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第8話 強くなるための選択


 夜と朝の境界は、いつだって曖昧だ。


 まして病院という場所では、その曖昧さがいっそう濃くなる。


 窓の外には、まだ夜の色が深く残っていた。


 けれど、完全な闇ではない。


 空の端には、ほんのわずかに薄い青が混じり始めている。遠くのビル群は、まだ輪郭の半分を夜へ預けていたが、その稜線だけは少しずつ浮かび上がりつつあった。道路沿いの街灯はまだ消えていない。オレンジ色の光が湿った空気の中にぼんやりと滲み、役目を終えかけた火のように静かに揺れている。


 白い病室の中も、同じだった。


 夜の静けさは、たしかに残っている。


 だが、それはもう“深夜の死んだような静寂”ではなかった。


 ナースステーションからは、端末のキーボードを叩く乾いた音が、細く、規則正しく響いている。遠くの廊下ではワゴンの車輪がゆっくりと床を滑り、金属トレーが小さく触れ合う音が、控えめに空気を震わせていた。誰かが短く声を交わし、誰かが小走りになり、誰かが立ち止まる。


 人は動いている。


 仕事は止まっていない。


 病院は、夜でも眠らない。


 そのすべての中で、ただ一つだけ、何も変わらず同じリズムを刻み続ける音があった。


 ピッ、ピッ、と。


 心電図モニターの電子音。


 それが、この場所が夢ではなく現実であることを、淡々と、容赦なく証明し続けていた。


(……終わった、のか)


 黒瀬湊は、ベッドの背を少しだけ起こした姿勢のまま、ゆっくりと息を吐いた。


 胸の奥に残っているのは、疲労だった。


 それも、ひどく妙な疲労だった。


 身体のあちこちに残る鈍い重さと、神経の奥でじわじわと熱を持っているような精神的な消耗が、別々に存在しているのに、どこかで絡み合って一つの“だるさ”になっている。


 佐倉奈緒とのやり取り。


 ほんの数分。


 会話らしい会話と呼ぶには、あまりにも短い接触だった。


 それなのに、その数分の中で使った神経の量が、自分でも少し笑えるくらい多かった。


 相手の呼吸。


 言葉の隙間。


 視線の逃げ方。


 声の揺れ。


 表面に出していない本音の重さ。


 ひとつひとつを読み、踏み込みすぎない位置を探し、相手を壊さない程度の力で触れる。


 その“加減”を探ることに、思った以上に心を削られた。


(助けた……とは、まだ言えないな)


 正直な感想だった。


 何かが劇的に変わったわけではない。


 奈緒はまだ、この病院の中にいる。


 まだ働いている。


 まだ、自分を削りながら立っている。


 ただ――。


(止まった)


 それだけは確かだった。


 あの人は、初めて“自分で止まる”を選んだ。


 短い時間でもいい。


 五分でも十分でもいい。


 自分を仕事から外す、という選択を、奈緒は口にした。


 それはたぶん、普通の人にとっては小さなことだ。


 だが、自分の限界を認めることに慣れていない人間にとっては、ほとんど敗北宣言に近いほど重い。


 それを奈緒はした。


 それだけで、十分大きい。


 そう思った時だった。


 視界の端に、青白い光が静かに広がる。


 淡く。


 だが確実に。


 まるで透明なガラス板が一枚、現実の上に重なるみたいに、半透明のウィンドウが浮かび上がった。


『《前回報酬確認》』


『《奈緒イベントLv.1 一時到達報酬》』


『▼経験値+45』

『現在経験値:195/250 → 240/250』


『▼スキル経験値+70』

『現在スキル経験値:55/250 → 125/250』


『▼恋愛ポイント+50』

『現在恋愛ポイント:150 → 200』


『▼アイテム獲得』

『《微睡みミント》×1』


『▼機能強化』

『《イベント危険度表示》の精度が上昇しました』


『レベルアップ条件未達成』

『黒瀬湊:Lv.2 維持』


 表示を見て、湊は静かに息を吐いた。


(……そうだ)


 奈緒イベントLv.1は、まだ完全攻略ではない。


 あの人は、少しだけ止まった。


 少しだけ休むことを受け入れた。


 でも、それは“救われた”のではなく、“崩れ落ちる直前で踏みとどまった”に近い。


 だから、報酬も完全攻略報酬ではない。


 一時到達報酬。


 その表現が、妙に現実的だった。


 ゲームならイベントをクリアすれば、すべてが区切れる。


 けれど現実は違う。


 一度声をかけたくらいで、人の重さが消えるわけじゃない。


 少し休んだくらいで、積み重なった疲労や自己否定がなくなるわけじゃない。


 それでも、進んだ。


 確かに、一歩だけ。


 湊は、表示の下に並ぶ現在値を見つめる。


『黒瀬湊』

『レベル:2』

『現在経験値:240/250』

『現在スキル経験値:125/250』

『現在恋愛ポイント:200』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.3』


『所持スキル』

・《感情トレースLv.1》

・《言外読解Lv.1》


『所持アイテム』

・《微睡みミント》×1


(あと十でレベルアップか)


 数字を見るだけなら、わかりやすい。


 あと少し。


 もう少し経験値を得れば、湊自身のレベルが上がる。


 だが、だからといって焦る気にはなれなかった。


 奈緒のイベントで、はっきり分かったからだ。


 経験値のために人と関わる。


 それは、たぶん間違えると危ない。


 相手の痛みも、不安も、弱さも、全部“報酬のための素材”に見えてしまう。


 そうなった瞬間、この力はきっと最低のものになる。


(……忘れるな)


 湊は自分に言い聞かせる。


(数字は補助。相手は人間)


 白石結衣も。


 佐倉奈緒も。


 神宮寺綾乃も。


 桐谷美月も。


 まだ名前しか知らない白峰紗雪も。


 みんな、ただの攻略対象ではない。


 それぞれの人生があって、傷があって、事情があって、その上に今この瞬間の反応がある。


 数字が見えるからこそ、そこを見誤ってはいけない。


 そう思った直後、さらに新しい表示が展開した。


『《恋愛ポイントの使用が可能です》』


『自身の能力を強化できます』


『【強化カテゴリ】』

『A:身体能力』

『B:感覚機能』

『C:知識/教養』

『D:会話補助』


「……なるほどな」


 湊は思わず小さく笑った。


「恋愛って名前ついてるのに、やってること完全に育成だろ、これ……」


 ぼそりと呟く。


 だが、本当にありがたい。


 今、湊に必要なのは、ただ好感度を上げる力ではない。


 相手を落とすためのテクニックでもない。


 まず、自分がまともに動けるようになること。


 自分の目で見て、自分の足で立ち、自分の身体で選択できるところまで戻ること。


(モテるとか、正直どうでもいい)


 本音だった。


(まず、動けるようにならないと話にならない)


 そして。


 湊の脳裏に、ふと一人の少女の名前がよぎった。


 白峰紗雪。


 まだ、会えていない。


 まだ、直接向き合っていない。


 けれど、この物語のどこかで必ず交差するはずの名前。


 白い病室。


 動けない身体。


 ベッドの上から誰かを見上げるだけの自分。


 その姿のまま、彼女に会いたくはなかった。


(……白峰紗雪に会う時)


 湊は、無意識に拳を握る。


(せめて、ちゃんと前を向けるくらいには戻っていたい)


 強くなりたい。


 その理由が、少しだけ変わった気がした。


 誰かを攻略するためではない。


 誰かに勝つためでもない。


 自分が、自分の足で立つために。


 自分が選んだ結果から、逃げないために。


 湊は、表示を見つめた。


『現在恋愛ポイント:200』


『使用候補』

『A:視力回復Lv.1 消費80』

『B:身体強化Lv.1 消費70』

『C:観察眼Lv.1 消費60』

『D:会話安定補助Lv.1 消費50』


(全部は取れない)


 計算は一瞬だった。


 全て取れば合計二百六十。


 今のポイントでは足りない。


 だから選ぶ必要がある。


 ゲームなら、序盤の強化方針は重要だ。


 視界を良くするか。


 身体を強くするか。


 観察精度を上げるか。


 会話の安定性を取るか。


 どれも欲しい。


 どれも、この先のイベントでは役に立つはずだ。


 神宮寺綾乃のような相手なら、観察眼がいる。


 白石結衣のような相手なら、会話補助も効くだろう。


 佐倉奈緒のような相手なら、言外読解とイベント危険度表示の精度が命綱になる。


 だが今は。


(……身体だ)


 湊は、自分の足を見る。


 まだ思うように動かない足。


 起き上がるだけで残る違和感。


 ズレたままの重心。


 無意識に力を入れようとしても、遅れてついてくる筋肉。


 今の自分は、病室の中に閉じ込められている。


 ベッドから少し離れることすら、誰かの手を借りなければできない。


 その状態で、人の選択に関わるのは危うい。


 だから、まずは自分が動けるようになる。


 自分の目で見る。


 自分の身体で立つ。


 それが先だ。


(AとB)


 湊は意識を向ける。


『A:視力回復Lv.1 消費80』

『B:身体強化Lv.1 消費70』


『選択を確認しました』


『現在恋愛ポイント:200 → 50』


 まず、視界が変わった。


 ぼやけていた輪郭が、ほんの少しだけ締まる。


 カーテンの繊維が細かく見える。


 ベッド脇の棚に置かれたファイルの角が、前よりもくっきりと認識できる。


 モニターの数字のエッジが、わずかに鋭くなる。


 窓の外、薄く青み始めた空と、まだ眠る街灯の光の境目が、さっきよりもはっきり分かれた。


(……おお)


 次に、身体。


 呼吸が少しだけ深くなる。


 身体の芯が、わずかに“中心”へ戻る。


 足へ入れる力が、さっきより素直に伝わる気がした。


 劇的ではない。


 けれど、確実に違う。


 痛みが消えたわけではない。


 怪我が治ったわけでもない。


 ただ、身体の命令系統がほんの少しだけ整ったような感覚。


(これは……でかいな)


 湊は指先をゆっくり動かした。


 握る。


 開く。


 もう一度、握る。


 ほんのわずかな変化。


 だが、そのわずかさが今は大きい。


(強くなった、っていうより……戻ってきた、か)


 失っていたものが、ほんの少し戻った感覚。


 それは、思っていた以上に胸へ来た。


 嬉しい。


 悔しい。


 まだ足りない。


 全部が混じる。


 そして湊は、改めて理解する。


(使い方次第、だな)


 万能ではない。


 答えを勝手にくれるわけでもない。


 だが、積み重ねれば確実に自分を変える。


 見る力が増えた分だけ、見えてしまうものも増える。


 動ける力が増えた分だけ、関われる範囲も広がる。


 だから、強い。


 そして、厄介だ。


     ◇


「……顔、変わったね」


 不意に声がして、湊は現実へ引き戻された。


 視線を向けると、桐谷美月が腕を組んで立っていた。


 リハビリ用のウェア。


 髪はひとつにまとめられていて、白衣とは違う身軽さがある。


 姿勢は軽い。


 なのに、立ち方には隙がない。


 踵の置き方。


 重心の位置。


 肩の抜け方。


 どれも自然なのに、どこか“すぐ動ける人間”の形をしていた。


 そして何より、目が鋭い。


 表情だけ見れば柔らかい。


 少し気安くて、距離が近くて、明るい。


 だが、その目は人の身体の変化を見逃さない、獣みたいな観察力を持っていた。


「さっきより“見えてる顔”してる」


「……そんなに変わります?」


「わかるよ」


 桐谷は一歩、近づいてくる。


 距離が近い。


 だが、圧迫感とは少し違う。


 相手の反応を引き出すために、必要な距離まで自然に踏み込んでくる人間の距離感だった。


「こういう仕事してるとね」


 桐谷は少しだけ肩をすくめる。


「立ち方とか、目の合い方とか、呼吸の入り方とか、細かいところでけっこうわかる」

「患者さんって、自分では隠せてるつもりでも、身体には出るから」

「怖がってる時は、怖がってる身体になる」

「無理してる時は、無理してる身体になる」

「調子が上がった時は、調子が上がった身体になる」


 一拍。


 桐谷は、にっと笑った。


「で、何したの?」


「……気のせいじゃないですか」


「へえ」


 桐谷の口角が、ほんの少しだけ上がる。


「じゃあ、気のせいってことにしとく」


 あっさり引いた。


 だが、それは“納得した”ではない。


 “今は追わない”だけだ。


(この人、やっぱりやばいな)


 その瞬間、いつもの表示が浮かぶ。


『《対象を認識しました》』


『名前:桐谷美月』

『年齢:25』

『職業:理学療法士』


『レベル:18』

『レア度:★★★★』


『好感度:28%』


『状態:観察/興味(強)/仕事モード』

『特性:直感型/行動派/身体を見る目が鋭い/距離感が近い』

『攻略難易度:★★★☆☆』


『《美月イベントLv.1》』

『進行度:42%』


(……美月イベントLv.1)


 表示を見て、湊は内心で息を整える。


 結衣イベントLv.2。


 奈緒イベントLv.1。


 美月イベントLv.1。


 病院ステージのルートが、少しずつ形になっていく。


「じゃ、続きやろっか」


「もうですか」


「もう、です」


 桐谷は即答した。


「回復したんでしょ?」


 ニヤッと笑う。


「顔に書いてある」


「……バレてるな」


「そりゃね」


 軽く手を差し出される。


「立つよ」


 その一言だけで、空気が変わる。


 病室の静けさが、今だけ“訓練の場”へ変わる。


 湊の中でも、自然と意識が切り替わる。


 立つ。


 たったそれだけのことなのに、今の自分にはそれが小さな挑戦だった。


「先に言っとくけど」


 桐谷は差し出した手を引っ込めないまま、少しだけ目を細めた。


「今日の目的は、格好よく立つことじゃない」

「無理して成功っぽく見せることでもない」

「できないところを、ちゃんと見つけること」


「……できないところを?」


「そう」


 桐谷は頷く。


「できることだけ見てると、回復は遅れる」

「できないところを見つけて、そこをどう支えるか決める」

「それがリハビリ」


 軽い声なのに、言葉は重かった。


「だから、失敗していい」

「むしろ、失敗した方が材料になる」

「ただし、無茶はダメ」

「無茶は失敗じゃなくて事故」


 そこだけ、妙に鋭かった。


 湊は小さく息を吐く。


「……わかりました」


「ほんとに?」


「たぶん」


「たぶん、ね」


 桐谷は笑った。


「正直でよろしい」


 その時、視界に選択肢が浮かんだ。


『【選択肢が表示されます】』


『A:強がって「大丈夫です」と言う』

『B:不安を隠さず「怖いです」と言う』

『C:冗談でごまかす』

『D:質問して手順を確認する』


(……ここでDだな)


 Aは論外。


 Cも悪くないが、今は軽く流す場面ではない。


 Bは本音としては近い。


 だが、美月が求めているのは感情の共有より、身体の確認と安全だ。


 今必要なのは、ちゃんと手順を聞くこと。


「手順、確認していいですか」


 湊がそう言うと、桐谷の表情がほんの少し変わった。


 楽しそうに。


 そして、少しだけ満足そうに。


「いいね」


 短く言う。


「今の、かなりいい」

「怖いのをごまかして勢いでやるより、ちゃんと確認できる人の方が伸びる」


『《桐谷美月》』

『好感度:28% → 32%』

『状態:興味(強)/評価』


(おお……)


 美月は、感情的な甘さよりも、リハビリに対する姿勢で好感度が動くタイプらしい。


「まずベッドの縁まで移動」

「足を下ろす」

「足裏を床に置く」

「腰を前に出しすぎない」

「立つ時は、私に身体を預ける」

「自分で全部やろうとしない」


 桐谷はひとつずつ指を折るように説明する。


「ポイントは三つ」

「呼吸を止めない」

「目線を落としすぎない」

「支えられることを恥ずかしがらない」


「最後、精神論じゃないですか」


「違うよ」


 即答だった。


「支えられるのを恥ずかしがる人は、身体に余計な力が入る」

「力が入ると、重心がズレる」

「重心がズレると、こっちの支えも遅れる」

「だから精神論じゃなくて、普通に身体の話」


「……なるほど」


「納得した?」


「しました」


「よし」


 桐谷は笑う。


「じゃ、やろうか」


     ◇


 ベッドの縁へ体を寄せる。


 足を下ろす。


 床に触れた瞬間、冷たさが伝わってくる。


 その冷たさだけで、自分がまだ病人なのだと妙に実感した。


 白い床。


 病室用の滑りにくい床材。


 普段なら意識もしないその感触が、今は異様に大きい。


 ここに立つ。


 自分の足で。


 それが、今の湊には簡単ではなかった。


「焦らないで」


 桐谷の声は軽い。


 でも、目は笑っていない。


「勢いでやると、全部ズレるから」


「……はい」


 返事をしながら、湊は内心で苦笑する。


 わかっている。


 わかっているのに、身体はつい“勢いでごまかそう”とする。


 できないのを認めたくないからだ。


「まず足の裏、ちゃんと感じて」


 桐谷が言う。


「床があるって、頭じゃなくて身体に教える」


 その言い方が印象的だった。


 頭ではわかっている。


 でも身体はまだ納得していない。


 そのズレを埋めるのがリハビリなのだと、なんとなく理解する。


「……はい」


「うん、いい」

 桐谷は少しだけ頷く。

「じゃ、立つ準備。重心前」


 腰に手が添えられる。


 肩にも支えが入る。


 距離が近い。


 体温が近い。


 呼吸の気配が近い。


 意識しない方が難しい距離だった。


(リハビリだぞ)


 自分に言い聞かせる。


(変に意識するな)


 だが、意識するなと言われて意識しないでいられるほど、湊は恋愛イベントを生きてこなかった人間ではなかった。


 しかも相手は、レベル18、レア度★★★★の女性だ。


 身体を預けるという行為そのものが、イベントっぽさを帯びて見えてしまう。


 そのうえ、桐谷美月は距離が近い。


 近いことをまるで気にしていない。


 それが逆に、こっちだけ意識しているみたいで妙に落ち着かない。


「顔、赤くない?」


「気のせいです」


「へえ」


「本当に気のせいです」


「はいはい」


 桐谷は少し笑った。


「リハビリ中に変なこと考える余裕があるなら、まだ大丈夫だね」


「いや、ないです」


「今、即答したね」


「……」


 負けた気がした。


 そのやり取りを、病室の入口付近で見ていた白石結衣が、なぜか少しだけ頬を膨らませていた。


 本人は気づいていないのかもしれない。


 けれど、湊の視界にはしっかり映る。


『《白石結衣》』

『状態:照れ/むずむず/対抗心(微)』


(……対抗心?)


 なんだそのかわいい状態表示は。


 湊が一瞬そちらを見た瞬間、結衣がぱっと顔を逸らした。


「な、何でもないですっ」

「私は、その、記録を見てるだけなので……!」


 見てるだけの顔ではなかった。


 だが、そこを突っ込むと事故が起きそうなので、湊は黙った。


『【選択肢が表示されます】』


『A:結衣に「嫉妬した?」と聞く』

『B:何も言わずリハビリに集中する』

『C:桐谷に軽口を返す』

『D:結衣にも手順確認を頼む』


(Aは死ぬ)

(Cは美月には効くかもしれないけど、結衣が爆発する)

(Bは安全)

(でも、結衣イベントLv.2を進めるなら――)


(Dだ)


 湊は、結衣を見る。


「白石さん」


「は、はいっ」


「俺、今から立つから」

「変な力入ってたら、教えてもらっていい?」


「え……私が、ですか?」


「見ててくれると助かる」


 一瞬、結衣の目が丸くなる。


 次の瞬間、頬が赤くなった。


 でも、嬉しそうだった。


「……はい」

「見てます」

「ちゃんと、見てます」


『《白石結衣》』

『好感度:75% → 78%』

『状態:照れ/信頼/役割獲得』


『《結衣イベントLv.2》』

『進行度:15% → 28%』


(よし)


 結衣は“自分が役に立てている”ことに反応する。


 チュートリアルの時から一貫している。


 ただ褒めるだけじゃない。


 ちゃんと役割を渡すこと。


 それが今の結衣には効く。


「はい、行くよ」


 桐谷が低く言う。


「一、二、で前」


「……っ」


 足に力を入れる。


 さっきよりは、伝わる。


 身体強化の影響か。


 それとも手順を理解したからか。


 足裏から床の感触が上がってくる。


 膝が震える。


 右と左で、感覚が微妙に違う。


 身体が立とうとする前に、重心だけが先に流れる。


「……あ」


 崩れる。


 その瞬間。


 ぐっと支えられた。


 腰。


 肩。


 背中。


 逃がさないように、でも苦しくないように。


 絶妙な力加減で、身体が固定される。


「はい、ストップ」


 低い声。


 冷静な制止。


「それ以上やると崩れる」


「……まだいけます」


「いけない」


 即答だった。


 間髪入れない否定。


 でもそこに嫌な感じはない。


「今のは“できる”じゃなくて“無理してる”」

 一拍。

「わかるでしょ?」


 言葉が詰まる。


 図星だった。


 できていないことを認めたくなくて、勢いで押し切ろうとした。


 それを、綺麗に見抜かれていた。


「……悔しいですけど」


「いいね」


 桐谷が少しだけ笑う。


「その顔」


「え?」


「ちゃんと悔しがれる人、伸びるから」


 その言葉は、不思議と深く刺さった。


 否定ではなく、肯定だったからだ。


 “できてないね”で終わらない。


 “悔しいって思えるなら大丈夫”と、次を見ている言葉だった。


「……じゃあ、どうすればいいんですか」


「簡単」


 桐谷の声が、少しだけ真面目になる。


「支えられなさい」


 その一言が、重く落ちた。


「一人でやろうとするな」

「できないのは普通」

「今のあんたは“回復途中の人間”なんだから」


 沈黙。


 その言葉を、湊は胸の中で反芻する。


(……そうか)


 ずっと、どこかで。


 やらなきゃいけない、と思っていた。


 早く元に戻らなきゃいけない。


 ちゃんと立たなきゃいけない。


 自分でやらなきゃ意味がない。


 そう思っていた。


 でも。


(それ、逆か)


 回復途中の人間が、支えを借りるのは敗北じゃない。


 今の自分の状態を正しく受け入れる、というだけのことだ。


 支えられることを認める。


 助けてもらうことを、負けだと思わない。


 それは、奈緒が“休む”を選んだことと、少し似ている気がした。


 人は、自分で立ちたい。


 誰かに迷惑をかけたくない。


 弱いところを見せたくない。


 でも、だからこそ壊れることもある。


 奈緒は休むことを選んだ。


 なら、自分は支えられることを選ぶべきなのかもしれない。


「……わかりました」


 力を抜く。


 身体を預ける。


 変な意地を、ほんの少しだけ手放す。


 その瞬間――立てた。


 数秒だけ。


 ほんのわずかな時間。


 でも確かに、自分の足で床を踏み、自分の身体を縦に支えていた。


「……立ってる」


 結衣が、小さく呟いた。


 その声は、なぜか泣きそうだった。


「黒瀬さん、ちゃんと……」


「はい、成功」


 桐谷が小さく笑う。


「それでいい」


 その“それでいい”が、思った以上にありがたかった。


 十分だと。


 今の段階ではこれでいいのだと。


 はっきり言ってもらえるのは、不思議と救いになる。


 視界の端で、表示が静かに広がった。


『《美月イベントLv.1 CLEAR》』


『条件達成:支えを受け入れる』

『条件達成:無理を成功と誤認しない』

『条件達成:自分の限界を認識する』


『▼経験値+35』

『現在経験値:240/250 → 275/250』


『レベルアップ条件達成』

『黒瀬湊 Lv.2 → Lv.3』


『余剰経験値を繰り越します』

『現在経験値:25/400』


『▼スキル経験値+80』

『現在スキル経験値:125/250 → 205/250』


『▼恋愛ポイント+60』

『現在恋愛ポイント:50 → 110』


『▼新スキル獲得』

『《身体感覚補正Lv.1》』


『▼アイテム獲得』

『《リハビリサポーター》×1』


「……上がった」


 思わず声が漏れる。


 その瞬間、また変化が訪れた。


 呼吸がさらに整う。


 身体の位置感覚が、少しだけ明確になる。


 自分の腕がどこにあって、足がどこにあって、重心がどこへ流れそうなのか、その“予感”がさっきより掴みやすい。


(これが……身体感覚補正)


 リハビリには、たしかに相性が良さそうだった。


 派手な力ではない。


 けれど、今の湊には何より必要な力だった。


 自分の身体がわかる。


 それだけで、怖さが少しだけ減る。


「顔、いいね」


「何がですか」


「“ちゃんと理解した顔”」


 桐谷は少しだけ距離を取って、改めて湊を見る。


「さっきより、立とうとしてる顔じゃなくて、“立てる身体を作ろうとしてる顔”してる」


 それは、自分では気づいていない変化だった。


「……そんなにわかります?」


「わかるよ」


 桐谷は肩をすくめる。


「身体を見る仕事、なめないで」


 その言い方が少しだけ格好よくて、湊は内心で小さく苦笑した。


(この人、自覚なしでこういうこと言うタイプだな)


 明るい。


 軽い。


 でも、根のところでかなりプロだ。


 だから、言葉に重さがある。


 そして、美月はふっと笑って、湊の額を軽く指で押した。


「あと、調子乗らない」


「まだ何も言ってないんですけど」


「顔に出てた」


「そんなに顔に出ます?」


「出る出る」

「思ったよりわかりやすいよ、黒瀬くん」


 名前を呼ばれた瞬間、少しだけ胸が揺れた。


 結衣とは違う。


 奈緒とも違う。


 綾乃とも違う。


 美月は、距離の詰め方が自然すぎる。


 それが危険だった。


『《桐谷美月》』

『好感度:32% → 38%』

『状態:仕事モード/興味/面倒見』


(……上がってる)


 湊は思わず目を細める。


 美月イベントLv.1はCLEARした。


 だが、彼女との関係が終わったわけではない。


 むしろ、ここからが始まりだ。


     ◇


「……すごいです」


 結衣の声がした。


 振り向くと、少し赤い顔でこちらを見ていた。


 手元にはメモと端末を抱えている。


 さっきよりも落ち着いているが、それでも感情が表に出るのは早い。


「ちゃんと立ててました」


「ギリギリだけどな」


「でも……」


 結衣は言葉を探すように、少しだけ視線を揺らした。


「ギリギリでも、ちゃんとやろうとする人って……すごいと思います」

「私だったら、怖くなって、そのまま止まっちゃうかもしれないので」


(……ちゃんと見てるな)


 結衣は、人の頑張りを見ている。


 しかも、雑に褒めない。


 自分だったらできないかもしれない、という感覚を通して言葉を出してくるから、そこに妙な実感がある。


「白石さんの方はどうなんだよ」


「えっ、私ですか!?」


 一瞬で目を丸くする。


 そのあと、少しだけ表情が曇る。


 視界の端で、表示が揺れた。


『《結衣イベントLv.2》』


『状態:向上心/不安(微)/期待』

『テーマ:自信を持つための一歩』

『進行度:28%』


 なるほど、と湊は思う。


 奈緒が“崩れないためのイベント”なら、結衣は“ちゃんと立つためのイベント”だ。


 方向は違うが、どちらも“自分をどう見るか”が鍵になっている。


「……まだ、全然です」


 結衣は小さく言う。


「さっきだって、私、桐谷さんみたいに落ち着いて動けてないですし……」

「黒瀬さんが立つ時も、手伝いたいって思ったのに、ちゃんとタイミング見れなかったし……」

「先生に褒められた時は嬉しかったんです」

「黒瀬さんに、ちゃんと見てるって言ってもらえたのも、嬉しかったです」

「でも、嬉しいって思ったあとで、すぐ不安になるんです」

「本当にできてるのかなって」

「たまたまじゃないかなって」

「次に失敗したら、やっぱり私なんかって思いそうで……」


 そこまで言って、結衣は慌てて口を押さえた。


「す、すみません……!」

「患者さんにこんな話、することじゃないですよね……!」


「いや」


 湊は、ゆっくり首を振る。


「いいと思う」


「え……?」


「ちゃんと不安って言えるのは、いいことだろ」


 その言葉に、結衣の目が揺れた。


「……そう、なんですか?」


「少なくとも」

 一拍。

「不安じゃないふりして、全部抱え込むよりはいい」


 奈緒の顔が脳裏をよぎる。


 限界なのに笑う人。


 大丈夫じゃないのに、大丈夫と言ってしまう人。


 結衣はまだ、そこまで沈んでいない。


 だからこそ、今のうちに“言ってもいい”と覚えた方がいい。


「白石さんは、まだ不安って言える」

「それって、たぶん強いよ」


「……強い?」


「うん」


 湊は少しだけ笑った。


「俺は、結構できない」

「すぐ平気なふりするし」

「大丈夫じゃない時も大丈夫って言うし」

「さっきも、桐谷さんに見抜かれた」


「……黒瀬さんも、そうなんですか?」


「かなり」


「じゃあ……」


 結衣は少しだけ考えてから、控えめに言った。


「私たち、似てるんでしょうか」


 その言い方があまりに真面目で、湊は一瞬返事に詰まった。


 結衣は、自分で言ってから顔を真っ赤にする。


「あ、い、いえっ!」

「変な意味じゃなくて!」

「その、えっと、不安なのに平気なふりしちゃうところが、って意味で……!」


「わかってる」


「本当ですか!?」


「たぶん」


「たぶんって言いましたよね!?」


 結衣が少しだけ拗ねたような顔をする。


 その表情が、あまりにもわかりやすい。


 そして、少し可愛い。


(……やばいな)


 湊は内心で思う。


 結衣は、ラブコメの呼吸が軽い。


 奈緒や綾乃のような重さのあとに、この反応を見ると、妙に救われる。


 その時、選択肢が浮かぶ。


『【選択肢が表示されます】』


『A:からかって照れさせる』

『B:真面目に努力を肯定する』

『C:「似てるかもな」と距離を縮める』

『D:桐谷へ話を振って空気を変える』


(……これは迷う)


 Aはラブコメ的に強い。


 Bは安定。


 Dは逃げ。


 Cは少し踏み込む。


 結衣イベントLv.2は、自信を持つための一歩。


 なら、ただ照れさせるより、“一緒に進んでいる”感覚を渡した方がいい。


(Cだな)


「似てるかもな」


 湊がそう言うと、結衣の動きが止まった。


「え……」


「不安になるところとか」

「でも、前に進みたいところとか」


 一拍。


「たぶん、似てる」


 結衣は、しばらく何も言わなかった。


 ただ、目を大きくしたまま湊を見ている。


 やがて、ゆっくりと視線を伏せた。


「……それは」


 声が小さくなる。


「ちょっと、嬉しいです」


「嬉しいのか?」


「はい」

 結衣は頬を赤くしたまま、小さく笑った。

「黒瀬さんが、遠い人じゃない気がするので」


 その言葉は、思ったより深く刺さった。


 遠い人。


 自分は誰かにとって、そう見えていたのか。


 陰キャで、存在感が薄くて、誰かの中心になんていられなかった自分が。


 今、目の前の結衣には“遠い人”に見えることがあるのか。


 変な感じだった。


 少し、くすぐったい。


「……俺、そんな遠い人じゃないけどな」


「知ってます」

 結衣は、ほんの少しだけ勇気を出すように言った。

「だから、話してくれると……安心します」


『《白石結衣》』

『好感度:78% → 84%』


『状態:信頼/照れ/期待(中)』


『《結衣イベントLv.2》』

『進行度:28% → 45%』


『▼スキル経験値+30』

『現在スキル経験値:205/250 → 235/250』


(……一気に進んだ)


 胸キュンとイベント進行が、妙に噛み合っている。


 結衣ルートは、やはり“素直な言葉”が強い。


「……二人、いい感じだねえ」


 桐谷が横から茶化すように言った。


「き、桐谷さんっ!」


「ごめんごめん」

 桐谷は笑う。

「でも白石さん、今の顔は記録しておきたいくらい分かりやすかった」


「やめてください!」


 結衣が真っ赤になる。


 湊は思わず笑いそうになり、肋のあたりに少し痛みが走って顔をしかめた。


「っ……」


「ほら、笑うのもリハビリだね」


「それ、絶対違うでしょ」


「腹筋使うから、あながち間違いでもない」


 桐谷は平然と言った。


 結衣は心配そうに湊を見る。


「だ、大丈夫ですか?」


「大丈夫」

「今のは本当に大丈夫」


「……本当ですか?」


「本当」


「信じますよ?」


「信じてください」


 そのやり取りだけで、結衣の頬がまた少し赤くなる。


 美月が小さく笑った。


「白石さん、いいね」


「え?」


「今の確認、すごくいい」

「患者の“大丈夫”を一回疑うの、大事だから」

「でも、疑い方が強すぎると患者が萎縮する」

「今のはちょうどいい」


 結衣の目が見開かれる。


「ほ、本当ですか?」


「うん」

「さっきよりちゃんと見えてる」


「……ありがとうございます」


 結衣は、両手で端末を抱え直しながら、少しだけ背筋を伸ばした。


 その横顔に、昨日までの不安定さは少しずつ薄れている。


 まだ不安はある。


 でも、それ以上に“前へ進みたい”が見える。


『《結衣イベントLv.2》』

『進行度:45% → 52%』


『▼スキル経験値+20』

『現在スキル経験値:235/250 → 255/250』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』

『スキル経験値条件達成』


『《恋愛選択肢表示》Lv.3 → Lv.4』


『▼新機能解放』

『《選択肢保留》が使用可能になりました』


『説明:提示された選択肢を即時選択せず、短時間だけ保留できます』

『注意:保留中も現実は進行します』


(……保留)


 湊は表示を見つめた。


 便利だ。


 ものすごく便利だ。


 今までは選択肢が出た瞬間に、ほぼ即断する必要があった。


 でもこれからは、少しだけ考える時間を持てる。


 相手の顔を見て、声を聞いて、空気を読んでから選べる。


 ただし。


(現実は進む、か)


 そこが重要だった。


 ゲームの一時停止ではない。


 考えている間にも、相手は話し続ける。


 沈黙が長くなれば、不自然になる。


 迷いすぎれば、別の結果を招く。


 便利だが万能ではない。


 やはり、このスキルは“楽をする力”ではなく、“選ぶ責任を重くする力”なのだと思った。


     ◇


 その時、静かな足音が病室の前で止まった。


「……進んでるわね」


 低く、短い声。


 神宮寺綾乃だった。


 白衣のまま、扉のところに立っている。


 視線はまず湊の足元へ、次に美月の支え方へ、最後に結衣の位置へ流れた。


 ほんの一秒にも満たない時間。


 だが、その一瞬で今の状況を全部把握したのだとわかる。


「神宮寺先生」


 美月が軽く手を挙げる。


「立位、短時間ならいける」

「ただし歩行はまだ早い」


「見ればわかる」


 綾乃は短く返す。


 それから湊を見る。


「無理は?」


「してない……つもりです」


「“つもり”は要りません」

 一拍。

「してないなら、してない」


「……してないです」


「ならいい」


 短い。


 相変わらず、余白がない。


 でも、その短さの中に“見ている”がちゃんと入っている。


『《神宮寺綾乃》』

『年齢:28』

『職業:外科医』


『レベル:33』

『レア度:★★★★★』


『好感度:7%』


『状態:観察/興味(微)/警戒維持』

『感情トレース:疲労小/責任感持続』

『特性:理知的/完璧主義/感情抑制』


(好感度、少し上がってる)


 綾乃相手に1%動くのは大きい。


 何か劇的に近づいたわけではない。


 だが、彼女の中で“観察対象”としての湊の輪郭は確実に濃くなっている。


「桐谷」


 綾乃が短く呼ぶ。


「なに?」


「歩行はまだ早い」


「わかってる」

 美月も即答する。

「今日は移乗と立位まで」

「欲張らない」


「ならいい」


 会話が短い。


 でも、それで十分に通じている。


 積み重ねた信頼と専門性があるからこその短さだ。


 その横で、結衣が少しだけ緊張した顔をしているのを、湊は見逃さなかった。


 綾乃の前では、やはりまだ身構えるのだろう。


 そんな結衣へ、綾乃が視線を向ける。


「白石さん」


「は、はいっ」


「さっきより安定しています」

 一拍。

「その調子で」


 それだけ。


 それだけなのに、結衣の目がぱっと明るくなる。


「……はいっ!」


 声のトーンまで上がる。


(……ほんと、この人の一言は効くな)


 クールで短い。


 でも、その短さの中に確かな評価が入っているから、余計に刺さるのだろう。


『《白石結衣》』

『好感度:84% → 86%』


『《結衣イベントLv.2》』

『進行度:52% → 58%』


(そっちも上がるのかよ)


 湊は内心で少し笑いそうになった。


 綾乃はその変化を知らない。


 知らないまま、必要な言葉だけを置いていく。


 その在り方が、ある意味一番ずるい。


「……あと」


 綾乃が湊を見る。


「視線の動き、昨日よりいい」


 一瞬、湊の心臓が跳ねた。


 見抜かれた、と思った。


 視力回復。


 身体強化。


 そういう強化の結果が、わずかな視線の質の変化として出ていたのかもしれない。


「……そうですか」


「ええ」

 綾乃は表情を変えずに言う。

「回復傾向としては悪くない」

「ただし、急な改善ほど慎重に見ます」


 湊は息を止めかけた。


「……慎重に、ですか」


「はい」

「回復が早いこと自体は悪くありません」

「ですが、早すぎる回復には必ず理由があります」

「身体的理由か」

「精神的理由か」

「あるいは、まだ見えていない別の要因か」


 綾乃の目が、静かに湊を射抜く。


「私は、その理由を確認する立場です」


 詰められている。


 責められているわけではない。


 だが、観察されている。


 この人は、やはり危険だ。


 高難易度ヒロインというより、システムそのものを疑いかねない観察者だ。


『《神宮寺綾乃》』

『状態:観察/違和感(微)/興味』


(……違和感、消えないか)


 当然だ。


 湊自身、説明できないことをしている。


 それでも綾乃は、今はそれ以上踏み込まなかった。


「無理をしなければ、今は問題ありません」

「続けてください」


 それだけ言うと、最後に美月へ短く頷く。


 そして、綾乃は病室を出ていった。


 白衣の裾が静かに消えていく。


 残された空気が、少しだけやわらぐ。


「相変わらず、必要最低限」


 美月が小さく笑う。


「でも、ちゃんと見てますよね」


 結衣が言う。


「見てるね」


 美月は頷く。


「神宮寺先生、ああいう人だから」

「余計なことは言わないけど、見てないわけじゃない」

「むしろ見すぎてるくらい」


「……見すぎてる」


 湊は小さく呟いた。


 たしかに、その通りだ。


 綾乃は見ている。


 患者としての回復も。


 結衣の成長も。


 奈緒の限界も。


 美月の判断も。


 そして、湊の異常性も。


 その全部を、感情に流されずに見ている。


(……やっぱり、正面から攻略する相手じゃないな)


 この人に必要なのは、好感度上げではない。


 信用の積み重ねだ。


 おそらく、それ以外では動かない。


     ◇


 リハビリが一段落したあと、湊は再びベッドへ戻された。


 美月の手は相変わらず迷いがなかった。


「ほら、ここで腹抜かない」

「肩に力逃がしすぎ」

「そう、それはいい」

「白石さん、フットレスト確認」

「うん、今の良かった」


 短く、でも的確だ。


 綾乃の言葉が“事実を置く”ものなら、美月の言葉は“動きの中で修正を入れる”ものだ。


 種類が違う。


 でも、どちらも芯は似ている。


 変に甘くしない。


 でも、突き放さない。


 それが心地いいと感じ始めている自分に、湊は少し驚いた。


 ベッドへ戻る。


 深く息を吐く。


「お疲れ」


 美月が言う。


「初日としては上々」


「それ、ほんとですか」


「半分ほんと」


「半分?」


「残り半分は、まだ全然始まってないって意味」


 にやっと笑う。


「立つ、座る、移る、押す、止まる」

「ぜんぶ別物だから」

「今日は“支えられて立つ”の入口」

「次は“自分で支える感覚”を増やす」

「その次は“崩れる前に止まる”を覚える」


 その言葉に、少しだけ身構える。


 だが同時に、前へ進む実感もあった。


『《美月イベントLv.1》』

『状態:CLEAR』


『《美月イベントLv.2》』

『解放条件:信頼関係の形成』

『進行条件:リハビリ継続/無茶をしない選択を三回成功』


(……無茶をしない選択、か)


 わかっているようで、難しい。


 湊は、たぶん無茶をするタイプだ。


 事故の時もそうだった。


 奈緒の時も、半分そうだった。


 合理性より先に身体が動く。


 それは長所でもあり、短所でもある。


 なら、この美月イベントは、そこを矯正するルートなのかもしれない。


「じゃ、次は昼前かな」


 美月がタブレットへ何かを入力する。


「それまでに寝るなり、ぼーっとするなり、好きにしてて」

 一拍。

「でも、勝手に立たないこと」


「……信用ないですね」


「現時点ではないね」


 即答。


「でも、ちゃんとしたら積み上がるから」


 その言い方が、妙に好きだと思った。


 最初から信用しない。


 でも、可能性を切り捨てもしない。


「じゃあまた」


 美月は軽く手を振る。


「次はもうちょっと攻めるから、覚悟しといて」


「怖いこと言いますね」


「リハビリってそういうもんだよ」


 笑いながら言って、病室を出ていく。


 その背中を見送ったあと、結衣がそっと近づいてきた。


「……黒瀬さん」


「ん?」


「さっき、ほんとにすごかったです」


 まだ言うのかと思って、少しだけ笑う。


「立っただけだろ」


「立っただけじゃないです」


 結衣は少し強めに言った。


 そして、自分でもその声の強さに驚いたように目を丸くする。


「あ……す、すみません」


「いや」

「続けて」


 湊がそう言うと、結衣は少しだけ息を吸った。


「黒瀬さん、最初は自分でやろうとしてました」

「でも、桐谷さんに言われて、ちゃんと支えを受け入れてました」

「それって、たぶん……すごいことだと思います」


「すごい?」


「はい」

「私、たぶん怖いです」

「できないって言われるのも怖いし」

「誰かに支えてもらうのも、迷惑かけてるみたいで怖いし」

「だから、黒瀬さんがちゃんと受け入れたのを見て……」

 一拍。

「少し、勇気が出ました」


 その言葉は、結衣自身の奥から出てきたものだった。


 ただの褒め言葉ではない。


 自分に重ねて、そこから出てきた言葉だ。


 湊は、少しだけ真面目に返す。


「白石さんは、もう支えてる側だろ」


「え?」


「さっき、見ててくれた」

「変な力入ってないか確認してくれた」

「俺、助かった」


 結衣の顔が一気に赤くなる。


「そ、そんな……私は本当に見てただけで……」


「見てるだけって、結構大事じゃないか?」


「……」


「少なくとも、俺は助かった」


 結衣は何か言おうとして、言えなかった。


 唇が少し震える。


 泣きそう、というほどではない。


 でも、胸の奥の柔らかいところをまっすぐ触れられた顔だった。


「……黒瀬さんは」


 結衣は小さく言う。


「そういう言い方、ずるいです」


「またそれか」


「またです」

「だって、ずるいので」


 少しだけ拗ねたような顔。


 でも、嬉しそうでもある。


『《白石結衣》』

『好感度:86% → 89%』


『《結衣イベントLv.2》』

『進行度:58% → 70%』


『テーマ更新:自信を持つための一歩 → 誰かを支える自覚』


『▼恋愛ポイント+40』

『現在恋愛ポイント:110 → 150』


(……七十)


 かなり進んだ。


 結衣イベントLv.2は、このままいけば次話か次々話でCLEARできそうだ。


「……今度」


 結衣が、少し勇気を出すように言った。


「今度、時間がある時に」

「もう少し、ちゃんと話したいです」


「うん」


 湊は頷く。


「俺も、話したい」


 素直にそう返すと、結衣はまた赤くなった。


 だが今度は、ただ照れるだけではなかった。


 嬉しさを、ちゃんと受け取っている顔だった。


「……はい」


 小さく、けれど確かな声。


 その瞬間、視界の端に小さな表示が浮かぶ。


『《結衣イベントLv.2》』

『次段階条件:二人きりの会話』

『推奨場所:病室/談話スペース』

『注意:過剰な攻略意識は対象の不安を刺激します』


(わかってるよ)


 湊は内心で返す。


 結衣は攻略対象である前に、白石結衣だ。


 見習い看護師で、不安になりやすくて、でもちゃんと前を向こうとしていて、人のことをよく見ていて、褒められるとすぐ赤くなる。


 数字だけで扱っていい相手ではない。


 それは、もう嫌というほど分かっている。


     ◇


 その時、廊下の方から、少しだけ低い声が聞こえた。


 湊はそちらへ視線を向ける。


 カーテンの隙間の向こう、ナースステーションへ戻ってきた佐倉奈緒の姿が見えた。


 昨日ほど危うくはない。


 だが、完全に戻ったわけでもない。


 顔色はまだ白い。


 目元には疲労が残っている。


 それでも、歩き方が少しだけ変わっていた。


 背負いすぎていたものを、ほんのわずかに下ろした後のような、わずかな緩み。


『《佐倉奈緒》』

『年齢:26』

『職業:看護師』


『レベル:21』

『レア度:★★★★』


『好感度:20% → 24%』


『状態:疲労/休止受容/警戒低下(微)』


『《奈緒イベントLv.1》』

『状態:一時到達』


『《奈緒イベントLv.2》』

『解放条件未達成』


(……よかった)


 完全じゃない。


 でも悪化は止まっている。


 それだけで、今は十分だった。


 奈緒はこちらに気づくと、ほんのわずかに目を伏せた。


 会釈。


 それだけ。


 だが、昨日までの“完璧な看護師の笑顔”とは少し違った。


 ほんの少しだけ、素に近い。


 湊も小さく頷き返す。


 そのわずかなやり取りを、結衣が見ていた。


「奈緒さん……少しだけ、顔色戻ってますね」


「ああ」


「よかったです」


 結衣の声は、本当に安心していた。


 湊は、その横顔を見ながら思う。


 結衣もまた、奈緒を心配していた。


 自分だけが見えていたわけではない。


 スキルがあるから気づけたことは多い。


 だが、スキルがなくても見ている人はいる。


 結衣は、その一人だ。


(……この力、勘違いしたらダメだな)


 自分だけが特別に見えている。


 自分だけが正解を選べる。


 そう思った瞬間、この能力はたぶん歪む。


 見えているからこそ、見えていない人の優しさもちゃんと拾わなければいけない。


 その時、青白い表示が静かに広がった。


『《現在ステータス》』


『黒瀬湊』

『レベル:3』

『現在経験値:25/400』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.4』

『現在スキル経験値:5/500』


『現在恋愛ポイント:150』


『所持スキル』

・《感情トレースLv.1》

・《言外読解Lv.1》

・《身体感覚補正Lv.1》


『所持アイテム』

・《微睡みミント》×1

・《リハビリサポーター》×1


『解放機能』

・《イベント危険度表示》

・《選択肢保留》


 続けて、イベント一覧が更新される。


『《イベント一覧更新》』


『《結衣イベントLv.2》』

『進行度:70%』

『次段階条件:二人きりの会話』


『《奈緒イベントLv.1》』

『状態:一時到達』

『次段階条件:休息後の本音接触』


『《美月イベントLv.1》』

『状態:CLEAR』


『《美月イベントLv.2》』

『解放条件:リハビリ継続/無茶をしない選択』


『《神宮寺綾乃》』

『状態:観察継続』

『注意:違和感蓄積中』


『《白峰紗雪》』

『未接触』

『状態:???』

『注意:過去イベント未解放』


「――っ」


 最後の名前に、湊の胸が小さく鳴った。


 白峰紗雪。


 また出た。


 まだ会っていないはずの名前。


 なのに、システムはその存在を、確かに表示した。


(過去イベント未解放……)


 ただの新規ヒロインではない。


 過去。


 湊の過去に関わる相手。


 あるいは、湊がまだ思い出していない何か。


 そんな匂いがした。


 湊は無意識に、窓の外を見る。


 空の青は、さっきより少しだけ増えていた。


 夜が終わり始めている。


 病院の朝も、もうすぐ本格的に動き出す。


 その朝の中で、自分もまた次の段階へ進んでいくのだろう。


 結衣は、もうチュートリアルの相手じゃない。


 奈緒は、ただの高難易度イベントじゃない。


 美月は、身体を支える役目以上に、自分へ“今の状態を受け入れること”を教えてきた。


 綾乃は、相変わらず遠いのに、確実にこちらを認識し始めている。


 そして、白峰紗雪。


 まだ見ぬ名前が、次のどこかで待っている。


 全部が、現実だ。


 全部が、ちゃんと重い。


 その重さがあるからこそ、選ぶ意味もある。


(……強くならないとな)


 湊は、静かに思った。


 誰かを攻略するためではない。


 誰かを支配するためでもない。


 自分が選んだ結果から、逃げないために。


 見えてしまったものを、見なかったことにしないために。


 そして、いつか白峰紗雪と向き合う時、ベッドの上で何もできないまま見上げるだけの自分ではいないために。


 視界の端で、青白い表示が小さく明滅する。


『次の選択に備えてください』


 その文字を見つめながら、湊は細く笑った。


 もう、知らないふりはできない。


 見えてしまった以上。


 関わってしまった以上。


 自分が変わり始めているとわかってしまった以上。


 この病院ステージは、思っていたよりずっと重くて。


 思っていたよりずっと厄介で。


 そして――思っていたよりずっと面白かった。


 白い朝が、ゆっくりと病室へ入り始める。


 その光の中で、黒瀬湊は次の選択へ向けて、静かに目を細めた。

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