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僕たちの物語  作者: 鎧
皇女編

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55/66

十節 日常

数日後。

またしても、静寂の中に音が響いた。

小さな音だった。

誰かがそっと扉を閉めただけのこと。

けれど、皇女の身体が一瞬でカチリと強張った。


「……」


弾かれたように振り返り、扉を見つめる。

何もない。

誰も来ない。


それでも皇女は、そこから吸い寄せられたように目を離せなかった。


「皇女?」


お嬢が静かに呼びかける。


「……うん」


返事はある。

ちゃんと声は届いている。

皇女は動ける。話すこともできる。

けれど、呼吸だけが微かに、けれど確実に速くなっていた。


お嬢が、宥めようと数歩近づこうとする。

その気配を感じ取った皇女の肩が、僅かに跳ね上がった。

お嬢は、その場でぴたりと足を止めた。


「……大丈夫」


皇女が掠れた声で呟く。


「大丈夫……だから」


それが誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。

お嬢に対してなのか、それとも必死に自分へ言い聞かせているのか。


皇女はゆっくりと息を吸い込んだ。

吐き出す。

もう一度。

けれど、うまく肺に入っていかない。

震える指先が、服の布地をきつく掴みしめる。


「……違う」


ぽつりと漏らしたその声を聞いて、お嬢は足を止めた。

前にも聞いた、あの錯乱の前兆。

皇女が一歩、後ずさる。


追いかけない。

触れない。

ただ、そこに佇む。


皇女は恐怖に満ちた目で周囲を見回す。

恐ろしいものなんて何もない。

それでも、理屈ではない恐怖が胸を刺す。


そして――

その彷徨う視線が、ある場所でぴたりと止まった。

少し離れた静寂の中にたたずむ、かい。


「……かいちゃん」


呼ばれた。 かいが静かに顔を上げる。


「ん」


それだけのやり取りで、すべてを理解した。

かいが迷いなく近づいていく。

皇女は縋るように手を伸ばした。


肌が触れ合う。

その瞬間、ドロリとした重厚な恐怖の波動がかいの中へと流れ込んでくる。


息が詰まる。

身体の奥底が急速に冷えていく。

逃げなければ殺される。

何かが迫ってくる。

怖い。


かいは逃げることなく、そのすべてを代受(だいじゅ)した。


皇女の身体から、少しずつ悍ましい緊張が抜け落ちていく。

荒れていた呼吸が深さを取り戻す。

きゅっと硬直していた指先が、ゆっくりと解かれていく。

しばらくして、皇女が静かに息を吐き出した。


「……もう、平気」

「ん」


皇女は床を蹴って立ち上がった。

お嬢がそっと手を差し出す。

今度はその手を、拒むことなく素直に取った。

それで、ひとまずの嵐は過ぎ去った。


また、数日後のこと。

今度は遠くから響く「声」だった。

誰かが会話する声が微かに届いた瞬間、皇女の足がピタリと止まる。


振り返る。

けれど、誰もいない。


皇女は自力で息を整えようと試みた。


「……大丈夫」


一度。

もう一度。

けれど試みも虚しく、呼吸は乱れ、胸が詰まっていく。


皇女はしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。

それから。


「……かいちゃん」


かいが静かに歩み寄る。

代受する。


皇女は、また何事もなかったかのように歩き出せるようになった。


また別の日。

廊下で突然、名前を呼ばれた。


「皇女」

「っ……!」


身体が弾かれたように跳ねる。

恐る恐る振り返ると、そこにいたのはお嬢だった。


「……ごめんね、驚かせて」

「ううん」


皇女は首を横に振る。


「大丈夫……」


笑ってみせようとした。

けれど、ぎこちなく顔が引きつり、うまく笑えなかった。


少しの沈黙の後。


「かいちゃん」


またしても、その名を呼んだ。

かいが静かに代受する。

――そんな出来事が、日常の中で少しずつ増えていった。


物音。

足音。

人の声。

一体何が引き金になるのかは、誰にも予測がつかなかった。


平気な日もある。

大きな物音が響いても、皇女がまったく気にせず笑っていることもある。

背後から突然声をかけられても、普通に振り返って応えることもある。

だからこそ、何を未然に防げばいいのかも分からなかった。


ただ。

皇女が何かに怯え始めた時、周囲がどう対処すべきかだけは、

経験を通して少しずつ共有されていった。


無理に触れようとしない。

逃げる皇女を追いかけない。

大勢で囲まない。

皇女が自分のペースで落ち着くまで、静かに待つ。

そして。


「かいちゃん」


呼ばれれば、かいが静かに歩み寄る。

代受する。

皇女がいつもの自分を取り戻す。


いつしかその一連の儀式のような流れも、屋敷の「日常」の一部として組み込まれていた。


ある日の夜。

皇女は暖炉の前で皆と楽しそうに話をしていた。

屈託なく笑っていた。

激しいパニック発作は、もうずっと起きていない。

何かに怯えかけることがあっても、かいが代受すればすぐに元通りになる。

だから。

穏やかな生活は続いていた。


その時。

暗い廊下の奥から、カタンと小さな音が響いた。

皇女の顔から、一瞬で笑顔が消え去る。

誰も無理に触れない。

お嬢も軽々しくは近づかない。

護衛の男も静観している。

誰もが息をひそめて待った。


皇女が息を吸い込む。

一度。

二度。

けれど上手く空気を吸えない。


かいは、いつもの控えめな場所に佇んでいた。

苦痛の予感はある。

受け止める覚悟もできている。

けれど、まだ名前を呼ばれていない。

だから、静かに待つ。

皇女が、すがるような目でかいを見つめた。


「……かいちゃん」


かいがゆっくりと歩み寄る。

触れ合う。

代受する。

皇女の身体から、少しずつ不気味な恐怖が抜き取られていく。

しばらくして。


「……ありがと」

「ん」


皇女は表情を取り戻すと、また皆の輪の中へと戻っていった。

途切れていた話の続きを滑らかに始める。

少し経てば、またさっきのように無邪気に笑っていた。

まるで、今しがたの恐怖など最初から何もなかったかのように。

それを見て、周囲の誰も驚かなくなっていた。

皇女が怯える。

かいを呼ぶ。

かいが代受する。

皇女が元に戻る。


それで。

すべては上手くいっているのだと。

いつの間にか、誰もが疑いもなくそう思い込むようになっていた―――。


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