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第20話 ひとくち分の元気


 昼前の時間帯だった。


 午前中の慌ただしさが、ようやくゆるやかにほどけはじめる、ほんの短い中間地点。


 病院という場所は、時間の区切り方がどこか独特だ。


 朝が始まったと思ったら、気づけばもう昼へ向かっていて、その途中にだけ、呼吸のようなわずかな“間”がある。


 それは休憩と呼べるほど長くはない。


 けれど、完全な緊張でもない。


 ナースステーションでは、相変わらず紙の擦れる音と、端末を叩く軽い打鍵音が重なっている。誰かの呼び出しの声。ワゴンの車輪が白い床を転がる規則的な音。遠くの病室から漏れる、テレビの音量を絞ったような生活音。点滴スタンドの金属が小さく触れ合う音。どこかで看護師が患者に向けて落ち着いた声で何かを説明している気配。


 白い壁。

 白い天井。

 消毒液の匂い。

 空調の低い唸り。

 昼へ向かう、少しだけ温度を帯びた光。


 何も変わらないように見える。


 だが、その“何も変わらない”という状態そのものが、実は絶えず更新され続けている。


 誰かの体温が少し上がる。

 誰かの痛みが少し引く。

 誰かの不安が少し強くなる。

 誰かの食欲が、ほんの少し戻る。


 そういう小さな変化の積み重ねの上に、この病院の平穏はぎりぎり成り立っている。


 黒瀬湊は、ベッドの縁に手をかけながら、ゆっくりと身体を起こした。


(……昼、か)


 ほんの少しだけ身体が重い。


 だが、それは不調ではない。


 むしろ、“ちゃんと疲れている”という感覚に近かった。


 身体の奥が鈍くきしむ感じはある。だが、それは壊れている音ではなく、使ったあとの疲労の音だ。少し前まで、自分の身体はもっとわかりにくかった。痛いのか、動けるのか、無理をしているのか、その境界が曖昧だった。


 今は違う。


 少なくとも、今の自分が“昨日より少し戻っている”ことくらいは、ちゃんとわかる。


 視界の端で、青白い光が静かに立ち上がった。


『黒瀬湊』


『レベル:11』

『現在経験値:445/6100』

『現在スキル経験値:1960/2600』

『現在恋愛ポイント:2275』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.7』

『次回スキルレベルアップまで:640』


『現在ステータス』

・身体回復:中

・視力補正:安定

・行動範囲:病棟内/車椅子移動可

・疲労:軽度

・精神状態:思考整理中/余韻残存/前進意欲


『所持スキル』

・《感情トレースLv.3》

・《言外読解Lv.3》

・《身体感覚補正Lv.2》

・《安心感付与Lv.2》

・《重心把握Lv.2》

・《疲労看破Lv.2》

・《関係負荷軽減Lv.2》

・《役割把握Lv.1》

・《優先順位把握Lv.1》

・《違和感感知Lv.1》

・《空気読みLv.1》


『所持アイテム』

・《微睡みミント》×1

・《メンタルリカバリーチケット》×1

・《リハビリサポートバンド》×1

・《ナースメモカード》×1

・《ミントタブレット》×1

・《栄養補助スープ》×1

・《暇つぶしカード》×1

・《非常用簡易メモ》×1

・《夜勤対応メモ》×1

・《小型ライト》×1

・《集中維持パッチ》×1

・《夜明けのメモリーカード》×1

・《完全回復アンプル(小)》×1

・《リスタートバンド》×1

・《温度のメモ》×1

・《売店チョコ》×1

・《食堂スープ予約券》×1

・《リフレッシュミント》×1

・《売店おすすめメモ》×1


『解放済み機能』

・イベント危険度表示

・会話相性表示

・選択肢リスク予測

・ステータス詳細表示

・軽会話ログ保存

・食事相性表示

・患者心理補正

・感情隠蔽補正表示

・イベント危険度表示・強化

・選択肢リスク予測・拡張

・連携相性表示

・緊急時優先対象抽出

・複数対象同時補正

・本音接触率表示

・不可視感情検知

・既知関係補正

・会話テンポ補正


『現在進行中イベント』

・《朝比奈紬:再会したはずの距離》PHASE1/次回接続待機

・《白峰紗雪:止まれなかった手》待機中

・《白石結衣:自信の芽》継続中

・《佐倉奈緒:背負い方の変化》継続中

・《神宮寺綾乃:信頼形成 初期》継続中

・《桐谷美月:連携ルート》継続中

・《西野あかり:軽口の奥にあるもの》継続中


『特殊フラグ』

・《白峰紗雪:止まれなかった手》

・《朝比奈紬:長期蓄積感情》

・《リリス観測補助:不明》


(……だいぶ増えたな)


 湊は、視界に並ぶ表示を見ながら、思わず内心で呟いた。


 最初はただの“恋愛ゲームみたいな力”だと思っていた。


 好感度が見える。

 選択肢が出る。

 正解を選べる。

 そういうものだと。


 だが、今のそれはもう、単純な攻略補助だけではない。


 自分の身体の状態。

 人との距離。

 会話の温度。

 見えない感情の輪郭。

 残っている余韻。

 まだ発生していないフラグ。


 それらが、少しずつ絡み合っている。


(……生活導線イベント、ね)


 売店の次は食堂。


 そう来るのは、ある意味わかりやすい。


 だが、その“わかりやすさ”の中に、ひとつだけまだ処理しきれていないものが残っている。


 朝比奈紬。


 見えなかった好感度。

 言われなかった言葉。

 終わったはずなのに、終わりきっていない感触。

 屋上庭園の風。

 少し近すぎた距離。

 静かな目。

 “今の湊くん、けっこう好きだよ”という、軽く置かれたくせに胸に残りすぎる声。


 胸の奥に、まだわずかに残っている。


 数値にならないものほど、どうしてこんなに残るのか。


 今までのイベントは、好感度や進行率や状態が見えていたぶん、どこかで“整理”ができた。


 成功した。

 進んだ。

 今はここ。


 そういうふうに盤面として扱えた。


 だが紬だけは違った。


 ロックされたまま、見えないまま、でも確かに触れた何かだけを残して去っていった。


 そして、もう一人。


 白峰紗雪。


 第1話の事故で助けた女性。


 名前はまだ、現実の会話の中では湊の前に大きく現れていない。


 だが、スキルはずっとその名を残している。


『《白峰紗雪:止まれなかった手》待機中』


 助けた相手。

 自分が死にかける原因になった相手。

 そして、神々の白い空間へ繋がるきっかけになった相手。


(……面会、できるよな)


 ひなたも来た。

 朝比奈も来た。

 なら、紗雪だって来ようと思えば来られる。


 ただ、来ていない。


 あるいは――来られない理由がある。


 湊はそこまで考えて、軽く首を振った。


(考えても仕方ない、か)


 考えるべきことは山ほどある。


 けれど、今は昼前だ。


 病院ステージは、止まらない。


 止まらない以上、こっちも止まれない。


 今ここにあるのは、見えない余韻だけじゃない。


 白い病棟と、ここで積み上がってきた人間関係の方だ。

 結衣も、奈緒も、桐谷も、綾乃もいる。

 西野もいる。

 そして、これから食堂へ行けば、また新しい誰かと出会う。


 見える数字だけじゃなく、見えない温度まで含めて、ここには今の自分の居場所ができ始めている。


「はい、黒瀬さん」


 軽い声が、タイミングよく差し込まれた。


 振り向くと、桐谷美月がすでに病室の中にいた。


 相変わらず音もなく入ってくる。


 リハビリ用のウェア姿。

 白衣ではないその格好が、病院の中でわずかに異質な存在感を持っている。動きやすさを優先した実用的な服装のはずなのに、この人が着ると妙に様になるのが不思議だった。


 肩の力が抜けた立ち方。

 軽い笑み。

 けれど、その目だけはいつも通り鋭く、身体の動きや癖を細かく拾う理学療法士のものだった。


『《桐谷美月》』

『年齢:25』

『職業:理学療法士』


『レベル:21』

『レア度:★★★★☆』


『好感度:36%』


『状態:観察/興味(強)/余裕』

『補足:黒瀬湊の回復具合を高精度で把握』


「今日の顔、昨日よりマシ」

 桐谷は湊を一目見て、そう言った。

「まだ完全に戻ってないけど、“ちゃんと戻ろうとしてる人の顔”になってる」


「なんだよ、その評価」


「褒めてる」

 即答だった。

「昨日は“引きずってる人”だったから」

「今日は“引きずりながらも前見ようとしてる人”」

「ちゃんと違うよ、このへん」


 そう言って、自分のこめかみのあたりを指で軽く示す。


 湊は小さくため息をついた。


「そんなにわかりやすいか?」


「わかりやすいよ」

 桐谷は肩をすくめた。

「身体にも出てるし」

「視線の置き方も、反応の間も、全部」

「考えごとしてる人って、最初の返事が半拍遅れるんだよね」

「しかも黒瀬さんの場合、そこに“ちゃんと誤魔化そうとして失敗してる感じ”まで乗るから、余計わかりやすい」


「言い方ひどくないか」


「事実はだいたいひどい」

 桐谷は涼しい顔で言った。

「でも、今はいい感じ」

「“分けようとしてる人”の動きになってる」

「昨日までより、感情と身体がちゃんと別レーン走り始めてる」


 その言葉に、湊は少しだけ目を細めた。


 分ける。


 考えごとと、身体の動き。

 感情と、行動。

 余韻と、今やるべきこと。


 それは、昨日のリハビリでも言われたことだった。


「今日のリハ」

 桐谷が続ける。

「食堂まで行く」


「食堂?」


「うん」

 桐谷は軽く頷く。

「売店クリアしたでしょ」

「じゃあ次は食堂」

「生活導線のレベルアップ」

「病室、廊下、売店の次は食堂」

「段階としてはわりと綺麗」


「言い方がゲームっぽい」


「黒瀬さんにはそっちの方が入りやすいでしょ?」


「否定しづらいのが嫌だな」


 桐谷は笑った。


「でも、内容はちゃんと現実」

「食堂はリハビリ室より雑音が多い」

「売店より滞在時間が長くなりやすい」

「トレイ、食器、人の動線、匂い、声」

「全部が生活に近い」

「だから、今の黒瀬さんにはちょうどいい」


 そこで、後ろから少しだけ心配そうな声が重なった。


「食堂って、人多くないですか……?」


 白石結衣だった。


 白衣姿。

 タブレットを抱えて、少しだけ慎重な表情をしている。


 今日は髪も制服も綺麗に整っているのに、その目だけは正直で、湊の状態をかなり細かく見ていた。朝に少し拗ねて、少し安心して、それでもまだ気になるところは気になる、という複雑な感情をどうにか制服の下へ押し込めている顔だ。


『《白石結衣》』

『年齢:20』

『職業:見習い看護師』


『レベル:18』

『レア度:★★★☆☆』


『好感度:88%』


『状態:信頼/心配/慎重』

『補足:患者優先意識/感情観察強化』


「お昼前だと、職員さんも来ますし……」

 結衣は続ける。

「黒瀬さん、まだ人の流れの中での動き、完全じゃないですよね」

「疲れてる時に人多い場所って、ちょっと危ない気が……」

「昨日売店行った時も、普通の廊下より少しだけ反応遅くなってましたし」

「それに、今日は午前中から少し考え込んでる感じもあったので……」


 その言い方は、遠慮しながらもはっきりしていた。


 看護師としての心配と、もっと個人的な気にかけ方の、その両方が混ざっている声だった。


 桐谷はそれを聞いて、にやっと笑う。


「だから行く」

「誰もいない場所でだけ動けても意味ないから」

「本番は人がいるところで起きる」

「人の流れ、匂い、音、視線、置いてある物」

「そういう雑音込みで、ちゃんと動けるようにならないと“戻る”とは言えないでしょ」


 一拍。


「それに今日は、“食べる”も見る日」


 結衣が少しだけ目を瞬かせた。


「食べる……?」


「そう」

 桐谷は頷いた。

「身体だけ戻しても、生活戻らないと意味ないでしょ」

「食べる、動く、戻る」

「全部セット」

「立てるけど食べられない、歩けるけど生活がない、じゃ意味が半分なんだよね」

「人って、結局そういうとこ全部繋がってるから」


 その言葉は軽いが、妙に納得感があった。


 結衣は少し考えてから、タブレットを抱え直す。


「……わかります」

「食事って、体調も出ますし」

「食べる気分かどうかって、すごく大きいですし」

「でも、だからこそ食堂って、わりと……」


 そこで一度言葉を止めてから、少しだけ小声で続ける。


「生活に近い場所だから、余計に慎重に見たくなるんです」


 その言い方に、桐谷は少しだけ目を細めた。


「うん」

「結衣ちゃん、そこ最近いいね」

「“危ないからダメ”じゃなくて、“どこが危ないか”まで言えるようになってる」


 結衣が少しだけ照れたように視線を逸らす。


「……それは、その」

「前よりちゃんと見ないとって思うようになったので」


 その言葉を、湊は静かに聞いていた。


 前より、ちゃんと見ないと。


 それはたぶん、結衣だけの話ではない。


 奈緒も。

 桐谷も。

 綾乃も。

 西野も。

 奈々も。


 そして、自分自身も。


「……行くか」

 湊が言うと、桐谷は満足そうに頷いた。


「よし」


 移乗は、以前よりずっとスムーズだった。


 手の位置。

 体重の移動。

 足の置き方。

 肘掛けに触れる指の圧。

 身体の前傾角度。


 一つ一つを意識する必要はまだあるが、流れとしては確実に繋がってきている。


(……前よりは、確実に)


 車椅子に乗り、廊下へ出る。


 空気が少し変わる。


 病室の中よりも広く、流れがあり、音が混ざる。


 人の気配が、少し濃い。


 白い床に光が広がっている。

 壁に反射した昼前の明るさが、病棟全体を薄く照らしていた。


 看護師のすれ違う足音。

 紙カルテを抱えて歩く職員。

 遠くの病室から漏れる生活音。

 薬品と少しだけ温かい空気が混ざった匂い。


 湊は車椅子のリムに手を添えながら、ゆっくりと廊下を進む。


 結衣が右後ろ。

 桐谷が少し前で歩調を見ている。


 その配置が、今の自分の回復段階そのものみたいで、少しだけ苦笑したくなった。


 その会話の途中で、ナースステーションの前を通る。


 奈緒が、書類を抱えたまま顔を上げた。


『《佐倉奈緒》』

『年齢:26』

『職業:看護師』


『レベル:23』

『レア度:★★★★☆』


『好感度:48%』


『状態:平静/観察/微警戒』

『補足:黒瀬湊の移動に注意を向けている』


「食堂ですか」


「リハビリです」

 桐谷が答える。


 奈緒は湊の手元、足元、姿勢を一瞬で確認する。

 視線の流れが速い。けれど雑ではない。見るべき場所を、短時間で正確に拾う。


「距離としては問題ありません」

 一拍。

「ただ、疲労が出たらすぐ戻ってください」

「今日は午前より人の流れが強いので、正面から来る人より横の動線の方が危ないです」

「曲がり角で無理に抜けようとしないでください」


 それは完全に業務的な言葉だった。


 だが、その奥にほんの少しだけ“見ている”感情が混じっているのを、湊は感じ取る。


 奈緒はいつもそうだ。


 心配を心配のまま出さない。

 正論と注意の形にして、ようやく外へ出す。


「白石さん」

 奈緒が続ける。


「はい」


「黒瀬さんだけでなく、周囲も見て」

「トレイや足元、人の流れ」

「あと、立ち止まる時は先に位置を取ってから声かけて」

「咄嗟に支えようとすると、二人とも崩れるので」


「はい……!」


 結衣が小さく背筋を伸ばす。


 役割が渡される。


 それだけで、空気が少し変わる。


 奈緒はもう、結衣を“支えないと危ない後輩”としてだけは見ていない。

 任せる前提で見ている。

 責任の一部を、ちゃんと渡している。


 その変化が、短い指示の中にも滲んでいた。


 その時だった。


 廊下の奥から、白衣の影が現れる。


 神宮寺綾乃。


 歩きながら、こちらへ視線だけを向ける。

 歩幅は一定。

 姿勢は揺れない。

 それだけで空気の芯が通るような人だった。


『《神宮寺綾乃》』

『年齢:28』

『職業:外科医』


『レベル:31』

『レア度:★★★★★』


『好感度:31%』


『状態:平静/観察』

『補足:移動許可は出すが警戒は維持』


「食堂?」


 短い問い。


「リハビリです」

 桐谷が答える。

「生活導線確認」


 綾乃は数秒だけ湊を見る。


 それだけなのに、妙に長く感じる。


「五分」


「短くないですか」


「寄り道しないで」

「戻る」

「それでいい」


 一拍。


「……無理しないで」


 それだけ言って、歩き去る。


 短い。


 だが、ちゃんと残る。


 言葉数は少ないのに、その少なさの中に“見ている”ことが全部入っている。

 厄介なくらい、ちゃんと残る。


(ほんと、こういう時だけ……)


 湊は少しだけ口元を緩める。


 怒られたわけではない。

 注意された。

 でも、心配もされた。


 その違いが、今の湊にはもうわかってしまう。


 食堂は、思っていたよりも“普通”だった。


 白い壁の中にあるのに、生活の匂いがある。


 トレイの音。

 湯気。

 出汁とスープの匂い。

 食器が触れ合う小さな音。

 職員の短い会話。

 患者用の食事が運ばれていく気配。


 ここは、“治療”の場所ではなく、“生活”の場所だ。


 食べるための場所。

 つまり、生きて戻るための場所。


 病棟の白い緊張とは少し違う、人の体温に近い空気があった。


 そのカウンターの向こうで、誰かが顔を上げた。


「いらっしゃいませ――あ」


 目が合う。


「プリン逃した人だ」


 宮本奈々だった。


 その第一声に、湊は思わず眉を上げる。

 桐谷は「やっぱり共有されてる」と笑いそうな顔をし、結衣は少しだけ警戒を強めた。


『《宮本奈々》』

『年齢:24』

『職業:食堂スタッフ』


『レベル:15』

『レア度:★★★☆☆』


『好感度:36%』


『状態:世話焼き/心配/興味』

『特性:食で支える/人の空腹と疲労に敏感』


 宮本奈々は、食堂の制服姿のまま、明るくこちらを見ていた。


 西野あかりとは違う。


 あちらが“接客で人との距離を測る人”なら、奈々は“生活の世話の延長で距離を詰める人”という感じがあった。


 笑顔が近い。

 けれど押しつけがましくない。


 まず“食べる?”から入ってくるタイプ。


「黒瀬さんですよね?」

 奈々はにこっと笑う。

「売店の西野さんから聞きました」

「昨日、惜しいことしたって」


「それまだ共有されてるのか……」


「されますよ」

 奈々は楽しそうに言う。

「ここ、情報回るの早いので」

「特に“ちょっと面白かった話”は」

「あと、最近の黒瀬さん、病棟で有名ですし」


「なんでそんなに広がるんだよ……」


「広がりますよ」

 奈々はけろっと言った。

「頑張ってる人って、意外と目立つので」

「それに、こういう場所って“ちゃんと食べる人”かどうかもすぐ話題になりますし」


 一歩、距離が近い。


 でも、西野とは違う。


 もっと生活に寄っている距離感。

 “こんにちは”よりも先に、“ごはん食べられます?”が似合う近さだった。


「ちゃんと食べてます?」


 奈々がさらっと聞く。


「……一応」


「一応って顔してないですね」

 即答だった。

「食べてないわけじゃないけど、食べる気満々って感じでもない」


「顔でわかるのか?」


「わかります」

 奈々は笑う。

「食堂スタッフ、そこそこ人の顔見てますから」

「元気そうに見えて、実はスプーン持つ前からしんどそうな人とか」

「食べるって言ってるのに、目が全然料理に向いてない人とか」

「逆に、疲れてるけどちゃんと食べようとしてる人とか」

「けっこう違いますよ」


 湊は思わず黙る。


 食堂スタッフ。


 医師でも看護師でも理学療法士でもない。


 けれど、この人もまた、この病院の中で人を見ている一人なのだ。


 その時、湊がトレイへ手を伸ばした。


 その瞬間、ほんのわずかにバランスが崩れる。


「――はい」


 奈々の手が自然に添えられた。


 支えるというより、補助する。

 当たり前みたいな動き。

 咄嗟というより、最初からその一手を知っていたみたいな滑らかさ。


 距離が近い。


 でも、違和感がない。


 生活の動作の中で生まれる近さだった。


『▼一時感情反応検出』


『対象:宮本奈々』


『状態:気遣い/自然接触/生活動作補助』


「黒瀬さん!」

 結衣の声が飛ぶ。

「大丈夫ですか!?」


「大丈夫」


「ほんとに!?」

 結衣はそのまま奈々を見る。

「ちょっと距離近くないですか……!」


「結衣ちゃん落ち着いて」

 桐谷が笑う。

「ここ食堂だから」

「トレイ落としたら洒落にならないやつ」


 奈々はくすっと笑った。


「大丈夫ですよ」

「ちゃんと支えただけなので」

「というか、今のは支えないと危ないやつです」


 そして、湊を見る。


「今の、いけると思って取りに行きましたよね」


「……まあ」


「そういう人、一番危ないです」

 奈々はあっさり言う。

「“たぶんいける”でやる人」

「食堂って、たぶんで持つと結構危ないんですよ」

「汁物あるし、トレイ滑るし、人も動くし」

「病室のベッド柵とは違うので」


 その言い方が、食堂で働いている人のリアルさを持っていた。


 一拍。


「でも」


 少しだけ声のトーンが変わる。


「食べられない感じじゃないですね」


「……何が」


「顔」

 奈々は言う。

「食べる気がない人の顔じゃない」

「でも、“ちゃんと食べよう”って頑張ってる顔」

「食べなきゃって思ってる顔」

「好きでここに来たっていうより、“必要だから来た”って顔」


 湊は言葉を失う。


 奈々は続けた。


「そういう時って、ひとくち目が遅いんですよ」

「お腹が空いてないわけじゃない」

「でも、気持ちの方がちょっとだけ疲れてるから」

「食べ始めるまでに、ほんの少しだけ時間がかかる」

「食欲の問題というより、気持ちがまだ座ってない感じ」


 やわらかいのに、正確だった。


 結衣がその横で、少しだけ複雑そうな顔をしている。


 自分も患者の状態を見ている。

 でも、奈々は“食べ方”からそこへ入ってくる。


 その違いに、ほんの少しだけ悔しさもあるのかもしれない。


 桐谷は面白そうに目を細めていた。


 奈緒がいたらたぶん、もっと静かに観察していただろう。


 視界の端に、選択肢が浮かぶ。


『▼宮本奈々 関係補強イベント』


『名称:ひとくち分の元気』


『A:ごまかす』

『B:少し疲れたと認める』

『C:逆に奈々へ聞く』

『D:結衣の心配に先に応える』


(……ここは)


 湊は、ほんの一瞬だけ迷った。


 ごまかすのは違う。

 逆に聞くのも、逃げに近い。

 結衣の心配に応えるのも必要だが、まずは今、自分の状態を言葉にした方がいい。


(B)


「……ちょっと疲れてる」


 奈々は、すぐに頷いた。


「ですよね」


 その即答が妙に心地いい。


 疑わない。

 否定しない。

 まず、そのまま受け取る。


 一拍。


「でも、それ言えるなら大丈夫です」


「なんで」


「本当に危ない人って」

 奈々は静かに言う。

「“平気です”しか言わないので」

「食べられますって言って、実際は全然進まないとか」

「大丈夫ですって笑ってるのに、スプーン止まったままとか」

「そういうの、わりと多いんです」


 一歩、少しだけ近づく。


 でも、その近さはやっぱり不思議と押しつけがましくない。


「ちゃんと疲れてるって言える人は、戻れます」

「無理して元気な顔してる人より、今の方が見てて安心します」


 一拍。


「ひとくちずつでいいので」

「ちゃんと食べようとしてる人って、ちゃんと前に戻れるので」


 その言葉が、胸に落ちる。


 軽くない。

 でも、重すぎない。


 生活に近い言葉だった。


「……そういうもんか」


「そういうもんです」

 奈々は笑った。

「たぶん」

「私、医者でも看護師でもないですけど」

「でも、“食べる元気”って結構わかるので」

「食堂って、そういう顔の違いがすごく出る場所なんですよ」


 その“たぶん”が優しい。


 結衣が、少しだけ勇気を出すみたいに口を開いた。


「……食堂の人って、そこまで見るんですね」


 奈々はきょとんとして、それから笑う。


「見ますよ」

「だって、食べるって体調も気分も出るので」

「残し方とか、スプーンの止まり方とか、最初に取るおかずとか」

「皆さん、結構違うんです」


「それ、すごいです」

 結衣は素直に言った。

「私、そこまでまだ見れてないので……」


 その言葉に、奈々は少しだけ目をやわらかくした。


「でも白石さんって、見てるタイプですよね」

「さっきから黒瀬さんの手元とか、ずっと気にしてたし」

「“危ないかも”って思った時、顔に出てました」

「そういう人、伸びると思います」


 結衣の頬がわずかに赤くなる。


『《白石結衣》』

『状態更新:複雑/軽警戒 → 照れ/安堵/対抗意識(弱)』


 褒められて嬉しい。

 でも、相手が相手なので少し複雑。


 その全部が、結衣らしくてわかりやすい。


「ほら」

 桐谷が横から笑う。

「食堂スタッフにまで見抜かれてる」

「黒瀬さん、生活インフラ系ヒロインに弱いのかもね」


「その分類やめろよ」


「いやでも、売店の次に食堂はだいぶ強いよ?」

 桐谷は楽しそうに言う。

「会話で整えられて、次は食でほどかれるんだもん」

「病院ステージ、ちゃんと攻略されてる」


「攻略してません」

 結衣が即座に言う。

「されてませんし、そういう言い方やめてください」


 奈々はそのやり取りを見て、くすくす笑った。


「仲いいですね」


「まだそんな段階じゃないです!」

 結衣がまた即答する。


「そこだけは早いね、毎回」

 桐谷が笑う。


 その空気の中で、湊は少しだけ肩の力が抜けるのを感じていた。


 食堂の匂い。

 湯気。

 軽口。

 自然なやり取り。


 それらが、胸の奥に残っていた紬の余韻を消すわけではない。


 でも、別の温度で上からやわらかく包んでいく感じがあった。


 奈々はトレイの上に、食べやすそうなメニューを自然な手つきで揃えていく。


「これ、今の黒瀬さんならちょうどいいと思います」

「重すぎないし、でもちゃんと入るやつ」

「疲れてる時って、いきなり量多いと逆にしんどいので」

「まずはスープ」

「それから、やわらかいもの」

「で、食べられそうなら少しだけ追加」

「回復中の人に“全部食べなきゃ”は逆にプレッシャーですから」


 その選び方が、ただのサービスではなく、“見て選んでいる”感じなのがわかる。


「……そこまでわかるのか」

 湊が言うと、奈々は少しだけ誇らしそうに笑った。


「わかりますよ」

「毎日見てるので」

「あと、ちゃんと食べようとしてる人って、なんとなくわかるんです」

「食べる気がない人は、目が最初から逃げてる」

「今の黒瀬さんは、ちゃんと見てますもん」

「ちょっと重い顔してても、ちゃんと食べる方を見てるので」


 その言葉が、また少しだけ胸に残る。


 結局、奈々は“食べること”で人を見る人なのだ。


 売店の西野が会話のテンポで人を整えるなら、

 奈々は生活のリズムそのもので人をほどく。


 タイプが違う。


 でも、どちらも確かに効く。


 その時、食堂の隅から視線を感じた。


 湊は、ふとそちらを見る。


 一人の少女がいた。


 病院着。

 細い肩。

 膝の上に置かれた小さな手。

 年齢は湊より少し上か、同じくらいに見える。


 トレイには、まだ半分以上残った食事。


 少女は、こちらを見ていた。


 見ているというより、眺めていた。


 羨ましそうに。

 寂しそうに。

 でも、あからさまに近づく勇気はまだないような顔で。


 視界の端に、青白い表示が揺れた。


『▼対象候補を検出』


『《吉岡沙織》』

『年齢:17』

『職業:入院患者』


『レベル:10』

『レア度:★★☆☆☆』


『好感度:36%』


『状態:興味/寂しさ/少しの羨望』

『特性:共感型/ひとり時間が長いと沈みやすい』


『イベント発生条件:未達』

『補足:会話圏外/観察中』


(……あれが)


 吉岡沙織。


 湊はまだ、彼女のことをよく知らない。


 けれど、その表情には見覚えがある気がした。


 輪の外から、人の会話を見ている顔。


 そこへ入りたいのか。

 入りたくないのか。

 わからないまま、ただ見ている顔。


 昔の自分が、少しだけそうだった。


 その視線に気づいたのか、結衣も沙織の方を見る。


「あ……吉岡さん」


 声のトーンが、少しだけ柔らかくなる。


「よく一人で食堂に来られるんです」

「でも、あまり話しかけすぎると逆に引いちゃう時があって……」

「その、タイミングが難しい子で」


 奈々も沙織を見る。


「あの子、食べるの遅いんですよね」

「残すわけじゃないんです」

「でも、食べ始めるまでが長い」

「誰かと食べたいのかなって思う時もあるけど、声かけると大丈夫ですって笑っちゃうから」


 桐谷が、少しだけ目を細めた。


「なるほど」

「次の生活導線、そっちかもね」


「やめろ」

 湊は小さく言った。

「全部イベント扱いするな」


「でも、見えてるんでしょ?」


「……少しだけ」


 沙織は、湊と目が合った瞬間、少しだけ慌てたように視線を逸らした。


 その仕草が、妙に残る。


 湊はすぐには声をかけなかった。


 今はまだ、そのタイミングではない気がした。


 その時、スマートフォンが小さく震えた。


 湊のではない。


 結衣の業務用端末だった。


 結衣が画面を見る。


 その表情が、一瞬だけ変わった。


「……神宮寺先生からです」

「黒瀬さんの面会予定について、確認が入ってます」


「面会?」


 湊が聞き返す。


 結衣は少し迷ってから、画面を見直した。


「名前は……」


 一拍。


「白峰紗雪さん」


 湊の呼吸が、ほんのわずかに止まった。


 視界の端に、青白い光が走る。


『特殊フラグ反応』


『《白峰紗雪:止まれなかった手》』


『状態:待機中 → 接続準備』


『警告:事故起点対象』

『補足:通常イベントとは異なる可能性があります』


(……来るのか)


 第1話の事故で助けた女性。


 自分が命を落としかけるきっかけになった人。


 その名が、ついに現実の病棟へ近づいてきた。


 奈々が、湊の顔を見て少しだけ声を落とす。


「……大丈夫ですか?」


 その問いは、食堂スタッフとしてのものではなかった。


 目の前で、食べようとしていた人の表情が明らかに変わった。

 だから聞いた。


 それだけの自然な気遣いだった。


「……わからない」

 湊は正直に言った。


 結衣が心配そうにこちらを見る。

 桐谷は黙っている。

 奈々も何も急かさない。

 食堂の湯気だけが、白くやわらかく立ち上っている。


 遠くで沙織が、またちらりとこちらを見た。


 湊は、自分の胸の奥にあるものを確かめる。


 紬の余韻。

 西野の軽口。

 奈々の食堂の温度。

 沙織の寂しそうな視線。

 そして、白峰紗雪という事故の起点。


 全部が、一度に重なる。


 重い。

 面倒だ。

 ややこしい。


 でも。


(……逃げても、たぶん残るんだよな)


 だったら。


 ひとくちずつでいい。


 奈々がそう言った。


 人間関係も、たぶん同じなのかもしれない。


 全部を一度に飲み込む必要はない。


 まず、ひとくち。


 目の前にあるものを、ちゃんと受け取る。


 湊は、トレイの上のスープへ視線を落とした。


「……とりあえず」


 小さく息を吐く。


「食べる」


 奈々は、一瞬だけ目を丸くした。


 それから、嬉しそうに笑った。


「はい」

「それが一番です」


 結衣も、少しだけ安心したように息を吐く。


「無理はしないでくださいね」

「でも……食べるって言ってくれて、ちょっと安心しました」


 桐谷が肩をすくめる。


「いいね」

「黒瀬さん、ちゃんと生活に戻ってきてる」

「面会イベント前に、まず食堂イベント処理」

「順番としては悪くない」


「だからイベント扱いするなって」


「でも実際そうでしょ」


 湊は言い返せず、スプーンを手に取った。


 湯気の立つスープを、ひとくち。


 熱すぎない。

 薄すぎない。

 重くもない。


 ただ、身体に入っていく温度がある。


 それは、劇的な回復ではなかった。


 経験値が爆発的に増えるわけでもない。

 レベルが一気に跳ねるわけでもない。

 世界が変わるわけでもない。


 でも。


(……ああ)


 湊は思う。


(こういうのも、回復なんだな)


 食べる。

 息をする。

 誰かに見られている。

 誰かに支えられている。

 誰かの言葉が残る。


 そうやって、少しずつ前へ戻っていく。


 視界の端に、静かな光が広がった。


『▼宮本奈々 関係補強イベント CLEAR』


『名称:ひとくち分の元気』


『▼経験値+280』

『▼スキル経験値+360』

『▼恋愛ポイント+170』


『▼アイテム獲得』

《栄養バランスゼリー》×1

《食堂スープ予約券》×1

《ひとくちメモ》×1


『▼スキル熟練』

《身体感覚補正》使用経験を獲得しました

《疲労看破》使用経験を獲得しました

《不可視感情検知》使用経験を獲得しました

《言外読解》使用経験を獲得しました


『▼経験値加算』

445 → 725 / 6100


『▼スキル経験値加算』

1960 → 2320 / 2600


『▼恋愛ポイント加算』

2275 → 2445


『▼レベルアップ判定』

必要経験値に未達


『黒瀬湊 Lv.11 継続』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.7』

『次回スキルレベルアップまで:280』


 新機能解放は、なかった。


 固有スキルのレベルアップにも、まだ届いていない。


 けれど、それでよかった。


 今の湊には、それがむしろ自然に思えた。


 全部が一気に変わる必要はない。


 ひとくち分の元気。


 そのくらいで、今は十分だった。


 食堂の端で、沙織がまだこちらを見ている。


 結衣が、その視線に気づいて少しだけ迷っている。


 奈々は、湊のトレイを見て満足そうに頷いている。


 桐谷は、面白そうに全部を見ている。


 そして、ナースステーションの方では、白峰紗雪という名前が、静かに湊の現実へ近づいている。


『次回接続候補』


『▼吉岡沙織:食堂の端にいる少女』

『▼白峰紗雪:止まれなかった手』

『▼白石結衣:見守る距離』

『▼神宮寺綾乃:面会判断』


 湊は、もう一度スープを口に運んだ。


 温かい。


 ただ、それだけのことが、少しだけ救いだった。


 昼前の病院。

 白い食堂。

 湯気の向こうにある、人の気配。


 朝比奈紬の見えない余韻は、まだ消えていない。

 西野あかりの軽口も、まだ少し残っている。

 奈々のひとくち分の元気も、胸の奥に入ってきた。

 沙織の寂しそうな視線も、見なかったことにはできない。

 そして白峰紗雪は、もうすぐ来る。


 病院ステージは、思っていたよりずっと忙しい。


 けれど。


(……悪くない)


 そう思っている自分がいることを、もう否定はできなかった。

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