二節 呼応
名前をもらってから。
僕の日常は、ほんの少しだけ変わり始めていた。
「かいちゃん」
声が届く。
最初は、誰のことを呼んでいるのかさえ分からなかった。
顔を上げてみる。
あの小さな少女が、こちらをまっすぐに見つめている。
「かいちゃん」
もう一度、僕を呼ぶ。
その瞳は、確かに僕だけを捕らえていた。
どうやら、僕のことらしい。
「……僕?」
「うん!」
少女が無邪気に笑う。
会話はそれだけだった。
それから、少女は毎日のように僕の名を口にした。
「かいちゃん」
声がすれば振り向く。
「かいちゃん、こっち!」
言われれば、そちらを見る。
「かいちゃん、これ見て!」
言われれば、静かに近づいていく。
そうやって繰り返される声に応じるうちに。
「かい」と呼ばれる響きが、自分という存在を指しているのだと、
自然に理解できるようになっていった。
それが、名前というものだった。
自分という人間を呼びつけるための、ただの音。
それ以上でも、それ以下でもない。
特別に愛おしいものだとは、到底思えなかった。
ただ。 呼ばれれば、振り返る。
僕の役目は、それだけだった。
少女は、よく僕に向かって話しかけてきた。
僕が何もせずただ佇んでいても、一人で勝手に喋っている。
僕がまともな返事を返さなくても、お構いなしに喋り続ける。
目を合わせようとすらしない僕の態度も、彼女は少しも気にしなかった。
僕は、ただその声を聞いていた。
何をそんなに夢中に話していたのか、今となってはすべてを覚えているわけではない。
大好きなものの話。
屋敷で見つけた不思議なものの話。
頭の中に突如ひらめいたという、無鉄砲な思いつき。
僕の頭ではよく理解できないような話もあった。
それでも、僕は静かに聞いていた。
時折、言葉の隙間に短く返事を挟む。
「……そう」
「……ん」
ただそれだけの素っ気ない相槌で、少女は花が咲いたように嬉しそうに笑うのだった。
ある日のこと。
少女が僕の目の前にちょこんと座り込んだ。
僕の顔をじっと覗き込んでくる。
「……何」
「かいちゃんって、変なの」
「……何が」
「なんか、すごく静か」
突然そんな風に言われた。
どう言葉を返せばいいのか、僕には分からなかった。
だから、何も言わずに黙っていた。
少女は腕を組んで少しだけ考え込むような仕草をしてから、また屈託なく笑った。
「でも、面白い」
「……そう」
また、嬉しそうに笑った。
僕には、彼女の基準がよく分からなかった。
ただ。
――この子は、怖くない。
それだけは、痛いほど理解できていた。
あの部屋の男のように、 容赦なく殴りつけてこない。
突然、身体が千切れるような痛い目には遭わせない。
だから。
少しずつ、その子が近くに寄ってきても逃げ出さなくなった。
最初は、部屋の隅と隅で遠く離れていた。
次は、同じ部屋の空間に留まるようになった。
その次は、ほんの少しだけ近い距離に身を置くようになった。
それでも、自分から進んで近づくことだけはしなかった。
少女は、僕のその頑なさを決して急かそうとはしなかった。
ただ当たり前のように、そこに存在していた。
僕もまた、当たり前のようにそこにいた。
そんな静かな時間が、少しずつ積み重なっていった。
ある日のこと。 少女がいつものように僕を呼んだ。
「かいちゃん」
「ん」
「今日もいるね」
「……いる」
少女が満足そうに笑う。
「うん」
それだけの会話だった。
でも。
その言葉を耳にした時。
胸の奥で、少しだけ不思議な感覚が芽生えた。
僕には、昨日もここにいた記憶がある。
今日も、こうしてここにいる。
そして明日も、たぶんこの場所にいるのだろう。
――自分の「明日」のことなんて考えたのは、たぶん生まれて初めてだった。
僕は何も言わなかった。
少女も、それ以上は何も言わなかった。
ただ。
同じ部屋の温かな空気の中に、二人でいた。
それだけで、十分だった―――。




