第9話 支えられる勇気と、支える覚悟
朝の光は、病院の窓を通ると、少しだけ性質を変える。
外では、たしかに朝だった。
空は夜の群青をゆっくりと脱ぎかけ、東の端には薄い青が滲み始めている。遠くのビル群は闇の中から輪郭を取り戻し、道路を走る車の屋根には、まだ弱い朝日がかすかに反射していた。
けれど、その光が病室の窓を通って中へ入った瞬間、どこか温度を失う。
白い壁。
白い天井。
白いシーツ。
白いカーテン。
白い床。
そこへ差し込む朝の光は、あたたかいというより、静かだった。
人を励ますための光ではない。
ただ、淡々と時間が進んでいることだけを告げる光。
病院らしい朝だった。
空調の低い作動音が、途切れることなく続いている。ベッド脇の心電図モニターは、小さな電子音を一定の間隔で刻み続けていた。
ピッ、ピッ、と。
その音は、夜のあいだも変わらなかった。
眠っていても。
目を覚ましていても。
誰かが泣いても。
誰かが無理をして笑っても。
機械は、ただ同じ音を鳴らし続ける。
ナースステーションの方角からは、記録端末を叩く乾いた音と、短く抑えられた申し送りの声が、途切れ途切れに流れてきていた。
夜勤と日勤の境界。
まだ病棟全体が完全には慌ただしくなっていない時間帯。
けれど、確実に人が動き出している気配がある。
黒瀬湊は、ベッドの上でゆっくり息を吐いた。
体の奥には、まだ鈍い重さがある。
事故の直後のような、骨ごと砕けたような激痛ではない。だが、筋肉の深いところや関節の周囲に、目には見えない錘がついているみたいな違和感が残っている。
少し長く同じ姿勢でいるだけで、背中のあたりがじわじわと張る。
脚へ意識を向けるたびに、まだ本調子ではないという現実が、静かに戻ってくる。
それでも、昨日までと違うこともあった。
見える。
前よりも、少しだけ、ちゃんと見える。
カーテンの縫い目。
ワゴンの車輪についた細かな擦り傷。
点滴スタンドの金属部分に映る、朝の光の細い線。
窓ガラスに映った、自分の輪郭の頼りなさ。
視力を底上げした影響なのだろう。
世界が劇的に変わったわけではない。
けれど、ぼやけていたものの輪郭が少しずつ締まり、視界から入る情報量が、前より自然に頭へ届いてくるようになっていた。
そして、もう一つ。
自分の身体の中で、どこに力が入り、どこがまだ遅れてついてきているのかも、以前よりはっきりわかる。
肩に力を入れる。
わずかに遅れて、腕が反応する。
腹に力を込める。
少しだけ、背中の奥がついてこない。
脚へ意識を向ける。
足裏の感覚はある。
けれど、体重を預けるには、まだ不安定だ。
これが《身体感覚補正》と《重心把握》の効果なのだろう。
便利だ。
だが同時に、逃げ道も減る。
わかってしまうからこそ、ここから先は無理だという境界も、前よりはっきり見えてしまう。
(……便利っていうか、厳しいよな)
湊は、心の中で小さく呟いた。
その時、視界の端に半透明のウィンドウが浮かぶ。
『黒瀬湊』
『現在レベル:Lv.3』
『現在経験値:820/1400』
『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.4』
『現在スキル経験値:245/500』
『現在恋愛ポイント:270』
『現在所持スキル』
・《感情トレースLv.1》
・《言外読解Lv.1》
・《身体感覚補正Lv.1》
・《重心把握Lv.1》
・《安心感付与Lv.1》
『現在所持アイテム』
・《微睡みミント》×1
・《ナースメモカード》×1
・《リハビリサポーター》×1
『現在進行中イベント』
・《白石結衣 イベントLv.2》
・《桐谷美月 イベントLv.2》
・《佐倉奈緒 イベントLv.2》
(……増えすぎだろ)
思わず苦笑する。
病院に入院しているだけのはずなのに、イベント欄だけ見れば、もう完全にゲームの中盤みたいになっている。
白石結衣。
桐谷美月。
佐倉奈緒。
そしてまだ、神宮寺綾乃もいる。
しかも、この全員が現実の人間だ。
ステータスに表示される名前でも、攻略対象として配置されたキャラクターでもない。
息をしている。
働いている。
悩んでいる。
失敗を怖がっている。
限界を隠している。
誰かを支えようとしている。
その全部が本物だからこそ、表示される数字の一つ一つが、妙に重い。
その時だった。
病室の扉が、控えめに二度ノックされた。
「起きてる?」
返事をする前に、少しだけ明るい声が入ってくる。
「起きてます」
「よし」
扉が開き、桐谷美月が入ってきた。
リハビリ用の動きやすいウェア。
無駄のない立ち方。
柔らかくまとめた髪。
朝だというのに、妙に血色のいい顔。
病院の白い空間の中で、彼女だけが少し違うリズムで立っているように見える。
医師や看護師の“管理する側”の空気ではない。
相手の身体に触れ、動きを引き出し、回復を現実の動作へ変えていく、“動かす側”の空気。
白い病室に、ほんの少しだけ体温が入ったような気がした。
『《桐谷美月》』
『年齢:25』
『職業:理学療法士』
『レベル:19』
『レア度:★★★★』
『好感度:36%』
『状態:観察/期待/試し』
『特性:行動派/現実主義/支えることへの迷いがない』
『《桐谷美月 イベントLv.2》』
『イベント名:支えを預ける練習』
『達成条件:対象の支援を受け入れ、自力移動の基礎を習得してください』
『補足:一人で頑張るだけではクリアできません』
(……タイトルの時点で嫌な予感しかしない)
湊は内心で小さく苦笑した。
桐谷は、そんなこちらの心の動きまで見えていそうな顔で、ベッド脇に立った。
「顔、昨日よりいいね」
「それ、昨日も言ってませんでした?」
「昨日は“見えてる顔”」
一拍。
「今日は、“無理する前に止まれる顔”」
「褒めてます?」
「かなり褒めてる」
あっさり言い切られて、湊は少しだけ返答に困った。
桐谷はそういうところがある。
距離が近いのに、重くない。
さらっと褒めるのに、軽薄でもない。
言葉の置き方が上手いというより、相手が今ちょうど必要としている言葉を、雑に外さない人なのだろう。
それが職業柄なのか、本人の性格なのかは、まだわからない。
「じゃ、今日のメニュー説明するね」
桐谷は手元のタブレットを軽く見ながら言った。
「ベッドから車椅子への移乗の精度を上げる」
「車椅子の自走」
「廊下での方向転換」
「で、最後に立位保持をちょっとだけ伸ばす」
「ちょっと、って言い方の人、あんまり信用できないんですけど」
「正しい反応」
桐谷は少し笑う。
「でも今日は本当に“ちょっと”」
「昨日より無理させる気はないよ」
「今日は、“一人でやろうとしすぎる癖”を削るのがメインだから」
その言葉が、思ったよりまっすぐ胸へ落ちた。
一人でやろうとしすぎる癖。
別に、リハビリだけの話ではないのだろう。
自分はたぶん昔から、できないことを認める前に、まず自分の中だけでなんとかしようとする方だった。
恋愛で傷ついた時もそうだ。
誰かに話す前に。
誰かに助けを求める前に。
勝手に結論を出して。
勝手に引いて。
勝手に諦めて。
勝手に一人で終わらせた。
傷つくのが怖かったから。
誰かに踏み込まれて、もう一度駄目だと突きつけられるくらいなら、自分から離れた方が楽だった。
その癖が、今は身体にも出ている。
「……支えられるの、そんなに下手ですかね」
湊がぼそっと言うと、桐谷は少しだけ目を細めた。
「うん」
即答だった。
「めちゃくちゃ下手」
「そこ、もうちょっとオブラートとか……」
「いらないでしょ、今」
一拍。
「黒瀬くんって、できることはちゃんとやるし、指示も聞くし、悔しがり方も素直なんだけど」
桐谷は、少しだけ声を落とした。
「“預ける”のだけ、妙に下手」
図星だった。
言い返せない程度に、きれいに図星だった。
「だから今日は、そこをやる」
「自走も、立つのも、結局は“今の自分の限界を認めながら動く”ってことだから」
その時、またノックがした。
「失礼します」
入ってきたのは、白石結衣だった。
昨日までより少しだけ落ち着いた所作。
けれど、まだ完全に余裕があるわけではない。
トレーの持ち方が丁寧すぎる。
視線も一度湊の方を見てから、少し遅れて桐谷へ移る。
真面目で、慎重で、でもその慎重さの中にまだ“失敗したくない”という緊張が残っている。
『《白石結衣》』
『年齢:20』
『職業:見習い看護師』
『レベル:10』
『レア度:★★★』
『好感度:78%』
『状態:信頼/照れ/前向きさ/不安(微)』
『特性:素直/努力家/比較で沈みやすい』
『《白石結衣 イベントLv.2》』
『進行率:25%』
結衣は小さく会釈した。
「朝の検温と、飲水確認です」
それから湊へ目を向ける。
「……あと、その、今日もリハビリなんですよね」
「うん」
湊が頷くと、結衣は少しだけ目を輝かせた。
「昨日より、たぶん動けます」
「へえ?」
桐谷がそこで口を挟む。
「なんでそう思うの?」
「えっ、あ、その……」
結衣が慌てる。
「き、昨日の最後より、目の動きがちゃんとしてるというか……」
「あと、返事のタイミングも少し早い気がして……」
「身体はまだつらそうですけど、意識が身体の方へちゃんと向いてる感じがして……」
言いながら、自分で不安になったのか声が小さくなる。
「す、すみません。変なこと言いました」
「変じゃない」
桐谷はあっさり言った。
「ちゃんと見てるじゃん」
結衣がきょとんとする。
「え……?」
「“ちゃんとしてる”って感覚で終わらせないで、“何がどう違うか”まで言えた」
一拍。
「それ、見習いの観察としてはかなり良い方」
結衣の頬が、じわっと赤くなる。
「……あ、ありがとうございます」
その素直な反応に、湊は少しだけ口元が緩みそうになった。
わかりやすい。
でも、そのわかりやすさが、前より少し“前向きなわかりやすさ”になっている。
褒められて舞い上がるだけじゃない。
その言葉をちゃんと受け取って、自分の中へ入れようとしている顔だった。
(……やっぱり、結衣イベントLv.2の鍵はそこか)
結衣は、ただ優しくされたいわけではない。
ちゃんと見てもらいたい。
ちゃんとできているところを、自分でも信じられるようになりたい。
そしてたぶん、そのためには“誰かの役に立った実感”が必要なのだ。
桐谷が湊に向き直る。
「じゃ、やろうか」
「今日は白石さんにも、昨日より一歩深く入ってもらうから」
「えっ、私ですか!?」
「そう。昨日の続き」
「見てるだけだと、ずっと“見てる人”のままだし」
結衣が少しだけ怯む。
けれど、逃げなかった。
トレーを棚へ置き、両手を胸の前で一度だけ握る。
「……やります」
小さいけれど、ちゃんと前を向いた声だった。
「いい返事」
桐谷は頷く。
「じゃ、まずは移乗」
◇
ベッドから車椅子への移乗は、傍から見れば地味な動作だった。
立つ。
向きを変える。
座る。
たったそれだけ。
だが、その“たったそれだけ”の中に、今の湊にとっては無視できない数の課題が詰まっていた。
重心を前へ送るタイミング。
脚へ体重を預ける角度。
腕に力を入れすぎないこと。
体幹を先に起こし、焦って脚だけを動かさないこと。
座る時に膝が内側へ入らないよう意識すること。
そして何より。
支えられていることを、恥だと思わないこと。
桐谷は一つ一つを簡潔に指示する。
「はい、目線上」
「下を見ると怖くなる」
「肩入れない」
「今、腕で頑張りすぎ」
「白石さん、そこで持ち上げない。支えるだけ」
言葉は短い。
でも、切る場所が絶妙だった。
長く説明すると、かえって身体は動けなくなる。
だから必要な情報だけを、その瞬間に入れてくる。
理学療法士という仕事が、“今ここで動く身体”に対して言葉を置く仕事なのだと、湊は少しずつ理解し始めていた。
結衣は湊の右側に入り、桐谷の指示を必死に追っていた。
緊張している。
でも昨日ほど手が震えていない。
怖がりながらも、逃げるより先に“覚えよう”としているのが伝わってくる。
「白石さん」
「は、はいっ」
「今、黒瀬くんがどこで詰まってるかわかる?」
「え、えっと……」
結衣の視線が、湊の腰、膝、肩へと順に動く。
「……脚じゃなくて、たぶん体幹です」
「立とうとしてるのに、ちょっとだけ上半身が遅れてて……」
「だから、脚に力を入れても、重心が前へ乗りきってない、みたいな……」
湊は思わず目を瞬かせた。
(……ちゃんと見てる)
しかも、かなり正確だ。
桐谷も少しだけ口角を上げた。
「正解」
「じゃあ次、その“遅れてる上半身”をどう助ける?」
「……支える位置を、少し上にする」
結衣は自信なさそうに言う。
「腰より、体幹に近い方を意識して……」
「でも、持ち上げるんじゃなくて、倒れないように支える感じ……ですか?」
「うん」
桐谷が頷く。
「じゃ、やってみよう」
結衣の手が、少しだけ位置を変える。
緊張しているから動きは硬い。
だが、前より“意味のある硬さ”になっていた。
ただ怖いから固くなっているのではない。
考えながら、慎重になっている。
その違いは大きかった。
「……いきます」
湊が小さく息を整える。
重心を前へ。
呼吸を止めない。
腕で全部やらない。
支えられていることを否定しない。
頭の中で、さっき桐谷に言われたことを繰り返す。
そして、立つ。
前より少しだけ、身体が素直に上がった。
「……っ」
それでも揺れる。
膝が不安定だ。
体幹もまだ弱い。
でも、前より“どこが不安定か”がわかる。
《身体感覚補正》が効いているのだろう。力の入りすぎている場所と抜けている場所が、以前より輪郭を持って感じられる。
「そう、そのまま」
桐谷の声が飛ぶ。
「黒瀬くん、今良い」
「白石さんも余計な力抜けてきた」
そこで、ほんの一瞬だけ結衣の表情が変わった。
褒められて嬉しい。
でも今は嬉しがっている場合じゃない。
崩したくない。
ちゃんと役に立ちたい。
その感情が全部、ぎこちない真剣さになって顔に出ていた。
湊はその顔を見て、妙に胸の奥が温かくなるのを感じた。
自分のために、ここまで必死になってくれる人がいる。
それが、思っていた以上に心強かった。
ゆっくりと、車椅子へ。
座る。
成功。
息が上がる。
背中が熱い。
脚はまだ重い。
けれど、昨日より明らかに“進んだ”感じがあった。
「……できた」
思わず漏れたその言葉に、桐谷が笑う。
「うん、できた」
「しかも今日は、“支えられた結果できた”ってちゃんと理解してる顔してる」
「そこ、そんなに大事ですか」
「大事」
即答だった。
「一人でやれたって勘違いすると、次で折れるから」
「黒瀬くんは特に危ない」
「できた瞬間に、“次は一人でいけるかも”って思うタイプでしょ」
「……否定できないですね」
「でしょ」
桐谷は軽く笑う。
厳しい。
でも、その厳しさの中にちゃんと守る意図がある。
そしてその時、視界に表示が浮かんだ。
『《桐谷美月》』
『好感度:36% → 44%』
『状態:期待/試し → 信頼/興味(深)』
『《桐谷美月 イベントLv.2》』
『進行率:0% → 48%』
(……まだ半分か)
でも、良いペースだ。
桐谷イベントLv.2のテーマはたぶん、“支えられながら進むこと”そのものなのだろう。
ただ頑張るだけでは進まない。
頑張る方向を正しく変えた時にだけ進むタイプだ。
そこへ、結衣の声が重なる。
「……すごいです」
「またそれ?」
湊が苦笑すると、結衣は少し慌てたように首を振った。
「い、いや、でも本当に」
一拍。
「昨日より、ちゃんと“できるところ”が増えてるの、わかるので」
「白石さんもな」
「えっ」
「さっきの補助」
「前より全然落ち着いてた」
結衣が固まる。
「……そ、そうですか?」
「うん」
湊は頷く。
「しかも、ただ言われた通りにやってるだけじゃなくて、自分で考えてた」
結衣の頬が、少しずつ赤くなる。
「……見てたんですか」
「そりゃ見てるだろ」
「……っ」
そこで、結衣はほんの少しだけ俯いた。
照れている。
でも、逃げるための俯きではない。
受け取るために、一度顔を隠している感じだった。
『《白石結衣》』
『好感度:78% → 84%』
『状態:信頼/照れ/前向きさ → 信頼/照れ/自信(微)』
『《白石結衣 イベントLv.2》』
『進行率:25% → 63%』
(……いい流れだな)
やはり結衣には、“頑張っていることを見てもらえている実感”が効く。
ただ優しくするだけでは駄目。
ただ可愛いと言うだけでも足りない。
ちゃんと見て。
ちゃんと役に立っていたと返す。
それが彼女のイベントLv.2の核心なのだろう。
その時、病室の外から静かな足音が近づいてきた。
コツ、コツ、と。
無駄のない、一定の速さ。
それだけで空気が少し引き締まる。
神宮寺綾乃だった。
扉が開く。
「経過は」
短い声。
桐谷が振り向かずに答える。
「昨日よりいいです」
「移乗の精度も上がった」
「自走を少し入れて問題ないレベル」
一拍。
「ただ、まだ“できる気がする”に引っ張られやすい」
「そう」
綾乃はそれだけ言って、湊の足元と表情を一瞬で確認した。
視線が鋭い。
でも、冷たさより情報量の多さが先にくる。
『《神宮寺綾乃》』
『年齢:28』
『職業:外科医』
『レベル:34』
『レア度:★★★★★』
『好感度:6%』
『状態:観察/警戒/興味(微)/許容』
『特性:理知的/感情抑制/責任感/言葉を削る』
「顔色は悪くない」
綾乃は短く言う。
「でも、今日はここで終わりにしないでください」
「“まだできる”と思ったところが、今の限界です」
「……はい」
「返事だけはいいですね」
それは皮肉ではなかった。
だが、褒めてもいなかった。
綾乃らしい言い方だった。
桐谷が少し肩をすくめる。
「この子、わりと真面目なんだよね」
「無茶の方向だけ間違えやすいけど」
「でしょうね」
綾乃は即答した。
「見ればわかる」
その短い会話に、奇妙な安心感があった。
この二人はたぶん、患者の身体を別の角度から見ている。
けれど、目指している場所は同じなのだろう。
だから言葉数は少なくても、ちゃんと通じ合っている感じがした。
綾乃はそのまま結衣へ視線を向ける。
「白石さん」
「は、はいっ」
「今日の補助、昨日より良かった」
一拍。
「継続して」
それだけ。
本当にそれだけ。
なのに、結衣の目が大きく揺れた。
嬉しいのだ。
でも綾乃の前で、その嬉しさをそのまま出すのはまだ恥ずかしい。
だから必死に抑えようとして、結果として余計にわかりやすくなっている。
「……は、はい!」
声が少しだけ上ずった。
綾乃はそれ以上何も言わず、カルテの確認だけして静かに出ていった。
去り際も無駄がない。
扉が閉まったあと、結衣は小さく息を吐いた。
「……先生に、また褒められた……」
その呟きは、半分、自分に言い聞かせているみたいだった。
桐谷が少しだけ笑う。
「神宮寺先生の“継続して”は、かなり強い方だよ」
「そ、そうなんですか……?」
「うん」
一拍。
「“たまたまじゃなくて、そのまま伸ばせる”って意味だから」
結衣がまた赤くなる。
その反応を見ていると、湊は思わず少し笑ってしまいそうになった。
でも、そこで湊はもう一歩だけ踏み込むことにした。
「白石さん」
「は、はいっ」
「昨日より今日の方が、ちゃんと“頼れる人”に見えてる」
結衣が、今度こそ完全に固まった。
「……っ」
「だからたぶん」
湊は少しだけ笑う。
「先生にも桐谷さんにも、ちゃんと伝わってる」
数秒の沈黙。
それから、結衣はゆっくりと顔を上げた。
目が少し潤んでいた。
でもそれは、落ち込んでいる時の潤みじゃない。
胸の奥で何かがほどけた時の、熱に近い揺れだった。
「……ずるいです」
「またそれ?」
「だって」
結衣は少しだけ困ったように笑う。
「欲しい言葉ばっかり、ちゃんと選んで言うので」
それは図星に近い。
でも今この場では、否定する気になれなかった。
『《白石結衣》』
『好感度:84% → 88%』
『状態:信頼/照れ/自信(微) → 信頼/照れ/安心/憧れ』
『《白石結衣 イベントLv.2 CLEAR》』
その瞬間、視界が大きく開いた。
『《白石結衣 イベントLv.2 CLEAR》』
『▼経験値+280』
『現在経験値:820/1400 → 1100/1400』
『▼スキル経験値+90』
『現在スキル経験値:245/500 → 335/500』
『▼恋愛ポイント+130』
『現在恋愛ポイント:270 → 400』
『▼イベント報酬』
『《安心感付与Lv.1》を獲得』
『▼機能解放』
『《会話相性表示》が使用可能になりました』
『▼アイテム獲得』
『《ナースメモカード》×1』
『レベルアップ条件未達成』
『黒瀬湊:Lv.3 維持』
(……よし)
毎回レベルが上がるわけではない。
経験値は積み上がる。
ポイントも貯まる。
スキルも増える。
けれど、レベルアップには必要な量がある。
ゲームとしては当然だ。
その当然さが、逆に少しだけ安心できた。
《安心感付与》の説明が、すぐに頭へ入る。
相手を油断させるスキルではない。
相手が身構えすぎている時、その防御を少しだけほどくための補助。
押し込むためではなく、“話せる空気”を作るためのもの。
(……結衣イベントの報酬としては、かなり納得だな)
彼女はまさに、“安心できる空気”があって初めて前へ進める相手だった。
桐谷が、表示の見えないはずの湊の顔を見て、少しだけ眉を上げる。
「また、何か掴んだ?」
「……まあ、少し」
「良い顔」
桐谷は言った。
「その“わかった”って顔、嫌いじゃない」
彼女はそういう言い方をする。
好意を匂わせすぎず、でも確かにこちらを認める温度だけは残す。
その距離感がうまい。
だからこそ、彼女のイベントがここで終わらないのだろう。
実際、視界に新しい表示が現れる。
『【選択肢が表示されます】』
『A:一人でできるところまでやる』
『B:結衣に補助を頼み、成功体験を共有する』
『C:桐谷に完全に任せる』
『D:無理せず今日は中断する』
(……ここはB)
Aは違う。
今日のテーマから外れている。
Cも悪くないが、桐谷に任せきりでは“預ける練習”にはなっても、“一緒に進む”にはならない。
Dは安全だが、まだ身体的な限界には届いていない。
今必要なのは、結衣を巻き込み、自分も支えられることを受け入れること。
だから、B。
「白石さん」
「は、はい」
「もう一回だけ、補助お願いしていい?」
結衣の目が大きくなる。
「私で……いいんですか?」
「白石さんがいい」
「……っ」
一瞬で、結衣の頬が赤くなる。
桐谷が横でにやっと笑った。
「はい、今の言い方、患者としてはかなり破壊力高いね」
「茶化さないでください」
「茶化してないよ」
一拍。
「白石さん、今のでちゃんと頼られた。だから次、成功させよう」
「……はい!」
結衣は、さっきより強く頷いた。
再び、車椅子からベッド脇への移乗練習。
今度は、湊も結衣も少しだけ違っていた。
湊は一人でやろうとしない。
結衣は怖がりすぎない。
桐谷は必要な場所だけを修正する。
「黒瀬くん、目線」
「白石さん、今の支え方いい」
「黒瀬くん、そこで腕に逃げない」
「そう、二人とも今かなり良い」
身体が動く。
支えられる。
支える。
その二つが、ぎこちなくても噛み合っていく。
座る。
成功。
今度は、さっきよりもさらに自然だった。
「……できた」
結衣が小さく呟く。
それは湊の言葉ではなかった。
結衣自身の言葉だった。
「できました……私も、ちゃんと……」
その声は震えていた。
でも、泣きそうな震えではない。
自分の中に、初めて小さな芯が立った時の震えだった。
湊は、その声を聞いて思う。
(ああ、これだ)
結衣が欲しかったもの。
褒め言葉だけではなく。
好意だけでもなく。
“自分も誰かを支えられた”という実感。
それが、今の彼女に必要だったのだ。
視界が開く。
『《桐谷美月 イベントLv.2》』
『進行率:48% → 100%』
『《桐谷美月 イベントLv.2 CLEAR》』
『▼経験値+320』
『現在経験値:1100/1400 → 1420/1400』
『レベルアップ条件達成』
『黒瀬湊:Lv.3 → Lv.4』
『余剰経験値:20』
『現在経験値:20/2000』
『▼スキル経験値+110』
『現在スキル経験値:335/500 → 445/500』
『▼恋愛ポイント+140』
『現在恋愛ポイント:400 → 540』
『▼イベント報酬』
『《重心把握Lv.1》が《重心把握Lv.2》へ上昇しました』
『▼湊レベルアップ報酬』
『《関係負荷軽減Lv.1》を獲得』
『▼機能解放』
『《身体回復効率補正》が使用可能になりました』
『▼アイテム獲得』
『《リハビリサポートバンド》×1』
『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.4 維持』
『固有スキル経験値:445/500』
『次の固有スキルレベルアップまで:55』
(……一気に来た)
世界が、また少しだけ整う。
今度のレベルアップは、身体と会話の両方に響いた。
呼吸が深くなる。
重心の位置がわずかに掴みやすくなる。
人と会話する時の、“今この言葉を出したら相手に負荷がかかるかどうか”の感触が、少しだけわかるようになる。
《関係負荷軽減》。
相手との会話や接触で、必要以上に相手へ心理的な重さを与えないための補助。
(……奈緒イベント向けでもあるな、これ)
湊は直感した。
結衣や桐谷とのイベントで得たものが、次の奈緒へ繋がっている。
支えられることを覚えたから。
誰かを支える時の重さも、少しだけ理解できる。
そういう流れになっているのだ。
桐谷が、なぜか少しだけ満足そうな顔でこちらを見る。
「よし」
「じゃあ、今日の私はここまで」
「もう終わりですか」
「うん」
一拍。
「欲張ると、明日の黒瀬くんが死ぬ」
「その言い方やめてもらっていいですか」
「でも本当のことだし」
桐谷は笑う。
「回復って、“やった日”より“翌日”に差が出るから」
「今日の正解は、“もうちょっといけるかも”で終わること」
またその言葉だ。
もっとやれるかもしれない。
でも、そこで止まる。
それが今の自分には必要なのだと、少しずつわかってきた。
桐谷は最後に、少しだけ真面目な顔になった。
「黒瀬くん」
「はい」
「支えてもらってできたこと、ちゃんと“自分の進歩”に入れていいから」
「他人の手が入ってるからノーカウント、みたいな考え方しないで」
その言葉は、思った以上に深く刺さった。
そういう考え方を、たしかに自分はしがちだった。
一人でできたものだけが本物。
助けられたものは、まだ自分の成果じゃない。
そうやって線を引いていた。
でも、回復ってたぶんそういうものじゃない。
人の手も。
環境も。
言葉も。
支えも。
全部含めて、自分が前へ進んだなら、それはちゃんと自分の進歩なのだ。
「……わかりました」
「うん」
桐谷は頷く。
「その返事、今のはちゃんと本気っぽい」
そう言って、彼女は軽く手を振りながら病室を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、湊は少しだけ思う。
(……この人、ほんと強いな)
ただ明るいだけじゃない。
人を支える仕事の重さを知った上で、その重さに潰されないように立ち回っている人の強さだ。
白衣の医師たちとはまた違う意味で、病院を支えている側の人間なのだろう。
結衣もトレーを抱え直しながら、少しだけ名残惜しそうに言った。
「私も戻ります」
「でも……また、来ますね」
「うん」
「次はもっと、ちゃんと役に立てるようにします」
「もう役に立ってるだろ」
その一言に、結衣はまた顔を赤くした。
でも前みたいに慌てて否定しない。
少しだけ照れて、それでもちゃんと受け取るような表情で、こくっと頷く。
「……はい」
それは、昨日までの白石結衣にはなかった頷き方だった。
結衣が病室を出ていく。
扉が閉まる。
病室に静けさが戻った。
桐谷も結衣もいなくなったあと、朝の病棟の音だけが遠くに流れている。
湊はゆっくりと背凭れに身体を預けた。
疲れている。
でも、悪い疲れではなかった。
そこで、視界に新しい表示が広がる。
『《現在ステータス》』
『黒瀬湊』
『現在レベル:Lv.4』
『現在経験値:20/2000』
『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.4』
『現在スキル経験値:445/500』
『現在恋愛ポイント:540』
『現在所持スキル』
・《感情トレースLv.1》
・《言外読解Lv.1》
・《身体感覚補正Lv.1》
・《重心把握Lv.2》
・《安心感付与Lv.1》
・《関係負荷軽減Lv.1》
『現在所持アイテム』
・《微睡みミント》×1
・《ナースメモカード》×2
・《リハビリサポーター》×1
・《リハビリサポートバンド》×1
『《対象別イベント更新》』
『▼白石結衣 イベントLv.3予兆』
『状態:未解放』
『▼佐倉奈緒 イベントLv.2』
『状態:ACTIVE』
『▼桐谷美月 イベントLv.3予兆』
『状態:未解放』
『▼神宮寺綾乃』
『状態:観察継続』
『▼病院内サブイベント解放』
・《西野あかり イベントLv.1》
・《宮本奈々 イベントLv.1》
・《吉岡沙織 イベントLv.1》
(……一気に増えたな)
忙しい。
本当に。
病院の中だけでこれだけイベントが走っているのだから、この先学校へ戻ったらどうなるのか少し怖い。
だが、怖さだけではなかった。
見えている。
選べる。
進める。
現実の恋愛も人間関係も、ゲームみたいに単純ではない。
むしろ、見えるようになったからこそ、厄介さは増している。
それでも、ただ勘違いして傷ついて終わるだけだった頃の自分よりは、ずっと前へ進めている気がした。
しかも、今回は“誰かに支えられて進んだ”のだ。
それが今日、一番大きかったのかもしれない。
その時だった。
視界の端に、ほんの一瞬だけ、見慣れない表示が滲んだ。
『《未接触対象を検知》』
『名前:白峰紗雪』
『状態:???』
『関係性:未確定』
『関連キーワード:支えられなかった過去/閉じた選択肢/再会』
「……白峰?」
思わず、小さく声が漏れた。
だが、表示はすぐに消えた。
まるで今のは見間違いだったとでも言うように。
湊はしばらく、その表示があった場所を見つめていた。
(……誰だ)
知らない名前。
少なくとも、今の湊には心当たりがない。
けれど、“支えられなかった過去”という言葉だけが、妙に胸の奥へ引っかかった。
記憶ではない。
思い出でもない。
なのに、傷跡だけがその名前に反応したような感覚だった。
(支えられなかった過去……)
自分が誰かに支えを求められなかった過去なのか。
それとも、誰かが自分に支えを求められなかった過去なのか。
まだわからない。
ただ、嫌な予感だけが残った。
その時、廊下の向こうから、少しだけ不規則な足音が聞こえてきた。
静かな病棟の流れの中で、ほんのわずかにテンポが乱れている。
急いでいるわけではない。
でも、気持ちに余裕がない時の歩き方だ。
湊がそちらへ視線を向けると、カーテンの隙間の向こうに、一人の看護師の姿が見えた。
佐倉奈緒だった。
今日は昨日ほど露骨に危うくは見えない。
だが、“持ち直した”とも違う。
表情は整っている。
姿勢も保っている。
でも、その整え方が逆に痛々しい。
視界に、静かに表示が浮かぶ。
『《佐倉奈緒》』
『年齢:26』
『職業:看護師』
『レベル:22』
『レア度:★★★★』
『好感度:24%』
『状態:疲労残存/自己否定/平静偽装』
『特性:責任感/抱え込み/助けを求めるのが下手』
『《佐倉奈緒 イベントLv.2》』
『進行率:12%』
『第一目標:佐倉奈緒が隠している“失敗”を知ってください』
『注意:踏み込みすぎると警戒値が上昇します』
(……やっぱり、まだ始まったばかりか)
イベントLv.1は、“止まる”を選ばせただけだ。
そこから先。
何に疲れ。
何に削られ。
どうしてそこまで自分を追い詰めているのか。
その中身は、まだ何一つ見えていない。
湊はカーテンの向こうを見つめながら、小さく息を吐いた。
白い病院。
朝になりきらない時間。
やっと少し動けるようになった自分の身体。
支えてくれる人たち。
そして、まだ助けを求められないまま立っている看護師。
イベントは増える。
選択肢も増える。
でも、そのどれもが、ただの“攻略対象”ではなくなっていた。
助けたいと思う。
ちゃんと進みたいとも思う。
そのどちらも、たぶんもう本音だ。
(……さて)
湊は、視界の端で静かに明滅する青白い表示を見つめた。
結衣の次。
桐谷のその先。
奈緒の続き。
そして、白峰紗雪という知らない名前。
病院ステージは、まだ終わらない。
むしろここから、もう一段深くなる。
そう思いながら、湊は次の選択へと、静かに意識を向けた。
視界の端で、選択肢が浮かぶ。
『【選択肢が表示されます】』
『A:奈緒にすぐ声をかける』
『B:結衣から奈緒の過去を聞く』
『C:綾乃に奈緒の状態を相談する』
『D:今は休み、情報を整理する』
(……次は、選び方を間違えられないな)
湊は細く息を吐いた。
Aは早い。
今の奈緒に、直接踏み込むには情報が足りない。
Cは正しい。
綾乃なら、奈緒の状態をもっと正確に把握しているかもしれない。
Dも悪くない。
自分の身体はまだ本調子ではないし、無理をすれば桐谷に怒られる。
けれど。
(まずは、白石さんから聞く)
結衣は、奈緒を心配していた。
同じ看護師として、近くで見ていた。
そして何より、結衣イベントLv.2を越えた今なら、きっと前より深い話ができる。
奈緒を救うために。
奈緒を壊さないために。
そして、自分が踏み込みすぎないために。
まず、結衣から聞く。
湊は選択肢へ意識を向けた。
『B:結衣から奈緒の過去を聞く』
『選択を確認しました』
『《佐倉奈緒 イベントLv.2》』
『補助ルート:白石結衣ルートが開放されました』
『《選択肢リスク予測》』
『警戒上昇リスク:低』
『情報取得成功率:中』
『結衣イベントLv.3予兆と連動します』
(……繋がった)
強くなるために必要なのは、ただレベルを上げることだけじゃない。
支えられる勇気。
支える覚悟。
そして、踏み込みすぎない判断。
その全部が、今の湊には必要だった。
朝の光が、白い病室へゆっくりと広がっていく。
新しい一日が、始まろうとしていた。
その白い光の中で、黒瀬湊は静かに目を細める。
もう、知らないふりはできない。
見えてしまった以上。
関わってしまった以上。
そして、自分が誰かに支えられて前へ進めるのだと知ってしまった以上。
次は、自分が誰かを支える番だった。




