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第10話 軽い会話と、重い夜


 朝は、ゆっくりと病院を満たしていく。


 夜が完全に終わったわけではない。


 けれど、もう夜のものだけでもない。


 窓の外に広がる空は、群青の深さをわずかに残しながら、その底の方から薄い白を滲ませ始めていた。遠くの建物の輪郭は、暗闇に沈んだ影ではなく、形あるものとして少しずつ戻ってくる。道路沿いに並んだ街灯はまだ消えていない。だが、夜の主役だったその光は、朝の気配に押されて、もう少しずつ役目を終えかけていた。


 病院の中も同じだった。


 夜勤帯特有の、押し殺されたような静けさはまだ残っている。


 けれど、その静けさの奥では、日勤の始まりを告げる小さな気配が、確実に動き出していた。


 ナースステーションでは、複数のキーボード音が重なり始めている。


 乾いた音。


 短い呼びかけ。


 抑えた返事。


 ワゴンの車輪が床を滑る音。


 誰かが「おはようございます」と控えめに交わす声が、白い廊下の空気の上を滑るように広がっていく。


 白い壁。

 白い床。

 白い天井。

 白いカーテン。


 清潔で、均一で、無機質なはずの空間が、少しずつ“動く場所”へ変わっていく。


 その変化を、黒瀬湊はベッドの背に身を預けたまま眺めていた。


 上半身は起こしている。


 昨日までより、身体は少し軽い。


 だが、それでもまだ完全に自由ではない。関節の奥には鈍い違和感が残り、脚には「そこにある」とわかる程度の重さが居座っている。痛みそのものは、事故直後に比べれば遥かに薄い。けれど、そのかわりに“思い通りに動かない身体”の現実感が、じわじわと重たくのしかかってくる。


 動けるようになった。


 少しだけ。


 でも、まだ足りない。


 その事実は、希望であると同時に、焦りでもあった。


(……今日、忙しくなるな)


 胸の中で、そんな独り言が浮かぶ。


 視界の端には、もう見慣れ始めてしまった青白い表示が淡く浮かんでいた。


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』

『現在レベル:Lv.4』


『黒瀬湊』

『現在レベル:Lv.4』

『現在経験値:20/2000』

『現在スキル経験値:325/500』

『現在恋愛ポイント:540』


『所持スキル』

・《感情トレースLv.1》

・《言外読解Lv.1》

・《身体感覚補正Lv.1》

・《安心感付与Lv.1》

・《重心把握Lv.1》

・《関係負荷軽減Lv.1》


『所持アイテム』

・《微睡みミント》×1

・《メンタルリカバリーチケット》×1

・《ナースメモカード》×1

・《リハビリサポートバンド》×1


『現在進行中イベント』


『▼白石結衣 イベントLv.2』

『状態:CLEAR』


『▼佐倉奈緒 イベントLv.2』

『状態:ACTIVE』

『進行率:12%』


『▼桐谷美月 イベントLv.2』

『状態:CLEAR』


『▼西野あかり イベントLv.1』

『状態:解放』


『▼宮本奈々 イベントLv.1』

『状態:解放』


『▼吉岡沙織 イベントLv.1』

『状態:解放』


(……一気に来すぎだろ)


 思わず、口の中だけで小さく苦笑した。


 普通なら、うんざりしてもおかしくない量だ。


 現実の人間関係を、ゲームのクエスト一覧みたいに並べられるのは、どう考えてもまともじゃない。


 なのに、不思議と嫌な感じは薄かった。


 面倒だとは思う。


 変だとも思う。


 気持ち悪さが完全に消えたわけでもない。


 けれど、その一方で、やるべきことが明確になっている分だけ、どこか呼吸しやすい感覚もあった。


(順番に見る)

(整理して、処理して、進める)

(でも、処理だけで終わらせない)


 そこを間違えたら、この能力はただの人間関係のゲーム化になる。


 それは危ない。


 楽かもしれない。


 効率的かもしれない。


 でも、きっとどこかで取り返しがつかなくなる。


 結衣の笑顔も。


 奈緒の「止まるのが怖い」という声も。


 桐谷の「支えられなさい」という言葉も。


 全部、ただの数値に変えてしまう。


(それは、違う)


 湊は細く息を吐いた。


 その時だった。


「おはようございますー」


 軽い声が、病室の空気を少しだけ和らげた。


 視線を向けると、売店のロゴが入った小さな袋を片手に、病室の入り口から顔を覗かせている女性がいた。


 西野あかり。


 病院の売店店員。


 明るい茶色の髪を後ろで軽くまとめ、制服の上に薄手のカーディガンを羽織っている。笑顔は柔らかい。けれど、ただ明るいだけではない。人の反応を見てから言葉を選ぶ目をしている。


「……西野さん?」


「正解。覚えてくれてるんだ」


 にっと笑う。


 その笑い方は自然で、接客用のものに見えて、同時に少しだけ個人の素も混ざっていた。


 視界に、表示が重なる。


『《西野あかり》』

『年齢:22』

『職業:売店店員』


『レベル:12』

『レア度:★★☆☆☆』

『好感度:28%』


『状態:接客モード/興味(微)/観察』

『特性:話し上手/空気を柔らかくする/相手の反応を見るのが上手い』


『《西野あかり イベントLv.1》』

『テーマ:何気ない会話の価値』

『進行率:0%』


(来たな、ひとり目)


 湊は小さく息を整えた。


 西野あかりは医師でも看護師でもない。


 だが、この場所で患者や家族と接する仕事をしている。


 薬ではなく、治療でもなく、検査でもなく。


 飲み物。

 雑誌。

 お菓子。

 歯ブラシ。

 充電ケーブル。

 替えの下着。

 ちょっとした会話。


 そういう“生活の隙間”を渡す場所に立っている人間だ。


 だからなのか、彼女の言葉には病院の白さに飲まれない温度があった。


「ちょっと頼まれ物届けに来ただけなんだけどさ」


 西野は袋を軽く揺らして見せた。


「朝のついでに寄ってみた。黒瀬さん、暇そうだったから」


「暇じゃないですけどね」


「そういう顔してる」


 即答だった。


「“何かやること探してる顔”」


 言い切られて、湊は少しだけ目を細める。


(……鋭いな)


 単なる軽口じゃない。


 ちゃんと見ている。


 その瞬間、選択肢が浮かぶ。


『【選択肢】』


『A:図星です、と返す』

『B:そんなに分かりますか、とぼかす』

『C:リハビリで忙しいです、と軽く逃げる』

『D:西野さんこそ暇なんですか、と冗談で返す』


(……Aだな)


 今の西野には、軽く逃げるより、素直に返した方がいい。


 この人は、冗談を好むタイプに見えて、実は“嘘っぽい軽さ”には敏感そうだ。


「図星です」


 あっさり認める。


 西野の目が、ほんの少しだけ楽しそうに細まった。


「いいね、素直な人」


「接客の人に言われると、信用していいのか迷いますけど」


「信用していいよ」


 彼女は一歩だけ距離を縮めた。


 白い病室の中で、その一歩は思ったより近く感じられた。


 だが圧はない。


 むしろ、相手の反応を見ながら自然と入り込んでくる感じだ。


「少なくとも今は“売る気ない顔”してるから」


「それ、売店の人として大丈夫なんですか」


「大丈夫。売る時は売るから」


 西野は悪びれずに笑った。


「でもさ、病院の売店って、普通のお店とちょっと違うんだよね」


「違う?」


「うん。欲しいものを買いに来る人もいるけど、何を買ったら落ち着くかわからない人も来るの」


 その声が、少しだけ落ち着く。


「家族が入院して、何かしてあげたいけど何をすればいいかわからない人」

「手術待ちで、ただ立ってると不安だから何かを選びに来る人」

「退屈すぎて、別に欲しくないのに同じ雑誌を何度も見に来る人」


 一拍。


「そういう人ってね、商品より先に“ちょっと話せる場所”を探してることが多いんだよ」


 湊は、思わず黙った。


 軽い人だと思った。


 いや、軽い人であることは間違いない。


 だが、その軽さは浅さではない。


 重い場所に長く立つために、あえて軽くしている種類のものだ。


「だから、売る気ない時もある」


 西野は肩をすくめた。


「話した方がいい時は、売らない」

「買ってもらった方が楽になる時は、売る」

「それだけ」


「……プロですね」


「ふふ。褒めた?」


「たぶん」


「じゃあ受け取っとく」


 西野は袋の中から小さな缶を取り出した。


「これ、ミント」


「売店の商品じゃないですか」


「だから売ってるんだよ」


 肩をすくめる。


「頭回るよ」

「あと、口の中がスッとすると、ちょっとだけ気分も変わる」


 缶を差し出す指先は、押しつけがましくなかった。


 受け取ってもいいし、受け取らなくてもいい。


 そういう距離。


 その距離感が妙にうまい。


 選択肢が浮かぶ。


『【選択肢】』


『A:ありがとう、と受け取る』

『B:選んでるって、どういう意味ですか?』

『C:今は買えません、と断る』

『D:西野さんのおすすめなら、と軽く乗る』


(B……いや)


 湊は一瞬だけ迷う。


 ここでBを選べば、相手の価値観を掘れる。


 Dを選べば、ラブコメ的な軽さが出る。


 Aは安定。


 Cはない。


(……今回はB)


 西野は軽い会話の中に、ちゃんと芯を置くタイプだ。


 なら、そこに触れた方が進む。


「選んでるって?」


 湊がそう返すと、西野は少しだけ嬉しそうに笑った。


「簡単だよ」


 もう一歩だけ近づく。


「流されてない人」


 その言葉が、白い病室に静かに落ちた。


「“なんとなく”で動いてない人」

「“みんなそうしてるから”じゃなくて、“自分で決めてる人”」


 一拍。


「そういう人、好きだから」


 言い方は軽い。


 けれど、目は軽くない。


 ただの営業トークではないとわかる温度が、ちゃんとあった。


 湊は一瞬、返事に詰まる。


 真正面から“好き”という単語を使われたのに、そこに過剰な甘さがない。


 だからこそ、逆に揺れる。


「……それ、誰にでも言ってます?」


「言ってないよ」


 西野は即答した。


「誰にでも言うには、ちょっともったいない言葉だから」


「……そういう言い方、ずるくないですか」


「よく言われる」


「よく言われるんだ」


「うん」


 にこっと笑う。


「でも、今のはわりと本音」


 その瞬間、表示が小さく更新される。


『《西野あかり イベントLv.1》』

『進行率:0% → 65%』


『好感度:28% → 35%』


『報酬』

『▼経験値+120』

『▼スキル経験値+35』

『▼恋愛ポイント+40』

『▼アイテム:《ミントタブレット》×1』


『現在経験値:20/2000 → 140/2000』

『現在スキル経験値:325/500 → 360/500』

『現在恋愛ポイント:540 → 580』


『レベルアップには至りません』

『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.4 維持』


(CLEARじゃないのか)


 少しだけ納得した。


 西野あかりは、軽い会話で終わる相手ではない。


 “軽い会話の奥にあるもの”をもう少し見ないと、イベントは進みきらないのだろう。


 西野は缶をベッド脇に置く。


「じゃ、また来るね」


「あ、これ、代金」


「あとでいいよ」


「いや、それは」


「じゃあ次来た時に払って」


 ひらっと手を振る。


「次来る理由、できたでしょ」


 そのまま彼女は、あっさり病室を出ていった。


 白い病室には、しばらくミントの淡い香りと、“自分で決めてる人”という言葉だけが残っていた。


(……軽いな)

(でも、残る)


 湊は、缶を見つめながら小さく息を吐いた。


     ◇


「黒瀬さーん」


 次に来たのは、少し弾むような明るい声だった。


「お腹、空いてません?」


 食堂スタッフ、宮本奈々。


 トレーを抱えて立つ姿は、白い病院の中で少しだけ生活感のある色を持って見えた。


 消毒液の匂い。

 薬品の匂い。

 空調の乾いた匂い。


 その中へ、温かいスープの香りが混ざる。


 それだけで、病室の空気が少し変わった。


『《宮本奈々》』

『年齢:24』

『職業:食堂スタッフ』


『レベル:14』

『レア度:★★★☆☆』

『好感度:26%』


『状態:明るさ/気遣い/興味(小)』

『特性:世話焼き/距離感が近い/食で人を元気づけたいタイプ』


『《宮本奈々 イベントLv.1》』

『テーマ:食べることは、生きること』

『進行率:0%』


(……連続かよ)


 だが、嫌ではない。


 西野の軽さとは違う。


 奈々の明るさは、もっと体温に近い。


 食べさせる。

 温める。

 元気を出してほしい。


 そういう方向の明るさだ。


「差し入れ持ってきたんですけど」


 トレーを置く。


「ちょっとだけなら食べられます?」


「……食べます」


「よし!」


 奈々の顔が一気に明るくなる。


 その明るさは営業スマイルというより、本気で嬉しい時の反応だった。


「じゃあ座ってください。ちゃんと見ますから」


(距離、近いなこの人)


 彼女は最初から“世話を焼く”前提で入ってくる。


 相手を気遣うことに迷いがない。


 だから、物理的な距離も心理的な距離も、詰めるのが早い。


「はい、あーん……は、さすがにやらないですけど」


「やらないんですね」


「やりませんよ!?」


 少し慌てる。


 その反応が、逆に柔らかい。


「いや、今ちょっと期待しましたよね?」


「してないです」


「絶対ちょっとしましたよね?」


「してないです」


「目が泳ぎました」


「それはリハビリ疲れです」


「便利ですね、リハビリ疲れ」


 奈々が笑う。


 湊も、つられて少しだけ笑った。


 軽い。


 でも、その軽さは身体に入りやすかった。


 緊張している病室で、力を抜いていい場所を作ってくれるような軽さ。


 奈々はスープの入った小さな器を手に取る。


「これ、朝の残りじゃないですよ」


「そこ疑ってないです」


「一応言っておこうと思って」

「病院食って、どうしても“味が薄い”とか“楽しくない”って思われがちなので」


 一拍。


「でも、食べる時くらいは、少しだけでも気持ちが戻ってきてほしいんです」


 その言葉に、湊は目を向ける。


 奈々の表情は、先ほどの明るいものとは少し違っていた。


 真面目だ。


 食堂スタッフとしての、芯のある顔。


「患者さんって、食べられない時、本当に顔が沈むんです」

「食べたくない、じゃなくて」

「食べたいのに食べられない時もあるし」

「食べても味がしない時もあるし」

「何を食べても、病院にいるって事実だけが戻ってくる時もある」


 湊は、スプーンを持つ手を少し止めた。


 奈々は続ける。


「だから、ちょっとでも“美味しい”って思えたら」

「それだけで、今日はまだ大丈夫かもって思える人もいるんです」


 声は明るいまま。


 でも、その奥にちゃんと経験があった。


 食べることを仕事にしている人間の、静かな誇り。


「……だから」


 奈々は少しだけ照れたように笑う。


「ちゃんと食べてくれる人は、好きです」


 その一言には、仕事を超えた温度があった。


 “食べる”という行為を、ただの栄養摂取として見ていない。


 食べられること。

 生きようとしていること。

 受け取ろうとしていること。


 その全部を含めて、彼女はそこに価値を見ているのだろう。


(……この人も、“見る側”だな)


 選択肢が浮かぶ。


『【選択肢】』


『A:美味しそうですね、と素直に受け取る』

『B:食べるのもリハビリですか、と軽く返す』

『C:奈々さんは食べることが好きなんですね、と相手に寄せる』

『D:あーんは次回で、と冗談を返す』


(C)


 食べ物だけじゃなく、奈々本人の価値観に触れる。


 それが一番進む。


「奈々さんは、食べることが好きなんですね」


 湊がそう言うと、奈々は一瞬だけきょとんとした。


 そして、少しだけ照れた。


「……好きです」


 短い答え。


 でも、そこに迷いはなかった。


「食べるのも好きですけど」

「誰かが食べて、ちょっと元気になるのを見るのも好きです」


 一拍。


「変ですか?」


「いや」


 湊は首を横に振る。


「いいと思います」

「というか……ありがたいです」


「……そういうの、患者さんに言われると弱いんですけど」


 奈々の頬が少し赤くなる。


 さっきまで距離を詰めていた側の彼女が、今度は少しだけ照れている。


 その反応が、妙に可愛かった。


 湊はスプーンを受け取り、口に運ぶ。


 温かい。


 味つけは優しい。


 薄すぎず、重すぎず、病院食に近い穏やかさがあるのに、ちゃんと“食事した”という感覚を残していく味だった。


 喉を通る。


 胃に落ちる。


 それだけで、身体の奥が少しだけ現実に戻る。


「……美味いです」


「ほんとですか?」


 奈々の目が、ぱっと輝く。


「本当です」

「身体が、ちょっと戻る感じがします」


 その言葉に、奈々の表情が一瞬だけ止まった。


 嬉しいのだ。


 でも、ただ褒められて嬉しいだけではない。


 自分の仕事が、ちゃんと届いた。


 その実感を受け取った顔だった。


「じゃあ」


 奈々は小さく笑う。


「また持ってきます」


「それ営業ですか」


「半分本気です」


「残り半分は?」


「……また、美味しいって言ってほしいなっていう私情です」


 言ってから、奈々は自分で少し赤くなった。


「今の、忘れてください」


「無理ですね」


「忘れてください!」


 軽い声。


 けれど、胸の奥が少しだけ温かくなる。


 表示が更新される。


『《宮本奈々 イベントLv.1》』

『進行率:0% → 70%』


『好感度:26% → 34%』


『報酬』

『▼経験値+130』

『▼スキル経験値+40』

『▼恋愛ポイント+45』

『▼アイテム:《栄養補助スープ》×1』


『現在経験値:140/2000 → 270/2000』

『現在スキル経験値:360/500 → 400/500』

『現在恋愛ポイント:580 → 625』


『レベルアップには至りません』

『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.4 維持』


(……生活系イベント、強いな)


 奈々はその後もしばらく、“食べられる量”と“好き嫌い”と“病院でいちばんマシなメニュー”の話をしていった。


 話題は軽い。


 でも、不思議と湊の中に小さな活力を残していく。


 食べることは、生きることだ。


 そういう当たり前を、あの人はたぶん毎日、人のすぐ近くで見ているのだろう。


     ◇


 午後。


 昼のざわつきが少しだけ落ち着いた時間。


 病室の外の空気が、ほんの少しだけ緩む。


 午前中の検温や処置、配膳、リハビリの流れが一度落ち着き、病棟全体が浅く息を吐いたような時間だった。


 窓の外は明るい。


 しかし、病室の中に入る光はやはり少し白く、生活の色を薄めてしまう。


 ベッドの上で本を読む人。

 スマホを眺める人。

 眠っている人。

 天井を見ている人。


 それぞれが、それぞれの退屈と不安を持て余している。


「……暇ですね」


 そんな声が、隣のベッドの方から聞こえた。


 女子高生。

 入院患者。

 吉岡沙織。


 ベッド柵に頬杖をつくような格好で、こちらを見ている。


 年齢相応に見えて、病院という空間に長くいるせいか、どこかだけ少し大人びて見える顔だった。


『《吉岡沙織》』

『年齢:17』

『職業:入院患者』


『レベル:10』

『レア度:★★☆☆☆』

『好感度:25%』


『状態:退屈/軽度不安/会話欲求』

『特性:共感型/ひとり時間が長いと沈みやすい』


『《吉岡沙織 イベントLv.1》』

『テーマ:退屈に沈む前に』

『進行率:0%』


「めっちゃわかります」


 湊が返すと、その瞬間、沙織が少し笑った。


「ですよね」


 一拍。


「こういうのって、誰かに言うとちょっと楽になるんですよね」


(……共感型か)


 自分のしんどさを分析してほしいわけじゃない。


 解決策を求めているわけでもない。


 ただ、“わかる”の一言で十分に救われるタイプ。


 選択肢が浮かぶ。


『【選択肢】』


『A:わかる、と返す』

『B:何が一番きつい?と聞く』

『C:暇つぶしの方法を提案する』

『D:病院って時間止まりますよね、と共感を深める』


(D)


 Aでもいい。


 でも今回は、もう一歩だけ共感を深める。


「病院って、時間止まりますよね」


 沙織の目が、わずかに見開かれる。


「あ、それです」

「めっちゃそれです」


 彼女は少しだけ身を乗り出した。


「外は普通に一日進んでるのに」

「ここだけずっと同じ時間みたいで」

「朝ごはん来て、検温して、昼ごはん来て、誰か来て、また誰もいなくなって」

「時計見ると、まだ十七分しか経ってないとかあって」


 苦笑する。


 でも、その笑いは少し痛かった。


「スマホ見てても、友達のストーリーとか見ると余計に落ちるんですよね」

「みんな普通に学校行って、カフェ行って、部活して」

「別にそれが悪いわけじゃないんですけど」

「なんか、自分だけ一回停止してるみたいで」


 停止。


 その言葉が、妙に胸に残る。


 湊も少しだけ視線を落とした。


 事故に遭ってから、自分の時間も一度止まった。


 神と会い、スキルを手に入れ、病院で目覚め、いくつものイベントが動き始めた。


 だからむしろ、今は時間が急に動きすぎている気すらする。


 けれど、身体はまだ止まっている。


 学校にも戻れていない。


 家にも帰れていない。


 外の現実から切り離されている感覚は、たしかにある。


「……わかる」


 今度は、短く言った。


 沙織は小さく息を吐いて、少しだけ目を伏せて笑った。


「それでいいです」


「ん?」


「それだけで、ちょっと楽になるので」


 一拍。


「私、たぶん、答えがほしいわけじゃないんですよ」

「退院したらどうとか、前向きにとか」

「そういうの、わかってるんです」

「でも、わかってても、今ここにいるのがしんどい時ってあるじゃないですか」


「ありますね」


「ですよね」


 沙織はまた笑った。


 その笑みは、さっきより少し自然だった。


「黒瀬さんって、話しやすいですね」


「そうですか?」


「はい」

「なんか、変に励ましてこないので」


「励ました方がいいか迷いました」


「迷って、やめてくれたんですか?」


「はい」


「それ、正解です」


 沙織は、少しだけ楽しそうに言う。


「今励まされたら、たぶん“はいはい前向き前向き”って思ってました」


「性格悪いですね」


「入院中なので許されます」


「便利ですね、入院中」


「黒瀬さんも使えますよ」


「じゃあ使います」


 互いに少しだけ笑う。


 軽い。


 けれど、その軽さが大事だった。


 沙織に必要なのは、重い救済ではない。


 同じ場所に閉じ込められている人間同士の、軽い共犯関係のような会話。


 その瞬間、表示が更新される。


『《吉岡沙織 イベントLv.1》』

『進行率:0% → 60%』


『好感度:25% → 32%』


『報酬』

『▼経験値+110』

『▼スキル経験値+30』

『▼恋愛ポイント+40』

『▼アイテム:《暇つぶしカード》×1』


『現在経験値:270/2000 → 380/2000』

『現在スキル経験値:400/500 → 430/500』

『現在恋愛ポイント:625 → 665』


『レベルアップには至りません』

『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.4 維持』


(……これもCLEARじゃない)


 湊は内心で頷いた。


 沙織もまた、一度の会話で終わる相手ではない。


 入院生活の退屈と不安は、継続する。


 だからイベントも継続する。


 軽い会話は、ただの雑談ではない。


 白い病院で沈まないための、細い糸みたいなものだ。


     ◇


 夕方。


 空気が変わる。


 静かに。


 だが確実に。


 日が傾き、窓の外の光が白から薄い橙を混ぜ始める頃。


 病院の中の色温度も少しだけ変わる。


 まだ明るいのに、夜へ向かう気配がすでに忍び込んでいる。


 ナースステーションの奥。


 そこに――佐倉奈緒がいた。


 書類を持って立っている。


 誰かと短い会話を交わし、頷き、メモを取る。


 動きそのものは整っている。


 けれど。


『《佐倉奈緒》』

『年齢:26』

『職業:看護師』


『レベル:22』

『レア度:★★★★☆』

『好感度:22%』


『状態:自己抑制/疲労残存/不安定(軽)』

『感情隠蔽補正:高』

『本音到達率:低』


『《佐倉奈緒 イベントLv.2》』

『進行率:12%』


(……まだ危ない)


 昨日よりは確実にマシだ。


 奈緒イベントLv.1で、一度“止まっていい”を経験した分だけ、沈み方は浅くなっている。


 それでも、内側の疲労はまだ抜けていない。


 その時。


「黒瀬」


 短い声。


 神宮寺綾乃だった。


 白衣姿のまま、ナースステーションの横に立っている。視線だけで人を動かせそうな、あの鋭く静かな空気をいつものようにまとっている。


『《神宮寺綾乃》』

『年齢:28』

『職業:外科医』


『レベル:34』

『レア度:★★★★★』

『好感度:7%』


『状態:観察/警戒/興味(微持続)』

『特性:理知的/完璧主義/感情抑制/責任感過多』


「……今日は動くな」


「いや、動きます」


「……そう」


 綾乃は短く間を置いた。


「なら、倒れるな」


 それだけ。


(相変わらずだな、この人)


 言葉は短い。


 冷たくすら聞こえる。


 でも、その短さの中には、“今のお前はまだ危うい”という医師としての判断がぎゅっと詰まっている。


 過剰に優しくしない。

 慰めない。

 感情で包まない。


 その代わり、必要なことだけを、必要な強度で言う。


 だからこそ、逆に残る。


「……先生」


「何ですか」


「佐倉さん、少しマシになってますよね」


 綾乃の視線が、ほんのわずかに奈緒へ流れた。


「ええ」


 短い返答。


「ただし、回復ではありません」


「……ですよね」


「一時的に崩壊を避けただけです」


 淡々とした言い方だった。


 だが、切り捨てているわけではない。


 むしろ、正確に見ているからこその冷静さだった。


「佐倉は、休むことを失敗だと思う傾向があります」

「失敗を避けるために働く」

「働き続けることで、失敗に近づく」

「悪循環です」


「……それ、止められないんですか」


「止めます」


 即答だった。


 その声には、迷いがなかった。


「ただし、壊して止めるわけにはいきません」


 一拍。


「本人が、自分で止まる理由を持つ必要があります」


 その言葉が、湊の胸に残った。


 本人が、自分で止まる理由。


 それはきっと、奈緒イベントLv.2の核心だ。


 ただ休ませればいいわけじゃない。


 命令で外せばいいわけでもない。


 奈緒自身が、“止まってもいい”を自分の中に置けるようになること。


 そこまで行かなければ、同じことを繰り返す。


 綾乃は湊を見る。


「余計なことはしないでください」


「……はい」


「ただ」


 そこで、綾乃は少しだけ言葉を止めた。


 珍しい間だった。


「必要なことなら、止めません」


 それだけ言って、綾乃は視線を外した。


(……わかりにくいな)


 けれど、意味はわかった。


 介入するな。


 でも、必要なら見過ごすな。


 その境界を間違えるな。


 綾乃はいつだって、簡単な言葉で難しいことを要求してくる。


     ◇


 湊が少しだけ車椅子を進めると、奈緒と目が合った。


「……お疲れ様です」


 奈緒が言う。


 声は穏やかだ。


 昨日より少しだけ柔らかい。


 患者へ向ける業務上の柔らかさだけではない。そこに、ほんの少しだけ個人的な“馴染み”が混ざり始めている。


(……ここだな)


 選択肢が浮かぶ。


『【選択肢】』


『A:調子どうですか』

『B:昨日よりマシそうですね』

『C:休めましたか、と聞く』

『D:無理してますよね、と踏み込む』


(B)


 Aは普通すぎる。


 Cは少し直接的。


 Dは早い。


 Bなら、状態を見ていることを伝えつつ、逃げ道も残せる。


「昨日よりマシそうですね」


 一瞬。


 奈緒の表情が、ほんのわずかに揺れた。


 大きな変化じゃない。


 他人が見たら見逃すくらいの、ごく小さな揺れ。


 でも、《恋愛選択肢表示》と《感情トレース》を持つ今の湊には、そのほんの一拍のずれがはっきり見えた。


「……そう見えますか」


「はい」


 一拍。


「昨日より、“無理してる顔”じゃない」


 沈黙。


 数秒。


 ナースステーションの奥では誰かが書類を閉じる音がしている。廊下ではワゴンが通り過ぎる。そんな日常音の中で、この短い沈黙だけが妙に濃く感じられた。


 そして。


「……ほんとに」


 奈緒が小さく息を吐く。


「そういうの、よく見てますね」


 初めての、少しだけ崩れた声だった。


 業務用でもない。

 患者対応用でもない。

 “佐倉奈緒個人”の声。


(……来た)


 湊は無意識に呼吸を浅くする。


「……昨日」


 奈緒が続ける。


「五分だけ、外れたんです」


「はい」


「それだけで……少し楽になりました」


 その言葉が、静かに落ちる。


 たった五分。


 でも、その五分が彼女にとってどれだけ大きかったのかは、その声の細さでわかった。


「……ああいうの、初めてで」


 視線が落ちる。


「止まっていいって、言われたの」


 その瞬間、奈緒の顔に一瞬だけ浮かんだのは、安堵ではなかった。


 戸惑い。


 そして、少しの痛みだ。


 “止まっていい”なんて、今まで誰にも言われなかった。


 あるいは、言われても受け取れなかった。


 そういう人間だけが見せる表情だった。


 湊は少しだけ、言葉を選ぶ。


「……言われるまで、止まる気なかったんですね」


 奈緒が苦く笑う。


「ない、ですね」


 一拍。


「というか……止まると、余計に怖いんです」


(……そういうタイプか)


 休めば楽になる人間もいる。


 でも、休むことで逆に“自分が役に立っていない時間”を意識してしまう人間もいる。


 奈緒は後者だ。


「止まったら、そのぶん誰かがやるじゃないですか」


 奈緒は静かに続ける。


「結局、誰かの負担になるんですよね」

「それなら、多少しんどくても自分がやった方が早いし、迷惑も少ないし……って、ずっと思ってて」


 そこまで言って、自分でも言い過ぎたと気づいたのか、少しだけ唇を引き結ぶ。


「……すみません」

「患者さんにする話じゃないですね」


 湊は首を横に振った。


「いや」

「そういうの、むしろ聞いた方がわかりやすいです」


「わかりやすい……ですか?」


「何に疲れてるのか」


 一拍。


「仕事量じゃなくて、“止まれないこと”に疲れてるんだなって」


 奈緒の表情が、また少し揺れた。


 見抜かれた、という顔ではない。


 むしろ、“初めて言語化された”時の顔に近かった。


 それは、救いにもなるし、少し怖くもなる。


「……黒瀬さんって」


 奈緒が小さく言う。


「ちょっと、嫌ですね」


「え」


「そこ、言い当てるの」


 声音はやわらかい。


 拒絶じゃない。


 ただ、本当に図星を刺された時の困ったような本音だった。


 湊は少しだけ息を吐く。


「すみません」


「謝られると、それはそれで困ります」


 奈緒が小さく笑う。


 その笑いは薄い。


 けれど、ちゃんと“作った笑顔”ではない。


 その時、視界の端に別の表示が浮かぶ。


『《会話相性表示》』


『対象:佐倉奈緒』


『現在有効な会話傾向』

・直接的な励まし:相性低

・責任軽減:相性中

・自己理解の言語化:相性高

・休息の肯定:相性中

・同情:相性低


(……なるほど)


 今の奈緒に必要なのは、優しい言葉ではない。


 自分がなぜ苦しいのかを、本人が否定しない形で言語化すること。


 そして、休むことが“迷惑”ではなく“次に動くための管理”だと受け取れるようになること。


 湊はゆっくり息を吸った。


「佐倉さん」


「はい」


「たぶんですけど」

「佐倉さんが止まるのって、誰かに迷惑をかけるためじゃなくて」

「次にちゃんと動くためなんじゃないですか」


 奈緒の視線が止まる。


「……」


「俺、リハビリで似たようなこと言われました」

「まだできるって思ったところが限界だって」

「そこで止まるのも、次のための動きなんだって」


 一拍。


「看護師の仕事とは違うかもしれないですけど」

「でも、少なくとも俺には、その言葉、けっこう効きました」


 奈緒はすぐには答えなかった。


 視線を落とし、指先で持っていたメモの端をわずかに押さえる。


 迷っている。


 受け取るか。

 跳ね返すか。

 それとも、聞かなかったことにするか。


 その境目にいる顔だった。


「……次のための動き」


 奈緒が、小さく繰り返した。


「そう思えたら、楽なんでしょうね」


「思えないですか」


「まだ」


 正直な返事だった。


 だが、その“まだ”に、今までにはなかった余地があった。


 絶対に無理、ではない。


 まだ、なのだ。


 表示が更新される。


『《佐倉奈緒 イベントLv.2》』

『進行率:12% → 58%』


『本音断片を取得しました』

『キーワード:止まる恐怖/誰かの負担/次のための休息』


『報酬』

『▼経験値+250』

『▼スキル経験値+80』

『▼恋愛ポイント+90』


『現在経験値:380/2000 → 630/2000』

『現在スキル経験値:430/500 → 510/500』

『現在恋愛ポイント:665 → 755』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》』

『スキル経験値が上限に到達しました』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.4 → Lv.5』


『新機能解放』

《緊急選択肢補正》が使用可能になりました。


『機能説明』

緊急時、通常選択肢とは別に、対象の精神負荷・現場状況・自分の行動制限を加味した補助表示が発生する場合があります。


『黒瀬湊:Lv.4 維持』

『レベルアップには至りません』


(……スキルだけ上がった)


 湊は静かに息を呑んだ。


 自分のレベルは上がらない。


 けれど、《恋愛選択肢表示》そのものは成長した。


 人との関係を読み、選び、踏み込みすぎないようにするための機能が、また一段深くなった。


 そして、その新機能の名前が――緊急選択肢補正。


(……嫌な予感しかしないな)


 そう思った時、別の表示が一瞬だけノイズのように揺れた。


『《未接触対象:白峰紗雪》』


『関連ワード:止まれなかった誰か』

『関連ワード:夜』

『関連ワード:支えられなかった選択』

『関連ワード:緊急対応』


(……また、白峰紗雪)


 名前だけが出る。


 まだ顔は見えない。


 年齢も。

 職業も。

 レベルも。

 好感度も。


 何も表示されない。


 ただ、その名前だけが、奈緒の言葉に反応するように浮かんだ。


(止まれなかった誰か……?)


 胸の奥に、嫌な引っかかりが残る。


 この病院ステージの先にいるのか。


 それとも、病院の外にいるのか。


 わからない。


 ただ一つだけ、直感的に理解する。


 白峰紗雪は、奈緒のイベントとどこかで繋がっている。


 そしてたぶん、軽い話ではない。


「黒瀬さん?」


 奈緒の声で、意識が戻る。


「いえ」


 湊は首を振る。


「ちょっと、考え事です」


「……考えすぎる患者さんですね」


「よく言われます」


「でしょうね」


 奈緒が小さく笑う。


 その笑いは、ほんの少しだけ柔らかかった。


 その時。


「佐倉」


 綾乃の声が落ちた。


 短い。

 低い。

 だが、命令の強度は十分すぎるほどあった。


 奈緒が振り向く。


「……一度、休憩に入って」


「ですが」


「入って」


 綾乃はそれ以上言葉を重ねない。


 それでも十分だった。


 奈緒は数秒だけ迷い、やがて小さく頷く。


「……はい」


 そして、そのままゆっくりと踵を返した。


 去っていく背中はまだ少し硬い。


 でも、昨日のように“倒れる寸前を押し隠した背中”ではなかった。


 ほんの少しだけ、自分で自分を扱う余地ができた背中だった。


 綾乃が、湊へ視線を向ける。


「余計なことではありませんでした」


 短い。


 けれど、それは確かな評価だった。


「……どうも」


「ただし、調子に乗らないでください」


「はい」


「返事はいいですね」


「それもよく言われます」


 綾乃は表情を変えなかった。


 だが、ほんのわずかに目元の力が緩んだ気がした。


『《神宮寺綾乃》』

『好感度:7% → 8%』

『状態:観察/警戒/興味(微持続) → 観察/警戒/評価(微)』


(……1%が重い)


 湊は内心で苦笑した。


     ◇


 夜。


 病院は再び、夜の静けさを取り戻し始めていた。


 けれど、その静けさは安心と同義ではない。


 日中のざわめきが引いたぶんだけ、小さな異変が浮き上がりやすくなる。昼間は人の多さに紛れていた緊張が、夜になると逆にはっきりと輪郭を持ち始める。


 ナースステーションの光は、昼よりも白く見えた。


 廊下を行き交う足音は少ない。


 少ないからこそ、一つひとつが耳につく。


 湊はベッドの上に戻っていた。


 身体は疲れている。


 リハビリの疲れ。

 会話の疲れ。

 奈緒と向き合った疲れ。


 軽いイベントをいくつも進めたあとだからこそ、精神の奥に薄く積もった疲労が見える。


 それでも、悪い一日ではなかった。


 西野あかりは、軽い会話の奥にちゃんと人を見る目を持っていた。


 宮本奈々は、食べることの意味を知っていた。


 吉岡沙織は、退屈と孤独を言葉にできる子だった。


 奈緒は、少しだけ本音を見せた。


 綾乃は、相変わらず遠いけれど、確かにこちらを評価した。


(……今日、情報量多すぎるだろ)


 何度目かわからない感想が浮かぶ。


 その時。


 廊下の向こうで、結衣の声が聞こえた。


「佐倉さん、これ……!」


 声が硬い。


 普段の結衣なら、慌てる時でももう少し柔らかさが残る。


 だが今の声には、違う緊張があった。


 何かを見つけた声。


 何かがまずいと理解した声。


 奈緒の足音が止まる。


 綾乃の動きが止まる。


 ナースステーションで、音が跳ねた。


 端末のアラート。


 誰かが短く息を呑む音。


 紙が落ちる音。


 そして――


 視界に、赤い表示が走った。


『《エマージェンシーイベント発生》』


『対象:白石結衣/佐倉奈緒/神宮寺綾乃』


『内容:夜間緊急対応』


『推奨難易度:★★★★☆』


『制限時間:進行中』


『失敗条件』

・患者状態悪化

・白石結衣の自信崩壊

・佐倉奈緒の自己否定進行

・現場連携の乱れ


『成功条件』

・現場の初動を成立させてください

・対象者の判断を妨げないでください

・必要な一言だけを選んでください


『注意』

『あなたは患者です』

『直接行動には制限があります』


『《緊急選択肢補正》起動』


『状況解析中……』


『関連ワード検出』

・夜間緊急対応

・止まれなかった誰か

・支えられなかった選択

・白峰紗雪


(……来たか)


 湊は、ゆっくりと息を吐いた。


 軽い会話は終わった。


 ファーストイベントも、セカンドイベントも、それぞれ一段落ついた。


 ここからは違う。


 ラブコメみたいに頬を赤くして済む場面じゃない。


 相手の言葉の揺れを拾って、少しずつ距離を詰めるだけの段階でもない。


 現場だ。


 実戦だ。


 言葉だけでは届かない何かが、今まさに起きようとしている。


 白い病院の夜は、静かだ。


 だがその静けさの奥には、いつだって“何かが起きる直前”の緊張が潜んでいる。


 湊は、その赤い表示を見つめながら、小さく息を整えた。


 ここから先は――本番だ。

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