十二節 崩壊
それからも、皇女は愛おしい毎日を必死に過ごしていた。
怖くなってしまう瞬間は、相変わらず訪れる。
不意に音が響けばハッと振り返る。
誰かに不意に名前を呼ばれれば、身体が固く強張る。
それでも、自分の力でいつもの場所へ戻ってこられる日も確実に増えていた。
恐ろしいものなんて何もない。
大丈夫。
心の中でそう念じることができれば、彼女はそのまま自分の足で歩き出すことができた。 どうしても自分ひとりで戻れない時だけ、少年の名を呼ぶ。
「かいちゃん」
そう呼べば、かいが静かに歩み寄ってくる。
その手の温もりに触れてもらうと、胸を苛む苦しみが少しずつ和らいでいく。
「ありがと」
「ん」
会話はそれで終わる。
そんな一連の流れが、いつの間にか屋敷の「当たり前」になっていた。
けれど――ある日のこと。
皇女は朝から、ずっとかいのすぐ近くに佇んでいた。
別におびやかされるような出来事があったわけではない。
恐ろしいことなんて何一つ起きていない。
ただ、どうしても彼のそばから離れたくなかった。
かいがほんの少し移動するだけで、その姿をじっと目で追ってしまう。
距離が遠ざかると、居ても立ってもいられない焦燥感に襲われる。
しばらくして、かいが静かに立ち上がった。
その瞬間、皇女の指先がキュッと彼の服の端を強く掴みしめた。
かいがそっと振り返る。
皇女は逃げるように少しだけ俯いた。
「……ここにいて」
「ん」
かいは、その場から動かなかった。
ただそれだけで、皇女の胸はホッと少しだけ温かくなった。
それから、そうした時間が日増しに増えていった。
何も恐ろしいことが起きていなくても、かいがすぐ近くにいてくれさえすれば安心できる。
何か嫌なことが起きれば、吸い寄せられるようにかいの姿を探す。
呼べば、いつだって来てくれる。
触れ合えば、少しだけ息が楽になる。
皇女にとって、それはもう特別ですらない、息をするのと同じことになっていた。
だから、その日も。
不意に不気味な物音が響いた時、皇女は真っ先にかいを見つめた。
胸が苦しい。
身体が不穏に強張る。
それでも、まだ自分で耐えられるはず。
皇女は自分の力で深く息を吸い込んだ。
吐き出す。
もう一度。
大丈夫。
そう念じようとした。
けれど、指先の震えがどうしても止まらない。
皇女は、すがるようにかいを見た。
少し離れた静寂の中に立ち尽くしている。
いつもの、かいの場所。
呼べば、絶対にここに来てくれる。
確信を持って、その名を呼んだ。
「……かいちゃん」
かいが静かに顔を上げる。
「ん」
皇女は弱々しく手を伸ばした。
かいが迷いなく近づいてくる。
その手にそっと触れる。
胸を満たしていた冷たい怖さが、少しずつ薄れていく。
皇女は安堵から静かに目を閉じた。
大丈夫。
かいちゃんがいてくれる。
それなら、きっと私は大丈夫。
心からそう思っていた。
けれど――ほんのしばらくすると、また底知れない怖さが胸の奥から押し寄せてきた。
「……かいちゃん」
かいは、目の前にいる。
それなのに、怖い。
「……まだ」
何が「まだ」なのか、自分でもまったく分からない。
ただ、胸を締め付ける恐怖がどうしても消えてくれない。
皇女はかいの服の布地を強く握りしめた。
二度と手放したくなかった。
「ここにいて……」
「ん」
かいは身じろぎもせず、そこに留まった。
皇女は、そのまま壊れそうな身体をかいに寄り添わせた。
怖い。
息が苦しい。
それでも、ここに引き籠もっていれば大丈夫なはずだ。
そう思おうとしていた。
けれど――
少しずつ、恐怖に囚われる時間が長くなっていった。
一度は静まっても、すぐに次の怖さが襲いかかってくる。
かいを呼んでも、前のようにすぐには元の自分へ戻れない。
それでも皇女は、縋るように何度もかいを呼んだ。
「かいちゃん」
「ん」
また応えてくれる。
それが、たまらなく嬉しかった。
だから、頑なに離れようとはしなかった。
「かいちゃん」
「ん」
「かいちゃん……」
「ん」
どんなに何度も呼んでも、変わらない淡々とした返事がある。
ただそれだけで、壊れそうな心が救われる気がした。
皇女は、かいの服を固く握りしめたまま目を閉じた。
大丈夫。
私はここにいる。
大好きな、かいちゃんがいてくれる。
そう信じ込もうとしていた。
けれど。
やがて、何をどう試みても、恐怖が永遠に消えなくなってしまった。
部屋のどこにいても。
何をしようとしても。
かいが片時も離れずそばにいてくれても。
怖い。
皇女には、もう自分の心をどうコントロールすることもできなかった。
ただ――
「かいちゃん」
と、助けを求めて呼ぶ。
そして、かいが近づいてくる。
ただ、それだけを繰り返すことしかできなかった。
そんな悪夢のような日々が、何度も、何度も続いた。
そして――ある日のこと。
これまでとは決定的に異なる、異常な恐怖が彼女を襲った。
それは、唐突だった。
皇女の全身が一瞬で凍りついたように強張る。
喉が固まり、息が完全に止まる。
悍ましい「何か」が、すぐ目の前まで迫ってきている。
強烈にそう確信した。
けれど、どれだけ目を見開いても何も見えない。
「……やだ」
絞り出した声が、激しく震えた。
皇女は弾かれたように後ろへと後ずさる。
「やだ……っ!」
すぐ傍にお嬢がいる。
幾度も頼ってきた護衛の男もいる。
それなのに、恐ろしくてたまらない。
何が自分を追い詰めているのか分からない。
どう逃げれば助かるのかも分からない。
ただただ、狂おしいほどに怖かった。
皇女は混乱した眼差しで必死に周囲を見回した。
そして、ただ一人を求めてかいを探した。
いた。
少し離れた場所に、彼が立っていた。
その姿をとらえた瞬間、皇女は迷わず駆け出した。
「かいちゃん!!」
かいが静かに顔を上げる。
「ん」
「かいちゃん……っ!」
皇女は、弾かれたようにかいの服を引っ掴んだ。
「かいちゃん、怖い……っ!」
かいの温かな手がそっと触れる。
ほんの少しだけ、空気が喉を通った。
けれど――
まだ、怖い。
悍ましい渦が、一向に消え去ってくれない。
「かいちゃん……!」
もう一度、叫ぶ。
「かいちゃん……っ!!」
皇女の指先に狂おしいほどの力が籠もる。
目からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「やだ……っ」
「怖い……っ!」
それでも、暗い恐怖は消えてくれない。
皇女は全身でかいに縋りついた。
「かいちゃああぁああん……!!」
屋敷全体を揺るがすような悲鳴が響き渡る。
――その瞬間。
堰を切ったように、莫大な「何か」が一気に溢れ出し、押し寄せてきた。
皇女は、かいの服を千切れんばかりに強く握りしめた。
「かいちゃ……っ!」
最後にもう一度だけ、その名を呼ぼうとする。
けれど――
声が出ない。
視界がぐにゃりと歪み、大きく揺れる。
何もかもが分からなくなっていく。
精神が、意識が、世界から剥がれ落ちていく。
それでも。
最後の最後まで。
彼女は、かいの服を絶対に離さなかった。
そして――
世界が、壊れた―――。
皇女編 完




