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僕たちの物語  作者: 鎧
かい編

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八節 予兆

皇女は、壁に手をついたままピクリとも動かなかった。

呼吸が浅く、酷く速い。 華奢な身体が小刻みに震え続けている。

お嬢は刺激しないよう、少し離れた場所で足を止めていた。


「大丈夫よ」


静かにかけられたその言葉に、皇女は首を激しく横に振った。


「……違う」

「何が?」

「分かんない……っ」


声が泣きそうに震えている。

皇女は恐怖に満ちた目で周囲を見回した。


何もない。

襲いかかってくる者なんて誰もいない。

それなのに、たまらなく怖い。


「やだ……」


小さく、絞り出すような呟き。

お嬢はさらに言葉を続けようとしたけれど、

痛々しく引きつった皇女の表情を目にして、そっと口を閉ざした。


僕は、少し離れた陰の中に佇んでいた。

胸の奥には、すでに禍々しい苦痛がじわじわと流れ込んできていた。


怖い。

息が詰まるほど苦しい。

全身の筋肉が強張る。

今すぐここから逃げ出さなければならない。


僕には、分かっていた。

彼女の代わりに引き受ける準備は、もうできている。


でも。

まだ名前を呼ばれていない。


だから僕は、静かに待った。

皇女がゆっくりと顔を上げる。

涙で大きく濡れた瞳が、助けを求めるように空間を彷徨う。


お嬢を見る。

後ろの暗がりを見る。

それから――

僕を見つめた。


「……かいちゃん」


呼ばれた。


僕は静かに歩み出でた。

皇女のすぐ目の前まで行く。

そっと手を伸ばす。

その指先に触れる。

――ドッと、一気に激流が流れてきた。


息が詰まる。

胸の奥が氷のように冷たく冷え切っていく。


怖い。

正体の分からない「何か」が迫ってくる。

逃げなきゃ。

逃げなきゃ。

身体が拒絶反応を起こして悲鳴を上げる。


それでも。

僕は逃げずに、すべてを受け止める。


皇女の全身から、少しずつ強張りが抜けていく。

僕の服を握りしめていた指先が、ゆっくりと緩んでいく。

荒れていた呼吸が、いつもの穏やかさを取り戻していく。

僕の胸の中には、さっきまで皇女を苛んでいた禍々しい塊が、そのまま重く残っていた。


ずっしりと重い。

狂おしいほど苦しい。


でも。

皇女は、少しずつ「いつもの自分」へと戻ってきた。


しばらくして。


「……もう平気」


ぽつりとそう口にした。

僕は静かに手を離した。


「ん」


皇女はお嬢の方を振り向く。

今度は、そっと歩み寄ってきたお嬢の手を拒みはしなかった。


僕は、元の少し離れた静寂へと戻った。


これで、終わりだった。

その時は――


確かにそう思っていたんだ―――。


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