十節 日常
数日後。
またしても、静寂の中に音が響いた。
小さな音だった。
誰かがそっと扉を閉めただけのこと。
けれど、皇女の身体が一瞬でカチリと強張った。
「……」
弾かれたように振り返り、扉を見つめる。
何もない。
誰も来ない。
それでも皇女は、そこから吸い寄せられたように目を離せなかった。
「皇女?」
お嬢が静かに呼びかける。
「……うん」
返事はある。
ちゃんと声は届いている。
皇女は動ける。話すこともできる。
けれど、呼吸だけが微かに、けれど確実に速くなっていた。
お嬢が、宥めようと数歩近づこうとする。
その気配を感じ取った皇女の肩が、僅かに跳ね上がった。
お嬢は、その場でぴたりと足を止めた。
「……大丈夫」
皇女が掠れた声で呟く。
「大丈夫……だから」
それが誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
お嬢に対してなのか、それとも必死に自分へ言い聞かせているのか。
皇女はゆっくりと息を吸い込んだ。
吐き出す。
もう一度。
けれど、うまく肺に入っていかない。
震える指先が、服の布地をきつく掴みしめる。
「……違う」
ぽつりと漏らしたその声を聞いて、お嬢は足を止めた。
前にも聞いた、あの錯乱の前兆。
皇女が一歩、後ずさる。
追いかけない。
触れない。
ただ、そこに佇む。
皇女は恐怖に満ちた目で周囲を見回す。
恐ろしいものなんて何もない。
それでも、理屈ではない恐怖が胸を刺す。
そして――
その彷徨う視線が、ある場所でぴたりと止まった。
少し離れた静寂の中にたたずむ、かい。
「……かいちゃん」
呼ばれた。 かいが静かに顔を上げる。
「ん」
それだけのやり取りで、すべてを理解した。
かいが迷いなく近づいていく。
皇女は縋るように手を伸ばした。
肌が触れ合う。
その瞬間、ドロリとした重厚な恐怖の波動がかいの中へと流れ込んでくる。
息が詰まる。
身体の奥底が急速に冷えていく。
逃げなければ殺される。
何かが迫ってくる。
怖い。
かいは逃げることなく、そのすべてを代受した。
皇女の身体から、少しずつ悍ましい緊張が抜け落ちていく。
荒れていた呼吸が深さを取り戻す。
きゅっと硬直していた指先が、ゆっくりと解かれていく。
しばらくして、皇女が静かに息を吐き出した。
「……もう、平気」
「ん」
皇女は床を蹴って立ち上がった。
お嬢がそっと手を差し出す。
今度はその手を、拒むことなく素直に取った。
それで、ひとまずの嵐は過ぎ去った。
また、数日後のこと。
今度は遠くから響く「声」だった。
誰かが会話する声が微かに届いた瞬間、皇女の足がピタリと止まる。
振り返る。
けれど、誰もいない。
皇女は自力で息を整えようと試みた。
「……大丈夫」
一度。
もう一度。
けれど試みも虚しく、呼吸は乱れ、胸が詰まっていく。
皇女はしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。
それから。
「……かいちゃん」
かいが静かに歩み寄る。
代受する。
皇女は、また何事もなかったかのように歩き出せるようになった。
また別の日。
廊下で突然、名前を呼ばれた。
「皇女」
「っ……!」
身体が弾かれたように跳ねる。
恐る恐る振り返ると、そこにいたのはお嬢だった。
「……ごめんね、驚かせて」
「ううん」
皇女は首を横に振る。
「大丈夫……」
笑ってみせようとした。
けれど、ぎこちなく顔が引きつり、うまく笑えなかった。
少しの沈黙の後。
「かいちゃん」
またしても、その名を呼んだ。
かいが静かに代受する。
――そんな出来事が、日常の中で少しずつ増えていった。
物音。
足音。
人の声。
一体何が引き金になるのかは、誰にも予測がつかなかった。
平気な日もある。
大きな物音が響いても、皇女がまったく気にせず笑っていることもある。
背後から突然声をかけられても、普通に振り返って応えることもある。
だからこそ、何を未然に防げばいいのかも分からなかった。
ただ。
皇女が何かに怯え始めた時、周囲がどう対処すべきかだけは、
経験を通して少しずつ共有されていった。
無理に触れようとしない。
逃げる皇女を追いかけない。
大勢で囲まない。
皇女が自分のペースで落ち着くまで、静かに待つ。
そして。
「かいちゃん」
呼ばれれば、かいが静かに歩み寄る。
代受する。
皇女がいつもの自分を取り戻す。
いつしかその一連の儀式のような流れも、屋敷の「日常」の一部として組み込まれていた。
ある日の夜。
皇女は暖炉の前で皆と楽しそうに話をしていた。
屈託なく笑っていた。
激しいパニック発作は、もうずっと起きていない。
何かに怯えかけることがあっても、かいが代受すればすぐに元通りになる。
だから。
穏やかな生活は続いていた。
その時。
暗い廊下の奥から、カタンと小さな音が響いた。
皇女の顔から、一瞬で笑顔が消え去る。
誰も無理に触れない。
お嬢も軽々しくは近づかない。
護衛の男も静観している。
誰もが息をひそめて待った。
皇女が息を吸い込む。
一度。
二度。
けれど上手く空気を吸えない。
かいは、いつもの控えめな場所に佇んでいた。
苦痛の予感はある。
受け止める覚悟もできている。
けれど、まだ名前を呼ばれていない。
だから、静かに待つ。
皇女が、すがるような目でかいを見つめた。
「……かいちゃん」
かいがゆっくりと歩み寄る。
触れ合う。
代受する。
皇女の身体から、少しずつ不気味な恐怖が抜き取られていく。
しばらくして。
「……ありがと」
「ん」
皇女は表情を取り戻すと、また皆の輪の中へと戻っていった。
途切れていた話の続きを滑らかに始める。
少し経てば、またさっきのように無邪気に笑っていた。
まるで、今しがたの恐怖など最初から何もなかったかのように。
それを見て、周囲の誰も驚かなくなっていた。
皇女が怯える。
かいを呼ぶ。
かいが代受する。
皇女が元に戻る。
それで。
すべては上手くいっているのだと。
いつの間にか、誰もが疑いもなくそう思い込むようになっていた―――。




