触対象:面会可能性あり》

・《外部接触イベント発生率上昇》


(……いや、最後)


 湊は思わず表示を二度見した。


(未接触対象、面会可能性ありって何だよ)


 白峰紗雪。


 その名前だけで、胸の奥に小さな棘が刺さる。


 第1話の事故で助けた女性。

 自分が車に轢かれる直前、道路にしゃがみ込んでいた人。

 湊が死にかけ、神々の白い空間へ行き、《恋愛選択肢表示》を得るきっかけになった人。


 まだ直接会っていない。

 少なくとも、病院で目を覚ましてからは。


 けれど、もし妹やその友人が面会できるなら。

 当然、あの女性も面会できる可能性はある。


(……そうだよな)


 今さら気づいた。


 白峰紗雪は、どこか遠い伏線ではない。

 現実に、この病院へ来られる人間なのだ。


 そう考えた瞬間、湊の胸の奥が妙にざわついた。


 助けた相手。

 自分が死にかけた原因。

 でも、責める相手ではない。

 むしろ、生きていてよかったと思った相手。


 その人がもし目の前に現れたら、自分は何を言えばいいのか。


(……いや、まだ来てない)

(考えても仕方ない)


 湊は軽く頭を振った。


 今は平常モード。

 土曜日の午前。

 静かな病室。


 そう思おうとした、その時だった。


「……顔、ヒマそうだね」


 軽い声が、病室の入り口から飛んできた。


 視線を向けると、リハビリ用のウェア姿の女がドア脇にもたれていた。


 桐谷美月だ。


 白衣ではない分、動きやすそうで、けれど無駄にラフでもない。

 理学療法士らしい、身体を扱う側の人間の軽さと芯が、その立ち姿からはっきりと伝わってくる。


『《桐谷美月》』

『年齢:25』

『職業:理学療法士』


『レベル:21』

『レア度:★★★★☆』


『好感度:50%』


『状態:観察/興味(強)/余裕』

『補足:距離感近め/からかい気質/病棟内連携認識済み』


「ヒマそうって何ですか」


 湊が返すと、桐谷は面白そうに肩をすくめた。


「いや、だってさ」

「“今なら何かイベント起きてもまあ対応できますけど?”みたいな顔してるから」

「完全にゲーム脳の顔」


「そんな顔あります?」


「あるよ」

 即答だった。

「少なくとも最近の黒瀬さんにはある」

「レベルアップした時と、イベント前の顔がちょっと似てる」


(最悪だな)


 この人は本当に変なところが鋭い。


 しかも、それを重くしない。

 本人は半分くらい面白がっているだけなのだろうが、こういう人間が一人いると病棟の空気は確かにやわらかくなる。


 あの停電の夜もそうだった。

 全員が張りつめすぎていた時に、桐谷の軽さだけが妙に救いになっていた。


「今日のリハ、午後だから」

 桐谷はそう言って病室へ入り、ベッド脇の丸椅子をくるりと回して勝手に座った。

「午前は休み」

「しかも土曜」

「で、見舞い来る日」


「なんで桐谷さんの方が詳しいんですか」


「職業柄、患者さんの予定と動線は見るからね」

「あと、単純に面白そうだから」


「後半が本音ですよね」


「うん」


 あっさり認めた。


「だから今のうちに言っとくけど、調子乗って動きすぎないこと」

「妹ちゃんが来たからって、かっこつけて立とうとしない」

「友達の前で元気アピールしようとしない」

「外の空気吸いたいとか言って、勝手に車椅子でどっか行かない」


「……みんな同じこと言いますね」


「それだけ前科があるってこと」

 桐谷はにやっと笑った。

「停電の夜とか、完全に“やっちゃう患者”だったし」


「結果的には役に立ったじゃないですか」


「結果論ね」

「医療職の前で結果論でイキるのは危険です」


「イキってないです」


「顔はちょっとイキってる」


「顔で判断しないでください」


 そんなやり取りをしていると、病室の外からやわらかい声がした。


「黒瀬さん」


 白石結衣だった。


 白衣姿。

 名札はきちんとまっすぐで、髪の乱れも少ない。

 以前よりだいぶ自然な表情をしているが、それでも近くで見るとわずかに緊張は残っている。


 まだ“慣れた”のではない。

 “頑張って整えている”のだ。


 その一生懸命さが、今の結衣らしさでもあった。


『《白石結衣》』

『年齢:20』

『職業:見習い看護師』


『レベル:18』

『レア度:★★★☆☆』


『好感度:88%』


『状態:信頼/照れ/期待(微)』

『補足:黒瀬湊への意識上昇中/外部女性接触に敏感』


(……相変わらず見たくない情報まで見えるな)


「おはようございます」


 結衣は病室に入ると、いつものようにまず湊の顔色を見て、それから点滴やベッド周りを確認した。

 動きは前よりずっと落ち着いている。

 確認する順番も、声の置き方も、ちゃんと整理されている。


「今日は午前中、お見舞い来られるって聞いてます」

「少しだけ賑やかになるかもしれません」


「妹ですか?」


「そう聞いてます」

 結衣は頷き、それからほんの少しだけ声を小さくした。

「その……親友の方も、一緒に来るみたいで」


 そこで桐谷が、待ってましたと言わんばかりに口を挟む。


「へえ。妹ちゃんの親友」

「若いねえ、青春だねえ」


「桐谷さん……」

 結衣が少し困ったように笑う。


「いや、だって気になるじゃん」

「黒瀬さんの妹って前に見た感じ、かなりズバズバ系だったし」

「その親友って、たぶんだいぶ強そう」


「“強そう”ってなんですか」


「ラブコメに出てくる女の子の分類」


「分類しないでください」


 結衣がそう言い返した瞬間、病室の前を通り過ぎた白衣の人影が、ほんの一瞬だけ止まった。


 神宮寺綾乃だ。


 相変わらず隙がない。

 長い黒髪は乱れなくまとめられ、白衣はきっちり整い、歩くだけで空気が少し締まる。


 あの停電の夜を越えてなお、彼女の存在感は病棟の軸としてそこにあった。


『《神宮寺綾乃》』

『年齢:28』

『職業:外科医』


『レベル:31』

『レア度:★★★★★』


『好感度:31%』


『状態:平常/観察/特別認識(微)』

『補足:黒瀬湊への警戒と評価が混在』


「……神宮寺先生、おはようございます」

 結衣が頭を下げる。


「おはよう」

 短い返答。


 綾乃の視線が病室の中を一巡し、最後に湊で止まる。


「今日は土曜日です」

「病棟の空気に流されて調子に乗らないで」


「……はい」


「見舞いでテンションが上がっても、歩こうとしないで」

「立とうともしないで」

「車椅子で勝手に遠くへ行かないで」

「面会者の前で無理に元気なふりもしないで」


「信用ないですね」


「ないです」


 即答だった。


 だが、その短いやり取りの間に、綾乃の視線がほんのわずかに桐谷と結衣の方へ流れているのを、湊は見逃さなかった。


 つまりこの人は、自分がいない間にこの二人が変に焚きつけないかまで見ている。


(どこまで見てるんだよ、この人)


「何かあれば白石さんを呼んで」

 綾乃はそれだけ言い残し、また廊下へ戻っていった。


 その背中を見送りながら、桐谷が小さく笑う。


「相変わらずだねえ」

「でも、ちょっと柔らかくなったよね、あの先生」


 結衣がこくこくと頷く。


「わ、私もそう思います」

「前より……その、ちょっとだけ、ですけど」

「黒瀬さんに対して、言い方は厳しいですけど……前よりちゃんと見てる感じがします」


「それ、見張られてるってことでは?」


「えっと……」

 結衣が困ったように笑う。

「見守りと見張りの中間、くらいです」


「患者としては微妙に安心できないな」


 桐谷が楽しそうに笑った。


 その時だった。


 病室の外から、勢いよく近づいてくる足音が聞こえた。


 軽い。

 迷いがない。

 病院の空気に馴染みきっていない、外の速度の足音。


「お兄ちゃん!」


 カーテンが勢いよく開く。


 顔を出したのは、やはり妹の黒瀬ひなただった。


 今日は私服だ。

 淡い色のパーカーにデニム、スニーカー。

 髪はいつもより少しだけ軽く巻かれていて、家族の見舞いというより“友達と出かけるついでに寄った”くらいの温度感をわざと出している。


 たぶん、重くしたくないのだ。


 病院の空気に飲まれたくないし、湊にも飲まれてほしくない。


「うわ、普通に元気そうじゃん」

「もっとこう、弱ってる感じ想像してたんだけど」


「どんな想像だよ」


 湊が苦笑すると、ひなたは鼻を鳴らした。


「だって、停電事故のあとでバタバタしてたし」

「お母さん、まだ毎日変に心配してるし」

「お父さんはお父さんで、昨日も何も言わないくせに病院のことめっちゃ調べてたし」


 その“何も言わないくせに”に、少しだけ父らしさが滲んでいて、湊は思わず口元をゆるめた。


「で」

 ひなたはそこで、少しだけ身体を横へずらした。

「今日は一人じゃないから」


 その言葉と同時に、ひなたの後ろからもう一人、女の子が姿を見せる。


 朝比奈紬。


 その名前が、ほとんど反射みたいに湊の頭へ入ってくるより先に、スキル表示が立ち上がった。


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』


『▼新規対象検出』


『《朝比奈 紬》』

『年齢:16』

『職業:高校生』


『レベル:24』

『レア度:★★★★★』


『好感度:測定不能』


『状態:興味/観察/余裕』

『補足:解析不完全』


『一部データの取得に失敗しました』

『・感情深度:ロック中』

『・好感度詳細:取得不能』


『補足:長期蓄積感情を検出』

『警告:通常対象と異なる挙動を確認』


(……は?)


 湊の思考が、一瞬だけ完全に止まった。


 名前は見える。

 年齢も、職業も、レベルも、レア度も見える。


 なのに。


 好感度だけが、見えない。


 測定不能。

 長期蓄積感情。

 通常対象と異なる挙動。


(なんだそれ)


 今まで、好感度が低い相手はいた。

 高難度もいた。

 解析精度の低い対象も見てきた。


 だが、“好感度そのものが取得不能”なんて表示は初めてだった。


 しかも相手は、妹の親友。


 病院の中で知り合う看護師でも、患者でも、スタッフでもない。

 明らかに“外の人間関係”だ。


「……久しぶり、湊くん」


 紬はそう言って、小さく笑った。


 その笑い方が、ごく自然で、でも妙に落ち着いていた。


 妹と同い年のはずなのに、ひなたより少し静かで、少し柔らかい。

 長い髪は肩の下でゆるく流れ、光の加減で少し茶色がかって見える。

 目元はやわらかいのに、視線そのものには思った以上に芯があった。


 ひなたみたいに遠慮なくズカズカ来るタイプではない。

 でも、だからといって引いているわけでもない。


 自然に、距離の中へ入ってくる。


「……あれ」

 湊は思わず言葉を詰まらせる。

「朝比奈、って……」


「なに、その反応」

 ひなたがすぐに口を挟む。

「まさか忘れたの?」


「いや、忘れたっていうか……」


 湊は目の前の少女を見つめる。


 たしかに、知っている気がする。

 昔からひなたの隣にいたような記憶がある。

 家に遊びに来ていたような、夏祭りか何かで一緒だったような、そういう断片はぼんやり浮かぶ。


 でも。


(こんな感じだったか?)


 もっと小さかったはずだ。

 もっと子どもっぽくて、ひなたの後ろで笑っている印象だった気がする。


 なのに、今目の前にいる朝比奈紬は、明らかに“女の子”として完成に近づいていた。


 それが、妙に認識をずらす。


「ひどいなあ」

 紬はそう言って、くすっと笑った。

「まあ、いいけど」

「湊くんって昔からそういうとこあるし」


「いや、待って」

「普通に待って」

「知ってる。知ってるんだけど、なんか……」


「思ってたのと違う?」

 紬が少しだけ首を傾げる。


「……まあ」


 正直に答えると、ひなたが吹き出した。


「最低」

「それ初対面で言ったら普通に失礼だから」


「初対面じゃないだろ」


「じゃあ余計にダメじゃん」


 病室の空気が、ふっと軽くなる。


 結衣がそのやり取りを少し緊張した様子で見守っていて、桐谷はあからさまに面白がっていた。


 そして紬は、そんな周囲の空気をどこか余裕のある顔で受けながら、ベッドの少し近くまで歩いてくる。


「ねえ、座っていい?」


 そう言ってから返事を待たずに、近くの丸椅子へすっと腰を下ろした。


 距離が、近い。


 近すぎるわけではない。

 でも、“初対面の女の子”が取る距離ではない。


(……やっぱりおかしい)


 湊の視界の端で、スキル表示が小さく揺れる。


『補足:対象との既知関係を確認』

『感情値参照エラー継続中』


(既知関係……)


 つまり、スキル側も“知らない相手ではない”と認識している。

 なのに、好感度だけは見えない。


 どういうことだ。


「ほんとに元気そうでよかった」


 紬はそう言って、湊の顔をじっと見た。


「停電事故のあと、ひなたから聞いた時、ちょっとびっくりしたし」


「“ちょっと”なんだ」

 ひなたが横から突っ込む。


「だって、ひなたが大げさに言う時って、だいたい五割増しくらいなんだもん」


「言っとくけど今回は七割くらい本当だったからね?」


「七割なんだ」


 紬がまた笑う。


 その笑い方を見た瞬間、結衣の肩がほんの少しだけこわばるのが、湊には見えた。


『《白石結衣》』

『状態更新:信頼/照れ → 緊張/観察/警戒(微)』


(あー……)


 わかる。


 結衣から見れば、急に現れた同年代の女の子が、病室に入ってきた瞬間から妙に距離が近いのだ。

 しかも名前を呼ぶ感じが自然で、会話にも昔から知っている空気がある。


 警戒しない方が難しい。


 その時、タイミングを見計らったように病室の外から声がした。


「黒瀬さん、午前の巡回……」


 入ってきたのは、佐倉奈緒だった。


 白衣ではなく看護師服。

 姿勢は相変わらず整っているが、停電の夜を越えたあと特有の“張りつめすぎない落ち着き”が少しだけ増している。


 以前なら完全に業務の顔だけで病室へ入ってきただろうが、今はその奥に、ほんの薄い人間らしい余白が見えるようになっていた。


『《佐倉奈緒》』

『年齢:26』

『職業:看護師』


『レベル:23』

『レア度:★★★★☆』


『好感度:48%』


『状態:平静/観察/警戒(微)』

『補足:病棟外人物への確認意識』


(いたらもっと警戒するだろうな、とは思ったけど……やっぱりな)


 奈緒は一歩病室へ入ったところで、ひなたと紬を見て、わずかに目の焦点を変えた。


 看護師としての確認。

 誰が来たのか。

 患者との距離。

 空気の変化。


 その全部を一瞬で見ている。


「お見舞いの方ですね」

 奈緒はやわらかいが一定の声で言った。

「長時間でなければ大丈夫です」

「黒瀬さんはまだ疲れやすいので、途中でこちらから声をかけることがあります」


「はい、すみません」


 紬が素直に頭を下げる。


 その所作が、妙にきれいだった。

 奈緒の視線がほんの少しだけ細くなる。


『《佐倉奈緒》』

『状態更新:平静/観察 → 観察/違和感(微)』


(奈緒さんも気づくよな、そりゃ)


「ねえ、黒瀬さん」

 結衣が、かなり勇気を出した感じで口を開いた。

「お友達、なんですね」


 その“お友達”の言い方が、ちょっとだけ硬い。


 ひなたが「お友達って」と笑いかけたが、その前に紬が自然に答えた。


「妹の親友です」

「昔から、よくお邪魔してました」


 言い方がきれいだ。

 柔らかい。

 しかも嘘はない。


 その返答に、結衣が少しだけほっとしたように見えたのは、一瞬だけだった。


 紬はそのまま、何でもないみたいに続けた。


「でも、ひなたより先に湊くんと話してた時期もあるよね」


「は?」


 湊が思わず声を出す。


 ひなたが「あったっけ」と首を傾げる。


 紬は少しだけ目を細めた。


「小学校のとき」

「ひなたが習い事の日、たまにおばさん家で待ってて」

「その時、宿題見てもらったりしてたじゃん」


 その言葉と同時に、断片的な記憶が少しだけ戻る。


 リビング。

 夕方。

 ランドセル。

 ひなたがいない時間。

 小さな女の子が、わからない問題を前にむすっとしていた顔。


「あ……」

 湊は小さく声を漏らした。

「いたな、そういえば」


「“いたな”はひどくない?」

 紬が笑う。


「いや、だって……」

 湊は言いかけて、また止まる。

「いや、ほんとに、悪い」

「思い出したけど、今と印象違いすぎて」


「それ、さっきも言ってた」

 ひなたが呆れたように言う。


「湊くん、それ褒めてるつもりならたぶん下手だよ」

 紬が小さく笑って言う。


 その瞬間、視界に選択肢が浮かぶ。


『【特別イベント:初期接触】』


『対象:朝比奈 紬』


『A:素直に謝る』

『B:変わりすぎだろ、と正直に言う』

『C:昔の方が話しかけやすかった、と冗談めかす』

『D:何も言わず、ひなたへ話題を逃がす』


(……なんだこれ)


 いつもの選択肢なのに、今回はどこか空気が違う。


 好感度が見えないせいか、正解が読みづらい。


 Aは無難。

 Bは正直だが刺さる可能性もある。

 Cは軽いが、誤魔化しにも見える。

 Dは一番安全そうで、一番逃げに見える。


(この子、たぶん“上辺だけの返し”はすぐ見抜く)


 だったら。


「……悪い」

 湊は素直に言った。

「ちゃんと覚えてなかったのは俺の方だし」

「朝比奈が変わったっていうより、俺の認識が止まってた」


 一瞬だけ、病室の空気が止まる。


 ひなたが「お」と小さく声を漏らす。

 桐谷が、面白そうに片眉を上げる。

 結衣は少し目を見開く。

 奈緒は表情を動かさないまま、しかし視線だけでそのやり取りを追っている。


 そして紬だけが、数秒のあいだ何も言わなかった。


 それから、すごく小さく笑った。


「……そっか」

「じゃあ、それなら許す」


 その笑い方が、さっきまでより少しだけやわらかく見えた。


 だが、スキル表示は変わらない。


『好感度:測定不能』

『感情深度:ロック中』


(ほんとに見えないんだな……)


 見えない。

 なのに、手応えはある。


 この感覚は妙に落ち着かない。


「なんか、湊くんちょっと変わったね」

 紬が不意に言った。


「は?」


 今度は湊が目を瞬かせる番だった。


「前はもっと、こう……」

 紬は少しだけ考えるように視線を上へ向ける。

「人の言葉、受け取る前に流す感じあった」

「今はちゃんと一回考えて返してる」


 ひなたがそこで「あー」と妙に納得した声を出した。


「それ私も思った」

「前より一拍あるんだよね、この人」


「人のことCPUみたいに言うなよ」


「いやでもほんとに」

 ひなたは腕を組む。

「前はもっと雑だった」


「雑って」


「雑」


 即答された。


 湊は言い返そうとして、でも少しだけ言葉に詰まる。


 実際、その通りだからだ。


 昔の自分は、もっと反応が雑だった。

 いや、“雑にしていた”の方が近いかもしれない。


 恋愛でひどく傷ついてから、人との距離感を測ること自体が億劫になって、家族に対しても、周囲に対しても、どこかで一拍引いた返しをするようになっていた。


 今は違う。


 《恋愛選択肢表示》のせいで、嫌でも人の感情や温度を真正面から見るようになった。

 見えてしまうなら、返さざるを得ない。


 皮肉だ、と湊は思う。


 恋愛をゲームみたいに攻略したいと思って手に入れた力なのに、結局やらされていることは“人の気持ちを雑に扱わないこと”だった。


「へえ」

 桐谷がそこでわざとらしく感心したように言う。

「昔から知ってる子って、そういうのわかるんだ」


 紬は桐谷の方を見る。

 ほんの少しだけ目を細めて、でも嫌な感じはなく笑った。


「わかりますよ」

「だって、見てましたから」

「昔から」


 その“昔から”が、妙に自然なのに、妙に重く響いた。


 結衣がまた少しだけ姿勢を固くする。

 奈緒の視線もごくわずかに鋭くなる。


『《白石結衣》』

『状態:緊張/観察/警戒(微) → 警戒(中)』


『《佐倉奈緒》』

『状態:観察/違和感(微) → 観察/警戒(微)』


(やばいな、これ)


 完全にラブコメの修羅場導入みたいな空気になっている。


 しかも紬本人には、その空気を悪くしている自覚があまりないように見える。


 もしくは、わかっていて平然としているか。


 そのどちらかだ。


 湊はそこを見極めようとしたが、やはりスキルが肝心な部分を見せてくれない。


『感情深度:ロック中』


(使えねえな、ここ一番で)


 その時だった。


「白石さん」


 紬が不意に結衣へ向かってやわらかく言う。


「この前、夜勤のとき湊くん助けてくれたんですよね」


 結衣が目を瞬かせる。


「え、あ……はい」


「ひなたから聞きました」

 紬は微笑んだ。

「だから会ってみたかったんです」

「ありがとうございます」


 その言葉は、妙にまっすぐだった。


 結衣の緊張が、一瞬だけ解ける。


「い、いえ……そんな」

「私の方こそ、色々、まだ全然で……」


「でも、助けてくれたのは本当でしょ?」

 紬はそう言って、小さく首を傾げる。

「じゃあ、それはちゃんとすごいことです」


 結衣の頬がほんのり赤くなる。


(……うまいな、この子)


 ただ距離が近いだけじゃない。

 空気を読む。


 しかも、自分が警戒され始めているのを感じたら、その場の空気を崩さない方向へ自然に修正してくる。


 強い。


 ひなたの親友というより、普通にイベント強者だ。


 奈緒もそれを感じたらしい。

 表情は崩さないまま、しかし静かな声で紬へ言う。


「ありがとうございます」

「白石さん、最近かなり頑張っているので」


 結衣が「さ、佐倉さん……」と目を丸くする。


 奈緒は結衣を見ず、淡々と続けた。


「まだ見習いですけど」

「目の前の患者さんに向き合う力はあります」


 短い。

 けれどそれは、奈緒なりの擁護であり評価だった。


 結衣の頬がさらに赤くなる。

 言葉を失って、でも嬉しさは隠しきれていない。


(そっちまで挟んでくるのかよ)


 湊は思わず心の中で苦笑する。


 結衣は白石結衣で、こういう真正面の肯定に弱い。

 奈緒は奈緒で、必要と判断したらちゃんと口にするようになってきた。


 病棟の人間関係が変わった余波が、こんな場面でも出るのだから面白い。


 桐谷がそれを見てさらに楽しそうに笑った。


「へえ。朝比奈さん、かなりできる子だね」

「湊くん、これ大変だよ」


「何がですか」


「外のヒロイン来たじゃん」


「やめてください、その言い方」


「いやでも、病院ステージに急に別ステージの期間限定ヒロイン乱入とか、普通にイベントでしょ」

「しかもレア度高そう」


(その通りなのが腹立つな)


 その会話の途中で、ふと廊下側から視線を感じた。


 見ると、少し離れた位置に立つ綾乃がこちらを見ていた。


 ほんの一瞬だけ。

 だが、その視線の鋭さは変わらない。


 視界の端で表示が変わる。


『《神宮寺綾乃》』

『状態更新:平常/観察 → 観察/違和感(微)』


(先生まで反応してるのかよ)


 綾乃は何も言わない。

 ただ、紬を一度、結衣を一度、奈緒を一度、そして湊を一度見て、それからまた廊下の向こうへ消えていった。


(……怖)


 あの短い視線だけで、何か察していそうなのが怖い。


 その時、廊下の向こうからもう一人、明るい声がした。


「黒瀬さん、差し入れ置いていきますねー」


 西野あかりだった。


 売店の制服姿で、小さな紙袋を持っている。

 今日は土曜日だからか、いつもより少し忙しそうだが、それでも表情の明るさは変わらない。


『《西野あかり》』

『年齢:22』

『職業:売店店員』


『レベル:12』

『レア度:★★☆☆☆』


『好感度:35%』


『状態:気遣い/好奇心/空気読み』

『補足:場を柔らかくする役割』


「売店の試供品です」

「ミントタブレットと、ゼリー飲料」

「あと、妹さんたち来てるなら、ちょっとだけこれも」


 西野は紙袋から小さな個包装のお菓子を出した。


「え、いいんですか」

 ひなたが目を輝かせる。


「もちろん」

 西野は笑う。

「病院って緊張する場所だからね」

「甘いもの一個あるだけで、ちょっと違うし」


 その言い方が自然で、押しつけがましくない。


 紬が丁寧に頭を下げる。


「ありがとうございます」


「いえいえ」

 西野は紬を見て、少しだけ目を細めた。

「妹さんのお友達さん?」

「なんか、雰囲気ありますね」


「雰囲気?」


 紬が笑う。


「うん」

 西野は悪気なく言う。

「人の話をちゃんと聞くけど、聞きすぎない感じ」

「けっこうモテそう」


「西野さん!?」


 結衣が慌てて声を上げた。


 ひなたが吹き出す。

 桐谷も肩を震わせる。


 紬は一瞬だけ目を丸くしたあと、くすっと笑った。


「ありがとうございます」

「そう言われると、ちょっと照れますね」


(対応が強い)


 湊は心の中で呻いた。


 西野の唐突な直球にも動じない。

 むしろ、柔らかく受けて場を崩さない。


 イベント強者どころではない。

 普通に高難度ヒロインだった。


 さらに、食堂スタッフの宮本奈々が休憩用のワゴンを押して通りかかった。


「あ、黒瀬さん」

「今日はご家族ですか?」


「妹と、その友達です」


「そうなんですね」

 奈々はぱっと明るく笑った。

「よかった。顔を見に来てくれる人がいるの、すごく大事ですから」


『《宮本奈々》』

『年齢:24』

『職業:食堂スタッフ』


『レベル:14』

『レア度:★★★☆☆』


『好感度:34%』


『状態:世話焼き/安心/食事サポート意識』

『補足:空腹と疲労に敏感』


 奈々は湊を見て、少しだけ眉を寄せた。


「でも黒瀬さん、朝ごはん少し残しましたよね?」


「見てたんですか」


「食堂スタッフなので」

 奈々は胸を張る。

「患者さんの食欲は、かなり大事です」

「面会で話すのもいいですけど、体力使うので、あとでちゃんと何か入れてくださいね」


「はい……」


「妹さんたちも」

 奈々はひなたと紬を見る。

「お兄さんを元気づけるのは大事ですけど、疲れさせすぎないようにお願いします」


「はーい」

 ひなたが素直に返事をする。


 紬も静かに頷いた。


「わかりました」

「ちゃんと短めにします」


 その“ちゃんと”が妙に大人びていて、結衣がまた少しだけ警戒する。


(だから反応が細かいんだよ)


 湊は内心で頭を抱えた。


 そして病室のカーテンの向こうから、控えめな声がした。


「……黒瀬くん、賑やかだね」


 吉岡沙織だった。


 同じ病棟に入院している女子高生。

 カーテンの向こうのベッドから、少しだけ顔を出している。


『《吉岡沙織》』

『年齢:17』

『職業:入院患者』


『レベル:10』

『レア度:★★☆☆☆』


『好感度:32%』


『状態:興味/羨望(微)/会話欲求』

『補足:患者間距離接近中』


「ごめん、うるさかった?」


「ううん」

 沙織は首を横に振った。

「なんか、病室が普通の場所みたいに見えて、ちょっと安心した」

「病院って、静かすぎると逆に怖いから」


 その言葉に、湊は少しだけ表情を緩めた。


「わかる」


「でしょ」

 沙織は小さく笑う。

「妹さん、元気だね」

「あと、そのお友達さん……なんか、すごい」


「すごいって何が?」


「わかんない」

 沙織は少し考えてから言った。

「入ってきた瞬間、空気が変わった感じ」

「漫画とかであるじゃん。転校生が来た瞬間、クラスの空気が変わるやつ」

「あれ」


「沙織さんまでその方向?」


「だって、ほんとにそう見えたから」


 紬はそれを聞いて、少しだけ照れたように笑った。


「そんな大げさじゃないですよ」


「大げさじゃないです」

 沙織は真面目に言った。

「黒瀬くん、今ちょっと変な顔してるし」


「俺?」


「うん」

「見えてるはずなのに見えてないものがあって困ってる顔」


 湊は息を止めた。


(……この子もたまに鋭いな)


 紬の好感度が見えない。

 感情深度がロックされている。

 そのことを当然、沙織は知らない。


 それでも、表情から何かを読み取っている。


 病院にいる人間は、静かな時間が多い分、他人の顔を見る力が妙に育つのかもしれない。


「ねえ」

 紬がそこで、湊へ少しだけ身を寄せる。

「今って、外出とかできるの?」


「まだ病棟内だけ」

「しかも車椅子で」


「そっか」

 紬は素直に頷いた。

「でも、前よりは動けるんだ」


「まあ、少しは」


「よかった」


 その“よかった”は、思っていたよりずっと静かだった。


 からかいでもない。

 軽い相槌でもない。

 本当に、そこに感情が入っているみたいな言い方。


 湊の胸の奥が、ほんのわずかに揺れる。


 なのに、スキルはまだ見せない。


『好感度:測定不能』


(なんなんだよ、ほんと)


 その時、視界に選択肢が浮かんだ。


『【選択肢】』


『A:紬に「心配してくれてありがとう」と素直に言う』

『B:ひなたに話を振って空気を軽くする』

『C:結衣たちへ「大丈夫です」と説明する』

『D:何も言わず、紬の言葉を受け止める』


(……ここでAは、ちょっと直接すぎる)

(Bは逃げ)

(Cは周囲を意識しすぎ)

(D……か)


 湊は、ほんの少しだけ黙った。


 紬の“よかった”を、軽く流さない。

 でも、必要以上に踏み込まない。


 それが今は一番いい気がした。


「……うん」


 短く返す。


「少しずつだけど」

「ちゃんと戻ってる」


 紬は、ほんの少しだけ目を細めた。


「そっか」

「じゃあ、よかった」


 それだけ。


 けれど、その短いやり取りに、結衣が少しだけ唇を結び、奈緒が静かに目を伏せ、桐谷が「なるほどね」とでも言いたげに口元を上げた。


(……なんで全員そんな反応するんだよ)


 湊が内心で突っ込んだ、その時だった。


 病室の外で、受付対応の声が聞こえた。


「面会の方ですね。お名前をお願いします」


 何気ない声だった。


 土曜日の病院なら、珍しくもないやり取り。


 だが、その次に聞こえた名前で、湊の呼吸が止まった。


「……白峰です」

「白峰紗雪と申します」


 世界が、一瞬だけ遠のいた。


 白峰紗雪。


 その名前が、病室の白い空気の中へ静かに落ちる。


 湊の視界の端で、青白い表示が激しく揺れた。


『特殊フラグ反応』


『《白峰紗雪:止まれなかった手》』

『接近を検知』


『現在距離:病棟受付付近』


『警告:メイン因果対象です』

『注意:現時点での接触はイベント分岐を大きく変動させます』


(……来た)


 心臓が、嫌な音を立てる。


 ひなたや紬の面会とは違う。

 病院の空気が変わったわけではない。


 変わったのは、湊の中だけだ。


 第1話の夜。

 雨上がりのアスファルト。

 落ちたスマートフォン。

 迫るヘッドライト。

 肩を掴んだ感触。

 突き飛ばした瞬間。

 衝撃。

 痛み。

 白い空間。


 全部が、ほんの一瞬で胸の奥へ戻ってくる。


 紬が、湊の変化に真っ先に気づいた。


「湊くん?」


 結衣も顔を上げる。


「黒瀬さん?」


 奈緒の目が鋭くなる。


「顔色が悪いです」

「痛みますか?」


「……いや」


 声が少し掠れた。


「違う」


 桐谷も、さっきまでのからかう顔を消した。


「黒瀬さん」

「今の名前、知ってる人?」


 湊は答えられない。


 知っている。

 いや、知らない。


 名前は今、初めて現実の声として聞いた。

 でも、存在は知っている。


 自分が助けた人。

 自分が死にかけた理由。

 自分がスキルを得た起点。


 その人が、病棟の受付にいる。


『【緊急選択肢】』


『A:今すぐ会う』

『B:今日は会わない』

『C:少し時間を置いてから会う』

『D:神宮寺綾乃に判断を委ねる』


(……こんなところで)


 湊は息を呑む。


 Aは危険だ。

 自分の心が追いついていない。


 Bは逃げだ。

 でも、逃げることが悪いとは限らない。


 Cは現実的。

 けれど、その間に相手を不安にさせるかもしれない。


 Dは、医療的には正しい。

 ただし、全部を他人に預ける選択でもある。


(……どうする)


 ラブコメの空気が、一瞬で別のものへ変わった。


 妹の親友。

 見えない好感度。

 病棟の女性たちの微妙な警戒。

 そこへ、白峰紗雪。


 イベントが重なりすぎている。


 湊は、ゆっくりと息を吸った。


 そして吐く。


「……少しだけ」


 ようやく言う。


「少しだけ、時間ください」


 奈緒がすぐに頷いた。


「わかりました」

「では、こちらで確認します」

「無理に会う必要はありません」


 その言い方は、看護師としてのものだった。

 だが、その中に少しだけ人としての気遣いも混じっていた。


 結衣も小さく頷く。


「黒瀬さん」

「大丈夫です」

「今すぐ決めなくても、大丈夫ですから」


 桐谷は軽く息を吐いた。


「土曜午前、全然平和じゃないね」


「本当に……」

 沙織がカーテンの向こうで小さく呟く。

「黒瀬くんの周り、イベント多すぎない?」


「それは俺が一番思ってる」


 湊がそう返すと、空気がほんの少しだけ緩んだ。


 紬は何も言わなかった。


 ただ、湊を見ていた。


 その目には、さっきまでの余裕だけではない何かがあった。


 心配。

 理解。

 そして、どこか遠いところから彼を見るような静けさ。


『《朝比奈 紬》』

『感情深度:ロック中』

『状態更新:興味/観察/余裕 → 静観/心配/記憶照合』


(……記憶照合?)


 湊の胸がざわつく。


 白峰紗雪の接近で、紬の表示も動いた。


 偶然か。

 それとも。


 考える間もなく、紬が静かに言う。


「湊くん」

「無理に会わなくていいと思う」


 その声は、今までより少し低かった。


「でも」

 一拍。

「会うなら、ちゃんと自分のタイミングで会った方がいい」

「相手のためじゃなくて、湊くんのために」


 その言葉が、妙に深く刺さった。


 この子は、何を知っているのだろう。


 そう思っても、スキルは答えてくれない。


『好感度:測定不能』

『感情深度:ロック中』


 湊は、何も言えなかった。


 紬はそこで立ち上がる。


「今日は顔見に来ただけだし」

「長居しすぎると怒られそうだから、そろそろ帰るね」


「え、もう?」

 ひなたが言う。

「せっかく来たのに」


「せっかく来たからでしょ」

 紬は笑う。

「最初は短い方が印象いいし」

「それに……今日は、別の人の番みたいだから」


 湊の胸が、また小さく鳴った。


 紬は最後にもう一度だけ湊を見る。


「じゃあ、また」

 そう言ってから、ほんの一瞬だけ言葉を足した。

「今度は、もう少しちゃんと話したいし」


 一瞬。


 病室の空気が、また少しだけ止まる。


 結衣が小さく息を呑む。

 奈緒は静かに眉を寄せる。

 桐谷が完全に笑いを堪えている。

 ひなたは「ほらね」とでも言いたげな顔だ。

 沙織はカーテンの向こうで、完全に聞き耳を立てている気配がした。


 湊だけが、その言葉の意味をうまく処理できずにいた。


「……ああ」


 なんとかそれだけ返すと、紬は満足したみたいに小さく笑って、ひなたと一緒に病室を出ていった。


 カーテンが閉まる。

 足音が遠ざかる。


 その瞬間、視界いっぱいに青白い光が広がる。


『▼特別イベント発生』


『イベント名:再会したはずの距離』


『分類:期間限定・特別イベント』


『期間:第16話〜第17話』


『対象:朝比奈 紬』


『現在進行率:12%』


『補足:一部データはロック中です』

『解放条件:別ステージ条件に依存』


『警告:通常攻略ルートと異なります』


『感情深度:観測待機』

『長期蓄積感情を検出しています』


 さらに、表示がもう一枚重なる。


『▼特殊イベント接近』


『イベント名:止まれなかった手』


『対象:白峰紗雪』


『分類:因果接触イベント』


『現在進行率:0% → 5%』


『接触条件:保留中』

『推奨:精神状態の安定後に対応してください』


『警告:事故記憶の再燃に注意』


(……期間限定と因果接触が同時進行とか、ふざけんなよ)


 湊はしばらく、その表示を見つめたまま動けなかった。


 朝比奈紬。

 白峰紗雪。


 片方は、妹の親友。

 昔から自分を見ていたらしい、好感度の見えない少女。


 もう片方は、事故で助けた女性。

 自分が死にかけ、神と出会い、スキルを得る原因になった人。


 病院の土曜日。

 やわらかな陽射し。

 平穏に戻ったはずの午前。


 そこへ、外からのイベントが一気に流れ込んできた。


「……黒瀬さん」

 結衣が、少しだけ遠慮がちに声をかける。


「え、ああ、何」


「その……」

 結衣は言葉を選ぶように目を伏せた。

「すごく、仲いいんですね」

「朝比奈さんと」


「仲いいっていうか……昔から妹の隣にいたっていう感じだな」

 湊は正直にそう答える。

「でも、俺もあんなにちゃんと覚えてたわけじゃなくて」


「……そう、なんですね」


 結衣は小さく頷く。


 だが、その頷きは完全に納得したものではなかった。

 それがわかるくらいには、湊も人の表情を読むことに慣れてきてしまっている。


 奈緒がそこで、結衣をちらりと見てから湊へ静かに言う。


「幼なじみに近いなら、距離が近いのも不自然ではないです」

「……理屈の上では」


 最後の一言だけ、妙に小さかった。


 桐谷がすかさず吹き出す。


「“理屈の上では”って何」

「奈緒さんも気になってるじゃん」


「気になってはいません」

 奈緒は即座に否定する。

「ただ、患者さんの交友関係は把握しておくべきなので」


「仕事モードで押し切ろうとしてる」


 桐谷は楽しそうに笑う。


 結衣もあたふたしながら加わる。


「い、いや、その……私も別に、変な意味じゃないんですけど」

「でも……あの、すごく自然に近かったので」

「ちょっとだけ、びっくりして……」


 その言い方が、あまりにも正直で、あまりにも結衣らしくて、湊は少しだけ肩の力が抜けた。


「黒瀬さん」

 結衣が今度は少しだけ強い声で呼んだ。


「ん?」


「次、来る時は」

 ほんの少し頬を赤くしながら、

「私、ちゃんといますから」


「は?」


「い、いや、その……!」

 結衣はあわてて手を振る。

「違うんです、変な意味じゃなくて」

「患者さんのお見舞い対応も、看護師の仕事なので……!」


「白石さん、それ今のタイミングで言うと余計に変な意味っぽいよ」

 桐谷が即座に突っ込む。


「えっ、あっ……!」


 結衣の顔が一気に真っ赤になる。


 奈緒が小さく息を吐き、でもどこかあきらめたようなやわらかい声で言った。


「白石さん」

「そういう時は、もう少し言い方を選んで」


「は、はい……!」


「でも」

 奈緒はほんの少しだけ視線を逸らして付け足す。

「……気持ちは、わかります」


 結衣が目を丸くする。

 桐谷は完全に面白がっている。

 湊は思わず言葉を失った。


(奈緒さんまで何言ってるんだ)


 だが、その一言の奥にあるものもわかる。


 奈緒は今、病棟の人間として、外から来た“例外”を意識している。

 結衣はもっとわかりやすく意識している。

 そして桐谷は、その全部を楽しみながらもちゃんと見ている。


 綾乃がこの場にいなくてよかったのか悪かったのか、正直よくわからなかった。


 桐谷がそこで、わざとらしく腕を組んで言う。


「いやあ、平和な土曜午前だと思ったら、一気にラブコメステージじゃん」

「停電シリアスのあとの温度差、すごいね」


「温度差つけてるの、だいたい桐谷さんですけどね」

 湊が返すと、桐谷は楽しそうに笑った。


「でも、こういうの大事だよ」

「ずっと重いと潰れるし」

「たまに外から風入るくらいでちょうどいい」


 その言葉には、いつもの軽さだけじゃないものがあった。


 桐谷自身、あの夜を越えてきた一人だ。

 だからこそ、こういうやわらかい空気の必要性もちゃんとわかっている。


 沙織がカーテンの向こうから、ぽつりと言う。


「黒瀬くんって、周りに人が増えると困った顔するよね」

「でも、ちょっと嬉しそうでもある」


「……そんな顔してる?」


「してる」

 沙織は小さく笑った。

「見てて面白い」


「桐谷さん側の人間が増えた……」


「ひどいなあ」

 桐谷が笑う。

「でも沙織ちゃん、見る目あるね」


 結衣はまだ少し赤い顔のまま、湊の点滴やベッド周りを見直していた。

 奈緒はその少し後ろで、巡回の手を止めないまま病室全体を見ている。

 西野が置いていったミントの紙袋。

 奈々が気にしていた朝食の残り。

 沙織のカーテン越しの声。

 桐谷の軽口。

 結衣の照れ。

 奈緒の静かな警戒。


 それでもさっきまでより、空気はたしかにやわらかい。


 湊は、その光景を見ながら思う。


 名前は見えた。

 関係もなんとなく思い出した。

 なのに、一番大事な部分だけが見えない。


 それは、《恋愛選択肢表示》を手に入れてから初めての感覚だった。


(朝比奈紬、か……)


 そして。


(白峰紗雪……)


 病室の外へ続く白い廊下を見る。

 窓から差し込む午前の光が、その白さをいっそう際立たせている。


 土曜日の病院。

 数日ぶりに少しやわらいだ空気。

 妹と、その親友。

 見えない好感度。

 そして、事故で助けた女性の接近。


 ラブコメにしては妙に不穏で。

 不穏にしては妙に胸がざわつく。


 視界の端で、青白い表示が小さく瞬いた。


『《第16話内イベント更新》』


『▼朝比奈紬 特別イベント開始』

『進行率:12%』


『▼白峰紗雪 因果接触イベント接近』

『進行率:5%』


『▼白石結衣 反応変動』

『好感度:88% → 90%』

『状態:照れ/警戒/患者支援意識』


『▼佐倉奈緒 反応変動』

『好感度:48% → 50%』

『状態:観察/庇護意識(微)』


『▼桐谷美月 反応変動』

『好感度:50% → 52%』

『状態:興味深化/ラブコメ観測モード』


『▼神宮寺綾乃 観察値上昇』

『好感度変動なし』


『報酬』

・経験値+180

・スキル経験値+120

・恋愛ポイント+75

・アイテム:《面会者メモ》×1

・アイテム:《外部イベント観測ログ》×1


『現在経験値:435/5200 → 615/5200』

『現在スキル経験値:1840/3200 → 1960/3200』

『現在恋愛ポイント:1495 → 1570』


『レベルアップには至りません』

『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.7 維持』


『追加機能成長』

《感情隠蔽補正表示》の精度が上昇しました

《本音接触率表示》が特殊対象に反応しました


『次回、イベント継続条件を確認してください』


 湊はその文字を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。


(……面倒そうだな)


 そう思う。


 でも同時に。


(たぶん、面白い)


 そう思ってしまう自分も、もう否定できなかった。


 土曜日の午前中。


 病院に差し込むやわらかな光の中で、新しい“選択肢の外側”みたいな何かが、静かに動き始めていた。


 そして、病棟受付の向こうでは。


 まだ湊の前に姿を見せていない白峰紗雪が、両手で小さな紙袋を握りしめたまま、静かに待っていた。


 彼女の表情は、緊張で少し青ざめている。


 けれど、その瞳の奥には、逃げずにここまで来た人間だけが持つ、かすかな決意が宿っていた。


 ――止まれなかった手。


 その言葉の意味を、湊が本当に知るのは。


 もう少しだけ、先のことだった。

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