三節 意思
その頃から。
皇女は、少しずつ僕の近くに来るようになっていた。
最初は、部屋の少し離れた場所。
それがいつの間にか、呼吸が届くほどのすぐそばに佇んでいる。
僕は、それに対して特に何も感じなかった。
ただ、距離が近い。
頭の中でそう認識するだけだった。
ある日のこと。
皇女がふと僕の髪へ向けて手を伸ばしてきた。
――ビクッ。
反射的に、身体が弾かれたように後ろへ下がっていた。
皇女の手が、空間でピタリと止まる。
「……?」
「……」
僕も、何も言わずに黙っていた。
皇女は少しだけ首をかしげて考え込むと、もう一度そっと手を伸ばした。
またしても、僕の身体が強張って退いた。
「嫌?」
僕は、短く頷いた。
皇女は素直に手を下ろした。
「そっか」
会話はそれだけだった。
あの男のように怒鳴り散らさない。
無理やり髪を掴んで引き寄せるような真似もしない。
僕も、それ以上は何も口にしなかった。
しばらくして。
皇女は少しだけ離れた位置に座り直した。
それから、何事もなかったかのように何かを楽しそうに話し始めた。
僕は、その声を聞いていた。
さっきまでと何一つ変わらない日常だった。
ただ。
――嫌だと言ったら、ちゃんと止まってくれた。
その事実が、僕にはたまらなく不思議だった。
また、別の日。
皇女が何かを両手に抱えてやってきた。
それを僕の目の前にぽんと置く。
「これ、着てみて!」
綺麗にたたまれた服だった。
僕はじっとそれを見つめる。
どう見ても、女の子が着るための服だった。
「……やだ」
皇女は少しだけ残念そうな顔を浮かべた。
けれど、すぐに別の服を取り出してみせる。
「じゃあ、こっちは?」
見つめる。 やっぱり、女の子の服だった。
「……やだ」
「そっか」
皇女は服を元通りに引っ込めた。
それ以上、着るように強要してくることはなかった。
僕は、去っていく皇女の背中を少しだけ見つめた。
嫌だと拒絶すれば、この人はやめてくれる。
それが、はっきりと分かってきた。
それから皇女は、僕が何を嫌がるのかをひとつひとつ覚えていった。
突然身体に触れられるのが嫌な時。
あまりに距離が近すぎるのが嫌な時。
着たくない服。
言われて面倒だと感じること。
そのたびに、僕は短い言葉で拒絶を口にした。
「やだ」
「……嫌」
「めんどくさい」
皇女は、そのたびに僕の顔をじっと覗き込む。
それから、ほんの少しだけ考える素振りを見せる。
「分かった」
そう言って、あっさりと引いてくれるのだった。
たまに、「そこをなんとか!」と笑ってもう一度お願いされることもあった。
けれど、本当に耐え難いものは最後まで断り続けた。
皇女も、力づくで押し通そうとは決してしなかった。
そんなやり取りを何度も繰り返しているうちに。
僕はいつの間にか、自分が何を嫌だと感じているのかを、
当たり前に口に出せるようになっていた。
そして皇女は。
僕が「嫌だ」と意思表示できることを、当然の権利であるかのように受け入れていった。
それが。
世界のすべてが暴力で支配されていた僕にとっては、
どこまでも不思議なことだった―――。




