一節 諦心
気づいたら、そこにいた。
見覚えのない、冷たく暗い部屋だった。
目の前に誰かがいる。
男だ。
――怖い。
どうして自分がここにいるのか、何も分からない。
ここに来る前、どこで何をしていたのかも思い出せない。
ただ、その男の姿を目にした瞬間、背筋に冷や汗が走り、
身体が勝手に後ろへと弾けていた。
「……」
男が静かに、そして圧迫感を伴って近づいてくる。
夢中で後ざさり、逃げようとした。
けれど、幼い足ではすぐに捕まった。
――痛い。
何が起きたのか瞬時には理解できなかった。
頬が焼けるように熱い。 衝撃で視界がぐらりと揺れ、床へと転がり落ちる。
「……っ!」
必死で起き上がろうとする。
けれど、男は容赦なく追ってくる。
怖い。
逃げたい。
ここから消えたい。
必死で身体を動かし、地を這うように逃げようとする。
けれど、また捕まる。
激しく殴られる。
固い靴で蹴り飛ばされる。
骨の奥まで響くような、圧倒的な痛み。
「やだ……っ」
かすれた声が漏れ出た。
それでも、痛みの暴力は止まらない。
どうして。
僕が何をしたというのだろう。
何も分からない。
ただ、ただ恐ろしい。
次にどんな痛みが襲ってくるのか分からず、恐怖で狂いそうになる。
だから、惨めになっても逃げ続けた。
逃げても、逃げても、捕まった。
また、痛い。
泣いた。
叫び声を上げた。
けれど、何も終わらなかった。
その日から、悪夢のような時間が何度も繰り返された。
男がやってくる。
逃げる。
捕まる。
痛い思いをする。
ただ、それだけの地獄がループする。
全身が激痛で苛まれていた。
肌には消えない傷が深く刻まれていく。
眠って目を覚ましても、身体中が痛い。
一歩歩くだけで痛い。
どこにも触れていなくても、疼くように痛い。
それでも――
僕は死ななかった。
どうして壊れてしまわないのか、自分でも分からない。
ただ、絶望的な夜が明けると、また絶望的な朝に目が覚めてしまうのだ。
また、あの男がいる。
怖い。
逃げる。
また痛い目に遭う。
そして、ある日のこと。
もう、指一本すら動かなくなった。
冷たい床に倒れ伏したまま、ピクリとも動けない。
肺が潰れたように、息が吸えない。
視界の端から、世界が黒く塗りつぶされていく。
それから――
何も分からなくなった。
――次に目を開けた時。
僕は、また同じ部屋の床に横たわっていた。
あんなに苦しかった身体の痛みが、綺麗さっぱり消えている。
無数にあったはずの傷痕すら、どこにもない。
昨日まで、確かに死ぬほどの激痛に苛まれていたはずなのに。
どうして。
何も分からない。
ふと見上げると、またあの男が立っている。
怖い。
だから、僕は反射的にまた逃げようとした。
それからも。
僕は何度も死んだ。
そして、何度も目を覚ました。
痛みに苛まれて。
動けなくなって。
意識が途絶えて何も分からなくなって。
気づけば、またあの惨劇の部屋で目を覚ましている。
最初は泣き叫んだ。
死に物狂いで逃げ惑った。
必死で抵抗もした。
でも――
何度繰り返しても、結末は同じだった。
逃げたって、結局痛い。
泣き叫んだって、容赦なく痛い。
抵抗したって、もっと痛くなるだけ。
だから。
僕は少しずつ、動くのをやめた。
男が近づいてくる。
身体が拒絶反応を起こして固く強張る。
恐怖で心臓が潰れそうになる。
それでも、もう逃げない。
逃げたところで、結果は同じだから。
ただ、嵐が過ぎ去り、痛みが終わるのを待つ。
僕の存在理由は、ただそれだけになった。
――そんなある日。
パチリと目を覚ますと、そこは見たこともない温かな場所だった。
目の前に、小さなお屋敷の女の子がいた。
その子は、不思議そうな目をして僕をじっと見つめていた。
怖くない。
少なくとも、あの男のような禍々しい気配は追ってこない。
女の子が、小さな唇を開いて何かを言った。
「あなた、名前は?」
なまえ。
意味は分かる。
人を呼ぶための特別な言葉。
でも――
僕にはそんなものはない。
自分には元から存在しないものだと思っていた。
「……知らない」
女の子は首をちょこんと傾げた。
それから、陽だまりのように可愛らしく笑った。
「じゃあ、今日からかいね」
「……かい」
生まれて初めて、自分だけに向けて投げかけられた優しい言葉。
もう一度、確かめるように心の中で唱える。
「かい」
僕は、その温かな音の響きをじっと聴いていた。
それが。
僕という存在の、名前になった―――。




