↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
僕たちの物語  作者: 鎧
かい編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

58/66

一節 諦心

気づいたら、そこにいた。


見覚えのない、冷たく暗い部屋だった。

目の前に誰かがいる。

男だ。


――怖い。


どうして自分がここにいるのか、何も分からない。

ここに来る前、どこで何をしていたのかも思い出せない。

ただ、その男の姿を目にした瞬間、背筋に冷や汗が走り、

身体が勝手に後ろへと弾けていた。


「……」


男が静かに、そして圧迫感を伴って近づいてくる。

夢中で後ざさり、逃げようとした。

けれど、幼い足ではすぐに捕まった。


――痛い。


何が起きたのか瞬時には理解できなかった。

頬が焼けるように熱い。 衝撃で視界がぐらりと揺れ、床へと転がり落ちる。


「……っ!」


必死で起き上がろうとする。

けれど、男は容赦なく追ってくる。


怖い。

逃げたい。

ここから消えたい。


必死で身体を動かし、地を這うように逃げようとする。

けれど、また捕まる。


激しく殴られる。

固い靴で蹴り飛ばされる。

骨の奥まで響くような、圧倒的な痛み。


「やだ……っ」


かすれた声が漏れ出た。

それでも、痛みの暴力は止まらない。


どうして。

僕が何をしたというのだろう。

何も分からない。

ただ、ただ恐ろしい。


次にどんな痛みが襲ってくるのか分からず、恐怖で狂いそうになる。

だから、惨めになっても逃げ続けた。

逃げても、逃げても、捕まった。


また、痛い。

泣いた。

叫び声を上げた。

けれど、何も終わらなかった。


その日から、悪夢のような時間が何度も繰り返された。


男がやってくる。

逃げる。

捕まる。

痛い思いをする。

ただ、それだけの地獄がループする。


全身が激痛で苛まれていた。

肌には消えない傷が深く刻まれていく。

眠って目を覚ましても、身体中が痛い。

一歩歩くだけで痛い。

どこにも触れていなくても、疼くように痛い。


それでも―― 

僕は死ななかった。


どうして壊れてしまわないのか、自分でも分からない。

ただ、絶望的な夜が明けると、また絶望的な朝に目が覚めてしまうのだ。

また、あの男がいる。


怖い。

逃げる。

また痛い目に遭う。


そして、ある日のこと。

もう、指一本すら動かなくなった。

冷たい床に倒れ伏したまま、ピクリとも動けない。

肺が潰れたように、息が吸えない。

視界の端から、世界が黒く塗りつぶされていく。


それから――

何も分からなくなった。


――次に目を開けた時。

僕は、また同じ部屋の床に横たわっていた。

あんなに苦しかった身体の痛みが、綺麗さっぱり消えている。

無数にあったはずの傷痕すら、どこにもない。

昨日まで、確かに死ぬほどの激痛に苛まれていたはずなのに。


どうして。

何も分からない。


ふと見上げると、またあの男が立っている。


怖い。

だから、僕は反射的にまた逃げようとした。


それからも。

僕は何度も死んだ。

そして、何度も目を覚ました。


痛みに苛まれて。

動けなくなって。

意識が途絶えて何も分からなくなって。


気づけば、またあの惨劇の部屋で目を覚ましている。


最初は泣き叫んだ。

死に物狂いで逃げ惑った。

必死で抵抗もした。


でも――

何度繰り返しても、結末は同じだった。


逃げたって、結局痛い。

泣き叫んだって、容赦なく痛い。

抵抗したって、もっと痛くなるだけ。


だから。


僕は少しずつ、動くのをやめた。

男が近づいてくる。


身体が拒絶反応を起こして固く強張る。

恐怖で心臓が潰れそうになる。


それでも、もう逃げない。

逃げたところで、結果は同じだから。


ただ、嵐が過ぎ去り、痛みが終わるのを待つ。

僕の存在理由は、ただそれだけになった。


――そんなある日。

パチリと目を覚ますと、そこは見たこともない温かな場所だった。

目の前に、小さなお屋敷の女の子がいた。

その子は、不思議そうな目をして僕をじっと見つめていた。


怖くない。

少なくとも、あの男のような禍々しい気配は追ってこない。

女の子が、小さな唇を開いて何かを言った。


「あなた、名前は?」


なまえ。

意味は分かる。

人を呼ぶための特別な言葉。


でも――

僕にはそんなものはない。

自分には元から存在しないものだと思っていた。


「……知らない」


女の子は首をちょこんと傾げた。

それから、陽だまりのように可愛らしく笑った。


「じゃあ、今日からかいね」

「……かい」


生まれて初めて、自分だけに向けて投げかけられた優しい言葉。

もう一度、確かめるように心の中で唱える。


「かい」


僕は、その温かな音の響きをじっと聴いていた。


それが。

僕という存在の、名前になった―――。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。