九節 蓄積
それから、また呼ばれた。
今度は、音だった。
何かが床へ落ちた。
ほんの小さな音だった。
皇女の動きがピタリと止まる。
勢いよく振り返る。
何もいない。
それでも、彼女の身体はみるみる固く強張っていく。
僕は少し離れた影の中からそれを見ていた。
皇女は自分の力で息を整えようとしていた。
一度、二度とゆっくり息を吸って、吐く。
「……大丈夫」
小さく呟く。
そのまま何事もなかったかのように歩き出そうとした。
一歩進んで、また止まった。
再び呼吸が激しく乱れて速くなる。
皇女が、縋るように僕を見た。
「……かいちゃん」
呼ばれた。
僕は静かに歩み寄った。
触れる。
受け止める。
怖い。
息が詰まるほど苦しい。
身体の奥底が凍てつく。
今すぐ逃げ出さなければならないという焦燥感が、ドッと一気に押し寄せてくる。
また、あの時と同じものだった。
それを受け止めているうちに、皇女の乱れた呼吸が少しずつ穏やかさを取り戻していく。
僕の中には、皇女から滑り込んできた不条理な苦痛だけが残った。
「……ありがと」
「ん」
会話はそれだけだった。
皇女は自分の日常へと戻っていった。
僕も、元の立ち位置へと戻った。
これで終わる。
そう思っていた。
けれど、また呼ばれた。
次は、声だった。
屋敷の遠くから、誰かの話し声が聞こえてくる。
皇女の足が止まった。
振り返る。
しばらくその場に佇んでいたけれど、やがて救いを求めるように僕を見る。
「かいちゃん」
僕は行った。
受ける。
皇女が元の自分へ戻る。
また、別の日。
今度は、後ろから不意に声をかけられた。
「皇女」
身体が跳ね上がる。
振り返る。
そこに立っていたのは、お嬢だった。
「……ごめんね」
「ううん」
皇女は首を振る。
「大丈夫……」
笑おうとする。
でも、表情が強張ってうまく笑えない。
少しして、彼女はまた僕を見る。
「かいちゃん」
呼ばれた。
行く。
受ける。
それで、彼女はまたいつもの姿へと戻っていく。
そんなことが、日増しに増えていった。
音。
声。
誰かの足音。
開く扉。
何が彼女の恐怖を刺激しているのか、僕にはさっぱり分からなかった。
平気でいられる時もある。
一日中、何も起きない日だってある。
それでも、怖くなると皇女は迷わず僕を呼ぶ。
僕は行く。
触れる。
受ける。
最初は、一度代受すればそれで終わっていた。
そのうち、一日に二度になることがあった。
三度になることだってあった。
皇女が落ち着くまで、僕はただただ恐怖を受け続けろと言うように触れ続ける。
僕の中に残っていく澱のような苦痛は、少しずつ、けれど確実に増えていった。
それでも、名前を呼ばれれば僕は行った。
皇女が、僕を呼ぶ。
だから、そこへ行く。
僕にできるのは、ただそれだけだったから―――。




