七節 気配
それから。
少しずつ、変なことが増えていった。
最初は、ほんの小さなことだった。
部屋のどこかで小さな音がすると、皇女がハッと振り返る。
誰もいないはずなのに、じっと扉を見つめる。
誰からも呼ばれていないのに、自分の名前を呼ばれたかのような顔をして空間を捜す。
僕には、何が起きているのかよく分からなかった。
「どうしたの」
尋ねてみても、皇女は少しだけ視線を泳がせてから答える。
「……なんでもない」
そう言うから、それ以上は何も聞かなかった。
皇女は、すぐにまた普通の状態へと戻る。
笑う。
楽しそうに話す。
何か新しい遊びを思いつけば、いつものように僕を呼ぶ。
それまでと、何ひとつ変わらない日常に見えた。
ただ。
前よりも、急に驚くことがあきらかに増えていた。
後ろから不意に声をかけられると、身体が大きく跳ね上がる。
小物が手元から落ちれば、ぴたりと動きが止まる。
扉が静かに開くだけで、弾かれたようにそちらへ視線を向ける。
何も起きていない。
怖いものなんて、どこにもない。
僕には、それがよく分かっていた。
でも。
皇女は、見えない何かをずっと探しているようだった。
ある日のこと。
カトン、と小さな音が響いた。
何かが床に落ちただけだった。
皇女の肩が大きく跳ねる。
僕は静かにそちらを見た。
皇女も、床に転がった小さな固形物をじっと見つめている。
少しの間を置いてから、彼女はそれを拾い上げた。
元あった場所へと戻す。
出来事としては、ただそれだけで終わった。
彼女はまた、静かに歩き出す。
でも。
いつもの散歩よりも、少しだけ歩く足取りが速かった。
また、別の日。
お嬢が後ろから皇女の肩にそっと触れた。
「皇女」
「っ!」
皇女は悲鳴に近い息を漏らし、弾かれたように身体を跳ねさせた。
勢いよく振り返る。
お嬢の顔を見る。
「……私よ」
「……うん」
皇女は、取り繕うように無理やり笑おうとした。
「びっくりしただけ……」
「そう」
お嬢は、それ以上は何も追求しなかった。
僕は、少し離れた静寂の中からその様子を見ていた。
皇女の手が、胸元の服の布地を固く握りしめている。
痛いほど強く。
しばらくして、ゆっくりと指の力が緩んでいった。
それでも。
――何かが、決定的におかしい。
僕には、はっきりとそう思えた。
ある夜のこと。
屋敷のどこかで、大きな重い音が響き渡った。
皇女の全身が、ガタガタと強く震え出す。
「……違う」
かすれた、小さな声。
お嬢が心配そうに皇女を見つめる。
「皇女?」
「違う……っ」
皇女は恐怖に引きつった顔で一歩後ろへ下がった。
僕も彼女を見つめている。
何もない。
襲ってくる者なんて誰もいない。
なのに。
皇女の瞳は、狂おしく見えない何かを探し求めていた。
「どうしたの?」
お嬢がそっと近づこうとする。
「来ないで!」
皇女が叫んだ。
お嬢の足がぴたりと止まる。
皇女自身も、自分が発した甲高い叫び声に驚いたようだった。
「……あ」
呼吸が荒く、速くなっていく。
身体全体が小刻みに震えている。
何がそんなに恐ろしいのか。
僕には分からない。
もしかしたら皇女自身にも、分かっていないのかもしれない。
「違う……」
もう一度、うわ言のように呟く。
そして――
皇女は弾かれたように走り出した。
僕は、遠ざかっていくその背中をじっと見つめていた。
お嬢が慌てて後を追う。
護衛の男も素早く動き出す。
僕も、吸い寄せられるようにその後を追った。
皇女は一度も振り返らなかった。
ただ、何かに追われるように逃げていた。
自分が一体何から逃げ惑っているのかも分からぬまま。
そして。
廊下の角を曲がったところで、皇女の足が突然止まった。
壁にへばりつくように手をつく。
身体が激しく震えている。
追いついたお嬢が慎重に近づく。
「皇女」
「来ないで……っ」
また、強い拒絶の言葉。
お嬢は胸を痛めながら足を止めた。
僕は、少し離れた影の中に佇んでいた。
胸の奥が、ずっしりと重い。
怖い。
息が苦しい。
今すぐここから逃げ出さなければならない。
そんなドロドロとした感情が、僕の胸の中へとじわじわと流れてきていた。
まだ。
皇女は僕の名を呼んでいない。
だから。
僕はただ、そこに立っていた―――。




