十一節 緩解
それでも、皇女は愛おしい毎日を積み重ねていた。
朝になれば、光を浴びて目を覚ます。
お嬢に髪を丁寧に整えてもらい、その日に着たいお気に入りの服を選ぶ。
好きなものを一心に見つめる。
好きなことだけに熱中する。
何か素敵なものを見つければ無邪気に笑い、
気になるものがあれば吸い寄せられるように近くまで行って、じっと観察する。
誰かに話したい閃きが生まれれば、相手が何をしていても関係なしに声をかけるのだった。
以前とまったく変わらない無邪気で穏やかな時間も、確かにたくさん存在していた。
ただ、ときどきどこかで音がする。
その瞬間、皇女の動きがピタリと止まる。
誰もすぐには近づかない。
皇女は自分の力で周囲の空間を見回す。
恐ろしいものなんて何もないことを自分の目で確かめて、深く、ゆっくりと息を吐く。
そのまま、自力でいつもの自分に戻れることもあった。
「……平気」
ぽつりとそう言って、また何事もなかったかのように歩き出す。
そんな日は、かいの出番はなかった。
けれど、戻れない時もある。
乱れた呼吸がどんどん速くなっていく。
指先が小刻みに震える。
何もないはずの空虚な場所を、何度も何度も確かめるように見つめる。
そんな時、皇女は必死にかいを探すのだった。
「かいちゃん」
名前を呼ばれれば、かいは静かにそこへ行く。
触れる。
代受する。
皇女の中に渦巻いていた濁った感情が、かいの中へと滑らかに流れてくる。
しばらくすれば、皇女は光を取り戻して元の自分へ戻る。
「ありがと」
「ん」
会話はそれだけだった。 かいも、それ以上何かを問い詰めるような真似はしなかった。
皇女はまた当たり前のように自分の生活へと戻っていく。
かいも自分の立ち位置へと戻る。
それで、壊れかけた日々は再び紡がれていった。
ある日。
皇女は庭に出て、外の風に当たっていた。
よく晴れた空から温かな光が降り注ぎ、心地よい風が吹き抜けていく。
お嬢が少しだけ離れた場所で佇んでいた。
皇女は何をするでもなく、ただじっと空を見上げていた。
「最近、楽しいな」
ふと、皇女が呟いた。
お嬢がそっと顔を向ける。
皇女は流れる雲を見つめたまま、言葉を続けた。
「怖い時もあるけど」
少しだけ静寂が落ちた。
「前より、楽しい」
「そう」
返事はそれだけだった。
皇女はとても満足そうに笑った。
その日は一度も、かいの名が呼ばれることはなかった。
また、別の日。
皇女は何かの作業に没頭していた。
時間のことなどすっかり忘れて、夢中になって手を動かし続けている。
お嬢は近くで見守っていたが、その熱中を邪魔して止めることはしなかった。
しばらくして、屋敷の遠くで何かが床に落ちる大きな音が響いた。
皇女の手が、一瞬だけピタリと止まる。
音のした方角へ視線を向ける。
数秒の静寂。
何も起きない。
誰も襲ってこない。
皇女はゆっくりと胸の空気を吐き出した。
「……大丈夫」
それから、また何事もなかったかのように手を動かし始めた。
お嬢も余計な口を出さなかった。
その日も、かいが呼ばれることはなかった。
そんな日が、少しずつ、けれど確実に増えていった。
けれど何日も続けてかいを呼ぶこともあった。
一日に二度、縋るように呼ばれる日もあった。
でも、一度もかいを必要としない日もあった。
皇女は、怖くなれば一度立ち止まる。
周囲を見回す。
恐ろしいものなんて何もないことを確認する。
深く息をする。
それから、また自分の足で歩き出す。
どうしても自力で戻れなければ、皇女がかいを呼ぶ。 かいが受け止める。
それで、よかった。
かいは、皇女が僕を呼ぶ回数を数えてなどいなかった。
呼ばれる機会が多くても、少なくても。
名前を呼ばれれば、ただそこへ行く。
かいにできるのは、それだけだった。
ある夜のこと。
皇女は寝台に入る直前、ふと何か愉快なことを思い出したように笑った。
「明日、あれやろう」
お嬢が短く言葉を返す。
皇女は満足そうに、嬉しそうに頷いた。
「絶対に忘れないでね」
それから、柔らかい寝台の中へと潜り込む。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
皇女は静かに目を閉じた。
その夜、彼女はとても穏やかに深く眠った。
何かに怯えて途中で跳ね起きることもなかった。
うなされてかいを呼ぶこともなかった。
翌朝。 皇女は眩しい朝光の中で、ちゃんと目を覚ました。
「おはよう」
いつもの、屈託のない声だった。
昨夜口にしていた計画のことも、ちゃんと覚えていた。
皇女はとびきりの笑顔を浮かべた。
「今日やるんだからね!」
お嬢が優しく返事をする。
いつものような、温かな朝だった。
奇跡も悲劇もない、特別なことなんて何一つない朝。
ただ――
また新しく、いつもの一日が始まろうとしていた―――。




