七節 孤独
学校ではどれだけ活発で強い主人公でいても、旭には絶対に勝てないものがあった。
それは、病気だ。
ある日、旭はひどい風邪をひいて寝込んでしまった。
それなのに、母はいつも通り仕事へ行く準備をしていた。
「お昼には一回戻るから!」
母はそう言い残して、バタバタと玄関を出ていった。
身体が熱くて、苦しくて、たまらなく寂しかった。
本当は一人でなんかいたくなかった。
けれど、誰かの邪魔にだけはなりたくなかった。
だから、行く間際の母には「平気だよ」と、いつもの笑顔を作ってみせた。
けれど、鍵の閉まる音が響いた静かな部屋のなかで、旭の心は小さな獣のように怯えていた。
「シノ……苦しいよ、寂しいよ……」
シノは、気がつけば旭のベッドのすぐ傍らに佇んでいた。
なにも言わず、ただ黙って。
「お仕事、休んでくれなかったの」
旭の胸に、冷たい涙がこぼれ落ちる。
自分が誰からも大切にされていないような、世界に一人きりで放り出されたような感覚。
それでも、「休んで」なんて言おうとは最初から思わなかった。
そんな我がままを言えば、またひどく怒られると分かっていたから。
「シノ……シノだけは、ここに居てくれるよね? 私を一人にしないよね?」
シノは何も答えない。
ただ、大きな身体を丸めて旭を見つめ、愛らしい顔でお鼻をぴくぴくさせている。
旭には、その無言の温もりだけで十分だった。
言葉のないシノだけが、旭のすべてを分かってくれていた。
その夜、高熱にうなされる旭は、ひとつの夢を見た。
車に乗って、どこまでも深い、暗い森へと向かう夢。
どこかへ遊びに行くようなワクワク感は微塵もなく、
車内にはただ、じっとりとした不穏な空気が張り付いていた。
森の奥深く、目の前に現れた大きな建物へと足を踏み入れる。
そこはまるで、物語に出てくる古びた「酒場」のようだった。
使い込まれた木造りの部屋。
その片隅にはぽつんとピアノが置かれ、カウンターの向こうには、
びっしりと並んだ円卓と椅子が、無数の影で埋め尽くされている。
部屋のなかの空気は、驚くほどに静まり返っていた。
扉が開いたかすかな音に、そこにいた全員が一斉にこちらを振り向くほどに。
旭は思わずビクッと身体を強張らせた。
その場にいた客たちの冷徹な視線はすべて、
旭の背後にいる「私の家族」へと突き刺さっていた。
満席の店内を見て、案の定、妹が理不尽な文句を言い始めた。
その時、一人の老人が慌ててこちらへ詰め寄り、声を潜めて言い放った。
「静かにしろ! じゃないと、あいつが来るぞ」
「あいつ……?」
旭が聞き返した、その瞬間だった。
「あぁ。あいつは音に酷く敏感でね。騒ぎ立てる奴がいれば、そいつを『消し』にやってくる。だから静かにしろ」
老人の警告も虚しく、妹はさらに声を荒らげて泣き喚き始めた。
刹那、部屋の空気が張り詰めた糸のようにピンと跳ね上がる。
次の瞬間、地響きと共に、真っ黒な大男が部屋へと侵入してきた。
熊のように巨大な影は、ぎょろぎょろと目を光らせ、音の発生源を探っている。
その手には、禍々しく大きな棍棒が握られていた。
大男は泣き叫ぶ妹を見つけるや否や、
目にも留まらぬ速さでその頭を鷲掴みにし、力任せに投げ飛ばした。
店中が騒然とするなか、妹の身体はテーブルの上に激しく叩きつけられる。
客たちは悲鳴を上げて一斉に逃げ出し、酒場はパニックに陥った。
大男は倒れた妹へと歩み寄り、容赦なく棍棒を振り上げた。
ドカッ――!!!
凄まじい肉声の破壊音が響き、妹の身体が不自然に跳ねる。
しかし、大男の暴力は一度では終わらなかった。
何度も、何度も、鈍い音が部屋に木霊する。
鮮血が激しく飛び散り、木造りの床と壁がみるみる赤黒く染まっていく。
やがてその音が止まった時、部屋には完全な静寂が戻っていた。
妹は、死んでいた。
私より身体が大きく、気に入らないことがあれば、
泣き喚きながら私を叩き、蹴り、噛み付いてきた、あの絶対的な暴君。
それが、あまりにも簡単に、この世界から消え去った。
その凄惨な光景を前にして、旭の胸に湧き上がったのは、恐怖ではなかった。
――なぜだか、言葉にできないほどの深い「安堵」だった。
けれど、生き残った父と母が、狂ったような悲鳴を上げる。
その声に反応し、大男のぎょろりとした眼球が、こちらを向いた。
(やばい、殺される)
そう思った次の瞬間、両親は大男に追われるようにして、
開いた扉から外の森へと逃げ出していった。
大男の足音が遠ざかっていく。
静まり返った血の海のなかに、私はぽつんと一人、取り残された。
恐怖で足がすくみそうになる。
けれど、旭の心の奥底で、冷徹な生存本能が明確な形を結んだ。
(ここで、死ぬわけにはいかない)
旭は音を立てないよう、静かに森の中へと歩き出した。
遠くの闇から、父と母の絶望的な悲鳴が響いてくる。
(あっちに大男がいるなら、今ならこのルートは大丈夫だ)
冷静に状況を判断しながら、旭はただ一人、鬱蒼とした森の奥へと進む。
やがて、巨木の根元に、大人が一人やっと入れるほどの深い「穴」が空いているのを見つけた。
旭はその冷たい穴の奥深くへと、滑り込むように身体を滑らせる。
膝を抱え、小さく丸まって、限界まで息を潜める。
見つかったら、次は自分が消される。
ドクドクと、うるさいほどの心臓の音が耳の奥で跳ねる。
怖くて、怖くて、仕方がなかった。けれど旭は、暗闇の中でじっと耐え続けた。
しばらくすると、あの地鳴りのような足音が戻ってきた。
どしん。どしん。
一歩、また一歩と、穴の開いた巨木へ近づいてくる。
旭は、口を手で血が出るほど強く押さえ、心臓の音が外へ漏れてしまわないようにとただ祈った。
木の隙間から、外をそっと覗き見る。
すぐそこに、大男の巨大な後ろ姿があった。
その手に握られた棍棒には、ねっとりとした新しい血がべったりと付着している。
旭は、すべてを悟った。
父も、母も、もういない。私は、本当にたった一人になったんだ、と。
そう確信した瞬間、不思議なことが起きた。
あれほど震えていたのに、なぜか、もう「怖く」はなかったのだ。
けれど、死の恐怖そのものが消えたわけではなかった。
大男が、ふん、ふんと不気味に鼻をひくつかせ始める。
(匂いでバレる――!)
そう本能が察知した次の瞬間には、大男のぎょろりとした眼球がこちらを捉え、完全に目が合っていた。
大男が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
さっきの妹の時とは違う、獲物をじわじわと追い詰めるような、残酷で、静かな歩調。
(私は、ここで死ぬの?)
脳裏を絶望がよぎった途端、全身に凄まじい寒気が走った。
嫌だ。
怖い。
死にたくない。
私はまだ、自分の人生の何一つだって、始めてすらいない。
こんなところで、あの大人たちや妹に巻き込まれて死ぬわけにはいかない。
心の中では狂ったように叫んでいるのに、
身体は恐怖で完全に硬直したまま、指一本すら動かせない。
大男が、至近距離に立ち塞がる。
その筋骨隆々の腕が、真っ黒な棍棒を、天高くへと持ち上げた。
そして、旭の脳天めがけて、容赦なく振り下ろされた――!!!
「――っは、あ、ぁ!!!!」
弾かれたように目を開けると、そこは自分の部屋のベッドの上だった。
眩しい朝の光が、容赦なく視界に飛び込んでくる。
全身が、冷や汗でびっしょりと濡れていた。
頬を伝う涙は、起きてからもなお止まらない。
それは旭が、その短い人生のなかで初めて経験した、本当の「悪夢」だった。




