第16話 妹の親友は、だいたい想定外
土曜日の午前中だった。
病院という場所は、曜日が変わったからといって、まるごと表情を変えるわけではない。
白い壁は白いままだ。
廊下の消毒液の匂いも変わらない。
空調の低い駆動音も、ナースステーションの奥で紙とペンとキーボードが立てる乾いた音も、大きくは変わらない。
磨かれた床に落ちる光の色だって、平日も休日もそう違いはない。
それでも、土曜日には土曜日の空気がある。
外来の流れが平日ほど密ではなく、面会に来る家族の足音が少し増える。
病棟を歩く人の服装にも、どこか外の生活の匂いが混じる。
看護師の声の置き方も、ほんの少しだけやわらかい。
病院という非日常の中に、外の“普通の生活”が細く流れ込んでくるような感じがあった。
まして今日は、あの停電事故から数日が経った土曜日だ。
夜中の停電。
電子カルテの停止。
モニター機器の不全。
ブルーコール。
救命センターへの応援。
病棟での急変。
夜明けまで続いた緊張。
それらを越えたあとだからこそ、戻ってきた平穏は妙に眩しかった。
もちろん、すべてが元通りになったわけではない。
病棟の空気の奥には、あの夜を通り抜けた人間だけが共有する張りつめた記憶が、まだ薄く残っている。
佐倉奈緒は、以前より少しだけ周囲へ目を預けるようになった。
白石結衣は、目の前のことだけではなく、全体の流れを意識するようになった。
桐谷美月は、もともとの距離の近さに加えて、病棟の“内側”へ半歩踏み込んだような気安さを見せるようになった。
神宮寺綾乃に至っては、変わったと言い切るにはあまりにも微細だが、それでも確かに“人へ任せる”ことを一度知ってしまった。
人間同士の距離は、そう簡単には元へ戻らない。
あの夜を挟んだことで、病棟の人間関係そのものが少しだけ組み替わったのだ。
だからこそ、今日のような静かな午前は余計に印象深い。
窓の外には、初夏へ向かう光が広がっていた。
白いカーテンを透かして入ってくる陽射しはやわらかく、けれど十分に明るい。
床の上に淡い長方形の光を落とし、ベッド柵や点滴スタンドの輪郭をやさしく浮かび上がらせている。
空は高く、雲は薄い。
病室の窓から見える世界なんてほんの一角にすぎないのに、そのわずかな切り取りの向こうに、外の生活がちゃんと続いていることが感じられた。
黒瀬湊は、ベッドの背を少し起こした姿勢のまま、その光をぼんやりと見ていた。
身体は、確実に戻ってきている。
もちろん、まだ完全ではない。
車椅子への移乗はできる。
短い距離なら自走もできる。
リハビリの時間には、立位保持や数歩程度の歩行訓練にも入っている。
けれど、それで“普通に動ける”わけではない。
腰の奥には鈍い重さが残る。
長く同じ姿勢でいれば、背中から肩にかけてじわじわと張りが出る。
少し気を抜けば重心がずれて、自分の身体なのに借り物みたいな違和感が生まれる。
それでも、事故直後の自分と比べれば雲泥の差だった。
何より大きいのは、視界だ。
恋愛ポイントを使って視力回復へ振った効果は、想像以上に大きかった。
カーテンの繊維の重なり。
制服の縫い目。
誰かが言葉を飲み込む時のまぶたの揺れ。
そういう細かいものが、以前よりずっとはっきり見える。
そのことがリハビリにも活きているし、当然、《恋愛選択肢表示》の精度とも噛み合う。
視界の端で、青白い光が静かに瞬いた。
『黒瀬湊』
『レベル:10』
『現在経験値:435/5200』
『現在スキル経験値:1840/3200』
『現在恋愛ポイント:1495』
『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.7』
『現在ステータス』
・身体状態:回復期/車椅子移動可/短距離立位訓練中
・視力補正:改善済み
・精神状態:安定傾向/イベント後疲労残存
・観察精度:上昇中
・対人反応:慎重/選択肢依存傾向あり
『所持スキル』
・《感情トレースLv.2》
・《言外読解Lv.2》
・《身体感覚補正Lv.2》
・《安心感付与Lv.1》
・《重心把握Lv.1》
・《疲労看破Lv.1》
・《関係負荷軽減Lv.1》
・《役割把握Lv.1》
・《優先順位把握Lv.1》
『所持アイテム』
・《微睡みミント》×1
・《メンタルリカバリーチケット》×1
・《リハビリサポートバンド》×1
・《ナースメモカード》×1
・《ミントタブレット》×1
・《栄養補助スープ》×1
・《暇つぶしカード》×1
・《非常用簡易メモ》×1
・《集中維持パッチ》×1
・《夜勤対応メモ》×1
・《小型ライト》×1
・《夜明けのメモリーカード》×1
・《完全回復アンプル(小)》×1
・《リスタートバンド》×1
『解放済み機能』
・イベント危険度表示
・会話相性表示
・選択肢リスク予測
・ステータス詳細表示
・軽会話ログ保存
・食事相性表示
・患者心理補正
・感情隠蔽補正表示
・連携相性表示
・緊急時優先対象抽出
・複数対象同時補正
・本音接触率表示
『現在進行中イベント』
・佐倉奈緒 イベントLv.3《支えられる先輩》
・白石結衣 イベントLv.3《自信の芽》
・桐谷美月 イベントLv.2《外側から支える人》
・神宮寺綾乃 個別イベント《特別認識の入口》
『特殊フラグ』
・《白峰紗雪:止まれなかった手》
・《未接触対象:面会可能性あり》
・《外部接触イベント発生率上昇》
(……いや、最後)
湊は思わず表示を二度見した。
(未接触対象、面会可能性ありって何だよ)
白峰紗雪。
その名前だけで、胸の奥に小さな棘が刺さる。
第1話の事故で助けた女性。
自分が車に轢かれる直前、道路にしゃがみ込んでいた人。
湊が死にかけ、神々の白い空間へ行き、《恋愛選択肢表示》を得るきっかけになった人。
まだ直接会っていない。
少なくとも、病院で目を覚ましてからは。
けれど、もし妹やその友人が面会できるなら。
当然、あの女性も面会できる可能性はある。
(……そうだよな)
今さら気づいた。
白峰紗雪は、どこか遠い伏線ではない。
現実に、この病院へ来られる人間なのだ。
そう考えた瞬間、湊の胸の奥が妙にざわついた。
助けた相手。
自分が死にかけた原因。
でも、責める相手ではない。
むしろ、生きていてよかったと思った相手。
その人がもし目の前に現れたら、自分は何を言えばいいのか。
(……いや、まだ来てない)
(考えても仕方ない)
湊は軽く頭を振った。
今は平常モード。
土曜日の午前。
静かな病室。
そう思おうとした、その時だった。
「……顔、ヒマそうだね」
軽い声が、病室の入り口から飛んできた。
視線を向けると、リハビリ用のウェア姿の女がドア脇にもたれていた。
桐谷美月だ。
白衣ではない分、動きやすそうで、けれど無駄にラフでもない。
理学療法士らしい、身体を扱う側の人間の軽さと芯が、その立ち姿からはっきりと伝わってくる。
『《桐谷美月》』
『年齢:25』
『職業:理学療法士』
『レベル:21』
『レア度:★★★★☆』
『好感度:50%』
『状態:観察/興味(強)/余裕』
『補足:距離感近め/からかい気質/病棟内連携認識済み』
「ヒマそうって何ですか」
湊が返すと、桐谷は面白そうに肩をすくめた。
「いや、だってさ」
「“今なら何かイベント起きてもまあ対応できますけど?”みたいな顔してるから」
「完全にゲーム脳の顔」
「そんな顔あります?」
「あるよ」
即答だった。
「少なくとも最近の黒瀬さんにはある」
「レベルアップした時と、イベント前の顔がちょっと似てる」
(最悪だな)
この人は本当に変なところが鋭い。
しかも、それを重くしない。
本人は半分くらい面白がっているだけなのだろうが、こういう人間が一人いると病棟の空気は確かにやわらかくなる。
あの停電の夜もそうだった。
全員が張りつめすぎていた時に、桐谷の軽さだけが妙に救いになっていた。
「今日のリハ、午後だから」
桐谷はそう言って病室へ入り、ベッド脇の丸椅子をくるりと回して勝手に座った。
「午前は休み」
「しかも土曜」
「で、見舞い来る日」
「なんで桐谷さんの方が詳しいんですか」
「職業柄、患者さんの予定と動線は見るからね」
「あと、単純に面白そうだから」
「後半が本音ですよね」
「うん」
あっさり認めた。
「だから今のうちに言っとくけど、調子乗って動きすぎないこと」
「妹ちゃんが来たからって、かっこつけて立とうとしない」
「友達の前で元気アピールしようとしない」
「外の空気吸いたいとか言って、勝手に車椅子でどっか行かない」
「……みんな同じこと言いますね」
「それだけ前科があるってこと」
桐谷はにやっと笑った。
「停電の夜とか、完全に“やっちゃう患者”だったし」
「結果的には役に立ったじゃないですか」
「結果論ね」
「医療職の前で結果論でイキるのは危険です」
「イキってないです」
「顔はちょっとイキってる」
「顔で判断しないでください」
そんなやり取りをしていると、病室の外からやわらかい声がした。
「黒瀬さん」
白石結衣だった。
白衣姿。
名札はきちんとまっすぐで、髪の乱れも少ない。
以前よりだいぶ自然な表情をしているが、それでも近くで見るとわずかに緊張は残っている。
まだ“慣れた”のではない。
“頑張って整えている”のだ。
その一生懸命さが、今の結衣らしさでもあった。
『《白石結衣》』
『年齢:20』
『職業:見習い看護師』
『レベル:18』
『レア度:★★★☆☆』
『好感度:88%』
『状態:信頼/照れ/期待(微)』
『補足:黒瀬湊への意識上昇中/外部女性接触に敏感』
(……相変わらず見たくない情報まで見えるな)
「おはようございます」
結衣は病室に入ると、いつものようにまず湊の顔色を見て、それから点滴やベッド周りを確認した。
動きは前よりずっと落ち着いている。
確認する順番も、声の置き方も、ちゃんと整理されている。
「今日は午前中、お見舞い来られるって聞いてます」
「少しだけ賑やかになるかもしれません」
「妹ですか?」
「そう聞いてます」
結衣は頷き、それからほんの少しだけ声を小さくした。
「その……親友の方も、一緒に来るみたいで」
そこで桐谷が、待ってましたと言わんばかりに口を挟む。
「へえ。妹ちゃんの親友」
「若いねえ、青春だねえ」
「桐谷さん……」
結衣が少し困ったように笑う。
「いや、だって気になるじゃん」
「黒瀬さんの妹って前に見た感じ、かなりズバズバ系だったし」
「その親友って、たぶんだいぶ強そう」
「“強そう”ってなんですか」
「ラブコメに出てくる女の子の分類」
「分類しないでください」
結衣がそう言い返した瞬間、病室の前を通り過ぎた白衣の人影が、ほんの一瞬だけ止まった。
神宮寺綾乃だ。
相変わらず隙がない。
長い黒髪は乱れなくまとめられ、白衣はきっちり整い、歩くだけで空気が少し締まる。
あの停電の夜を越えてなお、彼女の存在感は病棟の軸としてそこにあった。
『《神宮寺綾乃》』
『年齢:28』
『職業:外科医』
『レベル:31』
『レア度:★★★★★』
『好感度:31%』
『状態:平常/観察/特別認識(微)』
『補足:黒瀬湊への警戒と評価が混在』
「……神宮寺先生、おはようございます」
結衣が頭を下げる。
「おはよう」
短い返答。
綾乃の視線が病室の中を一巡し、最後に湊で止まる。
「今日は土曜日です」
「病棟の空気に流されて調子に乗らないで」
「……はい」
「見舞いでテンションが上がっても、歩こうとしないで」
「立とうともしないで」
「車椅子で勝手に遠くへ行かないで」
「面会者の前で無理に元気なふりもしないで」
「信用ないですね」
「ないです」
即答だった。
だが、その短いやり取りの間に、綾乃の視線がほんのわずかに桐谷と結衣の方へ流れているのを、湊は見逃さなかった。
つまりこの人は、自分がいない間にこの二人が変に焚きつけないかまで見ている。
(どこまで見てるんだよ、この人)
「何かあれば白石さんを呼んで」
綾乃はそれだけ言い残し、また廊下へ戻っていった。
その背中を見送りながら、桐谷が小さく笑う。
「相変わらずだねえ」
「でも、ちょっと柔らかくなったよね、あの先生」
結衣がこくこくと頷く。
「わ、私もそう思います」
「前より……その、ちょっとだけ、ですけど」
「黒瀬さんに対して、言い方は厳しいですけど……前よりちゃんと見てる感じがします」
「それ、見張られてるってことでは?」
「えっと……」
結衣が困ったように笑う。
「見守りと見張りの中間、くらいです」
「患者としては微妙に安心できないな」
桐谷が楽しそうに笑った。
その時だった。
病室の外から、勢いよく近づいてくる足音が聞こえた。
軽い。
迷いがない。
病院の空気に馴染みきっていない、外の速度の足音。
「お兄ちゃん!」
カーテンが勢いよく開く。
顔を出したのは、やはり妹の黒瀬ひなただった。
今日は私服だ。
淡い色のパーカーにデニム、スニーカー。
髪はいつもより少しだけ軽く巻かれていて、家族の見舞いというより“友達と出かけるついでに寄った”くらいの温度感をわざと出している。
たぶん、重くしたくないのだ。
病院の空気に飲まれたくないし、湊にも飲まれてほしくない。
「うわ、普通に元気そうじゃん」
「もっとこう、弱ってる感じ想像してたんだけど」
「どんな想像だよ」
湊が苦笑すると、ひなたは鼻を鳴らした。
「だって、停電事故のあとでバタバタしてたし」
「お母さん、まだ毎日変に心配してるし」
「お父さんはお父さんで、昨日も何も言わないくせに病院のことめっちゃ調べてたし」
その“何も言わないくせに”に、少しだけ父らしさが滲んでいて、湊は思わず口元をゆるめた。
「で」
ひなたはそこで、少しだけ身体を横へずらした。
「今日は一人じゃないから」
その言葉と同時に、ひなたの後ろからもう一人、女の子が姿を見せる。
朝比奈紬。
その名前が、ほとんど反射みたいに湊の頭へ入ってくるより先に、スキル表示が立ち上がった。
『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』
『▼新規対象検出』
『《朝比奈 紬》』
『年齢:16』
『職業:高校生』
『レベル:24』
『レア度:★★★★★』
『好感度:測定不能』
『状態:興味/観察/余裕』
『補足:解析不完全』
『一部データの取得に失敗しました』
『・感情深度:ロック中』
『・好感度詳細:取得不能』
『補足:長期蓄積感情を検出』
『警告:通常対象と異なる挙動を確認』
(……は?)
湊の思考が、一瞬だけ完全に止まった。
名前は見える。
年齢も、職業も、レベルも、レア度も見える。
なのに。
好感度だけが、見えない。
測定不能。
長期蓄積感情。
通常対象と異なる挙動。
(なんだそれ)
今まで、好感度が低い相手はいた。
高難度もいた。
解析精度の低い対象も見てきた。
だが、“好感度そのものが取得不能”なんて表示は初めてだった。
しかも相手は、妹の親友。
病院の中で知り合う看護師でも、患者でも、スタッフでもない。
明らかに“外の人間関係”だ。
「……久しぶり、湊くん」
紬はそう言って、小さく笑った。
その笑い方が、ごく自然で、でも妙に落ち着いていた。
妹と同い年のはずなのに、ひなたより少し静かで、少し柔らかい。
長い髪は肩の下でゆるく流れ、光の加減で少し茶色がかって見える。
目元はやわらかいのに、視線そのものには思った以上に芯があった。
ひなたみたいに遠慮なくズカズカ来るタイプではない。
でも、だからといって引いているわけでもない。
自然に、距離の中へ入ってくる。
「……あれ」
湊は思わず言葉を詰まらせる。
「朝比奈、って……」
「なに、その反応」
ひなたがすぐに口を挟む。
「まさか忘れたの?」
「いや、忘れたっていうか……」
湊は目の前の少女を見つめる。
たしかに、知っている気がする。
昔からひなたの隣にいたような記憶がある。
家に遊びに来ていたような、夏祭りか何かで一緒だったような、そういう断片はぼんやり浮かぶ。
でも。
(こんな感じだったか?)
もっと小さかったはずだ。
もっと子どもっぽくて、ひなたの後ろで笑っている印象だった気がする。
なのに、今目の前にいる朝比奈紬は、明らかに“女の子”として完成に近づいていた。
それが、妙に認識をずらす。
「ひどいなあ」
紬はそう言って、くすっと笑った。
「まあ、いいけど」
「湊くんって昔からそういうとこあるし」
「いや、待って」
「普通に待って」
「知ってる。知ってるんだけど、なんか……」
「思ってたのと違う?」
紬が少しだけ首を傾げる。
「……まあ」
正直に答えると、ひなたが吹き出した。
「最低」
「それ初対面で言ったら普通に失礼だから」
「初対面じゃないだろ」
「じゃあ余計にダメじゃん」
病室の空気が、ふっと軽くなる。
結衣がそのやり取りを少し緊張した様子で見守っていて、桐谷はあからさまに面白がっていた。
そして紬は、そんな周囲の空気をどこか余裕のある顔で受けながら、ベッドの少し近くまで歩いてくる。
「ねえ、座っていい?」
そう言ってから返事を待たずに、近くの丸椅子へすっと腰を下ろした。
距離が、近い。
近すぎるわけではない。
でも、“初対面の女の子”が取る距離ではない。
(……やっぱりおかしい)
湊の視界の端で、スキル表示が小さく揺れる。
『補足:対象との既知関係を確認』
『感情値参照エラー継続中』
(既知関係……)
つまり、スキル側も“知らない相手ではない”と認識している。
なのに、好感度だけは見えない。
どういうことだ。
「ほんとに元気そうでよかった」
紬はそう言って、湊の顔をじっと見た。
「停電事故のあと、ひなたから聞いた時、ちょっとびっくりしたし」
「“ちょっと”なんだ」
ひなたが横から突っ込む。
「だって、ひなたが大げさに言う時って、だいたい五割増しくらいなんだもん」
「言っとくけど今回は七割くらい本当だったからね?」
「七割なんだ」
紬がまた笑う。
その笑い方を見た瞬間、結衣の肩がほんの少しだけこわばるのが、湊には見えた。
『《白石結衣》』
『状態更新:信頼/照れ → 緊張/観察/警戒(微)』
(あー……)
わかる。
結衣から見れば、急に現れた同年代の女の子が、病室に入ってきた瞬間から妙に距離が近いのだ。
しかも名前を呼ぶ感じが自然で、会話にも昔から知っている空気がある。
警戒しない方が難しい。
その時、タイミングを見計らったように病室の外から声がした。
「黒瀬さん、午前の巡回……」
入ってきたのは、佐倉奈緒だった。
白衣ではなく看護師服。
姿勢は相変わらず整っているが、停電の夜を越えたあと特有の“張りつめすぎない落ち着き”が少しだけ増している。
以前なら完全に業務の顔だけで病室へ入ってきただろうが、今はその奥に、ほんの薄い人間らしい余白が見えるようになっていた。
『《佐倉奈緒》』
『年齢:26』
『職業:看護師』
『レベル:23』
『レア度:★★★★☆』
『好感度:48%』
『状態:平静/観察/警戒(微)』
『補足:病棟外人物への確認意識』
(いたらもっと警戒するだろうな、とは思ったけど……やっぱりな)
奈緒は一歩病室へ入ったところで、ひなたと紬を見て、わずかに目の焦点を変えた。
看護師としての確認。
誰が来たのか。
患者との距離。
空気の変化。
その全部を一瞬で見ている。
「お見舞いの方ですね」
奈緒はやわらかいが一定の声で言った。
「長時間でなければ大丈夫です」
「黒瀬さんはまだ疲れやすいので、途中でこちらから声をかけることがあります」
「はい、すみません」
紬が素直に頭を下げる。
その所作が、妙にきれいだった。
奈緒の視線がほんの少しだけ細くなる。
『《佐倉奈緒》』
『状態更新:平静/観察 → 観察/違和感(微)』
(奈緒さんも気づくよな、そりゃ)
「ねえ、黒瀬さん」
結衣が、かなり勇気を出した感じで口を開いた。
「お友達、なんですね」
その“お友達”の言い方が、ちょっとだけ硬い。
ひなたが「お友達って」と笑いかけたが、その前に紬が自然に答えた。
「妹の親友です」
「昔から、よくお邪魔してました」
言い方がきれいだ。
柔らかい。
しかも嘘はない。
その返答に、結衣が少しだけほっとしたように見えたのは、一瞬だけだった。
紬はそのまま、何でもないみたいに続けた。
「でも、ひなたより先に湊くんと話してた時期もあるよね」
「は?」
湊が思わず声を出す。
ひなたが「あったっけ」と首を傾げる。
紬は少しだけ目を細めた。
「小学校のとき」
「ひなたが習い事の日、たまにおばさん家で待ってて」
「その時、宿題見てもらったりしてたじゃん」
その言葉と同時に、断片的な記憶が少しだけ戻る。
リビング。
夕方。
ランドセル。
ひなたがいない時間。
小さな女の子が、わからない問題を前にむすっとしていた顔。
「あ……」
湊は小さく声を漏らした。
「いたな、そういえば」
「“いたな”はひどくない?」
紬が笑う。
「いや、だって……」
湊は言いかけて、また止まる。
「いや、ほんとに、悪い」
「思い出したけど、今と印象違いすぎて」
「それ、さっきも言ってた」
ひなたが呆れたように言う。
「湊くん、それ褒めてるつもりならたぶん下手だよ」
紬が小さく笑って言う。
その瞬間、視界に選択肢が浮かぶ。
『【特別イベント:初期接触】』
『対象:朝比奈 紬』
『A:素直に謝る』
『B:変わりすぎだろ、と正直に言う』
『C:昔の方が話しかけやすかった、と冗談めかす』
『D:何も言わず、ひなたへ話題を逃がす』
(……なんだこれ)
いつもの選択肢なのに、今回はどこか空気が違う。
好感度が見えないせいか、正解が読みづらい。
Aは無難。
Bは正直だが刺さる可能性もある。
Cは軽いが、誤魔化しにも見える。
Dは一番安全そうで、一番逃げに見える。
(この子、たぶん“上辺だけの返し”はすぐ見抜く)
だったら。
「……悪い」
湊は素直に言った。
「ちゃんと覚えてなかったのは俺の方だし」
「朝比奈が変わったっていうより、俺の認識が止まってた」
一瞬だけ、病室の空気が止まる。
ひなたが「お」と小さく声を漏らす。
桐谷が、面白そうに片眉を上げる。
結衣は少し目を見開く。
奈緒は表情を動かさないまま、しかし視線だけでそのやり取りを追っている。
そして紬だけが、数秒のあいだ何も言わなかった。
それから、すごく小さく笑った。
「……そっか」
「じゃあ、それなら許す」
その笑い方が、さっきまでより少しだけやわらかく見えた。
だが、スキル表示は変わらない。
『好感度:測定不能』
『感情深度:ロック中』
(ほんとに見えないんだな……)
見えない。
なのに、手応えはある。
この感覚は妙に落ち着かない。
「なんか、湊くんちょっと変わったね」
紬が不意に言った。
「は?」
今度は湊が目を瞬かせる番だった。
「前はもっと、こう……」
紬は少しだけ考えるように視線を上へ向ける。
「人の言葉、受け取る前に流す感じあった」
「今はちゃんと一回考えて返してる」
ひなたがそこで「あー」と妙に納得した声を出した。
「それ私も思った」
「前より一拍あるんだよね、この人」
「人のことCPUみたいに言うなよ」
「いやでもほんとに」
ひなたは腕を組む。
「前はもっと雑だった」
「雑って」
「雑」
即答された。
湊は言い返そうとして、でも少しだけ言葉に詰まる。
実際、その通りだからだ。
昔の自分は、もっと反応が雑だった。
いや、“雑にしていた”の方が近いかもしれない。
恋愛でひどく傷ついてから、人との距離感を測ること自体が億劫になって、家族に対しても、周囲に対しても、どこかで一拍引いた返しをするようになっていた。
今は違う。
《恋愛選択肢表示》のせいで、嫌でも人の感情や温度を真正面から見るようになった。
見えてしまうなら、返さざるを得ない。
皮肉だ、と湊は思う。
恋愛をゲームみたいに攻略したいと思って手に入れた力なのに、結局やらされていることは“人の気持ちを雑に扱わないこと”だった。
「へえ」
桐谷がそこでわざとらしく感心したように言う。
「昔から知ってる子って、そういうのわかるんだ」
紬は桐谷の方を見る。
ほんの少しだけ目を細めて、でも嫌な感じはなく笑った。
「わかりますよ」
「だって、見てましたから」
「昔から」
その“昔から”が、妙に自然なのに、妙に重く響いた。
結衣がまた少しだけ姿勢を固くする。
奈緒の視線もごくわずかに鋭くなる。
『《白石結衣》』
『状態:緊張/観察/警戒(微) → 警戒(中)』
『《佐倉奈緒》』
『状態:観察/違和感(微) → 観察/警戒(微)』
(やばいな、これ)
完全にラブコメの修羅場導入みたいな空気になっている。
しかも紬本人には、その空気を悪くしている自覚があまりないように見える。
もしくは、わかっていて平然としているか。
そのどちらかだ。
湊はそこを見極めようとしたが、やはりスキルが肝心な部分を見せてくれない。
『感情深度:ロック中』
(使えねえな、ここ一番で)
その時だった。
「白石さん」
紬が不意に結衣へ向かってやわらかく言う。
「この前、夜勤のとき湊くん助けてくれたんですよね」
結衣が目を瞬かせる。
「え、あ……はい」
「ひなたから聞きました」
紬は微笑んだ。
「だから会ってみたかったんです」
「ありがとうございます」
その言葉は、妙にまっすぐだった。
結衣の緊張が、一瞬だけ解ける。
「い、いえ……そんな」
「私の方こそ、色々、まだ全然で……」
「でも、助けてくれたのは本当でしょ?」
紬はそう言って、小さく首を傾げる。
「じゃあ、それはちゃんとすごいことです」
結衣の頬がほんのり赤くなる。
(……うまいな、この子)
ただ距離が近いだけじゃない。
空気を読む。
しかも、自分が警戒され始めているのを感じたら、その場の空気を崩さない方向へ自然に修正してくる。
強い。
ひなたの親友というより、普通にイベント強者だ。
奈緒もそれを感じたらしい。
表情は崩さないまま、しかし静かな声で紬へ言う。
「ありがとうございます」
「白石さん、最近かなり頑張っているので」
結衣が「さ、佐倉さん……」と目を丸くする。
奈緒は結衣を見ず、淡々と続けた。
「まだ見習いですけど」
「目の前の患者さんに向き合う力はあります」
短い。
けれどそれは、奈緒なりの擁護であり評価だった。
結衣の頬がさらに赤くなる。
言葉を失って、でも嬉しさは隠しきれていない。
(そっちまで挟んでくるのかよ)
湊は思わず心の中で苦笑する。
結衣は白石結衣で、こういう真正面の肯定に弱い。
奈緒は奈緒で、必要と判断したらちゃんと口にするようになってきた。
病棟の人間関係が変わった余波が、こんな場面でも出るのだから面白い。
桐谷がそれを見てさらに楽しそうに笑った。
「へえ。朝比奈さん、かなりできる子だね」
「湊くん、これ大変だよ」
「何がですか」
「外のヒロイン来たじゃん」
「やめてください、その言い方」
「いやでも、病院ステージに急に別ステージの期間限定ヒロイン乱入とか、普通にイベントでしょ」
「しかもレア度高そう」
(その通りなのが腹立つな)
その会話の途中で、ふと廊下側から視線を感じた。
見ると、少し離れた位置に立つ綾乃がこちらを見ていた。
ほんの一瞬だけ。
だが、その視線の鋭さは変わらない。
視界の端で表示が変わる。
『《神宮寺綾乃》』
『状態更新:平常/観察 → 観察/違和感(微)』
(先生まで反応してるのかよ)
綾乃は何も言わない。
ただ、紬を一度、結衣を一度、奈緒を一度、そして湊を一度見て、それからまた廊下の向こうへ消えていった。
(……怖)
あの短い視線だけで、何か察していそうなのが怖い。
その時、廊下の向こうからもう一人、明るい声がした。
「黒瀬さん、差し入れ置いていきますねー」
西野あかりだった。
売店の制服姿で、小さな紙袋を持っている。
今日は土曜日だからか、いつもより少し忙しそうだが、それでも表情の明るさは変わらない。
『《西野あかり》』
『年齢:22』
『職業:売店店員』
『レベル:12』
『レア度:★★☆☆☆』
『好感度:35%』
『状態:気遣い/好奇心/空気読み』
『補足:場を柔らかくする役割』
「売店の試供品です」
「ミントタブレットと、ゼリー飲料」
「あと、妹さんたち来てるなら、ちょっとだけこれも」
西野は紙袋から小さな個包装のお菓子を出した。
「え、いいんですか」
ひなたが目を輝かせる。
「もちろん」
西野は笑う。
「病院って緊張する場所だからね」
「甘いもの一個あるだけで、ちょっと違うし」
その言い方が自然で、押しつけがましくない。
紬が丁寧に頭を下げる。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
西野は紬を見て、少しだけ目を細めた。
「妹さんのお友達さん?」
「なんか、雰囲気ありますね」
「雰囲気?」
紬が笑う。
「うん」
西野は悪気なく言う。
「人の話をちゃんと聞くけど、聞きすぎない感じ」
「けっこうモテそう」
「西野さん!?」
結衣が慌てて声を上げた。
ひなたが吹き出す。
桐谷も肩を震わせる。
紬は一瞬だけ目を丸くしたあと、くすっと笑った。
「ありがとうございます」
「そう言われると、ちょっと照れますね」
(対応が強い)
湊は心の中で呻いた。
西野の唐突な直球にも動じない。
むしろ、柔らかく受けて場を崩さない。
イベント強者どころではない。
普通に高難度ヒロインだった。
さらに、食堂スタッフの宮本奈々が休憩用のワゴンを押して通りかかった。
「あ、黒瀬さん」
「今日はご家族ですか?」
「妹と、その友達です」
「そうなんですね」
奈々はぱっと明るく笑った。
「よかった。顔を見に来てくれる人がいるの、すごく大事ですから」
『《宮本奈々》』
『年齢:24』
『職業:食堂スタッフ』
『レベル:14』
『レア度:★★★☆☆』
『好感度:34%』
『状態:世話焼き/安心/食事サポート意識』
『補足:空腹と疲労に敏感』
奈々は湊を見て、少しだけ眉を寄せた。
「でも黒瀬さん、朝ごはん少し残しましたよね?」
「見てたんですか」
「食堂スタッフなので」
奈々は胸を張る。
「患者さんの食欲は、かなり大事です」
「面会で話すのもいいですけど、体力使うので、あとでちゃんと何か入れてくださいね」
「はい……」
「妹さんたちも」
奈々はひなたと紬を見る。
「お兄さんを元気づけるのは大事ですけど、疲れさせすぎないようにお願いします」
「はーい」
ひなたが素直に返事をする。
紬も静かに頷いた。
「わかりました」
「ちゃんと短めにします」
その“ちゃんと”が妙に大人びていて、結衣がまた少しだけ警戒する。
(だから反応が細かいんだよ)
湊は内心で頭を抱えた。
そして病室のカーテンの向こうから、控えめな声がした。
「……黒瀬くん、賑やかだね」
吉岡沙織だった。
同じ病棟に入院している女子高生。
カーテンの向こうのベッドから、少しだけ顔を出している。
『《吉岡沙織》』
『年齢:17』
『職業:入院患者』
『レベル:10』
『レア度:★★☆☆☆』
『好感度:32%』
『状態:興味/羨望(微)/会話欲求』
『補足:患者間距離接近中』
「ごめん、うるさかった?」
「ううん」
沙織は首を横に振った。
「なんか、病室が普通の場所みたいに見えて、ちょっと安心した」
「病院って、静かすぎると逆に怖いから」
その言葉に、湊は少しだけ表情を緩めた。
「わかる」
「でしょ」
沙織は小さく笑う。
「妹さん、元気だね」
「あと、そのお友達さん……なんか、すごい」
「すごいって何が?」
「わかんない」
沙織は少し考えてから言った。
「入ってきた瞬間、空気が変わった感じ」
「漫画とかであるじゃん。転校生が来た瞬間、クラスの空気が変わるやつ」
「あれ」
「沙織さんまでその方向?」
「だって、ほんとにそう見えたから」
紬はそれを聞いて、少しだけ照れたように笑った。
「そんな大げさじゃないですよ」
「大げさじゃないです」
沙織は真面目に言った。
「黒瀬くん、今ちょっと変な顔してるし」
「俺?」
「うん」
「見えてるはずなのに見えてないものがあって困ってる顔」
湊は息を止めた。
(……この子もたまに鋭いな)
紬の好感度が見えない。
感情深度がロックされている。
そのことを当然、沙織は知らない。
それでも、表情から何かを読み取っている。
病院にいる人間は、静かな時間が多い分、他人の顔を見る力が妙に育つのかもしれない。
「ねえ」
紬がそこで、湊へ少しだけ身を寄せる。
「今って、外出とかできるの?」
「まだ病棟内だけ」
「しかも車椅子で」
「そっか」
紬は素直に頷いた。
「でも、前よりは動けるんだ」
「まあ、少しは」
「よかった」
その“よかった”は、思っていたよりずっと静かだった。
からかいでもない。
軽い相槌でもない。
本当に、そこに感情が入っているみたいな言い方。
湊の胸の奥が、ほんのわずかに揺れる。
なのに、スキルはまだ見せない。
『好感度:測定不能』
(なんなんだよ、ほんと)
その時、視界に選択肢が浮かんだ。
『【選択肢】』
『A:紬に「心配してくれてありがとう」と素直に言う』
『B:ひなたに話を振って空気を軽くする』
『C:結衣たちへ「大丈夫です」と説明する』
『D:何も言わず、紬の言葉を受け止める』
(……ここでAは、ちょっと直接すぎる)
(Bは逃げ)
(Cは周囲を意識しすぎ)
(D……か)
湊は、ほんの少しだけ黙った。
紬の“よかった”を、軽く流さない。
でも、必要以上に踏み込まない。
それが今は一番いい気がした。
「……うん」
短く返す。
「少しずつだけど」
「ちゃんと戻ってる」
紬は、ほんの少しだけ目を細めた。
「そっか」
「じゃあ、よかった」
それだけ。
けれど、その短いやり取りに、結衣が少しだけ唇を結び、奈緒が静かに目を伏せ、桐谷が「なるほどね」とでも言いたげに口元を上げた。
(……なんで全員そんな反応するんだよ)
湊が内心で突っ込んだ、その時だった。
病室の外で、受付対応の声が聞こえた。
「面会の方ですね。お名前をお願いします」
何気ない声だった。
土曜日の病院なら、珍しくもないやり取り。
だが、その次に聞こえた名前で、湊の呼吸が止まった。
「……白峰です」
「白峰紗雪と申します」
世界が、一瞬だけ遠のいた。
白峰紗雪。
その名前が、病室の白い空気の中へ静かに落ちる。
湊の視界の端で、青白い表示が激しく揺れた。
『特殊フラグ反応』
『《白峰紗雪:止まれなかった手》』
『接近を検知』
『現在距離:病棟受付付近』
『警告:メイン因果対象です』
『注意:現時点での接触はイベント分岐を大きく変動させます』
(……来た)
心臓が、嫌な音を立てる。
ひなたや紬の面会とは違う。
病院の空気が変わったわけではない。
変わったのは、湊の中だけだ。
第1話の夜。
雨上がりのアスファルト。
落ちたスマートフォン。
迫るヘッドライト。
肩を掴んだ感触。
突き飛ばした瞬間。
衝撃。
痛み。
白い空間。
全部が、ほんの一瞬で胸の奥へ戻ってくる。
紬が、湊の変化に真っ先に気づいた。
「湊くん?」
結衣も顔を上げる。
「黒瀬さん?」
奈緒の目が鋭くなる。
「顔色が悪いです」
「痛みますか?」
「……いや」
声が少し掠れた。
「違う」
桐谷も、さっきまでのからかう顔を消した。
「黒瀬さん」
「今の名前、知ってる人?」
湊は答えられない。
知っている。
いや、知らない。
名前は今、初めて現実の声として聞いた。
でも、存在は知っている。
自分が助けた人。
自分が死にかけた理由。
自分がスキルを得た起点。
その人が、病棟の受付にいる。
『【緊急選択肢】』
『A:今すぐ会う』
『B:今日は会わない』
『C:少し時間を置いてから会う』
『D:神宮寺綾乃に判断を委ねる』
(……こんなところで)
湊は息を呑む。
Aは危険だ。
自分の心が追いついていない。
Bは逃げだ。
でも、逃げることが悪いとは限らない。
Cは現実的。
けれど、その間に相手を不安にさせるかもしれない。
Dは、医療的には正しい。
ただし、全部を他人に預ける選択でもある。
(……どうする)
ラブコメの空気が、一瞬で別のものへ変わった。
妹の親友。
見えない好感度。
病棟の女性たちの微妙な警戒。
そこへ、白峰紗雪。
イベントが重なりすぎている。
湊は、ゆっくりと息を吸った。
そして吐く。
「……少しだけ」
ようやく言う。
「少しだけ、時間ください」
奈緒がすぐに頷いた。
「わかりました」
「では、こちらで確認します」
「無理に会う必要はありません」
その言い方は、看護師としてのものだった。
だが、その中に少しだけ人としての気遣いも混じっていた。
結衣も小さく頷く。
「黒瀬さん」
「大丈夫です」
「今すぐ決めなくても、大丈夫ですから」
桐谷は軽く息を吐いた。
「土曜午前、全然平和じゃないね」
「本当に……」
沙織がカーテンの向こうで小さく呟く。
「黒瀬くんの周り、イベント多すぎない?」
「それは俺が一番思ってる」
湊がそう返すと、空気がほんの少しだけ緩んだ。
紬は何も言わなかった。
ただ、湊を見ていた。
その目には、さっきまでの余裕だけではない何かがあった。
心配。
理解。
そして、どこか遠いところから彼を見るような静けさ。
『《朝比奈 紬》』
『感情深度:ロック中』
『状態更新:興味/観察/余裕 → 静観/心配/記憶照合』
(……記憶照合?)
湊の胸がざわつく。
白峰紗雪の接近で、紬の表示も動いた。
偶然か。
それとも。
考える間もなく、紬が静かに言う。
「湊くん」
「無理に会わなくていいと思う」
その声は、今までより少し低かった。
「でも」
一拍。
「会うなら、ちゃんと自分のタイミングで会った方がいい」
「相手のためじゃなくて、湊くんのために」
その言葉が、妙に深く刺さった。
この子は、何を知っているのだろう。
そう思っても、スキルは答えてくれない。
『好感度:測定不能』
『感情深度:ロック中』
湊は、何も言えなかった。
紬はそこで立ち上がる。
「今日は顔見に来ただけだし」
「長居しすぎると怒られそうだから、そろそろ帰るね」
「え、もう?」
ひなたが言う。
「せっかく来たのに」
「せっかく来たからでしょ」
紬は笑う。
「最初は短い方が印象いいし」
「それに……今日は、別の人の番みたいだから」
湊の胸が、また小さく鳴った。
紬は最後にもう一度だけ湊を見る。
「じゃあ、また」
そう言ってから、ほんの一瞬だけ言葉を足した。
「今度は、もう少しちゃんと話したいし」
一瞬。
病室の空気が、また少しだけ止まる。
結衣が小さく息を呑む。
奈緒は静かに眉を寄せる。
桐谷が完全に笑いを堪えている。
ひなたは「ほらね」とでも言いたげな顔だ。
沙織はカーテンの向こうで、完全に聞き耳を立てている気配がした。
湊だけが、その言葉の意味をうまく処理できずにいた。
「……ああ」
なんとかそれだけ返すと、紬は満足したみたいに小さく笑って、ひなたと一緒に病室を出ていった。
カーテンが閉まる。
足音が遠ざかる。
その瞬間、視界いっぱいに青白い光が広がる。
『▼特別イベント発生』
『イベント名:再会したはずの距離』
『分類:期間限定・特別イベント』
『期間:第16話〜第17話』
『対象:朝比奈 紬』
『現在進行率:12%』
『補足:一部データはロック中です』
『解放条件:別ステージ条件に依存』
『警告:通常攻略ルートと異なります』
『感情深度:観測待機』
『長期蓄積感情を検出しています』
さらに、表示がもう一枚重なる。
『▼特殊イベント接近』
『イベント名:止まれなかった手』
『対象:白峰紗雪』
『分類:因果接触イベント』
『現在進行率:0% → 5%』
『接触条件:保留中』
『推奨:精神状態の安定後に対応してください』
『警告:事故記憶の再燃に注意』
(……期間限定と因果接触が同時進行とか、ふざけんなよ)
湊はしばらく、その表示を見つめたまま動けなかった。
朝比奈紬。
白峰紗雪。
片方は、妹の親友。
昔から自分を見ていたらしい、好感度の見えない少女。
もう片方は、事故で助けた女性。
自分が死にかけ、神と出会い、スキルを得る原因になった人。
病院の土曜日。
やわらかな陽射し。
平穏に戻ったはずの午前。
そこへ、外からのイベントが一気に流れ込んできた。
「……黒瀬さん」
結衣が、少しだけ遠慮がちに声をかける。
「え、ああ、何」
「その……」
結衣は言葉を選ぶように目を伏せた。
「すごく、仲いいんですね」
「朝比奈さんと」
「仲いいっていうか……昔から妹の隣にいたっていう感じだな」
湊は正直にそう答える。
「でも、俺もあんなにちゃんと覚えてたわけじゃなくて」
「……そう、なんですね」
結衣は小さく頷く。
だが、その頷きは完全に納得したものではなかった。
それがわかるくらいには、湊も人の表情を読むことに慣れてきてしまっている。
奈緒がそこで、結衣をちらりと見てから湊へ静かに言う。
「幼なじみに近いなら、距離が近いのも不自然ではないです」
「……理屈の上では」
最後の一言だけ、妙に小さかった。
桐谷がすかさず吹き出す。
「“理屈の上では”って何」
「奈緒さんも気になってるじゃん」
「気になってはいません」
奈緒は即座に否定する。
「ただ、患者さんの交友関係は把握しておくべきなので」
「仕事モードで押し切ろうとしてる」
桐谷は楽しそうに笑う。
結衣もあたふたしながら加わる。
「い、いや、その……私も別に、変な意味じゃないんですけど」
「でも……あの、すごく自然に近かったので」
「ちょっとだけ、びっくりして……」
その言い方が、あまりにも正直で、あまりにも結衣らしくて、湊は少しだけ肩の力が抜けた。
「黒瀬さん」
結衣が今度は少しだけ強い声で呼んだ。
「ん?」
「次、来る時は」
ほんの少し頬を赤くしながら、
「私、ちゃんといますから」
「は?」
「い、いや、その……!」
結衣はあわてて手を振る。
「違うんです、変な意味じゃなくて」
「患者さんのお見舞い対応も、看護師の仕事なので……!」
「白石さん、それ今のタイミングで言うと余計に変な意味っぽいよ」
桐谷が即座に突っ込む。
「えっ、あっ……!」
結衣の顔が一気に真っ赤になる。
奈緒が小さく息を吐き、でもどこかあきらめたようなやわらかい声で言った。
「白石さん」
「そういう時は、もう少し言い方を選んで」
「は、はい……!」
「でも」
奈緒はほんの少しだけ視線を逸らして付け足す。
「……気持ちは、わかります」
結衣が目を丸くする。
桐谷は完全に面白がっている。
湊は思わず言葉を失った。
(奈緒さんまで何言ってるんだ)
だが、その一言の奥にあるものもわかる。
奈緒は今、病棟の人間として、外から来た“例外”を意識している。
結衣はもっとわかりやすく意識している。
そして桐谷は、その全部を楽しみながらもちゃんと見ている。
綾乃がこの場にいなくてよかったのか悪かったのか、正直よくわからなかった。
桐谷がそこで、わざとらしく腕を組んで言う。
「いやあ、平和な土曜午前だと思ったら、一気にラブコメステージじゃん」
「停電シリアスのあとの温度差、すごいね」
「温度差つけてるの、だいたい桐谷さんですけどね」
湊が返すと、桐谷は楽しそうに笑った。
「でも、こういうの大事だよ」
「ずっと重いと潰れるし」
「たまに外から風入るくらいでちょうどいい」
その言葉には、いつもの軽さだけじゃないものがあった。
桐谷自身、あの夜を越えてきた一人だ。
だからこそ、こういうやわらかい空気の必要性もちゃんとわかっている。
沙織がカーテンの向こうから、ぽつりと言う。
「黒瀬くんって、周りに人が増えると困った顔するよね」
「でも、ちょっと嬉しそうでもある」
「……そんな顔してる?」
「してる」
沙織は小さく笑った。
「見てて面白い」
「桐谷さん側の人間が増えた……」
「ひどいなあ」
桐谷が笑う。
「でも沙織ちゃん、見る目あるね」
結衣はまだ少し赤い顔のまま、湊の点滴やベッド周りを見直していた。
奈緒はその少し後ろで、巡回の手を止めないまま病室全体を見ている。
西野が置いていったミントの紙袋。
奈々が気にしていた朝食の残り。
沙織のカーテン越しの声。
桐谷の軽口。
結衣の照れ。
奈緒の静かな警戒。
それでもさっきまでより、空気はたしかにやわらかい。
湊は、その光景を見ながら思う。
名前は見えた。
関係もなんとなく思い出した。
なのに、一番大事な部分だけが見えない。
それは、《恋愛選択肢表示》を手に入れてから初めての感覚だった。
(朝比奈紬、か……)
そして。
(白峰紗雪……)
病室の外へ続く白い廊下を見る。
窓から差し込む午前の光が、その白さをいっそう際立たせている。
土曜日の病院。
数日ぶりに少しやわらいだ空気。
妹と、その親友。
見えない好感度。
そして、事故で助けた女性の接近。
ラブコメにしては妙に不穏で。
不穏にしては妙に胸がざわつく。
視界の端で、青白い表示が小さく瞬いた。
『《第16話内イベント更新》』
『▼朝比奈紬 特別イベント開始』
『進行率:12%』
『▼白峰紗雪 因果接触イベント接近』
『進行率:5%』
『▼白石結衣 反応変動』
『好感度:88% → 90%』
『状態:照れ/警戒/患者支援意識』
『▼佐倉奈緒 反応変動』
『好感度:48% → 50%』
『状態:観察/庇護意識(微)』
『▼桐谷美月 反応変動』
『好感度:50% → 52%』
『状態:興味深化/ラブコメ観測モード』
『▼神宮寺綾乃 観察値上昇』
『好感度変動なし』
『報酬』
・経験値+180
・スキル経験値+120
・恋愛ポイント+75
・アイテム:《面会者メモ》×1
・アイテム:《外部イベント観測ログ》×1
『現在経験値:435/5200 → 615/5200』
『現在スキル経験値:1840/3200 → 1960/3200』
『現在恋愛ポイント:1495 → 1570』
『レベルアップには至りません』
『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.7 維持』
『追加機能成長』
《感情隠蔽補正表示》の精度が上昇しました
《本音接触率表示》が特殊対象に反応しました
『次回、イベント継続条件を確認してください』
湊はその文字を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
(……面倒そうだな)
そう思う。
でも同時に。
(たぶん、面白い)
そう思ってしまう自分も、もう否定できなかった。
土曜日の午前中。
病院に差し込むやわらかな光の中で、新しい“選択肢の外側”みたいな何かが、静かに動き始めていた。
そして、病棟受付の向こうでは。
まだ湊の前に姿を見せていない白峰紗雪が、両手で小さな紙袋を握りしめたまま、静かに待っていた。
彼女の表情は、緊張で少し青ざめている。
けれど、その瞳の奥には、逃げずにここまで来た人間だけが持つ、かすかな決意が宿っていた。
――止まれなかった手。
その言葉の意味を、湊が本当に知るのは。
もう少しだけ、先のことだった。




