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僕たちの物語  作者: 鎧
かい編

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59/66

二節 呼応

名前をもらってから。

僕の日常は、ほんの少しだけ変わり始めていた。


「かいちゃん」


声が届く。

最初は、誰のことを呼んでいるのかさえ分からなかった。


顔を上げてみる。

あの小さな少女が、こちらをまっすぐに見つめている。


「かいちゃん」


もう一度、僕を呼ぶ。

その瞳は、確かに僕だけを捕らえていた。

どうやら、僕のことらしい。


「……僕?」

「うん!」


少女が無邪気に笑う。

会話はそれだけだった。

それから、少女は毎日のように僕の名を口にした。


「かいちゃん」


声がすれば振り向く。


「かいちゃん、こっち!」


言われれば、そちらを見る。


「かいちゃん、これ見て!」


言われれば、静かに近づいていく。


そうやって繰り返される声に応じるうちに。

「かい」と呼ばれる響きが、自分という存在を指しているのだと、

自然に理解できるようになっていった。


それが、名前というものだった。

自分という人間を呼びつけるための、ただの音。

それ以上でも、それ以下でもない。

特別に愛おしいものだとは、到底思えなかった。


ただ。 呼ばれれば、振り返る。

僕の役目は、それだけだった。


少女は、よく僕に向かって話しかけてきた。

僕が何もせずただ佇んでいても、一人で勝手に喋っている。

僕がまともな返事を返さなくても、お構いなしに喋り続ける。

目を合わせようとすらしない僕の態度も、彼女は少しも気にしなかった。


僕は、ただその声を聞いていた。

何をそんなに夢中に話していたのか、今となってはすべてを覚えているわけではない。


大好きなものの話。

屋敷で見つけた不思議なものの話。

頭の中に突如ひらめいたという、無鉄砲な思いつき。

僕の頭ではよく理解できないような話もあった。


それでも、僕は静かに聞いていた。

時折、言葉の隙間に短く返事を挟む。


「……そう」

「……ん」


ただそれだけの素っ気ない相槌で、少女は花が咲いたように嬉しそうに笑うのだった。


ある日のこと。

少女が僕の目の前にちょこんと座り込んだ。

僕の顔をじっと覗き込んでくる。


「……何」

「かいちゃんって、変なの」

「……何が」

「なんか、すごく静か」


突然そんな風に言われた。

どう言葉を返せばいいのか、僕には分からなかった。

だから、何も言わずに黙っていた。

少女は腕を組んで少しだけ考え込むような仕草をしてから、また屈託なく笑った。


「でも、面白い」

「……そう」


また、嬉しそうに笑った。

僕には、彼女の基準がよく分からなかった。


ただ。

――この子は、怖くない。


それだけは、痛いほど理解できていた。

あの部屋の男のように、 容赦なく殴りつけてこない。

突然、身体が千切れるような痛い目には遭わせない。


だから。

少しずつ、その子が近くに寄ってきても逃げ出さなくなった。


最初は、部屋の隅と隅で遠く離れていた。

次は、同じ部屋の空間に留まるようになった。

その次は、ほんの少しだけ近い距離に身を置くようになった。

それでも、自分から進んで近づくことだけはしなかった。

少女は、僕のその頑なさを決して急かそうとはしなかった。


ただ当たり前のように、そこに存在していた。

僕もまた、当たり前のようにそこにいた。

そんな静かな時間が、少しずつ積み重なっていった。

ある日のこと。 少女がいつものように僕を呼んだ。


「かいちゃん」

「ん」

「今日もいるね」

「……いる」


少女が満足そうに笑う。


「うん」


それだけの会話だった。


でも。

その言葉を耳にした時。


胸の奥で、少しだけ不思議な感覚が芽生えた。

僕には、昨日もここにいた記憶がある。


今日も、こうしてここにいる。

そして明日も、たぶんこの場所にいるのだろう。


――自分の「明日」のことなんて考えたのは、たぶん生まれて初めてだった。

僕は何も言わなかった。

少女も、それ以上は何も言わなかった。


ただ。

同じ部屋の温かな空気の中に、二人でいた。


それだけで、十分だった―――。


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